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馬孫つづき
あなたが蓮の持ち霊となってから、初めての春。
例年通りであればあの桜の木の下で過ごしていた彼女だが、今年は違う。蓮、そして馬孫とともに中国へ渡るのだ。
ふたりはあの日からずっと、離れずそばにいる。馬孫はあなたの一挙手一投足に目を細め、長髪の艶めきに恋しつづけている。あなたも馬孫の優しさと強さに触れ、淡く、時には激しく胸をときめかせる日々だ。そんな中、蓮は予定通り中国へ舞い戻ることとなった。持ち霊であるふたりがそれに同行するのは当然の役目である。
中国への帰路の途中、蓮は「道家がどういう一族であるか知っておいたほうがいい」と、歴史の暗部である暗殺や、血に濡れた影の側面、家が背負うものまでもを、朗々と語った。
これまでほとんど人の悪意に触れることのない人生を送ってきたあなたには酷かもしれないと、馬孫は隣で静かに感じていた。しかし、彼女が話の途中で音をあげることはなかった。
あの日、桜の木でふたりが結ばれた日、あなたは明確な『人の悪意』に触れた。直接的すぎると言っていいほどの悪意と殺意に、全身を突き刺されたような寒気と、やるせなさと、自身への怒りと、情けなさと、形容しがたいぐちゃぐちゃに頭を乗っ取られて、壊れそうに哀しかった。それでも、馬孫や蓮、葉たちの言葉や行動で救われたのだ。
救われた者の宿命は、救うことだ。
「……道家の者の持ち霊になるということは、この家を、歴史を背負うということだ。覚悟はできているか」
蓮は真剣な面持ちであなたに問う。主と同じく真剣に、しかし黙って彼女の返答を待つ。
「覚悟なら、とうにできています」
いつになく芯のある声で、答える。
「蓮さまの持ち霊となり、馬孫さまとともにいることを選んだときから。けしてお二方のおそばを離れないと心に決めました」
「私の力が誰かのお役に立つのなら、……恐れ多くも、誰かを救うことにつながるのなら、そこになんの恐れも迷いもありません」
凛とした視線は、言葉は、まっすぐすぎるほどに蓮を貫いた。どこからともなく花びらをまとった風が吹いた気がして、一瞬あっけにとられていた彼ははっとして返す。
「……試すような真似をしてすまなかったな」
「と、とんでもありません」
蓮はあなたに少し頭を下げると、ふっ、と笑う。その笑顔は不敵でありながら、とても満足そうだった。
「それでこそ俺の持ち霊だ。そう思わないか、馬孫?」
「ふ。その通りです」
目線を向けられた馬孫も微笑んで、肯定を返す。満ち足りたように笑うふたりに、あなたは思わず照れて目を伏せてしまった。
「やはり俺の目に狂いはなかったな」
そして、長い旅路が終わる。
あなたは中国の雄大な山々を見る。広い空から直接注がれたような、清廉な空気を吸う。長く続いた雨を押しのけ、不思議なほどよく晴れたその日は、絶好の里帰り日和といえた。
悠久にも思えるほど長く過ごした月日の中で、初めて触れる異国の風は意外と甘くやわらいでいる。ささやかに吹いた春風で、あの日馬孫が彼女の髪にさした八重桜の生花が散らずに揺れる。
蓮の実家の目の前まで来て深呼吸をすると、触れ慣れているようで少し違う春の匂いに、わずかながら安堵する。ひどく緊張していたあなたの表情はほぐれた。
いよいよ道家の門が開かれる。
大げさなほど豪奢な玄関を過ぎ、悠々と歩いていく蓮の後ろをついていく。馬孫もあなたを先導するように、なるべく緊張しないようにと、いつも以上に寄りそっていた。
そしてたどり着いた大広間、すでに道家の人々は集まっていた。全員が一家の関係者と思えないほど醸される緊張感に、先ほどの深呼吸や馬孫の優しさによって緩んだと思われたあなたの重圧の糸がふたたび張りつめ始めた。
蓮が、堂々とした声で日本での活動を報告する。その間、道家の人々からの視線はほとんど蓮の後ろ、すなわち新たな持ち霊であるあなたへ注がれていた。彼女は居心地の悪さを感じながらもそれを表情へ出すことはなく、いつも通りにおっとりと微笑むこと、口角をあげておくことを意識した。
「ご苦労」
蓮の父・道円は、ゆったりと蓮へ労いの言葉をかけた。それから、蓮の返答を待たず口を開く。
「それで、新たな持ち霊についてだが」
あなたは内心怯えてすらいたが、隣についている馬孫が頼もしい視線を送ってくれていること、そして自分が道家に身を捧げると覚悟を決めたことを胸にぎゅっと抱いたような気持ちで、毅然と背筋を伸ばす。
「ああ、霊力が高くて使えると思ったからな」
蓮が変わらぬ表情でそう答える。先ほどからあなたの高く清らかな霊力を感じ取っていた一同は頷き、「蓮がそれでいいのなら」と納得した。
「馬孫とともに、しっかり蓮に仕えるように」
そう円から言葉をかけられたあなたは「はい」と返し、深々と頭を下げた。
実はあなたと同じく緊張していた馬孫は、彼女の振る舞いにほっと胸をなでおろしながら彼女の名を呼ぶ。その愛おし気な声音は、およそ道家で発されたことのないものだ。
「あなた」
愛する者に声をかけられ、あなたはようやく緊張から解放されたように眉を下げて隣を見やる。
「よく頑張ったな」
「い、いえ……ありがとうございます」
持ち霊同士であるというにはいささか温度にあふれたその空気に、控えめに笑むあなたを見つめるその慕情の視線に、道家の人々はなんとなく関係を察した。しかし何も言わず(このふたりに口を出すことなどできないで、と言ったほうがいいだろう)、ただ温かくふたりを見守った。
その後、蓮はすぐにあなたの位牌を用意させた。
あなたはどんなものかとどきどきしながらそれを待っていたが、運ばれてきたそれに目を丸くする。
「り、立派すぎ……ませんか?」
まぶしいほど金色に光り輝き、宝物のように扱われているのだ。どれほどわずかな光もぴかぴかと反射させているそれに腰が引けながらも、あなたは言ってしまった。そのあとで、「蓮さまに異を唱えたことになってしまうかな」と緊張を募らせながら返答を待つ。
「道家の、この道蓮の持ち霊なんだぞ。立派すぎるのでいい」
すかさず蓮が胸を張ってそう宣言する。あなたは蓮のその不遜ともいえるほど尊大な姿勢に感服して心強い言葉を胸に刻み、その光に圧倒されながらも、ほとんど押し切られる形で自身の位牌をそれに選んだ。
そんなやり取りの中、蓮の姉・潤が彼女へと距離を縮めた。
「ねえ。歳はいくつ?」
背後からかけられた声に驚き、振り向く所作にすら品が宿っている。指先をきちんとそろえて相手に向き合う彼女の姿勢に、潤は内心で感心した。
「享年は十六です」
「あら。私より年下なのね……かわいい妹ができたみたいで嬉しいわ」
「ふふ。ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
潤の返答に、あなたは口元を隠してはにかむように笑う。単純に、彼女の言葉と笑顔が「道家にようこそ」と伝えてくれているような気がして、心から嬉しくなったのだ。
「うん。よろしくね」
潤はそう冷静に返しながらも、「普段はきっちりして上品だけど、笑うと年相応に幼く見えるわね」と思い、無意識のうちにあなたの頭をぽんぽんと撫でてしまった。
・・・
そして、あなたの中国での日々が始まった。
道家での役割は、あくまで蓮の身の回りの世話である。
戦闘に駆り出されること自体少ないうえに、馬孫とともに憑依合体やオーバーソウルを行うときには危険を被らないため、離れたところにいるよう蓮から指示を受けている。
そんなあなたもオーバーソウルを行うことはできる。しかし、なかなか感覚に慣れることができないでいた。元は善良なただの地縛霊であったので、戦闘に巻き込まれた経験すらもなかったのだ。それでも蓮は「道家の持ち霊ならばこの感覚に慣れろ」と伝えた。
桜の花びらが舞う突風とともに蓮の背と同じくらいに変化する鉄扇。それは幽玄、荘厳にして屈強だ。それと同時に、桜の甘い残り香を主にまとわせる。しかし戦いの後、道家に帰ると潤に「女の子と遊んできたの?珍しい~」とからかわれるほどに残る花の香りに、蓮はコントロールを覚えてほしいと心の底から願ってやまないのであった。
昼間は蓮に付き従うことが多いが、「馬孫だけを連れていく」と言って出かけることもあるため、あなたはその時間を活用して道家の人々に中国の文化についての質問をしたり学んだりと交流を深めていった。だんだんと緊張がほどけ笑顔の増えたあなたに、潤は安堵してまた頭を撫でる。いつしか本当の姉妹のように、一緒に話したり遊びに行ったりするようにもなった。
そして夜には蓮が就寝したのを馬孫とともに見届けてから、ふたりで穏やかに過ごすのが日課になっていった。
かつて日本であなたがいたあの丘に似た、しかし桜の香りは漂ってこない、晴れた夜空の下で寄り添うようにふたりはいる。風の音を埋める語らいがなくとも、なんの危険もなくふたりで過ごすことのできる今を、何より大切に感じていた。
しかし、ふと静寂を縫って馬孫が切り出した。
「……あなたは強いな」
「い、いえ私など!……馬孫さまがそう言ってくださるのは、嬉しく思いますが……まだ満足に戦うこともできなくて」
あなたは男の意外な言葉に慌てて、そう返答する。
「ああ、戦いのことはいい。私が言いたかったのは、慣れない土地でも重圧に負けず、道家の一員であろうと努力している姿が……魅力的だということだ」
そう誉め言葉をぽつぽつと告げる馬孫は、自身が照れていることを誤魔化すようにあなたから視線を外した。
「えっ、……あ、ありがとうございます……」
それにつられるようにして、彼女も頬を赤く染めてしまう。夜風が早く頬を冷ましてくれないかと願うほどに、ふたりの間には熱い雰囲気が立ち込めていた。
「そ、それで。それは素晴らしいと思うのだが、その……無理をしていないか」
馬孫が、切り替えるようにしてそう投げかける。
あなたたちが中国へ渡ってから、数日。初めて道家へ足を踏み入れたときよりはずっと明るい表情で過ごしている彼女に安心する一方、初めて訪れた土地で慣れない環境や文化に驚き、長い間現世と隔絶されてきたあなたが人と交流を重ねているこの状況に、無意識のうちに疲労をためているのではないかと、馬孫は感じていたのだ。
それに、あなたは人に頼ることを得意としていない。桜の木の一件でそれを知っている馬孫は、このまま放っておくわけにはいかないと、この話を切り出すことを昨日から決めていた。
「無理していません!すごく優しくしていただいて、毎日楽しく過ごせています」
「それならいいが……できれば、」
そこで言葉を止めた馬孫に、彼女は少し驚きながらその続きを待った。常に武人らしくはっきりとした物言いをする男にしては、言葉に口ごもることは珍しかった。
「できれば他者ではなく、私を頼ってほしい。あなたはもっと我儘を言って、甘えていい」
独占欲のようなその気持ちは女々しいかと、馬孫は少しの間言葉を選んでいた。しかしごまかしてもしょうがないかと、諦めて吐き出すようにあなたへとまっすぐ声をかけた。
「わがまま……甘える……」
「ああ。なんでもいい。私がなんでも叶える」
頼もしい馬孫の声に安堵するものの、あなたの胸には欲望というものが希薄だった。中国の文化を知りたいと思う好奇心や道家の人々、潤ともっと仲良くなりたいと願う気持ちも本心からのものだったので、どのようにわがままを言えばいいかわからなかったのだ。
「ううん……ううーん」
「………」
「うーん……手、を……握ってほしい、で、っ」
あなたがそう言い切らないうちに、馬孫の身体は動いていた。動いたというよりはむしろ恋情に突き動かされるようにして、ぎゅっと指を絡める。
「ん、わ……えと、ありがとうございます……」
「いくらでも、いつまででもこうしていよう」
あなたの望むことなら文字通りなんでも叶えてやるという気持ちの馬孫だったが、謙遜と愛情が混じった彼女の言葉に、つい我を忘れてしまった。いつも控えめなあなたが珍しく接触を求めてきたのだ。彼女らしく健全なお願いではあったが彼の胸は愛おしさでいっぱいで、今にも口からとめどなく、愛の囁きがあふれ出てしまいそうだった。
「……だが、これからは何かあれば私を頼ること。どんなに小さなことでもだ」
『私を』の部分を強調しつつ、馬孫は耳元で優しく告げた。
「わ、わかりました。ありがとうございます……」
あなたが感謝を伝えたあとには、頬へと口付けを落とすのも忘れない。ちゅっ、と、可愛らしい水音が夜の静寂に響くのを恥ずかしく思いつつも、愛情深い馬孫にふたたび恋してしまうのだった。
そんなある日。
馬孫の愛馬である黒桃 の話を聞き興味を示したあなたは、実際に見せてもらうことになった。
「わ、わ……」
大きな馬孫を乗せても余裕のある巨躯。艶々と黒い、手入れの行き届いた毛並み。そこらの人間よりもきりっとした目つきはどこか知的に輝き、主人である馬孫をじっと見つめている。かつて戦場をともに駆け抜けたという馬孫の心が伝わるのだろうか、初対面であるあなたを前にしても落ち着きはらった態度だ。
その堂々とした立ち姿を見上げたあなたは感嘆の声をもらすが、しかし触れられる距離まで近づくことはできずにいた。霊となってからほとんど動物と触れあった経験がなく、ましてや馬など見るばかりで生前にも触れた覚えのない動物なので緊張を覚えていたのだ。
「あの、近づいても大丈夫なのでしょうか」
「ああ。触れてもいい」
にこやかな馬孫に反して、あなたは心配そうな表情でまた問う。
「嫌われて蹴られませんでしょうか……」
「軍馬なので少々気性が荒いが、私がそばにいるので大丈夫だ」
「はい……では、し、失礼いたします」
馬孫の言葉を信じ、ほとんど目をつむりながらも、わずかに震える手で黒桃の首あたりをそっと撫でてみる。
「こ、黒桃さま。こんばんは……あなたと申します」
人間にするのと変わらない丁寧な言葉遣いであいさつをしてから、こわごわと目を開く。すると、黒桃はなんでもないように瞼を閉じていた。暴れることも嘶くこともなく、静かに落ち着いている。
その光景に、馬孫は驚いていた。いくら主である自分がそばにいるからといって、他人が触れることをよしとしなかったこの愛馬が、初対面であるあなたをこうも簡単に受け入れるとは。自分以外に心を開く黒桃を初めて目にしたので、少しの間あっけにとられてしまった。
「わ。ふふ。ありがとうございます」
「もっと撫でろ」と言うようにしてあなたの手をぐいぐいとすり寄せる黒桃に、馬孫は思わず笑みがこぼしてしまう。そして、それにちゃんと応えようと両手で愛馬の頬を愛でる彼女にも、ますます愛おしさが込み上げてくる。愛馬が彼女に心を開いたのは何も主人がそばにいたからではない、彼女の心根を察知してのことだ。男はそう思い、またあなたに懐いた愛馬に共感の意を抱きつつ、「一緒に乗ってみないか」と提案をした。
「たっ、高いです」
「怖がることはない。落としたりはしないから」
馬孫が跨る鞍の前部分に横向きに腰かけたはいいものの、いつもよりあまりにも高い目線に驚きと恐怖を隠せないあなた。着物の裾が風にたなびくと、そのまま落ちてしまいそうに感じて身体を固くしてしまう。
「もっと気を楽にしていい」
「は、はい……」
彼の言葉に安心し力を少し抜くと、その大きく分厚い身体にもたれるような形になる。これで落馬の危険はないだろうと安堵すると同時に、単純に触れあっている感じがしてまた違う動悸が胸を打ち鳴らす。まるで抱きしめられているかのような距離感に、まだまだ初心なあなたはまたもや固まってしまった。
「……あっ、う……ち、近いです、ね……」
「フフ。近くて困ることはない」
あなたの反応に抱きしめてやりたくなる気持ちをこらえつつ彼女を支える腕へ力を入れるにとどめた馬孫は、そのまま黒桃を走らせた。
藍色の風が草原をざわざわと鳴らす。世界に誰もいないかと思われるほど、ただ自然だけがささやく壮大な中国の夜。散る花びらを追い越して、月を追い越して、なお加速していく。
そのあまりの速さにあなたが子どものように驚嘆の声をあげると、馬孫はなぜか楽しくなって微笑んだ。長くふわふわとなびくあなたの黒髪の残像をすべて受け止めるようにしっかりと彼女の身体を支えながら、ぐんぐんと風になっていく黒桃に身を委ね、男はこの至上の時を甘受した。
それからというもの、ふたりは夜になると黒桃に乗り、道家の周辺を駆けるようになった。
春めいてさわやかに緩む息吹たちを、まだ少し冷たい風とともに見つけては追い越す。大きな樹やただ広く平坦な草原、ぽつぽつと蕾む白い花、なんでもなく平穏な景色にふたりは夢のような幸せを感じていた。
乗馬にもずいぶん慣れ、黒桃ともすっかり仲良しになったあなたは、力強く響く蹄の音にのせるようにして馬孫と雑談をした。彼女の声は風に乗って遊ぶ花びらのように馬孫に届いたため、馬上であっても不思議と聞き逃すことはない。
黒桃のほかに誰も聞くものはいない、たわいもない話にふたりとも胸を高鳴らせる。どんなに些細なことであっても、ふたりで秘密のように共有してしまえば、抱きしめて守りたくなる宝物になるのだ。互いに知っていることが増えて、互いをもっと好きになっていく。
それからも穏やかな日々を過ごし、本格的な春の訪れを感じ始めたある日。
道家の所有する土地で花見が開催されることになった。蓮は当初乗り気ではなかったが、新たな持ち霊の歓迎会でもあると潤から聞かされたので渋々参加することとなった。
よく晴れて、ずっと向こうの山まですっきりと見渡せるほどの広大な自然の中、空の青と相反する色彩が融けるようにして開いていた。
桃の花だ。数え切れないほどたくさんの木々から蕾たちが一斉に開花して、天を向いて陽光を歓んでいる。ふわふわとしたその輪郭は、日本の桜に似ているようで曖昧で、とても可愛らしい。
軽い食事や酒にも手を付けながら、道家の人々はわいわいと楽しそうにはしゃいでいる。厳格な家柄のせいだろうか、花見というちょっとした催しにもみんなが嬉しそうな表情を浮かべているようすだ。
そんな光景に微笑みながら、ぼんやりと花を眺める。あなたは主である蓮から「自由に過ごしていい」とのお達しをもらい、馬孫とともに少し遠くを散策しては足を止め、青空と桃色のふんわりとした境界線に目を細めていた。
「きれい……きれいですね」
あなたはかつて日本のあの地で、阿弥陀丸とともに馬孫から聞いたことを思い出す。桜もきれいだが中国に咲く桃の花も負けないくらい美しいと。あの言葉に間違いなく、可愛らしい桃の色が空を染めんばかりに咲き誇る景色は圧巻だ。
「美しいな」
「はい……本当に」
「あなたはいつも美しい」
「え、っ?」
ふと馬孫が呟くように投げた言葉に、あなたはかっと顔を赤らめる。男の視線は桃ではなく、隣に立つ恋人に向けられていた。
「いつかの花見のとき、あなたを美しいと言えなかった。……あなたを愛してはいけないと思っていたから」
出会ってまだそれほど時が経っていなかったあの時から、あなたのことを愛していた。ただその感情をおさえつけては溢れそうになるのをこらえていた。巨躯に似合わない壊れそうな想いを胸の内に秘めて隠していた。
出会ったときから今まで、あなたはずっと美しい。馬孫はそう続けて呟くと、
「愛している」
と力強い声で言った。
そしてこれまで温めて育んできた愛おしさを解放するように彼女を抱き締める。強く、誰にも壊されないように、可愛い顔に浮かんでいるであろう笑みを閉じ込めておくように。誰が見ているわけでもないのに、妙にあなたを独り占めしていたい気分が止まなかった。
驚いたあなたが身動ぎをするが、しかし一瞬のち、愛の声に応えるようにして腕を回した。馬孫の体躯にはとても回り切らない腕に、小動物に覚えるような庇護欲がかきたてられて、男の胸は一段と締め付けられる。
「あなた」
そのまま小さな彼女の頬に手を添え、そっと口付けた。
遠い群衆と咲き乱れる桃に隠れるようにして、さわやかな春風のようにそっと。
あなたは、その優しい感触に目をつむる。程なくして少しかさついた馬孫の唇が、それに似合わないかわいい音をたてていなくなった。
しかし、離れたかと思うと、もう一度唇が降りてくる。
今度はそっとではなく、少し口を開いて、食べるようにして。ふたりの体格差では冗談抜きに捕食できてしまいそうで、馬孫は内心怖くなりながらも、先ほどよりも深い口付けを続けた。
突然の情熱的な接触にあなたは驚いて震えてしまった。それでも、馬孫に応えようと彼の服をつかんで背伸びをし小さな息を浅く繰り返しつつ、懸命に口付けを受け入れる。
「っは、ん……」
花見の場には到底そぐわないほど、ふたりの間で湿った音が鳴る。ちゅ、ちゅむ、と、いかにもいやらしい水音があまりに頭の中にこだまするので、向こうの人々へ聞こえていないかと心配すらしてしまうほどだ。あなたがそうしてぷるぷると震えながら自身の唇と舌を受け入れてくれる姿を見ながら、また口で直接触れて感じ取りながら、馬孫はとめどない愛おしさに溺れてしまいそうだった。
たまらなくなって、あふれそうになっていた唾液をごくりと飲み、ようやく唇を放した。
このままでは抑えがきかなくなりそうだった。桃の花を背景に、かわいいあなたをめちゃくちゃに暴いてしまうところだった。馬孫は滾る想いをぐっとこらえ、真っ赤な顔で息を乱す彼女を寄りかからせ、その身体に手を添えて待った。
「は、はふ……ふう、」
「大丈夫か。突然すまなかった」
「だい、大丈夫です。すみませ……びっくり、してしまって」
あなたが思い返すみたいに薄い唇をそっとなぞるのを見て、馬孫はまたどうにかしてしまいたい衝動に駆られかけたが、今度も我慢することができた。霊力は優れていても体力はあまりないあなたであるので、また先ほどのように唐突に激しくしたらあまりに酷だ、と判断できるほどの理性は持ち合わせていた。
わずかに乱れてしまった彼女の髪を整え撫でてやりながら、馬孫はぽつりと呟くようにして言う。
「……私は本当に……幸せだ」
「はい。私もです……私も、愛しています。馬孫さま」
幾度交わしても伝わり切らないほどあたたかい愛の言葉に、ふたりは柔らかく微笑みを浮かべながら再び抱きしめあった。
離れたくなかった。離したくなかった。ただ磁石が強く引きあうように、蝶が花にとまるように、それは自然で当然のことだ。誰にも邪魔されたくない、このひとを誰にもやりたくない。そう刻むように思って、馬孫は腕にぎゅっと力をこめてしまった。
しばらくそうしていたが、ふいに彼が声をもらす。
「いつまでも……こうしていたいが、」
「は、い。そろそろ蓮さまが呼んでいるかもしれませんね……」
霊体であるので、飲食どころか生死すら忘れてずっと触れあってしまいそうだった。ひどく苦々しい表情を浮かべながら、衣擦れの音すらしないほどそっと、ゆっくりと、腕の力をゆるめる。
しかしそこで、そんな馬孫を引き留めるようにあなたが動いた。
男の大きな身体にぎゅっともたれるように身を寄せたのだ。馬孫は珍しく甘えてきた彼女に驚きながら、離れるのを止めた。
「もう少し、だけ、いたいです」
いっそずるいほど無意識な上目遣いに、男は唸りをあげそうになった。本能的にやわらかな唇の感触を欲してしまう。驚きと我慢で黙っている馬孫に、
「わがまま……でしょうか」
いつか交わした会話をなぞらえて、あなたがぽそりと、自信なさげにこぼした。わがままを言ってほしい、甘えてほしい。彼女にそう告げた以前の自身に感謝しながら、すぐさま馬孫は首を振ってみせる。
「いや。いい……ずっとこうしていよう」
先ほどよりもむしろ力のこもった抱擁が、あなたをふわりと包む。世界が終わるまでずっとこうしていたいと願った。なんの言葉もなくていい、ただ互いを離さんとする腕から何もかもが伝わっていた。
春を存分に含んだ風がふいに高く舞うと、向こうのほうでは桃の花がふわりと散って緑の大地へと遊びながら落ちていく。魅惑されたようにひらひら。雲もなくすっきりと青い空。
馬孫はあなたの小さな身体を抱きながら、自身に押しこめるように隠しながら、この時がどうか永遠でありますようにと祈る。呆れ顔の蓮が迎えに来るまで、あと五分。五分間の永遠を享受するふたりは、誰より生きるように互いの虜だった。
あなたが蓮の持ち霊となってから、初めての春。
例年通りであればあの桜の木の下で過ごしていた彼女だが、今年は違う。蓮、そして馬孫とともに中国へ渡るのだ。
ふたりはあの日からずっと、離れずそばにいる。馬孫はあなたの一挙手一投足に目を細め、長髪の艶めきに恋しつづけている。あなたも馬孫の優しさと強さに触れ、淡く、時には激しく胸をときめかせる日々だ。そんな中、蓮は予定通り中国へ舞い戻ることとなった。持ち霊であるふたりがそれに同行するのは当然の役目である。
中国への帰路の途中、蓮は「道家がどういう一族であるか知っておいたほうがいい」と、歴史の暗部である暗殺や、血に濡れた影の側面、家が背負うものまでもを、朗々と語った。
これまでほとんど人の悪意に触れることのない人生を送ってきたあなたには酷かもしれないと、馬孫は隣で静かに感じていた。しかし、彼女が話の途中で音をあげることはなかった。
あの日、桜の木でふたりが結ばれた日、あなたは明確な『人の悪意』に触れた。直接的すぎると言っていいほどの悪意と殺意に、全身を突き刺されたような寒気と、やるせなさと、自身への怒りと、情けなさと、形容しがたいぐちゃぐちゃに頭を乗っ取られて、壊れそうに哀しかった。それでも、馬孫や蓮、葉たちの言葉や行動で救われたのだ。
救われた者の宿命は、救うことだ。
「……道家の者の持ち霊になるということは、この家を、歴史を背負うということだ。覚悟はできているか」
蓮は真剣な面持ちであなたに問う。主と同じく真剣に、しかし黙って彼女の返答を待つ。
「覚悟なら、とうにできています」
いつになく芯のある声で、答える。
「蓮さまの持ち霊となり、馬孫さまとともにいることを選んだときから。けしてお二方のおそばを離れないと心に決めました」
「私の力が誰かのお役に立つのなら、……恐れ多くも、誰かを救うことにつながるのなら、そこになんの恐れも迷いもありません」
凛とした視線は、言葉は、まっすぐすぎるほどに蓮を貫いた。どこからともなく花びらをまとった風が吹いた気がして、一瞬あっけにとられていた彼ははっとして返す。
「……試すような真似をしてすまなかったな」
「と、とんでもありません」
蓮はあなたに少し頭を下げると、ふっ、と笑う。その笑顔は不敵でありながら、とても満足そうだった。
「それでこそ俺の持ち霊だ。そう思わないか、馬孫?」
「ふ。その通りです」
目線を向けられた馬孫も微笑んで、肯定を返す。満ち足りたように笑うふたりに、あなたは思わず照れて目を伏せてしまった。
「やはり俺の目に狂いはなかったな」
そして、長い旅路が終わる。
あなたは中国の雄大な山々を見る。広い空から直接注がれたような、清廉な空気を吸う。長く続いた雨を押しのけ、不思議なほどよく晴れたその日は、絶好の里帰り日和といえた。
悠久にも思えるほど長く過ごした月日の中で、初めて触れる異国の風は意外と甘くやわらいでいる。ささやかに吹いた春風で、あの日馬孫が彼女の髪にさした八重桜の生花が散らずに揺れる。
蓮の実家の目の前まで来て深呼吸をすると、触れ慣れているようで少し違う春の匂いに、わずかながら安堵する。ひどく緊張していたあなたの表情はほぐれた。
いよいよ道家の門が開かれる。
大げさなほど豪奢な玄関を過ぎ、悠々と歩いていく蓮の後ろをついていく。馬孫もあなたを先導するように、なるべく緊張しないようにと、いつも以上に寄りそっていた。
そしてたどり着いた大広間、すでに道家の人々は集まっていた。全員が一家の関係者と思えないほど醸される緊張感に、先ほどの深呼吸や馬孫の優しさによって緩んだと思われたあなたの重圧の糸がふたたび張りつめ始めた。
蓮が、堂々とした声で日本での活動を報告する。その間、道家の人々からの視線はほとんど蓮の後ろ、すなわち新たな持ち霊であるあなたへ注がれていた。彼女は居心地の悪さを感じながらもそれを表情へ出すことはなく、いつも通りにおっとりと微笑むこと、口角をあげておくことを意識した。
「ご苦労」
蓮の父・道円は、ゆったりと蓮へ労いの言葉をかけた。それから、蓮の返答を待たず口を開く。
「それで、新たな持ち霊についてだが」
あなたは内心怯えてすらいたが、隣についている馬孫が頼もしい視線を送ってくれていること、そして自分が道家に身を捧げると覚悟を決めたことを胸にぎゅっと抱いたような気持ちで、毅然と背筋を伸ばす。
「ああ、霊力が高くて使えると思ったからな」
蓮が変わらぬ表情でそう答える。先ほどからあなたの高く清らかな霊力を感じ取っていた一同は頷き、「蓮がそれでいいのなら」と納得した。
「馬孫とともに、しっかり蓮に仕えるように」
そう円から言葉をかけられたあなたは「はい」と返し、深々と頭を下げた。
実はあなたと同じく緊張していた馬孫は、彼女の振る舞いにほっと胸をなでおろしながら彼女の名を呼ぶ。その愛おし気な声音は、およそ道家で発されたことのないものだ。
「あなた」
愛する者に声をかけられ、あなたはようやく緊張から解放されたように眉を下げて隣を見やる。
「よく頑張ったな」
「い、いえ……ありがとうございます」
持ち霊同士であるというにはいささか温度にあふれたその空気に、控えめに笑むあなたを見つめるその慕情の視線に、道家の人々はなんとなく関係を察した。しかし何も言わず(このふたりに口を出すことなどできないで、と言ったほうがいいだろう)、ただ温かくふたりを見守った。
その後、蓮はすぐにあなたの位牌を用意させた。
あなたはどんなものかとどきどきしながらそれを待っていたが、運ばれてきたそれに目を丸くする。
「り、立派すぎ……ませんか?」
まぶしいほど金色に光り輝き、宝物のように扱われているのだ。どれほどわずかな光もぴかぴかと反射させているそれに腰が引けながらも、あなたは言ってしまった。そのあとで、「蓮さまに異を唱えたことになってしまうかな」と緊張を募らせながら返答を待つ。
「道家の、この道蓮の持ち霊なんだぞ。立派すぎるのでいい」
すかさず蓮が胸を張ってそう宣言する。あなたは蓮のその不遜ともいえるほど尊大な姿勢に感服して心強い言葉を胸に刻み、その光に圧倒されながらも、ほとんど押し切られる形で自身の位牌をそれに選んだ。
そんなやり取りの中、蓮の姉・潤が彼女へと距離を縮めた。
「ねえ。歳はいくつ?」
背後からかけられた声に驚き、振り向く所作にすら品が宿っている。指先をきちんとそろえて相手に向き合う彼女の姿勢に、潤は内心で感心した。
「享年は十六です」
「あら。私より年下なのね……かわいい妹ができたみたいで嬉しいわ」
「ふふ。ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
潤の返答に、あなたは口元を隠してはにかむように笑う。単純に、彼女の言葉と笑顔が「道家にようこそ」と伝えてくれているような気がして、心から嬉しくなったのだ。
「うん。よろしくね」
潤はそう冷静に返しながらも、「普段はきっちりして上品だけど、笑うと年相応に幼く見えるわね」と思い、無意識のうちにあなたの頭をぽんぽんと撫でてしまった。
・・・
そして、あなたの中国での日々が始まった。
道家での役割は、あくまで蓮の身の回りの世話である。
戦闘に駆り出されること自体少ないうえに、馬孫とともに憑依合体やオーバーソウルを行うときには危険を被らないため、離れたところにいるよう蓮から指示を受けている。
そんなあなたもオーバーソウルを行うことはできる。しかし、なかなか感覚に慣れることができないでいた。元は善良なただの地縛霊であったので、戦闘に巻き込まれた経験すらもなかったのだ。それでも蓮は「道家の持ち霊ならばこの感覚に慣れろ」と伝えた。
桜の花びらが舞う突風とともに蓮の背と同じくらいに変化する鉄扇。それは幽玄、荘厳にして屈強だ。それと同時に、桜の甘い残り香を主にまとわせる。しかし戦いの後、道家に帰ると潤に「女の子と遊んできたの?珍しい~」とからかわれるほどに残る花の香りに、蓮はコントロールを覚えてほしいと心の底から願ってやまないのであった。
昼間は蓮に付き従うことが多いが、「馬孫だけを連れていく」と言って出かけることもあるため、あなたはその時間を活用して道家の人々に中国の文化についての質問をしたり学んだりと交流を深めていった。だんだんと緊張がほどけ笑顔の増えたあなたに、潤は安堵してまた頭を撫でる。いつしか本当の姉妹のように、一緒に話したり遊びに行ったりするようにもなった。
そして夜には蓮が就寝したのを馬孫とともに見届けてから、ふたりで穏やかに過ごすのが日課になっていった。
かつて日本であなたがいたあの丘に似た、しかし桜の香りは漂ってこない、晴れた夜空の下で寄り添うようにふたりはいる。風の音を埋める語らいがなくとも、なんの危険もなくふたりで過ごすことのできる今を、何より大切に感じていた。
しかし、ふと静寂を縫って馬孫が切り出した。
「……あなたは強いな」
「い、いえ私など!……馬孫さまがそう言ってくださるのは、嬉しく思いますが……まだ満足に戦うこともできなくて」
あなたは男の意外な言葉に慌てて、そう返答する。
「ああ、戦いのことはいい。私が言いたかったのは、慣れない土地でも重圧に負けず、道家の一員であろうと努力している姿が……魅力的だということだ」
そう誉め言葉をぽつぽつと告げる馬孫は、自身が照れていることを誤魔化すようにあなたから視線を外した。
「えっ、……あ、ありがとうございます……」
それにつられるようにして、彼女も頬を赤く染めてしまう。夜風が早く頬を冷ましてくれないかと願うほどに、ふたりの間には熱い雰囲気が立ち込めていた。
「そ、それで。それは素晴らしいと思うのだが、その……無理をしていないか」
馬孫が、切り替えるようにしてそう投げかける。
あなたたちが中国へ渡ってから、数日。初めて道家へ足を踏み入れたときよりはずっと明るい表情で過ごしている彼女に安心する一方、初めて訪れた土地で慣れない環境や文化に驚き、長い間現世と隔絶されてきたあなたが人と交流を重ねているこの状況に、無意識のうちに疲労をためているのではないかと、馬孫は感じていたのだ。
それに、あなたは人に頼ることを得意としていない。桜の木の一件でそれを知っている馬孫は、このまま放っておくわけにはいかないと、この話を切り出すことを昨日から決めていた。
「無理していません!すごく優しくしていただいて、毎日楽しく過ごせています」
「それならいいが……できれば、」
そこで言葉を止めた馬孫に、彼女は少し驚きながらその続きを待った。常に武人らしくはっきりとした物言いをする男にしては、言葉に口ごもることは珍しかった。
「できれば他者ではなく、私を頼ってほしい。あなたはもっと我儘を言って、甘えていい」
独占欲のようなその気持ちは女々しいかと、馬孫は少しの間言葉を選んでいた。しかしごまかしてもしょうがないかと、諦めて吐き出すようにあなたへとまっすぐ声をかけた。
「わがまま……甘える……」
「ああ。なんでもいい。私がなんでも叶える」
頼もしい馬孫の声に安堵するものの、あなたの胸には欲望というものが希薄だった。中国の文化を知りたいと思う好奇心や道家の人々、潤ともっと仲良くなりたいと願う気持ちも本心からのものだったので、どのようにわがままを言えばいいかわからなかったのだ。
「ううん……ううーん」
「………」
「うーん……手、を……握ってほしい、で、っ」
あなたがそう言い切らないうちに、馬孫の身体は動いていた。動いたというよりはむしろ恋情に突き動かされるようにして、ぎゅっと指を絡める。
「ん、わ……えと、ありがとうございます……」
「いくらでも、いつまででもこうしていよう」
あなたの望むことなら文字通りなんでも叶えてやるという気持ちの馬孫だったが、謙遜と愛情が混じった彼女の言葉に、つい我を忘れてしまった。いつも控えめなあなたが珍しく接触を求めてきたのだ。彼女らしく健全なお願いではあったが彼の胸は愛おしさでいっぱいで、今にも口からとめどなく、愛の囁きがあふれ出てしまいそうだった。
「……だが、これからは何かあれば私を頼ること。どんなに小さなことでもだ」
『私を』の部分を強調しつつ、馬孫は耳元で優しく告げた。
「わ、わかりました。ありがとうございます……」
あなたが感謝を伝えたあとには、頬へと口付けを落とすのも忘れない。ちゅっ、と、可愛らしい水音が夜の静寂に響くのを恥ずかしく思いつつも、愛情深い馬孫にふたたび恋してしまうのだった。
そんなある日。
馬孫の愛馬である
「わ、わ……」
大きな馬孫を乗せても余裕のある巨躯。艶々と黒い、手入れの行き届いた毛並み。そこらの人間よりもきりっとした目つきはどこか知的に輝き、主人である馬孫をじっと見つめている。かつて戦場をともに駆け抜けたという馬孫の心が伝わるのだろうか、初対面であるあなたを前にしても落ち着きはらった態度だ。
その堂々とした立ち姿を見上げたあなたは感嘆の声をもらすが、しかし触れられる距離まで近づくことはできずにいた。霊となってからほとんど動物と触れあった経験がなく、ましてや馬など見るばかりで生前にも触れた覚えのない動物なので緊張を覚えていたのだ。
「あの、近づいても大丈夫なのでしょうか」
「ああ。触れてもいい」
にこやかな馬孫に反して、あなたは心配そうな表情でまた問う。
「嫌われて蹴られませんでしょうか……」
「軍馬なので少々気性が荒いが、私がそばにいるので大丈夫だ」
「はい……では、し、失礼いたします」
馬孫の言葉を信じ、ほとんど目をつむりながらも、わずかに震える手で黒桃の首あたりをそっと撫でてみる。
「こ、黒桃さま。こんばんは……あなたと申します」
人間にするのと変わらない丁寧な言葉遣いであいさつをしてから、こわごわと目を開く。すると、黒桃はなんでもないように瞼を閉じていた。暴れることも嘶くこともなく、静かに落ち着いている。
その光景に、馬孫は驚いていた。いくら主である自分がそばにいるからといって、他人が触れることをよしとしなかったこの愛馬が、初対面であるあなたをこうも簡単に受け入れるとは。自分以外に心を開く黒桃を初めて目にしたので、少しの間あっけにとられてしまった。
「わ。ふふ。ありがとうございます」
「もっと撫でろ」と言うようにしてあなたの手をぐいぐいとすり寄せる黒桃に、馬孫は思わず笑みがこぼしてしまう。そして、それにちゃんと応えようと両手で愛馬の頬を愛でる彼女にも、ますます愛おしさが込み上げてくる。愛馬が彼女に心を開いたのは何も主人がそばにいたからではない、彼女の心根を察知してのことだ。男はそう思い、またあなたに懐いた愛馬に共感の意を抱きつつ、「一緒に乗ってみないか」と提案をした。
「たっ、高いです」
「怖がることはない。落としたりはしないから」
馬孫が跨る鞍の前部分に横向きに腰かけたはいいものの、いつもよりあまりにも高い目線に驚きと恐怖を隠せないあなた。着物の裾が風にたなびくと、そのまま落ちてしまいそうに感じて身体を固くしてしまう。
「もっと気を楽にしていい」
「は、はい……」
彼の言葉に安心し力を少し抜くと、その大きく分厚い身体にもたれるような形になる。これで落馬の危険はないだろうと安堵すると同時に、単純に触れあっている感じがしてまた違う動悸が胸を打ち鳴らす。まるで抱きしめられているかのような距離感に、まだまだ初心なあなたはまたもや固まってしまった。
「……あっ、う……ち、近いです、ね……」
「フフ。近くて困ることはない」
あなたの反応に抱きしめてやりたくなる気持ちをこらえつつ彼女を支える腕へ力を入れるにとどめた馬孫は、そのまま黒桃を走らせた。
藍色の風が草原をざわざわと鳴らす。世界に誰もいないかと思われるほど、ただ自然だけがささやく壮大な中国の夜。散る花びらを追い越して、月を追い越して、なお加速していく。
そのあまりの速さにあなたが子どものように驚嘆の声をあげると、馬孫はなぜか楽しくなって微笑んだ。長くふわふわとなびくあなたの黒髪の残像をすべて受け止めるようにしっかりと彼女の身体を支えながら、ぐんぐんと風になっていく黒桃に身を委ね、男はこの至上の時を甘受した。
それからというもの、ふたりは夜になると黒桃に乗り、道家の周辺を駆けるようになった。
春めいてさわやかに緩む息吹たちを、まだ少し冷たい風とともに見つけては追い越す。大きな樹やただ広く平坦な草原、ぽつぽつと蕾む白い花、なんでもなく平穏な景色にふたりは夢のような幸せを感じていた。
乗馬にもずいぶん慣れ、黒桃ともすっかり仲良しになったあなたは、力強く響く蹄の音にのせるようにして馬孫と雑談をした。彼女の声は風に乗って遊ぶ花びらのように馬孫に届いたため、馬上であっても不思議と聞き逃すことはない。
黒桃のほかに誰も聞くものはいない、たわいもない話にふたりとも胸を高鳴らせる。どんなに些細なことであっても、ふたりで秘密のように共有してしまえば、抱きしめて守りたくなる宝物になるのだ。互いに知っていることが増えて、互いをもっと好きになっていく。
それからも穏やかな日々を過ごし、本格的な春の訪れを感じ始めたある日。
道家の所有する土地で花見が開催されることになった。蓮は当初乗り気ではなかったが、新たな持ち霊の歓迎会でもあると潤から聞かされたので渋々参加することとなった。
よく晴れて、ずっと向こうの山まですっきりと見渡せるほどの広大な自然の中、空の青と相反する色彩が融けるようにして開いていた。
桃の花だ。数え切れないほどたくさんの木々から蕾たちが一斉に開花して、天を向いて陽光を歓んでいる。ふわふわとしたその輪郭は、日本の桜に似ているようで曖昧で、とても可愛らしい。
軽い食事や酒にも手を付けながら、道家の人々はわいわいと楽しそうにはしゃいでいる。厳格な家柄のせいだろうか、花見というちょっとした催しにもみんなが嬉しそうな表情を浮かべているようすだ。
そんな光景に微笑みながら、ぼんやりと花を眺める。あなたは主である蓮から「自由に過ごしていい」とのお達しをもらい、馬孫とともに少し遠くを散策しては足を止め、青空と桃色のふんわりとした境界線に目を細めていた。
「きれい……きれいですね」
あなたはかつて日本のあの地で、阿弥陀丸とともに馬孫から聞いたことを思い出す。桜もきれいだが中国に咲く桃の花も負けないくらい美しいと。あの言葉に間違いなく、可愛らしい桃の色が空を染めんばかりに咲き誇る景色は圧巻だ。
「美しいな」
「はい……本当に」
「あなたはいつも美しい」
「え、っ?」
ふと馬孫が呟くように投げた言葉に、あなたはかっと顔を赤らめる。男の視線は桃ではなく、隣に立つ恋人に向けられていた。
「いつかの花見のとき、あなたを美しいと言えなかった。……あなたを愛してはいけないと思っていたから」
出会ってまだそれほど時が経っていなかったあの時から、あなたのことを愛していた。ただその感情をおさえつけては溢れそうになるのをこらえていた。巨躯に似合わない壊れそうな想いを胸の内に秘めて隠していた。
出会ったときから今まで、あなたはずっと美しい。馬孫はそう続けて呟くと、
「愛している」
と力強い声で言った。
そしてこれまで温めて育んできた愛おしさを解放するように彼女を抱き締める。強く、誰にも壊されないように、可愛い顔に浮かんでいるであろう笑みを閉じ込めておくように。誰が見ているわけでもないのに、妙にあなたを独り占めしていたい気分が止まなかった。
驚いたあなたが身動ぎをするが、しかし一瞬のち、愛の声に応えるようにして腕を回した。馬孫の体躯にはとても回り切らない腕に、小動物に覚えるような庇護欲がかきたてられて、男の胸は一段と締め付けられる。
「あなた」
そのまま小さな彼女の頬に手を添え、そっと口付けた。
遠い群衆と咲き乱れる桃に隠れるようにして、さわやかな春風のようにそっと。
あなたは、その優しい感触に目をつむる。程なくして少しかさついた馬孫の唇が、それに似合わないかわいい音をたてていなくなった。
しかし、離れたかと思うと、もう一度唇が降りてくる。
今度はそっとではなく、少し口を開いて、食べるようにして。ふたりの体格差では冗談抜きに捕食できてしまいそうで、馬孫は内心怖くなりながらも、先ほどよりも深い口付けを続けた。
突然の情熱的な接触にあなたは驚いて震えてしまった。それでも、馬孫に応えようと彼の服をつかんで背伸びをし小さな息を浅く繰り返しつつ、懸命に口付けを受け入れる。
「っは、ん……」
花見の場には到底そぐわないほど、ふたりの間で湿った音が鳴る。ちゅ、ちゅむ、と、いかにもいやらしい水音があまりに頭の中にこだまするので、向こうの人々へ聞こえていないかと心配すらしてしまうほどだ。あなたがそうしてぷるぷると震えながら自身の唇と舌を受け入れてくれる姿を見ながら、また口で直接触れて感じ取りながら、馬孫はとめどない愛おしさに溺れてしまいそうだった。
たまらなくなって、あふれそうになっていた唾液をごくりと飲み、ようやく唇を放した。
このままでは抑えがきかなくなりそうだった。桃の花を背景に、かわいいあなたをめちゃくちゃに暴いてしまうところだった。馬孫は滾る想いをぐっとこらえ、真っ赤な顔で息を乱す彼女を寄りかからせ、その身体に手を添えて待った。
「は、はふ……ふう、」
「大丈夫か。突然すまなかった」
「だい、大丈夫です。すみませ……びっくり、してしまって」
あなたが思い返すみたいに薄い唇をそっとなぞるのを見て、馬孫はまたどうにかしてしまいたい衝動に駆られかけたが、今度も我慢することができた。霊力は優れていても体力はあまりないあなたであるので、また先ほどのように唐突に激しくしたらあまりに酷だ、と判断できるほどの理性は持ち合わせていた。
わずかに乱れてしまった彼女の髪を整え撫でてやりながら、馬孫はぽつりと呟くようにして言う。
「……私は本当に……幸せだ」
「はい。私もです……私も、愛しています。馬孫さま」
幾度交わしても伝わり切らないほどあたたかい愛の言葉に、ふたりは柔らかく微笑みを浮かべながら再び抱きしめあった。
離れたくなかった。離したくなかった。ただ磁石が強く引きあうように、蝶が花にとまるように、それは自然で当然のことだ。誰にも邪魔されたくない、このひとを誰にもやりたくない。そう刻むように思って、馬孫は腕にぎゅっと力をこめてしまった。
しばらくそうしていたが、ふいに彼が声をもらす。
「いつまでも……こうしていたいが、」
「は、い。そろそろ蓮さまが呼んでいるかもしれませんね……」
霊体であるので、飲食どころか生死すら忘れてずっと触れあってしまいそうだった。ひどく苦々しい表情を浮かべながら、衣擦れの音すらしないほどそっと、ゆっくりと、腕の力をゆるめる。
しかしそこで、そんな馬孫を引き留めるようにあなたが動いた。
男の大きな身体にぎゅっともたれるように身を寄せたのだ。馬孫は珍しく甘えてきた彼女に驚きながら、離れるのを止めた。
「もう少し、だけ、いたいです」
いっそずるいほど無意識な上目遣いに、男は唸りをあげそうになった。本能的にやわらかな唇の感触を欲してしまう。驚きと我慢で黙っている馬孫に、
「わがまま……でしょうか」
いつか交わした会話をなぞらえて、あなたがぽそりと、自信なさげにこぼした。わがままを言ってほしい、甘えてほしい。彼女にそう告げた以前の自身に感謝しながら、すぐさま馬孫は首を振ってみせる。
「いや。いい……ずっとこうしていよう」
先ほどよりもむしろ力のこもった抱擁が、あなたをふわりと包む。世界が終わるまでずっとこうしていたいと願った。なんの言葉もなくていい、ただ互いを離さんとする腕から何もかもが伝わっていた。
春を存分に含んだ風がふいに高く舞うと、向こうのほうでは桃の花がふわりと散って緑の大地へと遊びながら落ちていく。魅惑されたようにひらひら。雲もなくすっきりと青い空。
馬孫はあなたの小さな身体を抱きながら、自身に押しこめるように隠しながら、この時がどうか永遠でありますようにと祈る。呆れ顔の蓮が迎えに来るまで、あと五分。五分間の永遠を享受するふたりは、誰より生きるように互いの虜だった。