テニスの王子様
おなまえ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
最近、急に寒くなってきて、今日なんかはくもり空がぐんと近くに感じる。昼休みを迎えて教室がにぎわってはいても、どことなく空気がよどんでいる気がする。
いつもの窓際で昼を軽く食べてからは、運動場のまるいトラックをなぞるように無心で外を眺めていた。
『白石くんとは、……付き合え、ないよ』
あなたさんの声が鮮明に、五線譜に記された音を演奏するみたいによみがえる。それは授業中に、寝る前に、いまでも、ずっと、いくら殺しても頭のなかで息を吹き返しつづけている。
あなたさんのこと、ずっと好きやった。と、自分が放ったであろう言葉は、いくらそうしようとしても思い出せない。あなたさんにそう返されてから、自分が何と言ったのかもわからない。
予鈴が鳴った、五時間目は数学。
ぞろぞろと席に着くクラスメイトと、ぱらぱらと地面をたたき始めた雨を見る俺を、もうひとりの俺が未練と俯瞰を携えて監視している。
まだ互いの制服が半袖のころ、とはいっても最近。偶然、いや奇跡が教室にふたりきりを作り出して、けれども俺は日誌を、彼女は課題を、それぞれ無言を保ったまま進めていた。
俺とあなたさんはクラスメイトで、でもそれ以上でも以下でもなかった。会話も2回ほど、目があったのは0回、俺はそのすべてを記憶して、そして落胆していた。
俺は名前欄ひとつぽっちを残して完璧に日誌を仕上げ、なにか他の作業ができないかと、さも勤勉そうな表情を浮かべて机に向かい、そのまま30分ほどを無駄に過ごした。
その間もあなたさんが俺の下心になど気づくはずもなく、テキストをめくってはノートに何やら書き込んで、息をついている。
俺が席を立つ音が、つんざくようにうるさく響いた。
「………それ、塾の宿題?」
「うん」
俺は手汗を握り隠しながら、あなたさんにつぶやくように話しかける。俺の席があなたさんより前のほうでよかった、うしろなら、そのまま帰っても気づかれなかっただろうから。
「数学やんな?めっちゃ難しそう。すごいなあ」
「そうそう、すごい出されてさ…授業中だけじゃできなくて」
「えー、内職とかするんや」
「あー……自白しちゃった。めっちゃするよ」
困ったように笑うあなたさんと目が合ったのは一回目で、心臓が止まる思いがしたかと思えばひと瞬きあと、あほみたいにけたたましく頭にまで鳴り響き始める。
あなたさん、意外と、優等生ってわけでもないんやな。
まあ俺も内職ぐらいするけど、そっか、俺、あなたさんのことあんま知らんねんなあ。
あなたさんが俺のことを、なにも知らないのと同じ。
……
「すまんけど、あなたさん俺と帰るから」
放課後、なにかの病の発作のように俺の口から飛び出た言葉が、あなたさんを驚きの表情へと変貌させた。しかしその対象としては俺自身も例外ではなく、あなたさんだけが存在する俺の無意識下でつくられたシチュエーションみたいに都合のいい、これがただの夢遊だったなら、俺はまさしく恋の病の重病人なんだと思う。
「え、何、白石、あなたと?」
名前も知らない彼女のおともだちが、引いたような興奮したような顔をして俺とあなたさんの顔を交互に見る。
当のあなたさんも、まだかわいく口をぽかんと開け、俺を見ていた。あんなに待ち望んでいた視線が、こんなに容易に注がれている。
「うん。きょうは約束しとってん、前から」
な?あなたさん。
俺たちをしつこく学校に引き留めていた雨脚は、言葉に呼応するようにぴたりとその侵略を止めた。あなたさんと正門まで歩いて、濁ったかなしみみたいな泥水や、取り残された砂粒がずるずると、排水溝に引きずられていくのを横目で見ながら、俺はさっきからガンガンと痛むこめかみをわずかに押さえた。
「なんかえらい嘘ついてもうてごめんな」
「う、ううん。いいけど」
「ほんま?よかった。……そやあなたさん、せっかく部活もなしで帰れるんやからさ、いっしょに寄り道していく?」
俺の白々しさに満ちた声色が、『いっしょに』のところで毒っぽくて恥知らずな執着を露呈させる。昼休み終わりのチャイムで死なせたはずのもうひとりの俺がそうさせる。のだと思う。
「いや。きょうは、」
「塾?」
「うん、そう、塾があるから」
「そっか」
俺はそれが嘘であることなどとっくに知っている。
歩道橋へのぼる階段を一段一段あがっていると、自分がいまどこにいて何をするために足をあげる所作を行っているのかわからなくなって、躓きそうになる。
それでも俺が嘘へ導いたのは、このまま逃がさなかったらあなたさんのことをどうしてしまうだろうと怖くなったからだった。
ながい歩道橋を渡って、車通りの少ない道へ入る。昔よりちいさくなった滑り台とか、風もないのにゆれるブランコとかを眺めながら、せまい公園を横切る。俺たちのまわりには、エンジン音を最後に、誰もいなくなった。
俺は足を止める。あのときの記憶を半ば思い出し始めていた。
「……なんでもええけど、きみ、のこと、取られたないねん、誰にも」
それはきみの好きなひとでも、友だちでも、家族でも、誰でも、なんでも。きみの心を搦めとってしまう可能性があるものぜんぶ。
あなたさんの黒目がちらちらと、水滴が光を反射するように不規則に、俺の背景を見はじめた。
「俺……ずっとさ、ずっとあなたさんのこと、めっちゃ好きで………白石くんとは付き合えないよ、って言われても、諦められへんくて、好きで……ほんまに苦しいぐらい、……やから」
これまで寝る前に考えていたようなことが、そのまま口から流れ落ちる。
あなたさんはやさしい子やから、俺から逃げ出そうとはしない。それをわかっているから、わざわざ口に出して引き留めるような真似はしなかった。これをすることがあなたさんにとって、迷惑や重圧や邪魔になることはわかっていた。
言葉終わりの息継ぎが終わったとき、あなたさんは案の定、俯いて困ったように何か考えていた。
「案の定」と思ったのは、たった今あの日の顛末を思い出したからだ。
つまり、あなたさんの所作、視線はあの日と同じ、で、俺を好きになることはないのだと思い出した。
なんで今。
「俺と付き合うてくれへんかな」
頭がずきずき痛んで、映画みたくあなたさんの向こう側の空から雲が割れていく。
晴れるなと祈る片隅と、あなたさんには晴天が似合うんやろうなと考える片隅と、まあ、そう、俺はかなり恋に狂うタイプだということ。
「ご、めん、白石くんとは……その、友だちでいたい、というかさ、」
ああ、この子は助かりたがっている。この状況から。目を背けた先には俺しかいないのに。
「ちゃんとこっち見て。」
あなたさんの身長に合わせてかがむと、いまさらになって雨上がりの湿度とどっちつかずな気温が不快な気がした。
あなたさんの目玉の中にいる俺がぼやけながら笑って、泣いて、知らない表情をする。恋をしているような表情。彼女はもうおびえたように身体をちぢこめて、俺の話が始まり、そして終わるのをまだかまだかと待つだけだった。
「あなたさんは俺のこと、いや? ……嫌いなんかな?」
「ぁっ、え、きらい、じゃ、ないよ」
「あーーー………そうなんや、よかった。死んでまうところやった。ハハ」
「……そっ、か……あは……」
そんときはあなたさんもいっしょに、ここから飛んでくれるやんな?とは言わずに、俺は意図的にやわらかく目を細めた。
車が一台、ぶうん、と唸りながら通り過ぎて、つめたそうに灰色をたたえた水たまりが、ばしゃんと俺のズボンに降りかかった。
あなたさんがつられたようにぎこちなく笑うと、俺のぬれた目玉にその顔がうつる。俺の視界にはあなたさん以外のだれもいない。
それでようやくいっしょになったような気が、俺の身体が完結したような気がした。うそ、そんな気だけがして『そうやった』とあなたさんの不要なまでのやさしさを思い出すと、俺の頭は急速に外気にあてられて、蒸すみたいにして冷えていった。
「……ごめんな、急に変なこと言うて。びっくりしたやんな」
俺が他のみんなにするような軽薄な笑みに、一転して希望でも目にしたかのように安心の表情を浮かべるあなたさんのことが、俺は憎いほど好きだった。
「うん、びっくりした、」
「……、ほな帰ろか、あなたさん家、こっちやんな?送るで」
俺は大人になれない。そう理由をつけて、あなたさんの困った顔をまた忘れて、あなたさんのいた教室にもどされる。あなたさんと俺のひそやかな下校はまだ終わらない。