テニスの王子様
おなまえ
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きょうも生まれたての朝日が街を輝かせる。テレビに映る顔ぶれも変わりなく、空には雲ひとつなく、昨日の土砂降りがなかったように思えるほどの快晴だ。
水たまりをたたえた道路が光る8時21分。通学路の雑踏。
アラーム音を悪夢に阻まれたあなたの早足がその中を滑っていく。
散歩中の犬を追い抜き、通勤中のサラリーマンを追い抜き、信号を待てずに渡ってしまおうかとすら考えてしまうほど、窮地に追い詰められていた。
それでも車道すれすれの位置で青信号を待ち構えていると、
「こら、信号無視したらあかんで」
遅刻寸前の彼女の左手を何者かが握った。
「あなたさん。おはよう」
あいさつをしてくる声の主の顔を見るなり、あなたは逸る気持ちを心臓ごと掴まれたような気分に驚いて飛び上がる。
白石蔵ノ介だ。あなたとは同じクラスであるが、親しくないどころかほとんど話したこともない。しかしその程度の間柄であっても、テニス部に所属するスター的選手であるということは学校中の噂や絶大な知名度によって知っていた。そんな人気者である彼がどうして今日(に限って)親しげな言葉を投げかけてきたのか、あなたにはまったくわからない。
「お、おはよう……」
わからないなりに適当な笑顔を浮かべて挨拶を返すと、白石も手を放さないままあいまいな笑顔を作った。汗が彼女の首に隠れながら伝う。できるだけ目が合わないよう道路のほうを見ていると、白石はなにがおかしかったのかまた笑った。
そうしているうちに信号が切り替わったので、どうして話しかけてきたのか、どうして手を放さないのかと聞きたい気持ちをこらえて長い横断歩道をやむなくいっしょに渡ることにした。
「時間」
渡り切ろうというところで、ふと白石が声をあげる。
「え?」
あなたが聞き返すと、彼は困ったふうに笑った。
「だいぶ危ないで。今日どうしたん?いっつも早めに来とるのに」
「あ、あー……ちょっと寝坊しちゃっ」
「まあ知っとるけど」
ふいに快晴へ雲がかかって白石の顔が一瞬翳る。
「あっ………寝癖。はは。かわええなあ」
彼は至極嬉しそうな表情であなたの頭をなでつけ、髪をとかした。それからその指先が頭からおりてきて、恋人のような手つきで頬を滑る。惜しむみたいにして余韻を残すふれ方をする。
それだけで、さきほど横断歩道の向こう側でかいた汗がまた肌に浮かんでくる。もはや“親しげ”の範疇も越えたふれあいに、彼女のなかにはじんわりと恐怖心がともり始めていた。
それに加えて白石が動作のたびにいちいち足を止めるので時間も気になり、視線をつい遠くへやってしまう。
「え……? あ、……ああ」
「ほら、遅刻してまうで。はよ行こ」
あなたの胡乱がる返答を気にもかけない様子で、仲良し然とした口調のまま白石が手を引っ張るため、そのまま登校することになった。
遅めとはいえ通学路にはほかにも生徒が多く歩いていたので、白石によって本人の全力以上の早足で登校しなくてはいけなくなったあなたの姿が人々の注目を集めたことは言うまでもない。
ふたりが三年の階へ無事たどりつくと、やっとのことであなたが声を絞り出した。
「白石、くん、あの、」
「んー?はは、よかったなあ、遅刻せんで」
この男が『相手の言いたいことがわかっているのに、それを避けるのがうまい人』なのだろうということにあなたは初めて気づいた。
「うん。だからその、手を……放してほしいかな」
「………ああ。ごめんごめん。嫌やったな」
たったいま気が付いたかのようにして、大げさなほどの動作で白石が手を放す。そして演劇的な目くばせで睫毛を伏せ、そのかんばせを曇らせる。それだけでもう、あなたが悪いことをしたようにすら感じられた。
「ぃや……いや、ごめん、こっちこそ……」
空中へ謝罪をすると、ちょうどチャイムが鳴った。
胸の底にわだかまる気持ちをそのままに、彼女は急いで席へついた。
対して白石はゆっくりとした足取りで教室へ入り、彼女よりも後ろの席に座る。あなたは気配と物音でそれを感じながらも、振り向くことがひどくおそろしい行為のように思えた。
自分を見ないあなたの背中を見やって、白石はつまらなそうに肘をついて外をながめる。
伏せられた睫毛や曇った表情はあなたのために作り出したものなのでもう必要なくなった。
どこかに蒼白い雲が沈んでいる。地面をぬらさないで雨が降っている。そういう顔つきでふと、右手をにぎる。
それからついさっきあなたと歩いた通学路を思い出して口角を緩め、ついさっき握ったあなたの手を、その曲線や形や色や熱や汗や感触を思い出して目を細めた。
まだ白石の中にはあなたが”居て“、その部位には彼女の生が息づいているような気がして、心臓が散らばったみたいに全身がどきどきしている。いつからかもなぜかも覚えていないほど、完璧に盲目だった。
白石はただあなたが好きだった。
配られたプリントを回してから、静かに右手へキスをした。
・・・
昼休みを過ぎると、真っ青に晴れていた冬空にはずいぶん雲がかかっていた。
容易には流れないほどの厚く重い雲はおもしろくなさそうな顔をして人間や犬や猫を見下ろし、見えない陽が落ちてくるころには冷たいしずくを滂沱として流しはじめた。
あなたは午後の授業を受けてから、友だちと少々談笑をしてからいつものように帰る準備を始める。今日は特に用もなく、まっすぐ帰って家でのんびりしようと考えていた。
雨が降り始めたのには憂鬱な気持ちになるが、幸いにも折り畳み傘を持ってきていたので濡れる心配はなさそうだ。
ホームルームで担任の話を聞き、いくつか配布物を受け取る。
結局、朝以来白石は接して来なかった。
ふたりで登校していた様子を見ていた人から問い詰められはしたが、あなた本人ですら白石が何を考えていたのかわからなかったと伝えると、それ以上の追及や攻撃をされることもなかった。
緊張するような一日の始まりだったものの、あの冷や汗の温度も忘れてしまうほどに、すでにすべてが日常に戻っていたのだ。
あなたは騒がしい教室に安堵感を覚えながら息をついた。
担任が「さようなら」と言ったのを皮切りに、クラスメイトが次々に教室を出ていく。
一拍遅れてあなたも席を立ち確認したが、どうやら白石はすでに帰ったか部活へ向かったようで見当たらない。今度は一緒に帰ろうと誘われでもしたらどうしようかと考えていた自分が自意識過剰な人間に思えて、とても恥ずかしくなった。
また息をつく。
教室を出て湿った廊下を歩いていると、後ろから肩をたたかれる。
他のクラスの友達かと予想したあなたが笑顔で振り向く。
「っ、っ、あなた、さん」
しかし、そこにいたのは彼女の予想とはまったくかけはなれた存在だった。
同じクラスの忍足謙也だ。
彼も白石と同じく学校中の人気者で、自分とは違ったグループに属している人間だ。だったはずだ。
再び朝のようなことになるのではないかとあなたはいよいよ怖くなり、本題に入る前に避けてしまいたい気持ちになった。だが、彼の俊足と勘がそうはさせてくれないようだった。
彼は一歩後ずさったあなたの右手をすぐさまつかみ、まっすぐに目を見てからお辞儀をする。
「おっ俺と一緒に帰ったってください!」
あなたがその勢いに驚き手を振り払おうとするが、謙也の左手はがっちりと握って離れない。
お辞儀の体勢のまま、彼は上目遣いで言う。
「……あかん?」
「い、……なに、なんで……」
黒目を右往左往させて困惑している様子のあなたに、謙也はあいまいな表情を浮かべる。誰かのようなそのあいまいな表情で、一瞬だけ雨粒のたまった窓ガラスを見た。
「あの、あのな、それは……あ、帰りながらしゃべるからさ、ほら、な、帰らん?」
彼はつながった手にわずかな力を籠めて、言った。
語尾になすりつけられただけのハテナが、やけにまっすぐな視線に拭われてしまったのを、あなたは確かに感じた。
階段を降り、廊下を抜けて、玄関ホールで靴を履き替える。
その間もずっと手を握ったままにされている。それとなく放そうとしても、まん丸い瞳が監視するようについてくるため距離をとることもままならない。付き合いたての恋人同士であってもここまでの接触は望まないだろう。
謙也はなんでもない顔ですき間すら生まれないようにとぎゅうぎゅう握る。しわのひとつひとつまでに執着をみせているように感じられるほど。
あなたの困惑とは裏腹に、湿度と汗によって、すでにふたりをつなぐ間には血よりもあたたかで不健全なぬくもりが澱みはじめていた。
いっしょに帰る意味すら解することができないまま雨の落ちる校門をながめ、あなたは鞄から折り畳み傘を取り出した。
それを横目で見ると謙也は言った。
「あなたさんオリタタミ持ってきてすごいなあ」
「忍足、くんは?」
「俺は天気予報見てへんくて、ほら朝もごっつ晴れとったし!いけるやろと思って……」
「そ、なんだ……」
あなたはなんとなく嫌な予感がして、手を放すことができないなりに彼から半歩離れた。
なけなしの夕暮れでも逆光になる。男の表情は見えない。
「なんで逃げるん?」
反射的にまた一歩離れると、謙也もそれ以上の距離をつめて追いかける。そして傘を持っていたあなたの右手をもつかんだ。
「え」
抱きしめているかのような近さに誰かが見ていないかと胸を詰まらせるあなたと、誰かが見ていればいいのにと胸を高鳴らせる謙也のふたりは、絶望的なまでに究極の矛盾だった。
媚びたような眼つきで恋人のように指をからませる男の清潔に切りそろえられた爪が、ぱっちりと押し上げられた二重瞼が、健康的な手指の質感までもが、彼女にとっておそろしいものに変貌していく。
それは本来水たまりに沈んでいるべきで、夕暮れの影に埋もれているべきで、けしてあなたのような少女にふれさせてよいものではなかった。
「逃げんといてな。傷つくから」右手を離した。
「ぅえ、う、ん……」
「うん。あのな、傘いれてほしいんやけど……あかんかな?」
非行の反対をいく声音がやけに鋭利だ。
どちらが傷つくことになるかは明らかにしないまま、謙也は人当たりのよさそうな笑みを浮かべていた。
「わ、かった」
ここからあなたができるのは、言動を間違えないように注意することだけだ。
「ほんまありがとう!あ、俺が持つわ」
「あ、ありがとう」
ちいさな傘のかわいい花柄に、暗いにおいが漂っている。朝の晴天を忘れてしまうほど冷たい雨が、ただ地面を打っている。ちょうど下校の時間なのにも関わらず、不思議なほど人がいない。
謙也が傘を持ってあなたのほうへ傾けると、世界みたいに大きく、ふたりだけを包む影がぬるめいた。
「あー……お、思てたより近いなあ!なんや緊張する……」
気まずそうに、どこか演技じみた口ぶりで彼が言った。
否定にも肯定にもならない笑顔をうかべて、「はは」と口に出した。その振動だけで、傾けられた傘の端からぼたぼた、なけなしの虚栄心が落ちた。
謙也の遣る視線が温度を持っている。その発熱の分だけ、あなたの心臓が冷えていく。
その間にも離すことを許されない手が、渡されない主導権が、男との融解を果たすかのように輪郭をぼやかしていく。はっきりとした困惑は、恐怖に似たかたちをしている。
異名の割にはやけにゆっくりとした彼の足取りに意図を感じながらも、いい言い訳を思いつけないままあなたは歩いた。
彼の無垢そうな笑顔がどこかへ行って、その代わりに恐ろしい表情がやってくるような可能性を心のどこかで肯定してしまっていたから。
教えてもいないあなたの下校ルートをまっすぐに辿る途中、ふいに彼が声をあげた。
「あっ、そや」
明るい声だ。
「あなたさん。朝にさあ」
「うん」
「朝に白石といっしょに学校来てたやん。ほら、こないして手繋いで……」
同一化を止められない侵食が、その存在を再確認させるようにあなたの手を強く握る。
最早ふやけかかっている手同士のつながりはより固くなってしまった。
それから、雨が雪になるような温度で謙也が目を細める。
「ぇ、え、ああ……」
「かっこ悪いんやけど、俺めっちゃ……モヤモヤして、さ。ヤキモチやいてもうて……せやからあなたさんと帰りたいなって思って誘ってん」
もうあいまいな返事はできない。
足を止めて告白のように吐いた謙也にそう思いつつも、あなたの言葉は喉につかえて重い堰になっていく。
ふたりの間に漂う空白を辛くも埋める雨音。それでも決して流れない彼の感情がただ鎮座している。
「……ええ、と……」
「うん。まあ、……っあなたさんのことめっちゃ好きやねん」
「え」
「せやけど、すぐ返事ほしいってわけやないから。白石もおるし……知っといてほしかっただけっていうかさ、あんま気にせんでええし……あ」
視線の先には、白石が立っていた。
「あなたさん。遅かったやんか……ああ、だいぶ降っとるもんな。大丈夫?濡れてへんかな?」
傘もささず雨宿りもせず、街灯の下で待っていたようだった。
一歩をあなたのほうへ踏み出すたび、靴から泡立つように濡れた音がする。
カバンやシャツや腕に巻いてある包帯までもがぐしゃぐしゃに乱れ、寒々しく雨水に透け、顔色は雨雲のように暗い。
それでも笑顔を浮かべて、あなたのことだけを待っていたのだ。
あなたは無意識に、謙也がつないでいた右手をほどいた。
しかし身体に残ったなまぬるい体温のアシンメトリーは彼女を不愉快な気分にさせる。
白石は一緒に傘に入っている謙也には目もくれぬまま、彼女のもとへかけよると目を合わせようと首をかしげる。
その拍子に、遠慮なく降り続く雨でぺしゃんこになった彼の髪から飛沫が飛んで、あなたの頬へ落ちた。
はたから見れば滑稽なほどずぶ濡れになっても、なんでもないような表情で心から彼女のことを心配しているのだ。
髪へ注ぎ、眉間で分かれ、睫毛に落ち、頬を滑り、顎先から滴る冷たい極光の行先は、すべてあなただった。
彼女の立つ歩道の端の排水溝へそのすべてが流れていく。無残なほど無制限に。昏い眼。白い肌が、寒さからかわずかに震えている。
「寒いしもう暗なってくるから、気いつけな。な?」
それなのに白石の声は優しかった。ひどくおそろしいほどに。
あなたは、街灯の生っぽい明度が煩わしい程に眩んでいた。
めまいを喰らうときのような胸の閉塞を覚えながら、その異様な状況に夢遊感を見出さずにはいられなかった。きょう悪夢で見たのは、こんな光景ではなかったか。
「あなたさん?どないしたん?」
黙って立ち尽くしているあなたに、今度は謙也が声をかける。
それから身を寄せると、頬を濡らした水滴を拭う。突然触れた関節の出っ張りに、彼女は肩をびくりと震わせた。
白石がその間を割るように声をかける。
「……ケンヤ。ちょっと遅かったんとちゃうか?」
「そうか?普通に歩いてきたんやけど」
「ほんでお前、勝手にあなたさんに触ったらあかんやろ。びっくりさせてまう」
「あっ、ほんまやな。あなたさん、すまん!」
ふたりは教室にいるときみたいに、平然と会話を始めている。
あなたは、白石と謙也が異常な存在なのではないかと疑ってしまった。このふたりはなにか自分に対して、どこかおかしい感情や衝動を持っているのではないかと。
ようやく。そう思った。
「せやけど白石、びちょびちょすぎやで。傘持っとらんかったん?」
「ううん、折り畳み持っとるけど。あなたさんに可哀想がられたいな思て」
「………」
「まあこれで風邪引いても、あなたさんと一緒に歩けた記念日の思い出になるからええねん」
「なんやねんそれ……あ?」
あなたの視界は常に男二人が占拠しているので気づけなかったが、白石の足元に誰かが倒れている。
ふと謙也がそれに気づき、声をあげた。
「おおおい!そいつ誰やねん」
死んではいないようだが倒れたまま動かない。
「誰って、あなたさんの手さわった男」
そういう、あなたの手を触ったらしい、男。
あなたは二人のすき間から覗くが、見覚えはない顔だった。
異性とふれあう機会などそうそうないし、手と手が偶然ぶつかってしまった程度のことでここまでしているのかもしれない。
その可能性に至るまでそう時間を要さなかったのは、既にふたりのことをきわめて異様に感じているからだ。
水たまりに半分埋まった顔をこっそりと注視すると、昨日帰り道に寄ったコンビニの店員に似ている気がする。
背筋が粟立った。
「……え……」
昨日はひとりで帰ったはずだった。
似ているというより、そっくり、そのまま、本人ではないかという確信が胸に迫ってきて、あなたは心臓をわななかせる。
とっさに視線をそらし、ごぼごぼと雨を吸いこむ排水溝を見た。
「……あー。そらあかんな、しゃあないか」
「そう、まあ、しゃあない、しゃあない……あ、あなたさんは見んでええよ」
あなたがいよいよ絶句する。
同調しているらしいふたりは、さっきよりもさらに距離を詰めて視界を埋めようとしている。
ふたりに挟まれると彼女は、この世のどこにも自分を助けてくれる人がいないかのように錯覚してしまいそうになっていた。
指先が音も立てずに冷えていき、声も出せずにうつむいて、ざあざあと泣いていた雨音がいつからか消え、あなた自身の呼吸の音だけが響いている。
世界にひとりのようだ。
そのほうがよかったのに。と、あなたはありえない妄想を脳内だけで自嘲した。
「やっぱあなたさん元気ないなあ」
「さっきケンヤに好きって言われたん嫌やった?」
「なんでやねん!」
白石があなたの視界に映ろうと、躊躇わず地面に膝をついて両手をにぎった。
「ぅわっ」
彼の幽霊のような手は金属のごとく冷え切っていて、驚いて振り払おうとするあなたの体温を一瞬で奪う。
それでもなお、濡れた手は彼女を放そうとせず、逆に力をこめた。
意識をも奪う毒のような浸入が、あくまでも甘やかに執り行われようとしている。
「ついでみたいで嫌やけど」
「………」
「俺もあなたさんのこと、ずっと前から好きやから。たぶん、誰よりも前から」
「……。」
「気づかんかったかもしれんけど。な。ほら、やっと今日、なかよしになれたって思ったから……めっちゃうれしかった」
「……わ」
私はそう思わないと言おうと、意図しないうちに口を開く。
すると、それを察して黙らせるかのように白石が彼女の冷えた指先にくちづけた。
「ひっ」
「あ!おい」
朝、誰にも見せないで自分の手にしたときと同じく、その表情には街灯のあかりと恍惚と純情と欲望とがごちゃ混ぜに濡れながらまじりあっていた。
勿論彼はくちびるまで冷え切っていて、それだけが原因というわけでもなかったが、あなたはまた短い悲鳴を上げる。絵本に出てくる王子様とお姫様のような姿勢で、ふたりは現実という渦に飲み込まれていく。
彼はわざと音が鳴るように口を離した。
「……はは」
世界のなかで唯一あなたの反射だけを許す黒目が、まっすぐに歪に彼女を刺す。笑っているようで笑っていない、ただ視線がどこか、交わらない。
「なにやってんねん!勝手に触ったあかん言うたんはおまえやろ!」
「あー、そうやった。すまんすまん」
謙也が傘を放り投げそうなほどの剣幕で白石に迫るが、当の本人は責められているのを気にも留めていない様子だ。男はゆっくりと立ち上がると、「ほな、帰ろか」と言い再三彼女の手を握った。
負けじと謙也も左手をかっさらうと、思い出したように傘をあなたのほうに大きく傾け、さらにブレザーを脱いでその肩へかけてやった。
冷たく濡れた白石に触れられてしまったあなたの身体を気遣う行為だったが、その動作には多分に嫉妬の感情が含まれている。
「ご、ごめん……なさい」
「え?」
「なにが?」
あなたはふたり分の視線に怯えながら、指を開いてふたりの手を拒んだ。
「二人とは、その……二人のことを、あまり知らない……し、二人に同時に言われても、こんな、手とか、繋がれても」
もちろん理由はたくさんあった。二人同時に言われたからでも、手を繋がれたからでもない、どこか心の奥の暗いところから漏れ出ているような感情の機微が怖いからで、気持ちの悪くなるような欲望が見え隠れしているからで、言語化が難しいような恐怖を感じているからで………
付き合えない。付き合えません。私は好きではありません。もうやめてほしい。
と、心では何度も言った言葉がうまく形容できない淀みに邪魔されて出てこない。
「ほな毎日一緒に帰って、俺のこともっと知ってや」
謙也が朗々と提案した。
「登校も一緒にしよか。ほんで別に、俺はあなたさんが付き合ってくれるんやったら謙也と二股かけられとってもええわ」
「……うーーーーん。俺は多分めっちゃやきもちやくけど、まあ……あなたさんがええんやったらそれでもええかな」
「公認で二股、三人で付き合うんもおもろいんちゃうかな。どうやろ?あなたさん」
「で、も」
「俺らは全然構わんから」
「な、あなたさん」
「好き」
ああこの日が日々になる。
この非日常が日常になってしまうのだと、彼女は悟った。
きっとこの先どうがんばっても、嫉妬や情欲や独占や畏怖や接触や監視や恋慕や不純や偶然や告白や眩暈や運命や打算や寵愛や後悔や困惑や沈黙や累卵や景色や歩道や信号や教室や感嘆や思考や生活のすべてが、白石と謙也によって壊されて、そして作り替えられていくのだ。
倒れている男を見る。さっきキスされた指先を見る。さっきかけられたブレザーを見る。
「…………わか、り、ました」
「わあ!ホンマ?おおきに!」
「ほんならあなたさん、今後ともよろしく」
「あ、俺のことは謙也って呼び捨てしてもろてええから」
「俺のこともこれからは下の名前で呼んで。な?」
「………うん」
「あなたさん、………さんはちょっと他人行儀か。ちゃん付けしてもええかな?」
「……うん」
ふたりが階段をのぼる足取りが軽すぎること。
のぼっているつもりでいても、その階段は真っ逆さまに下へ向かっているだろうこと。
あなたは目を合わせられない。
「あなたちゃん、ほな、一緒に帰ろか」
「ああっ、おい。おまえホンマずるいで!俺とも繋いでや」
そうするのが当たり前みたいに、ふたりは再び手を握る。
両手を塞がれたあなたは拒まない。拒めない。あなたの倫理の外にいるふたりが、それを拒ませないのだ。
世界には三人分の呼吸。恋をする二人分の心臓。
死にかけた夕映えが街を照らすことなく落ちて、手肌にふれる違和感を拭えることはなく、黒雲から降る雨が止むこともなく、今朝の快晴がなかったように思えるほどの泥沼だ。
水たまりに溺れた道路が濁る17時21分。空白。
通学路の腐乱臭。重圧。執着。
彼女にむけて、冗談っぽく白石と謙也がほほ笑む。
両手を侵犯す冷たいふたりが静かに熱をあげる。
そして、好きとささやく。
それだけが何よりも現実で、何よりも絶望だった。