グラブル(フェルラガ)
己に伸ばされる手を、恐れなくなったのはいつからだっただろうか。
人々の手は、幼い自分に痛みと恐怖しかもたらさなかった。脳を揺さぶられる衝撃、肌を打ち据えられる焼けつくような痛み。
世界が拒絶していた。
自分という存在を、世界が拒絶していた。
父に蹴られるたび、母に突き飛ばされるたび、己が世界に存在する理由をひとつひとつ失っていった。魔力を上手く操れない自分の掌を見下ろしては己の成長を息の止まるような苦しみと共に誓い、その裏であてのない憎悪が肥大化していった。自分の影に、部屋の暗闇に棲息する化け物に、常に後ろから首を絞められていた。
そんな日々が終わりを告げたあの日、フェルディナンドは頭を優しく撫でる手を通じて俺に愛を教えてくれた。
初めて人を殺したとき一緒にいてくれたひとは、間違いなく、どす黒い感情が渦巻くこの世界に差した一条の光だったのだ。
「ラヴィリタが帰ってくるそうだよ」
外から帰ってきたフェルディナンドは雑踏の空気をまとっていた。コートを脱ぎながら彼が放った言葉に、ラガッツォは軽く頷くことで応える。
「今回の任務は長かったね……どのくらいだったかな」
「『家』を三ヶ月留守にしてた」
ああそうだった、とフェルディナンドは目を細めた。
「家族の不在は寂しいものだね。ラガッツォ、お腹は空いていないかい? 夕飯は食べた?」
ラガッツォは息を吐くと読んでいた本を閉じ、腰かけていたソファから立ち上がった。ふと、表から馬車の駆ける振動が家を震わす。
新しくラガッツォとフェルディナンドが根城にすることになったセーフハウスは、年季の入った一軒家だった。表面が輝くまで磨かれた頑丈な大黒柱が屋根を支え、ふたりを外界から守っている。
キッチンに立ったラガッツォは、残しておいてあった夕飯を取り出しながら私服になったフェルディナンドを振り返った。
「そう言いながら、今度はアンタが出てくんだろ?」
ラガッツォの少し拗ねたような響きを伴う言葉に、フェルディナンドは柔和な笑みを浮かべながら首を傾げる。
「『家族』の様子をみてこないといけないからね」
フン、と呆れたようにラガッツォは鼻を鳴らし、食卓の準備を終えた。自分が飲むための紅茶へ湯を注ぎながら、ぽつりとこぼす。
「いつ終わるんだろうな、アンタの家族作りってェのはよ」
「どうしたんだい、パパがいないと寂しい?」
ラガッツォはキッチンのシンクに腰かけ、カップに入った紅茶を啜りながら、食卓に向かうフェルディナンドの背中を眺めた。
「そんなのアンタが一番よく知ってんだろォ」
「なるべく早く帰ってくるよ。お土産はなにがいいかな? 特産品は確か――」
ラガッツォは窓の外へ視線をやった。夜の帳がおり、西の空には金星が輝いているだろう。
ふと、先日の出来事を思い出した。十九歳の誕生日、フェルディナンドはラガッツォを連れて隠れ家的な海鮮料理の店に行き、欲しいプレゼントをあげるよと微笑んだのだ。
一年前もそうだ。その日は美味しいと評判の仔羊の煮込みを出す店に連れていかれ、きみの欲しいものをあげようと告げられた。
そのたびに、俺は言葉に詰まる。欲しいものはもうすべて貰った。これ以上などなにも想像できなかった。
逆にフェルディナンドが欲しいものはないのかと聞こうとして――俺はいつも踏みとどまる。彼が欲しいものなど決まっている。俺では到底満足させられない存在。彼が帰りたいと思う家と、そこに住む、
彼の望む息子でありたいと思う。けれどそれには何かが足りない。
彼もまた望んでいるものがある。けれどそれは永遠に手に入らない。
欠落した者同士が、傷を舐めあうように寄り添い、日々を送る。それこそが俺にとってかけがえのない贈り物だと、いつになったら理解してもらえるのだろうと思う。思うだけだ。理解なんてされなくていい。
「なんでもいいさ。なんだって食う。アンタが買ってきたものだったらな」
人を殺す。アンタが望むなら。
なんだって食う。アンタが匙を差し出すなら。
「そうか。ではきみの口に合いそうなものを見繕ってくるよ。たのしみにしているといい」
フェルディナンドは振り返って微笑み、食器を持って立つと、空いた片手でラガッツォの頭を撫でた。優しく、労わるように。
「あァ……」
静かに目を閉じる。
アンタに行ってほしくない。ずっと俺のそばにいてほしい。そんな本当の願いを心の奥底に閉じ込める。
十九歳の誕生日の夜、共に手を繋ぎ夜道を歩きながら、フェルディナンドは言った。きみの望む関係になろうか、と。そのとき、俺は全てが筒抜けだったのだと知って押し黙った。フェルディナンドへの思いも、感情も、恋情も、劣情も、すべて知られていたのだ。
そして俺は彼の言葉を無視した。生まれて初めて、彼の言葉を無視した。
知らないのか、フェルディナンド。アンタが俺に応えるというのなら、俺はこの世に存在するアンタの『家族』を全部殺してやる。この世界にアンタの家族は俺ただ一人なのだと示してやる!
俺はアンタに初めて逆らい、アンタを俺のひとりものにするために亡き者にし、殺し食らうだろう。
そして俺は残った亡骸を抱いて泣くのだ。
幾多の言葉を費やしても届かない。アンタは本当に人間なのか? どうして俺の気持ちをわかってくれない?
でもそんなことはどうだっていいことだ。俺の望みなんかアンタが顧みる必要はない。
あの日の夜、就寝中に与えられたフェルディナンドからの口づけを、俺は一生忘れないだろう。彼の唇には体温があるのだと、初めて知った夜が全ての影を覆いつくした。もう怪物は影から出てこない。俺の首を絞めてこない。
怪物はいつか父という形になり俺を食らうだろう。食われる幸せを俺はもう知っている。
未来が閉ざされたとしても、俺だけはアンタを否定しない。たとえ世界が敵になってもアンタを守る。かつて俺を守ってくれたように。
これが愛。アンタが持ちえないものを、アンタは確かに俺に教えてくれた。
人々の手は、幼い自分に痛みと恐怖しかもたらさなかった。脳を揺さぶられる衝撃、肌を打ち据えられる焼けつくような痛み。
世界が拒絶していた。
自分という存在を、世界が拒絶していた。
父に蹴られるたび、母に突き飛ばされるたび、己が世界に存在する理由をひとつひとつ失っていった。魔力を上手く操れない自分の掌を見下ろしては己の成長を息の止まるような苦しみと共に誓い、その裏であてのない憎悪が肥大化していった。自分の影に、部屋の暗闇に棲息する化け物に、常に後ろから首を絞められていた。
そんな日々が終わりを告げたあの日、フェルディナンドは頭を優しく撫でる手を通じて俺に愛を教えてくれた。
初めて人を殺したとき一緒にいてくれたひとは、間違いなく、どす黒い感情が渦巻くこの世界に差した一条の光だったのだ。
「ラヴィリタが帰ってくるそうだよ」
外から帰ってきたフェルディナンドは雑踏の空気をまとっていた。コートを脱ぎながら彼が放った言葉に、ラガッツォは軽く頷くことで応える。
「今回の任務は長かったね……どのくらいだったかな」
「『家』を三ヶ月留守にしてた」
ああそうだった、とフェルディナンドは目を細めた。
「家族の不在は寂しいものだね。ラガッツォ、お腹は空いていないかい? 夕飯は食べた?」
ラガッツォは息を吐くと読んでいた本を閉じ、腰かけていたソファから立ち上がった。ふと、表から馬車の駆ける振動が家を震わす。
新しくラガッツォとフェルディナンドが根城にすることになったセーフハウスは、年季の入った一軒家だった。表面が輝くまで磨かれた頑丈な大黒柱が屋根を支え、ふたりを外界から守っている。
キッチンに立ったラガッツォは、残しておいてあった夕飯を取り出しながら私服になったフェルディナンドを振り返った。
「そう言いながら、今度はアンタが出てくんだろ?」
ラガッツォの少し拗ねたような響きを伴う言葉に、フェルディナンドは柔和な笑みを浮かべながら首を傾げる。
「『家族』の様子をみてこないといけないからね」
フン、と呆れたようにラガッツォは鼻を鳴らし、食卓の準備を終えた。自分が飲むための紅茶へ湯を注ぎながら、ぽつりとこぼす。
「いつ終わるんだろうな、アンタの家族作りってェのはよ」
「どうしたんだい、パパがいないと寂しい?」
ラガッツォはキッチンのシンクに腰かけ、カップに入った紅茶を啜りながら、食卓に向かうフェルディナンドの背中を眺めた。
「そんなのアンタが一番よく知ってんだろォ」
「なるべく早く帰ってくるよ。お土産はなにがいいかな? 特産品は確か――」
ラガッツォは窓の外へ視線をやった。夜の帳がおり、西の空には金星が輝いているだろう。
ふと、先日の出来事を思い出した。十九歳の誕生日、フェルディナンドはラガッツォを連れて隠れ家的な海鮮料理の店に行き、欲しいプレゼントをあげるよと微笑んだのだ。
一年前もそうだ。その日は美味しいと評判の仔羊の煮込みを出す店に連れていかれ、きみの欲しいものをあげようと告げられた。
そのたびに、俺は言葉に詰まる。欲しいものはもうすべて貰った。これ以上などなにも想像できなかった。
逆にフェルディナンドが欲しいものはないのかと聞こうとして――俺はいつも踏みとどまる。彼が欲しいものなど決まっている。俺では到底満足させられない存在。彼が帰りたいと思う家と、そこに住む、
彼の望む息子でありたいと思う。けれどそれには何かが足りない。
彼もまた望んでいるものがある。けれどそれは永遠に手に入らない。
欠落した者同士が、傷を舐めあうように寄り添い、日々を送る。それこそが俺にとってかけがえのない贈り物だと、いつになったら理解してもらえるのだろうと思う。思うだけだ。理解なんてされなくていい。
「なんでもいいさ。なんだって食う。アンタが買ってきたものだったらな」
人を殺す。アンタが望むなら。
なんだって食う。アンタが匙を差し出すなら。
「そうか。ではきみの口に合いそうなものを見繕ってくるよ。たのしみにしているといい」
フェルディナンドは振り返って微笑み、食器を持って立つと、空いた片手でラガッツォの頭を撫でた。優しく、労わるように。
「あァ……」
静かに目を閉じる。
アンタに行ってほしくない。ずっと俺のそばにいてほしい。そんな本当の願いを心の奥底に閉じ込める。
十九歳の誕生日の夜、共に手を繋ぎ夜道を歩きながら、フェルディナンドは言った。きみの望む関係になろうか、と。そのとき、俺は全てが筒抜けだったのだと知って押し黙った。フェルディナンドへの思いも、感情も、恋情も、劣情も、すべて知られていたのだ。
そして俺は彼の言葉を無視した。生まれて初めて、彼の言葉を無視した。
知らないのか、フェルディナンド。アンタが俺に応えるというのなら、俺はこの世に存在するアンタの『家族』を全部殺してやる。この世界にアンタの家族は俺ただ一人なのだと示してやる!
俺はアンタに初めて逆らい、アンタを俺のひとりものにするために亡き者にし、殺し食らうだろう。
そして俺は残った亡骸を抱いて泣くのだ。
幾多の言葉を費やしても届かない。アンタは本当に人間なのか? どうして俺の気持ちをわかってくれない?
でもそんなことはどうだっていいことだ。俺の望みなんかアンタが顧みる必要はない。
あの日の夜、就寝中に与えられたフェルディナンドからの口づけを、俺は一生忘れないだろう。彼の唇には体温があるのだと、初めて知った夜が全ての影を覆いつくした。もう怪物は影から出てこない。俺の首を絞めてこない。
怪物はいつか父という形になり俺を食らうだろう。食われる幸せを俺はもう知っている。
未来が閉ざされたとしても、俺だけはアンタを否定しない。たとえ世界が敵になってもアンタを守る。かつて俺を守ってくれたように。
これが愛。アンタが持ちえないものを、アンタは確かに俺に教えてくれた。
