グラブル(フェルラガ)

 茹だるような暑さが艇を覆う夏の日に、俺は
「一度家に帰らねェと」
と言った。

 周囲の人々に「ジータ」と呼ばれている艇の主は、俺の言葉を聞いて顔を歪めた。彼女の表情は心のうちにわだかまる複雑な感情を端的に表していた。
「なにも別にナビスに戻ろうってんじゃねェよ。物理的に持ってこなきゃ不便なもんがあるんだよ」
 服とか、靴とか、いやそんなもんは店で買えばいいが、そもそも金がねェし――通帳だって家に置いてある。本だって、鞄だって、気に入ってるグラスだって、いいじゃねえか、ちょっと行って帰ってくるだけだ。しばらくこの港に係留するんだろォ? 別に艇が移動したって後から連絡艇で追える、一人で旅もできない子供じゃあるめえし――
 クドクドと費やした言い訳が功を奏したのか、陰の残る表情のまま少女は、待っているからね、ずっと、とラガッツォを騎空団から送り出してくれた。俺が共に行こう、とついて来ようとした金髪の少年は、ピンク色の髪の少年が押しとどめてくれたため、なんとかひとり旅立つことができた。
 ピンク色の髪の少年が譲ってくれた旅行鞄に、周囲の人々から手渡された旅の道具をしまい込み、それらを新品の義手で抱えた。

 柔らかな声が愛おしそうに囁く。
 ――私たちの家を買ったんだ。
 ラガッツォ。私たちが住む家を買ったんだ。

 適当に乗った定期艇は人でごった返していた。ラガッツォは人々の間を縫って歩き、ようやく空きを見つけた壁際の椅子に腰を下ろした。旅行鞄を足と足の間に下ろし、身体を丸める。不意に腕が痛み顔を顰めた。
 慣れぬ義手に手を重ね、息を整える。
 壁には幾枚ものポスターが掲示されていた。大都市で開かれる夏祭り、定期便の時刻変更、空の旅行ツアー、光華大会。海水浴場閉鎖のお知らせ。
 子供たちが歓声を上げながら走り去っていく。艇の床がぎしぎしと軋み、親が慌てて追いかける。人々のマント、スカートを翻し子供たちは進む。躍るように、手を広げて。花が咲くような笑顔を浮かべながら。

 童謡を口ずさみながら、白いコートの間を駆け抜けた。空には突き抜けるような青い空が広がっていた。タフタの白い布地を跳ね上げながら、歌い、躍る。
「ラガッツォ、ラガッツォ」
 戸惑ったフェルディナンドの声に調子を良くし、ラガッツォは歌声を更に張り上げた。回る、回る、あなたのまわりを。
 くるり、くるりと。
「ラガッツォ、ああ、きみはまるで衛星のような子だ」
 歓声をあげるラガッツォを、フェルディナンドは笑いながら両腕で抱え上げると、汗ばむ小さな手の甲にキスをした。
 とても愛おしそうに、キスをした。
 わあわあと上がる悲鳴と共にラガッツォを抱え、フェルディナンドは青い芝に腰を下ろした。
「見てごらん、ラガッツォ。これが私たちの家だ。ああ、生垣が随分と長い間剪定されていないね」
 フェルディナンドはラガッツォを膝の上に抱え、そっと髪の上に手を置いた。ラガッツォは白いコートの生地に縋りついたまま、彼の父親がまとう香水の香りに包まれていた。
「いいかい、この世界はね。放っておくとどんどん乱れていくんだ。自由気ままに、自分勝手に。まるであの生垣のように。だから我々はルールを定めて、ルールに従って剪定しないといけないんだよ。この世界に、希望をもたらすためにね」
 世界は白く、青く、眩しかった。これまで閉じ込められていた箱とは違い、自由で、光に満ちていた。
 彼が照らしていた。
 世界を彼が照らしていた。
「……眩しいよ、フェルディナンド」
「そう? じゃあ部屋に入ろうか」
 彼は微笑んだ。緑色の目を細めて。
 フェルディナンドの瞳を見るたび、吸い込まれそうになった。小さな手で彼の目に触れると、彼は静かに瞼を下ろした。唇は笑みの形に緩み、ラガッツォを全身で受け入れていた。
 彼の瞳は穏やかな光を常に湛えていて、奥に潜む氷よりも冷たい感情を慎重に覆い隠していた。

 共に旅をした。
 彼の背中を常に夢見ていた。
 この世界は二つに分類できた。
 彼と行ったことのある街と、彼とこれから行く街に。

 いつだったか、家に他者を招き入れることを好まなかった彼にしては珍しく、来客があった。
 ラヴィリタとトリステットが夕飯を食べにきたのだ。
 フェルディナンドは彼らのために仔羊を煮込んだ。彼の傍に立ち、スープに火を入れる作業を手伝いながら、最初は真面目に仕事の話をした。四人でナビスの話をし、金の話を聞き、魔物の操り方のコツを聞き、星座の話に相槌を打った。
 四人とも真面目な会話をしていたはずなのに、気づけばトリステットが酒を飲みすぎてべろべろに酔っぱらっていた。無理もない、フェルディナンドが好きな酒は口当たりがいい癖に度数が滅法高いのだ。その酒を遠慮なく飲み尽くしたトリステットは、気づけばまっすぐ立つことさえできなくなっていた。ラヴィリタは恐縮し、今にも暇を告げようと頑張っていたが何しろ彼の身体ではトリステットを担ぐことが叶わない。
 フェルディナンドは機嫌よく言った。
 ふたりとも、泊まっていきなさい。ラガッツォ、よかったね、お泊り会だ。
 かわいい子供たち、ちゃんと毛布をかぶるんだよ。風邪をひかないようにね。

 三人はフェルディナンドによって居間に敷かれた布団に寝かされ、毛布をかぶせられた。
 酒の匂いをさせながら静かに寝息を立てるトリステット、外泊費を上乗せられて機嫌が一変したラヴィリタ、自分のベッドが部屋にあるのに居間で寝ることになった可笑しなラガッツォ。
「ラガッツォ、少しいいかな」
 明かりの落とされた部屋をそっと抜け出し、フェルディナンドの部屋に入る。読書灯が黄ばんだ光を投げかける部屋で、彼はラガッツォの手首を掴むと、背を屈め静かに頬に口づけた。
「おやすみのキスは、ふたりの前ではできないからね――このことは、内緒にするんだよ」
 おやすみ、ラガッツォ。かわいい子。
 彼の耳元で赤い石が鈍く光っていた。彼につかまれた手からリングの硬い感触がした。
 世界は平和だった。彼に守られている限り、平和は永遠だった。孤独とは無縁だった。世界は照らされていた。光に照らされていた。

 アナウンスの声と共に、定期艇が港に接岸する。人の波に乗って片手で握りしめていたチケットを差し出し、地面に足を下ろす。
 くらり、と視界が揺れた。艇に酔ったのかもしれない、と頭を二度ほど振り、港にあるジューススタンドで冷たい飲み物を買った。
 歩く。街に敷かれた石畳を。
 思い出を振り返る。彼と入った飲食店、彼が迎えに来てくれた本屋、彼が荷物を抱えて、ラガッツォの手を引いた公園の脇道。

 亡霊のようにフェルディナンドがついて回る。
 フェルディナンドの微笑みが、囁きが、体温が、粉雪のように街に降り積もっている。思い出が街全体に染みついている。エルーンの女性が、一軒の家の前で突然立ち止まったラガッツォに会釈して通り過ぎていく。

 彼と過ごした家。彼と過ごした街。
 遂に言えなかった。
 彼には遂に言えなかった。
 フェルディナンド、アンタは光だったんだ。お前は光でできていて、眩しくて、俺はいつだってまっすぐ見れなくて

 いつだってアンタが眩しくて、俺には星が見えなかった。

 一滴の雫が、地面に落下して吸い込まれていった。乾いた大地、埃が地表を舞う。

 神様、かみさま。
 お願いです、神さま。
 どうか、フェルディナンドを天国にいかせてやってください。

 ラガッツォは一軒の家の前に立ち尽くしていた。一陣の風が吹く。風は世界を薙ぎ払い、静寂をもたらした。
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