グラブル(フェルラガ)
少し湿った唇が孕む赤みが、俺の心をずっと捕えていた。ずっと。幼い頃から。
気ままに開閉し、食物を食み、憂鬱そうに息を吐く。唇は曲げられ、柔らかな低音がこの世に生み出される。彼の生み出す言葉は神の言葉だった。
俺にとってだけではない。たとえ俺以外に聞く者がなくとも、それは確かにこの世に落とされた神の言葉だった。
「冬は美しい季節だよ」
雪の降り積もる外を眺め、彼は毎冬その言葉を口にした。
最初に聞いたのは、外出のために外套を着せられているときだった。意思を上手く表現することができないまるで人形のような俺を、彼は手間暇かけて育てながら、外の様子を語って聞かせた。
詩を口ずさむように語りかけられた言葉は、決して俺を揺さぶらなかった。けれど知らぬ間に真っ黒な心にじんわりと染み入り、長い時間をかけて心の奥底へと落下していった。いつかこつんと小さな音を立てて底に沈んだ彼の言葉は、徐々に溶け出して俺の憎悪に燃え盛る心を冷やし、人としての体温を取り戻す契機を生み出したのだ。
「冬は美しい季節だよ」
別の冬、俺はその言葉を自室で聞いた。
公の場では、フェルディナンドはナビスのメンバーを序列に従い公平に扱った。俺もまた例外ではなかった。しかし仕事が終わり、共に暮らす家に帰ると彼は「父親」に戻った。そして仕事で嫌な思いをしていないか、身体のどこかを任務で怪我していないか、細かく知ろうとした。思春期を迎えていた俺は、自室にまで踏み入って俺の内部を探ろうとする父親が鬱陶しくて仕方なかった。放っておいてほしかった。だから言った。
「うるせェな、俺の部屋から出てけよ」
鬱陶しくて、邪魔で、目障りで、芽生え始めた自我の領域を侵犯する父親という存在。もがいていた。人間として成長する過程で反発し大人としての自我を生み出す壁そのものの存在に対して、俺はこの身が焼け焦げてしまいそうな恋心を抱いていた。彼が嫌いで仕方なかった、そのくらい好きで好きで欲しくてたまらなかった。
彼の心臓をこの手で貫いたら、その身体に取り返しのつかない傷を負わせたら、俺は満足するだろうか。そう妄想して、一瞬の後にそんな考えを抱いた己を恥じた。
彼が愛を囁くとしたら、相手はどんな言葉を与えられるのだろうか。そんな想像をしていた。けれどぼんやりとした想像上のフェルディナンドは明確な言葉を一度たりとも与えてくれなかった。
俺は息子としてではなく恋人として愛されてみたかった。一度でいい、特別な人として彼に愛されたなら、きっと俺は神に愛された特別な子になれるのだと思っていた。
冬は美しい季節だと、フェルディナンドは熱で曇る窓に指先で円を描きながら呟いた。その言葉を俺は彼のベッドで聞いていた。厳しい底冷えがする日だった。
愛しい人と肌を重ねるには最適な日。
フェルディナンドが脱ぎ捨てたシャツを、熱が引き震える身に巻きつけ、俺はなにか答えたような気がする、
彼のシャツを身に重ねても、匂いはしなかった。彼は人間としての匂いを持っていなかった。だからそのかわりに数種の香水を持っていた。出掛ける前には決まって人工の香りを身にまとった。
フェルディナンドは人が作ったものをまとって初めて「人間」になる。
その頃、俺はもう理解し始めていた。彼は人の作った血肉を食らい、人の作った香りをまとい、人の作った論理を働かせているけれど、決して彼の望むヒトではなかったのだ。
フェルディナンドは虚ろに人の世を巡り続けている。彼が欲しいものを俺はわかっているけれど、彼がその答えに辿り着くことは終ぞないのだ。
俺は彼と手を重ねるたびに打ちのめされた。
俺が真実望んでいるものを彼はわかっているけれど、彼は決して与えてくれないのだ。彼はわかっていても与えることができない。彼には終ぞ理解できないモノだからだ。
それでも俺はフェルディナンドを愛していた。彼にヒトとしての形を与えたかった。だから俺は息子でいた。
ふたりきりの冬の王国で、彼の息子でいようとした。彼の赤い唇に雪の結晶が落ちる温度を、分かち合う存在でいたかった。
彼の熱は、放たれる傍から冬の風にすべて吹き飛ばされる。彼の言葉はいつだって柔らかく凍りついている。
けれどそれこそが正しい在り方だと信じていた。
フェルディナンドが俺に対し秘密を抱え、時に隠れた意味を持つ視線を投げかけたとしても、俺たちにとっては正しい関係だったのだ。
彼が俺に誕生の光をもたらしたのなら、俺の光を閉じるのもまた彼の役割だ。
来るべき日を待ち続ける、そんな感情を、俺はある日「愛」と名付けた。
気ままに開閉し、食物を食み、憂鬱そうに息を吐く。唇は曲げられ、柔らかな低音がこの世に生み出される。彼の生み出す言葉は神の言葉だった。
俺にとってだけではない。たとえ俺以外に聞く者がなくとも、それは確かにこの世に落とされた神の言葉だった。
「冬は美しい季節だよ」
雪の降り積もる外を眺め、彼は毎冬その言葉を口にした。
最初に聞いたのは、外出のために外套を着せられているときだった。意思を上手く表現することができないまるで人形のような俺を、彼は手間暇かけて育てながら、外の様子を語って聞かせた。
詩を口ずさむように語りかけられた言葉は、決して俺を揺さぶらなかった。けれど知らぬ間に真っ黒な心にじんわりと染み入り、長い時間をかけて心の奥底へと落下していった。いつかこつんと小さな音を立てて底に沈んだ彼の言葉は、徐々に溶け出して俺の憎悪に燃え盛る心を冷やし、人としての体温を取り戻す契機を生み出したのだ。
「冬は美しい季節だよ」
別の冬、俺はその言葉を自室で聞いた。
公の場では、フェルディナンドはナビスのメンバーを序列に従い公平に扱った。俺もまた例外ではなかった。しかし仕事が終わり、共に暮らす家に帰ると彼は「父親」に戻った。そして仕事で嫌な思いをしていないか、身体のどこかを任務で怪我していないか、細かく知ろうとした。思春期を迎えていた俺は、自室にまで踏み入って俺の内部を探ろうとする父親が鬱陶しくて仕方なかった。放っておいてほしかった。だから言った。
「うるせェな、俺の部屋から出てけよ」
鬱陶しくて、邪魔で、目障りで、芽生え始めた自我の領域を侵犯する父親という存在。もがいていた。人間として成長する過程で反発し大人としての自我を生み出す壁そのものの存在に対して、俺はこの身が焼け焦げてしまいそうな恋心を抱いていた。彼が嫌いで仕方なかった、そのくらい好きで好きで欲しくてたまらなかった。
彼の心臓をこの手で貫いたら、その身体に取り返しのつかない傷を負わせたら、俺は満足するだろうか。そう妄想して、一瞬の後にそんな考えを抱いた己を恥じた。
彼が愛を囁くとしたら、相手はどんな言葉を与えられるのだろうか。そんな想像をしていた。けれどぼんやりとした想像上のフェルディナンドは明確な言葉を一度たりとも与えてくれなかった。
俺は息子としてではなく恋人として愛されてみたかった。一度でいい、特別な人として彼に愛されたなら、きっと俺は神に愛された特別な子になれるのだと思っていた。
冬は美しい季節だと、フェルディナンドは熱で曇る窓に指先で円を描きながら呟いた。その言葉を俺は彼のベッドで聞いていた。厳しい底冷えがする日だった。
愛しい人と肌を重ねるには最適な日。
フェルディナンドが脱ぎ捨てたシャツを、熱が引き震える身に巻きつけ、俺はなにか答えたような気がする、
彼のシャツを身に重ねても、匂いはしなかった。彼は人間としての匂いを持っていなかった。だからそのかわりに数種の香水を持っていた。出掛ける前には決まって人工の香りを身にまとった。
フェルディナンドは人が作ったものをまとって初めて「人間」になる。
その頃、俺はもう理解し始めていた。彼は人の作った血肉を食らい、人の作った香りをまとい、人の作った論理を働かせているけれど、決して彼の望むヒトではなかったのだ。
フェルディナンドは虚ろに人の世を巡り続けている。彼が欲しいものを俺はわかっているけれど、彼がその答えに辿り着くことは終ぞないのだ。
俺は彼と手を重ねるたびに打ちのめされた。
俺が真実望んでいるものを彼はわかっているけれど、彼は決して与えてくれないのだ。彼はわかっていても与えることができない。彼には終ぞ理解できないモノだからだ。
それでも俺はフェルディナンドを愛していた。彼にヒトとしての形を与えたかった。だから俺は息子でいた。
ふたりきりの冬の王国で、彼の息子でいようとした。彼の赤い唇に雪の結晶が落ちる温度を、分かち合う存在でいたかった。
彼の熱は、放たれる傍から冬の風にすべて吹き飛ばされる。彼の言葉はいつだって柔らかく凍りついている。
けれどそれこそが正しい在り方だと信じていた。
フェルディナンドが俺に対し秘密を抱え、時に隠れた意味を持つ視線を投げかけたとしても、俺たちにとっては正しい関係だったのだ。
彼が俺に誕生の光をもたらしたのなら、俺の光を閉じるのもまた彼の役割だ。
来るべき日を待ち続ける、そんな感情を、俺はある日「愛」と名付けた。
