グラブル(フェルラガ)

 とある街で地べたに這いずっていた、今となっては名前も覚えていない男は、ラガッツォの背後に立つ人間を指差しながら怯えた眼を見開いていた。男の指先の爪は割れ、血に染まっていた。
「アレは、アレは……! 異形だ、人の皮を被っているだけのバケモノだ!」
 掠れ震えた声が、ラガッツォの脳をかすかに痺れさせた。じん、とした疼きは目を閉じているとやがて遠くに消え去る。
「――それが、なにか問題か?」
 ラガッツォの言葉も聞こえないのか、男は音を立てて歯を鳴らしていた。彼の顔を、ラガッツォは何度も殴った。何度も、何度も。原型がなくなるまで。
「もういいよ、ラガッツォ。ソレはもう息をしていないよ」
 背後から伸びて肩に置かれた手がラガッツォを制止する。伝わってくる体温に、ラガッツォは一度だけ頷いて腕の動きを止めた。辺りに静寂が落ちる。ラガッツォは心の中で再び繰り返した。
「バケモノだ」
 それが、なにか問題か?

 ***

 連絡艇から降りると、寒風が身体を舐めるようにまとわりつき、吹き去った。ラガッツォはその身にまとったコートの前をかきよせ身体を丸める。
 空域の果てにある名もなき群島の街へ呼び出されたのは五日前だ。届いた手紙には見慣れた綺麗な文字が躍り、ラガッツォに訪問すべき場所と日時を教えていた。
 ラガッツォは地元住民に紛れて上陸し、指定された宿屋を目指した。深い霧の中、旅行鞄を提げて進む。埠頭を出て土の上に立つと、濃い霧が強い風に流されて姿を消した。ラガッツォは眼前に現れた景色に息を呑む。
 黒々とした巨大な山が島の中心に聳え、吹きすさぶ風が轟々と唸っていた。広がる一面の夜空、終わりなき宇宙で星々が瞬き、存在を主張している。
 どこかから水流の音がした。水の甘い匂いが鼻先を撫でる。黒々とした影になっていた建物の群れが街灯に照らされ姿を現す。目の前には水車がずらりと並んでいた。
 山から幾筋も川が生まれ、斜面に沿って急流を作っている。水の勢いを利用するための水車が川に沿って何基も建てられていた。それらに添うように作られた白壁の建物が寄り集まって、転々と集落を作り、濃い闇の中にともし火を浮かべている。
 目指していた宿は港から十分ほど歩いた場所にあった。
 道路に面している背の高い建物を見てラガッツォは思わず気後れし、周囲を窺った。その宿は、辺境に存在するにはあまりに豪奢な佇まいをしていた。入り口の前にはドアマンまで立っている。
 己の着ている服は着古されたコートで、袖口は擦れてほつれかけている。靴だって泥にまみれたまま何週間も磨いていない。このような格好で一流の宿に入るのは気が引けた。
 だが指定された時間まであと十分もない。この場所、この時間では開いている服屋もないだろう。ラガッツォは意を決し、ドアマンの開ける扉をくぐった。
 宿に併設されたレストランに、見慣れた背中を見つけた。鏡の前で髪を撫でつけて、板張りの床を進む。自分で椅子を引き、彼の前に腰かけた。
「ああ――迷わなかったかい? 遠かっただろう」
 手紙の差出人であるラガッツォの父親――フェルディナンドは、ワイングラスを手にしたまま首を傾げた。穏やかな声が、耳をくすぐる。
「そうでもねェ。旅は慣れてる」
「そうか、よかった。ここは肉も魚も美味しいんだ。水がいいんだろうね……」
「案件報告だが、」
 ラガッツォの言葉を、フェルディナンドは手を上げて遮った。
「今日は仕事の話はナシだよ」
「はァ?」
 フェルディナンドは目を細めたまま、ふと宙を見上げた。
「あれ、言ってなかったっけ」
「なにをだ、またなんか面倒事かよォ」
「今日は、誕生日祝いさ。ラガッツォ。十八歳の誕生日おめでとう」
 目を瞬かせる。ラガッツォは机の上に置いた己の拳を眺めた。仕事を終えたばかりの両手には、細かい擦り傷が鮮やかに残っていた。
「きみの誕生日のために予約しておいたんだ。たまには父子水入らずもいいものだろう?」
 ラガッツォは頬が上気するのを感じた。止めようにも、身体の中で暴走する熱は簡単に収まらない。
「そうかよ。……ありがとよ」
 フェルディナンドは穏やかな微笑みを顔に浮かべ、机の上でちらちらと輝くキャンドルを見つめた。
「あっという間だったね。でも昔も今も、きみは私の自慢の息子だよ」
 率直な言葉にラガッツォは言葉もなくただ頷き、飲み物のリストを広げて赤らむ顔を隠した。

 フェルディナンドはラズベリーソースの滴る赤色の肉をナイフで切り分け、口に運んでいた。血の色をしたワインを口に含み、ラガッツォに語りかける。夢のような時間だ、とラガッツォはふわふわと靄のかかった頭で思った。
 フェルディナンドと共に過ごす時間は、ラガッツォがナビスの単独任務に出る頻度が高まるに従って減少していた。それに対して不満を抱かない訳ではなかったが、我が儘をいえばフェルディナンドが困ることも承知している。これも親離れの一環なのだ、とラガッツォは旅立つたび己に言い聞かせていた。
 ラガッツォに寂しさと孤独をもたらす原因のフェルディナンドが、今日はラガッツォだけに微笑みかけている。まるで飲み物にアルコールが入っているのではないかと錯覚するくらい、ラガッツォの精神は昂り、知らず知らずのうちに笑いがこぼれていた。

 食事を終えて店を出る。夜空を見上げながら夜道を歩き出した。街灯の橙色が、背の高いフェルディナンドの横顔を照らしている。彼は空に視線をやると、うっとりとした声で喋りだした。
「私が生きている間に見たいもののひとつが、空にあるんだ」
「へェ……、なにが見たいんだ」
 ラガッツォはじっとフェルディナンドの横顔を見つめながら問いかけた。
「超新星爆発といってね。恒星がその命を終わらせるとき、まるで新たな星が生まれたような輝きを放つんだそうだ。その様子を、一目見たいと願うよ」
「そうか。見れるといいなァ」
「私が見れるように願ってくれるかい?」
 フェルディナンドが真っ直ぐラガッツォと視線をあわせた。底のない瞳に吸いこまれるように、ラガッツォは応じた。
「願ってやるよ。何度でも。流れる星を見つけたら、必ず」
「嬉しいよ」
 フェルディナンドは浮き足立ったように歩を進め、密やかに笑った。父親のまるで少年のような振る舞いに、ラガッツォの胸が高鳴る。彼の手に視線がいく。
 彼のために願うかわりに、自分はあの手で撫でられたいと願うのは贅沢だろうか。
「なあフェルディナンド」
「ん?」
 ラガッツォは照れを隠すようにそっぽを向きながら、ぶっきらぼうに言った。
「誕生日プレゼントなんだけどよォ」
「おや、もう用意してあるんだが……なにか欲しいものがあったのかい?」
「……今晩、一緒に寝てもいいか?」
 沈黙がふたりの間に落ちる。圧倒的な静寂に耐え切れず、やっぱり今のなし、と言いかけたラガッツォの手をフェルディナンドは握った。
「勿論だよ。というか、今日は同じ部屋を取ってあるからね。同じベッドしかないよ」
 微笑むフェルディナンドが放つ輝きに耐え切れず、ラガッツォは歩き出した。手をつないだまま。
「そうかよ、先に言えよォ」
「ごめんよ」
 ふたりは夜道を進む。ラガッツォは空を見上げ、幾億もの星を眺めた。

 ――その命が終わるとき。俺なら。
 俺はその短刀で、この心臓を抉り取ってほしいと願うだろう。できるなら、彼の役に立って死にたい。けれど、彼の手にかかって死にたい。いつか訪れるはずの彼との別れは、そんな形であってほしい。
 ラガッツォは寒空の下で抱いた願いを口にすることなく、フェルディナンドの指と己の指を絡めた。
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