DEATH NOTE
おなまえ
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放課後の教室には音楽があった。それ以外には何もなかった。
やわく透けるカーテンの裏側にかくれて、薄ら赤い初夏の夕光をながめていた。きょうはよく晴れていたから、突き刺すほどおだやかな橙がまっすぐ続いている。
誰に見られるわけでもないし、誰に見られても不都合なことなどないのに、このときをどこか後ろめたく思うのは、僕がこれ以上の深いつながりを望んでいるからだ。
教室の僕たちさえもまっすぐに貫く光。
惑星には死のにおいが充満しているのに、この場所だけ眠っている。知らないふりをしている。
不変のそぶりを演じることで成立する青春という短い抒情詩。その朗読のようにいたいけな相対性理論の夕陽。
彼女といる時間は、すばやくつらつらと流れていく。
だから僕は、さらさらと流れてやまない木陰の風音の裏側に耳を澄まさないように、気をつかっていた。
恋人とふたりきり並んで、この窓辺を世界のすべてだと信じ切る時間が上手に満ちていきますようにと、祈るような気持ちにも似ていた。
そんな、なんの変哲もない愛おしさと嫉妬の感情がこの時間にとって重要だった。僕にとって、きっと大きな意味をもつ。無音楽なこの心へ、夕暮れだけが真実に射していた。
平穏なまぼろしじみてわずかに高まった室温にあてられて、僕はじんわりと、隣のあなたの瞳を見つめた。
睫毛のまたたきや些細な髪のゆらぎを、空よりも見ていたかった。(もしかしたら、手に入れたかったと言ったほうが適切かもしれない。)
彼女はすこしの間気づかずに無防備な横顔を僕に観察されていたが、視線に気づくと照れたのかそっぽをむいた。
その方向には誰もいないのに、僕は強欲だろうか、誰もいない方向に照れた顔がさらされているだろうことすらなんとなく、癪だった。
そして「あなたさん」と呼んで、振り向いてもらう。
壊さないようにふれるのがとても難しい繊細さで、髪先が揺れる。風じゃなく、僕のために揺らされる。
そして、目がこちらへ揺れる。散々甘い風を一心に受けつづけたまるい頭が振り向いて、僕へ向いた。それだけでいい。
「……夜神く」
くちびるを重ねる。
息をのむ音が、互いのもっとも近くで聞こえる。
それがぶつかって、止まる。
ちゅっ。と、かわいい音がして口が離れる。
僕たちのキスはこうしてうまれ、死んだ。
たった一瞬の接触なのに、頭は極端にバカになる。その柔らかさを記録しようと躍起になる。
「、………」
「ごめん。……いやだった?」
ただ一秒前に戻っただけのような距離で、彼女へそう訊いた。
僕はずるい人間であって、夕暮れにとても似合わない偏執のようなものとともに生きている。ああ、執着している。
僕がいままでしてきた嫉妬のすべてがここへ帰結して、そして軽薄なる言葉の数々がもっとも熱い体温をもって焼きつくす。健康的ではない心の部位の存在を、体内に強く感じる。
こういうことが初めてというわけでもないのに、僕はやけに手を握りこんでいた。そしてそれを悟られまいとして、夕焼けに焼かれた被害者然として、下まぶたを一ミリ持ち上げる。
悪質なほど甘美なのに、けして腐らないで居残りつづけるその味に、僕はおそらくたった一撃で心酔していた。
こうなると、もっと中に感じたくなる。
ここがどこで、もうこんな時間で、僕たち以外の世界のこんな事情で、そんなすべてに関係のない衝動に似たこの心は、恋、とてもわがままな。
ふたたび距離をつめて、カーテンのかさなりの向こう側を僕はふたたび忘却する。
「僕とは……いやかな?」
何も言わないままのあなたのあごを指でかるく上げる。
僕の喉からは、案外懇願するような音が出た。
だだっ子のおねだりのような、でも、世界の誰からも知られることはない、小さな小さな要求だった。
「………いやじゃない……よ」
「ん……ありがとう」
指で感じたやわらかな許諾の感情のままに、その流れにあらがわないで、僕はさらに接近した。
その睫毛は壊れそうなほど風光明媚に震えていた。僕たちは同時に何も見えなくなる。視界すべてが肌色にかき消える瞬間、好きだなと思った。
その気持ちを上手に逃がすみたいに、それでいて伝えるみたいに、ふれあう。
「……、ん……」
さっきよりもぴったりとくっついたからか、彼女の身体がこわばるのがわかった。
世界でいま、僕よりもあなたに近い人間はおろか、原子すらいない。音楽すらない。初恋に舞い落ちた音すらない。
計画的ではない、とても賢くないただの接触点が熱すぎて、壊してしまいたくてたまらない。
皮膚が湿る不快感と、まるで征服を認可されたかのような全能感に脳幹がごちゃまぜになる。ひどく酔っている。
確かめるみたいに何度か、子どものようにそうなってから、僕はあなたを食む。放課後の空気に似つかわしくないほど屈折して濡れた、透明色の熱がふたりを行き来する。
僕が何を求めているのかについて、彼女もそろそろ気づいているだろうが、恥ずかしいのか固まったまま動いてくれない。
あえて言葉にしないまま、何度も軽い音を響かせてはくっつけた。
彼女は目も口もぎゅっと閉じたまま、緊張したようすだ。
それなのにくちびるが離れてくれないので、眉をひそめて苦しそうにしている。
僕はゆっくりとそんなあなたの右手を取り、じわじわと指を絡めた。そちらに意識を向けてくれるよう、とてもゆっくりと、むしばむようにして。
思わず彼女は肩をゆらして驚き、目を開けた。視線がかち合う。
そして息継ぎのために、口を少し開けた。
僕はその瞬間を逃さなかった。
すかさず、甘い味で満たされた舌を、さしこんだ。
その音がくちゅ、と鳴る。
途端、びり!と強い痛みが走る。
「んいッ……!」
思わず口を離す。
僕は思い切り舌を噛まれたのだ。
そう理解できるまでに一瞬の時間を要した。
理解できても、納得したくない気持ちに襲われる。
「あっ、ご、ごめんっ……」
こういったキスは初めてだったので、きっと驚いて反射的にやってしまったのだろう。今だって完全に反射で謝っていた。
そういう意思を持って他人を傷つけるようなタイプではないし、ただ一瞬の本能、の防御反応にすぎない。………
そう頭で理解していても、眉をひそめるのを止められない。
「……………いや。いいよ。………あなたさんのせいじゃないから」
激しい激しい不快感が、身体の中心から、大変なスピードで広がってくる。
もどかしさというよりは失望……に似た苛立ち、むかつき、吐いたあとのような苦味を感じる。呼吸のたび深くなるそれをどうにかしようとひとつ、大きくため息をついた。
「………ふーーーーーーっ……………」
大きく大きく息を突き刺した。僕はもう窓のほうを向いていた。
僕たちを外界から切り離しておきながら知らんぷりを決め込む夕陽が憎らしかった。
あなたにも僕の不快感が伝わるかもしれないが、そんなことはどうでもよくて、むしろ伝わってしまえばこのまま単調で気まずい下校に落ち着くという選択肢を考え直してくれるかもしれないと、ほのかな期待すら描いていた。
ここで口を開くべきは僕ではない。
気まずい沈黙の間閉ざしていた口の中には、鉄を舐めさせられたような味が広がる。どこまでも不快だ。
「あの、ごめんなさい……痛い?」
空気に耐えかねたあなたがおどおどと上目遣いになって、ふたたび謝罪をよこした。
「ああ、痛いよ。血も出てるしね」
僕はこう吐いた瞬間、言わなくていいことを言ってしまったと思った。痛いのも血が出ているのも本当のことだ。でも、口調がよくなかった。
もう僕の声や吐息は血液風味のちくちくにまみれていて、取り返しがつかないのかもしれない。
後悔とまではいかないが、夕焼けの死にざまに生えた棘がより確たるものになってしまった気がした。空気がまた重くなる。
あれほど赤く燃えていた夕陽はもう重力に圧し負けて、のろのろと夜空に溺れている。教室は暗く沈みつつある。僕たちもそう。
「わ。ああ……本当にごめん……痛いよね」
彼女は困ったように苦く笑い、間をもたせるような息をついた。背を向けていたので表情はわからないが、それがどこか満足げな声にも聞こえて、少し驚いた。
「ごめん、夜神くん……」
あなたがまた謝ったかと思えば、腕に衝撃を覚える。
僕は、なにが起こったかわからなかった。
かつてないほど強い力で引っ張られ、振り向かされる。
そして、そのまま乱暴なてのひらに、ぐい!と頬をつかまれ、くちづけられる。
「っんん!」
驚く暇もないほど性急なキスだ。思わず声が漏れた。
こんなことははじめてだった。あなたからされるのも、こんなに乱暴にされるのも、楽しんでいるかのようにもてあそばれるのも。
僕のことを、本当はこうしたかったのか?そう思わざるを得ないような激しさだった。
さっき僕がそうしたら思い切り噛んだくせして、そんなこともう忘れてしまったみたいにいきなり舌がねじ込まれる。
それから、傷のある箇所を探しているのか、まさぐるような動きで舌がぬるぬると僕の中身を蹂躙する。怖いほどやわらかくて、脳がほてりあがってしまいそうなほど熱い。
いつの間にふらついたのか、僕は背を窓に押し付けるようにして、力なくもたれてしまっていた。
あなたはそんな僕に目もくれず、血が止まりかけているそこにたどり着くと、執拗に舐めはじめた。
不味いだろうに、他人の血なんて口にするものではないのに、どれほど僕が顔を逸らそうとしても、手と口を放してはくれない。
「んむ、ッ、ふっん……、ぅ……!」
音が激しくなる。体温も、唾液も、なにもかもが激しくなる。
こんなキスはしたことがない。知らない。彼女は知っていたのか?すでに経験したことがあった?今までの緊張したような態度は嘘だったのか?そう思うのに、失望ではなくて、暗い嫉妬に乗っ取られそうになる。
それをなにか乱暴な方法で発散したい気持ちになったが、いま実際、世にも乱暴な方法で発散させられていることに気付いた。
「ん……っ、ぁあ、!」
余計な思考を許さないと言わんばかりに、唾液の迷宮に引きずり落されていく。
そうしているうちにだんだん、腹部の底あたりが欲望のかたちを描きはじめた。僕が求めているわけではないはずだったのに、壊れるほど、欲しくなってくる。
僕は、それまで行き場がなくてふらふら彷徨わせていただけの手をあなたの背に回した。
とうとう白旗をあげて、密着して、僕たちは溺れるようにしてくちづけあった。
もしかしたら、溺れているのは僕だけで、あなたはなんとも思っていないかもしれないと、そこまで考えたが、いったん打ち切った。
とりあえず、薄目を開けて彼女の表情と真意を確認するための余裕というものが、わずかに不足していた。それに、お互いに見つめ合いながらこんなことをしてしまったら、もはや何か、とても悪い罪を糾弾されているような気持ちに陥ることは必至だろうと思えたから。
うやうやしい先ほどまでのキスが遠い夢だったかと錯覚するほど、ただ不埒で、不純で、とにかく学校内でするべきではないことに夢中になる。
ふたりの間には気づかいの言葉もなく、わざとらしい媚びもなかった。必死で、もう傷や痛みのことなんか忘れて、血の味も遠くへ追いやってしまうほど、ぐちゃぐちゃだった。
もう何分間そうしていたかわからないほど、胸が刻む時間の波が混線するほどに、水音と自分の吐息だけでいっぱいになった教室は熱く、自分が汗をかいているのがわかった。
僕は余裕のない僕が嫌いだと思いつつも、あなたのあやうい一面を剥がしかけていることに安堵、歓喜のようなものを抱いているようだった。
だから、放してほしいと思わなかった。一秒でも長くこのほてりにくちびるを侵していてほしいとさえ、愚かにもぼんやり感じた。
しかしふいにあなたが、遠ざかる。
僕は彼女の制服の背をいつのまにか握り締めていたが、それを引き留められるほどの力がなくて、ただ馬鹿みたいに口を開けていた。
とっくに理性ぎりぎりまで混ぜあわせられた唾液が、あっけなく切れる。
「んあっ、……はぁ、」
「……んー。あー、ごめんなさい……」
僕の情けない声にかぶせてかき消すようにして、なぜかあなたがまた謝った。
そして、手を僕の額にやった。
いまの僕はそんなことにすら身構えてしまうが、彼女は汗にぬれた前髪をいくらかととのえてくれただけのようだ。
「ほんとごめんね、消毒しようと思って……まだ痛いかな」
僕にはその言葉の意味がいまいちわからなかったが、彼女は満足できたようだ。
いつも通り微笑んで、今の今までつかんでいた頬を優しくなでるあなたの目が、ひどく嗜虐的だ。その睫毛の陰に息づいた悦楽感が、露骨なほど性的に思えた。
そして、そう思ってはいけないような気もした。
息絶え絶えのなかを、知ってはいけないような色の電撃がびりびり奔る。わずかにふわふわが残る頭で、僕はたぶん曖昧に返事らしき声をあげた。
「あ、もう遅いね。帰ろう」
そう言ってかばんを持つあなたのことが、少し怖いと思った。
平然としすぎている。
あれほど激しく交わした唾液の味も、舌先に渦巻いたままのこの愛玩の痕も、とうに薄れきった血のにおいも、なにもかもなかったみたいだ。
すっかり忘れたみたいに、けろっとして帰ろうなどとのたまうあなたに、僕は戸惑いを隠せなかった。
それでも、僕も自分のかばんを持って声を捻りだした。
「ぁ、ああ……あなたがそうしたいなら」
最初の一音はかすれていた。その音が喘ぎにも似ていたから、自分でぞっとした。
ありあわせじゃない、陰翳の深まった笑顔であなたが振り向く。
「夜神くんってやっぱり、頭の中ではさん付けしないタイプなんだね?」
意表を突かれて、僕は力の抜けた声をあげてしまった。
「えっ」
「ごめん、また余計なこと……じゃあ行こう、ライトくん」
いたずらっぽい声で教室の扉を開ける彼女の、なにか危ない核のところを、僕は今日はじめて一口舐めてしまった。
陽はもうどの空を探してもなくて、きんきんした蛍光灯のともった廊下はわずかに暗く、音楽は相変わらず存在しない。
帰り道の間、どんな顔で彼女の隣を歩けばいいのだろう。
この頬の熱を容易に冷ますのを許さない季節に、どうやって隠せばいいのだろう。
僕はそれを決めかねたまま、少し先を行くあなたを追いかけた。