そのほか
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そして馬孫は、霊園近く、ついにあの場所へ足を踏み入れた。
桜は、嘘のように抜けた青空に白い境界を引くようにして、きょうも咲き誇っている。風もないのに、遊ぶようにちらちらと花弁が舞い散って、地面の土色をまたひとつ、やさしく塗り替えていく。
幽玄な景色が、きょうに限ってはもの悲しい。霊体であるゆえに歩いても風を起こすことのない馬孫だが、彼の通ったあとには不思議と、花の絨毯がふんわりと浮かび上がっては、忘却するようにしてゆらゆら落ちた。
風が吹く。いつの日も何者に対してもあたたかく包み込む風は、合図だ。馬孫は、その面持ちを少し緊張させた。
「馬孫さま。こんにちは」
そして花びらの突風の真ん中から、あなたの声が、りんと鳴る鈴のように清らかに跳ねた。
「ああ。こんにちは……」
男もあいさつを返すが、どのように切り出せばいいかわからず押し黙ってしまう。
「お昼間にいらっしゃるのは、珍しいですね」
「そうかも、しれませんね」
小道をふたりで歩きつつも、陽気に似合わない深刻な声が落ちた。話を切り出すタイミングばかりを推し量っていたせいで、どことなく不愛想な声色を返してしまったことに馬孫は動揺してしまった。
するとあなたはふと、なにか思いついたかのように小走りで、どこかへ向かう。
馬孫はそれを追いかけた。追いかけたといっても、馬孫の圧倒的な体格では少し歩幅を広げただけであなたを追い越してしまうので、ただ変わらないペースでついていくに留めた。少ししたところで彼女が足を止める。そして馬孫も、彼女のとなりに立った。
「けさ咲いていたんです」
あなたの指の先では、可憐な花がふんわりとやわらかそうに開いている。薄いピンク色の花弁が花の中心にかけて水に溶けていくように白く輝いて、降り注ぐ陽光に微笑みかけているかのようだ。
あなたにとっては腰あたりの高さだが、馬孫にとっては低すぎるので、その場にしゃがみこんだ。無論、花を近くで見るためであって、彼女と視線を合わせようとしてしゃがんだのではない、と心中で言い訳をしながら。
「芍薬、ですか」
「はい」
芍薬は、中国が原産の花だ。馬孫にとって身近で懐かしいものだろうとの心遣いで、わざわざこの花を見せてくれたのだろうと、男は思った。
そうすると、じんわり、甘い気持ちが喉をくすぐってくる。こそばゆくて暴れてしまいそうになる、何かを言ってしまいそうになるのに、心地よい気持ち。それをぎゅっと押し殺しながら、花を愛おしむ眼差しと横顔を見ていた。
「綺麗ですね」
「はい。とっても」
馬孫が半ば無意識のうちに呟いた言葉に、あなたが同意する。
不意に、凪いでいた空気へと、ざあっと強い風がほとばしった。桜からは少し離れているというのに、その花弁が風になり、たった一瞬だけ空を白く支配する。
「あ、………、」
馬孫にはそれが警告のように感じられて、焦ったように声を漏らしてしまった。そして、深刻そうな視線は芍薬の茎をたどり、ついに地面へと落ちた。
どうにも落ち着かない様子の男に、あなたは見上げるようにして問う。
「どうなさったのですか?」
「あなた殿………伝えなければならないことがあります」
いつになく仰々しい話し方で、馬孫は体勢を変えてあなたに向きなおった。
「はい……」
「あの枝垂れ桜の木が、切られてしまうのです」
「………、」
あなたは、少しだけ目を見開いたが、何の言葉も発さない。ただ、視界の遠くにうつる桜の木と、そばにちいさく揺れている芍薬との間に目線をゆらして、何と言おうか考えているようだった。
馬孫は、何も言わなくてもいいと思った。沈黙の時間じゅう、そう思っていた。
いまはあなたの言葉を待っている時間ではないのだと、だから私が何か付け足さなければならないのに、と歯がゆさすら感じた。しかし、気の利いた言葉のひとつも思い浮かばない。いや、きっと、どれほど気の利いた言葉を繰りだせたとしても、いまの彼女の心を救ってやることはできないだろう。
先ほど芍薬に合わせてしゃがんだ姿勢が、彼女の視線のゆきさきを如実に感じさせた。あなたが大きく動揺したり涙を流したりしないことが、むしろ悲痛に感じられた。
「………わかりました。教えに来てくださって、ありがとうございます」
そして、いつの間にやら現れた雲が太陽を隠すと同時に、あなたはそう言った。控えめにたたえられた笑顔は陰っている。その陰りが雲にやられたのか、それとも内から滲んでいるものなのか、男にはわからなかった。
「………いえ……」
馬孫は、ちいさな声で返した。そして再びの沈黙ののち、言葉を続ける。
「……ここを離れる気は、ありませんか」
ある意味で残酷な、またある意味では救済のような問いかけだった。そう問うたことで救われるのは、馬孫自身であるかもしれなかった。
「…………」
「……ありません」
しかしあなたは、いつになくはっきりとした口調でそう断った。
「約束は守らなければいけませんから……あのひとにお会いするまでは、待っていなければ……待って、いたいのです」
馬孫は、わずかに伏せた睫毛のきらめきを涙と勘違いして、思わず触れそうになったのを自制する。
「しかし、待っても来ないならば……」
「もしも、お会いできないまま木が切られる日がきたなら……私はあの木と運命をともにします」
馬孫は、その言葉に何も返せない。
「、ッそれでも……、……!」
何かよい案を伝えたくても、その場しのぎで取り繕うのは無礼であるように感じて黙り込んでしまう。それほどまでに彼女の微笑みは、深い覚悟をいだいていた。
あなたはその微笑みを絶やすことなく、壮絶な一日千秋の結晶を抱きとめているのだ。これまで毎日、指折り数えることのできないほど長い時間を、受け止めて受け入れている。
「馬孫さま。ありがとうございます」
そう言った笑顔の印象が胸を離れなかった。
馬孫は、桜の木から皆がいる民宿に戻るのにどのような道を通ったのか忘れてしまうほどに、あなたのことで頭がいっぱいだった。記憶領域をしめつけてずうんと重さをもった影が、苦しかった。
あなたはもっと苦しいだろうと思うのに、いっそ独善的ともいえる恋心がじわじわと、攫ってしまいたいと囁く。そうできるならどれほど楽だろうか。桜色の風にまぎれて、自分の無骨な腕で彼女をきつく抱きしめて、閉じ込めてしまいたい。しかし強大な力で奪ってしまえるほど単純な心なら、彼女のことをこうも想わなかっただろう。
しかし、意味のないもしも話に明け暮れるほどの時間はもうない。一週間という短い期間のうちに、彼女のために何かできないだろうかと考えるせめてもの前向きさが、真にその心に必要なものだった。
だが、自分や阿弥陀丸だけでは足りない。あなたが凶悪な敵に捕まっているというならいざ知らず、これは単純な力で解決できる問題ではないのだ。霊にできることだけで彼女を救えるなどとは到底思えなかった。
だから人間たちにも助けを求めることに決めた。
足取りは重かったが、それでも馬孫はとうとう民宿・炎に戻ってきた。
葉も散歩から帰ってきており、民宿にはおなじみのメンバーたちが揃っている。そこに帰ってきて、声を張り上げた。
「ぼっちゃま、葉さまたち。話を聞いてください」
この決定は馬孫の独断のことだったが、阿弥陀丸はそう切り出した彼を見るなり、すべての事情を理解した。いつも以上に影が差した、あまりに深刻な顔でそう話しはじめるものだから、蓮を含む面々もただごとではないと察して黙り、馬孫のほうを向いた。
彼は、あなたのことを話した。
自分が知っていることは、まだきっと彼女にとってはごく一部なのだろう。そう自嘲しながらも、いま置かれている危機的な状況について話した。桜の木が切られてしまうことで、彼女が消えてしまうかもしれないと。しかも、彼女本人がそれを覚悟しているのだと。
後者については阿弥陀丸にとっても初耳のことだったので、驚いた。しかし、彼女がそう言っていることにどこか納得もできた。あなたがそう言い切れるほどの強さをもって今までの永い時を過ごしてきたことは、阿弥陀丸も知っている。
対して葉たちメンバーは、まず馬孫や阿弥陀丸たちとあなたという霊どうしで交流が行われていたこと自体に驚きながら、あなたという霊に同情を寄せた。もちろんまだ会ったことも見たこともないが、馬孫の説明を聞いただけでも、彼女が悪い霊ではないということはこの場にいる誰もが簡単に理解できた。
「木が切られる前に、恋人に会わせてやりたいのです」
馬孫は最後にこう強く発言した。そして、頭を下げる。
「馬孫殿……」
阿弥陀丸は馬孫の気持ちを思った。馬孫があなたのことを特別に想いはじめていることは、そばにいるだけでもなんとなくわかっていた。恋人を待っている健気な女のことを応援し、自身の激情をあらわにするのを諦めていることも。
そこにあるのはおそらく応援の気持ちだけではない。そのことも相まってこれ以上ないほど複雑だと感じた。
それでも、馬孫の苦しい想いとあなたの焦がれる想いを、なんとかして解き放ってやりたいと心底思った。もうあと少しで、桜の木は切られてしまうのだ。たとえどんな結果になったとしても、今しか機会はない。
「拙者からもお願いするでござる。あなた殿は、いまも桜の木の下で待っている。いま拙者たちにしてやれることを、してやりたいでござる」
真剣な声で、馬孫に並んで阿弥陀丸も頭を下げた。
「阿弥陀丸、馬孫。頭なんか下げなくていい」
最初に声をあげたのは葉だった。その声に、二体は顔を上げる。
「困ってる霊がいるなら、オイラは協力する。シャーマンとして……つうか、オイラ個人として気になるしな」
葉らしくゆるい承諾に、馬孫と阿弥陀丸の表情はたちまちほころんだ。
そしてその言葉に、仲間たちは次々と賛同の声をあげる。
「そだね。なにか力になれるなら、あなたさんを助けてあげたい」
まん太も、シャーマンという立場ではないながら、仲間として助けたい気持ちを強く感じていた。
「ありがとうございます」
馬孫が、代表して礼を述べた。
「そのあなたさんを、恋人の霊に会わせればいいのかな?」
「そうすりゃとりあえず、この世に未練はなくなるだろうな。いい霊のまま成仏してくれると思う」
葉が放った成仏という言葉に、馬孫の肩はびくりと反応した。
蓮はそれを横目で見ながらも、「俺は用事を片付けねばならない。調査は任せる」と言った。
「わかった。蓮は別だな」
「じゃあ、まずはシラベモノね。彼女が生きた当時の歴史を知ること」
アンナが次にすべきことを決定づけると、彼らはいくつかのグループにわかれて調査することを決めた。
「馬孫。たびたび言っていた『用事』とはそのあなたに会うことだったのか」
わいわいと話す一行から距離をとり、様子を見ていた蓮だったが、ようやく重い口を開いた。その言葉に、馬孫はすぐさま膝をつく。
「はい。いままで言い出すことができず申し訳ありません」
「そのことについては、かまわん」
「ありがとうございます」
ひとまず許しをいただいたことに、馬孫は安堵した。
「だが……」
そして、尊大な主人はふたたび話しはじめる。
「その女を手に入れたいのなら、力づくででも手に入れればよいではないか。なぜそうしない」
「それは……」
持ち霊と主人という関係であるからか、馬孫が直接口にはしなかったあなたへの感情に蓮だけは早々に気付いていたのだ。しかし、そんなあまりに傍若無人な発言に、馬孫は首肯することができなかった。
「確かに、私にはそうするだけの力があります。でも、そうするための力ではない……」
「………ふん」
「そうしてしまえば、私は戻れない。それに、魂を手に入れたとして、あのひとの心は私を選ばないでしょう」
大きな馬孫の視線はちいさく、地を這うようにして低い。声もまた、何かを恐れるようにして低かった。
「ハッキリ言え」
「……はい。……私はあなたのことを愛しています。だから、彼女の願いをかなえてやりたいと思う……たとえ自分の気持ちにそむくことであっても、そうするのが正しいと信じたいのです。坊ちゃまの言葉に否定を返すこと、お許しください」
「………そうか」
蓮はため息をついたのち、ぶっきらぼうに短い返事をよこすと、つかつかと歩きはじめた。馬孫にはその表情をうかがい知ることはできなかったが、主人はどこか満足げな笑みを浮かべていた。
「幽霊が幽霊に恋することなんてあるの?」
まん太が葉に疑問を投げかけた。彼は薄く、笑った。視線の先には馬孫がいた。
「ああ、幽霊っていったって、もとは人だからな。恋くらいするだろ」
どこかほほえまし気にも見える葉の目だったが、対してまん太の胸中には複雑なもやが浮かんでいた。
「そっか、確かにね………恋をするなら、失恋も……するよね。」
「そうだな……本当なら、」
葉が苦々しい表情で口をひらいたところで、アンナが割り込むようにして言う。
「これは馬孫が望んだこと。自分の願いよりもあなたを優先したのなら、あたしたちに口出しする権利はない」
そう言い切った彼女にしては珍しいことに、ふたりと同じく眉を寄せ、複雑そうな顔を浮かべていた。「本当なら」のあとにつづくはずだった言葉を、この場の誰も口にすることはできない。
ひとまず、葉たちは桜の木に足を運ぶことにした。馬孫の提案だった。
まだあなたを救うための道しるべを得たわけではないが、実際に会うことで彼女の人となりをわかってほしいということだった。
普通の桜ならもう散りはじめて葉桜になっていそうな時期であるにもかかわらず、そこには相変わらずの満開が咲き乱れていた。その景色に圧倒されながらも、彼女に会うために歩を進めた。
すると、風が吹いた。馬孫と阿弥陀丸には覚えがある、甘いにおいのやさしい風だ。
それを合図にして、いつものようにあなたが現れた。
その髪の先までくまなく桜の花びらたちによって形成されてから、ぼんやりと癒されるような光を放ちつつ出現した彼女だったが、目を開けると初対面の人間が多くいたので少し驚いた。
「こんにちは」
そしてずらりと並んだ全員の目を順々に見てから、彼女は深くお辞儀をして名乗った。
「はじめまして。あなたと申します」
このわずかな間だけで圧倒的に上品なオーラがあたりを覆って、葉たちの目をかすませていた。
彼女を中心としてほのかに薫る風はふわふわとやわらかく、人格そのものを表しているかのようだ。女好きである竜などは例によって彼女へも飛びつくかと思われたが、今回ばかりはあまりに浮世離れした雰囲気に気圧され、「お、おおッ……」と言うにとどまっていた。
阿弥陀丸と馬孫は、あなたに圧倒される皆の様子を見て胸を張っていた。桜色の雰囲気を裂くように「あんたたちが誇らしげにすることじゃないわよ」とアンナに突っこまれるほど、胸をぱんぱんに張っていた。
「あ、ああ。オイラは麻倉葉」
「葉さま。阿弥陀丸さまからお話は伺っております。お会いできて嬉しいです」
葉が若干の緊張のなか自己紹介を切り出すと、あなたも親し気な笑みを浮かべた。そのやわらかな言葉と表情に、全員が感じていた張りつめた空気も途端にほぐれていった。
「阿弥陀丸がいつもお世話になってるみたいだな~。ありがとうな」
「い……いえいえ。むしろ阿弥陀丸さまにはいつも優しくしていただいていますので……」
葉が持ち前のゆるさですぐにあなたと打ち解けると、また一行も口々に自己紹介をしていく。
もともと警戒心にやや欠けているあなただが、葉たちがよい人間であることはすぐにわかった。
花見の季節は少し過ぎていたものの、花びらが舞い散るようすを眺めたり、お菓子を食べたり、なんでもない話を交わしたりと、のほほんとした時間を過ごした。それは、この桜の樹々に危機が迫っているのも忘れるほどの団欒感だった。
この日が初対面だったのにもかかわらず、そのような時間を過ごすうちにあなたはすっかりなじんだようすだった。それでも、時折寂しそうな顔をして空を見上げていた。一行は皆それに気づいていたが、誰も声をかけることができなかった。
こうしてあなたの心にふれた葉たちは、思い当たるすべての文献をあたった。学校の図書館や資料館、潤沢な資料や本が収蔵されているまん太の自宅にも赴き、ときには詳しい人がいないかと聞き込みも行ったり、各々に分かれて、関連しそうな資料を詳しく読みこんだりと。
すると、ある事実が発覚する。
当時、桜の木周辺を根城とする盗賊がいたというのだ。これを竜が蜥蜴郎にたずねたところ、彼の所属していた集団ではないとのことだった。荒れた時代、無法ともいえる者たちがはびこり、さまざまな悪さをしていた。そして、最後には捕まった全員が斬首刑に処されたと。
そう記された文献を読んだ面々は、それぞれ心のどこかにいやな予感を迸らせた。桜の木やあなたと直接関連があるわけではないにもかかわらず、危険な気がしたのだ。
桜の木が切られる二日前のこと。その日はひどく曇っていた。午後から雨が降るとの予報だった。
花曇りというには少々淀んだ空が、予感を的中させてしまった。
男の霊が、桜の木を訪れたのだ。
上等とはいえない着物を身に付け、何かを探すようにうろうろと周辺を歩いたのち、ようやく覚悟を決めたようにして木の下に足を運んだその男。
その気配に、思わず姿を現したあなたは、驚きの表情を浮かべた。
その男は、何百年も待ち焦がれた恋人だった。
もう叶わないかと半ばあきらめかけていた再会が、桜吹雪に包まれた荘厳な空気に包まれている。あなたは、自分が意識するよりも先に涙をこぼしていた。
そして男の名前を呼んで近づこうとした瞬間、また違う来訪者が現れた。葉たちだ。
大所帯は相変わらずだが、もう親睦を深めた仲であるあなたには、なにやら雰囲気が以前と違っているように感じられた。明らかにぴりついていて、祝福ムードといった様相ではない。
さらにあなたを守るようにして、阿弥陀丸と馬孫が立ちふさがる。彼女は突然の事態に足を止め、二体の霊をただ見上げることしかできない。二体もまた黙って、彼女を制するようにしていた。
脳内の混乱のさなか、割って入るようにして女性の声がする。
アンナだ。
「やっぱり現れたわね」
しかし、男の身体にはすぐさま何かが巻き付く。呪縛のようにも見えるそれは、アンナの数珠だった。その縄のような強い縛りには、清く正しい霊に対しては決して行使されることのない力が籠められている。
「あッぐ……!!」
男はたまらず悲鳴をあげ、じたばたともがくが、アンナの圧倒的な力の前に抵抗は無駄だと悟ったのか、やがて暴れるのをやめた。
いまだ阿弥陀丸と馬孫によって視界をふさがれているあなただが、なぜか皆が自分の恋人へ敵意を向けているということだけは、はっきりわかった。
そして男が口を開き、がらがら声で叫んだ。
「もおおお、そんなやつどうでもいいからほどいてくれよォお。痛えし。もう関係ねえから」
「……!!」
「愛してるとか言っとけばうれしそーに金くれるからさあ、そいつとはそんだけなんだって。なあ!」
男は盗賊の仲間だったのだ。あなたに愛情など抱いていない、ただの金づるの女としか見ていない、そんなありふれたクズだった。男が一音を発するたび、あなたは、つむじからだんだんと血の気がひいていく心地がした。
「おい。口を開くな」
阿弥陀丸が鋭い口調で制するが、男はしゃべりつづける。
「うるせーえよ。んだよ。早くほどけよ!もういいって。てか名前なんだっけおまえ。おまえなんかのせいでこんなんされるとかさ」
「……あっ、あ」
あなたの視界がぐにゃりとゆがむ。
それは再会を果たしたときに思わず潤んだ涙のせいではなく、なにか、決定的なものが破壊されたゆがみだ。存在の理由という、自分の根幹を成すものが、ひどく濁った声たちによってぐらぐら揺れて、壊れそうになっている。
霊としての未練、この世につながっていたいと思えるほどの「心」が、いまのあなたひとりには補いきれない。
「………、」
「聞かなくていい。」
馬孫が振り返り、あなたを抱きしめた。
彼女の視界と聴覚をふさぐには十分すぎるほどの体躯が、覆い隠すようにぴったりと。それだけで苦しいくらいなのに、初めての接触を馬孫はさらに強める。
ぎゅっと締め付けるのにも似た強さで、ただあなたを絶望の淵にこれ以上近寄らせないようにと願うように抱きしめる。
馬孫のその手には、震えるほどの怒りがこもっていた。愛する人を初めて抱きしめることができた喜びなど感じるいとまもないほど、まだ喋っている男の首を今すぐに刎ねてしまいたい衝動が、無いはずの鼓動のたび激しく熱くなっていく。
「―――っからさあ、放せっつってん」
「もういい。聞いてられないから」
アンナは類を見ないほど冷たい声色とともに男へ手をかざす。すると、曇り淀んだ空からわずかな光が、男を貫くようにして差した。
強制的に成仏させられるのだ。そう悟りつつも、彼は最後まで抵抗し、罵詈雑言を吐きながら徐々に消えていった。
成仏の跡が、光の粒となっていくらか空気中に残留している。それにすら軽蔑の眼差しを贈りながら、アンナはため息をつく。
災難がようやく過ぎ去ったにもかかわらず、葉たちも、男のあまりに傲慢な姿が残像となって焼き付いたかのように息を吐くのみで、一言すら発せずにいた。
「馬孫さま……申し訳、ありません……」
そんな中あなたが、すぐそばの馬孫にさえやっと聞こえるようなか細い声で、謝罪を述べた。ひどく震えて、壊れそうな音だった。
今にも抱きしめている身体がふっと透けて、数枚の花弁だけを残して消えてしまうのではないかと、思わず悪い妄想をしてしまうほどだった。だからそれが現実にならぬようにと、あなたがどれほど脆い存在なのか確かめるようにして、今一度腕を強く引き結ぶ。
「いい」
謝らなくて、自分を責めなくていいと、馬孫は吐息を含んだ声で伝えた。それはかつてないほど小さく弱々しい声であって、あなたがこの手をすり抜けない、これからもいてくれることを愚直に祈るような声だ。
「……、」
あなたは、深く呼吸をした。息はまだ震えていたが、馬孫のあたたかな心に触れることでようやく安心をおぼえて、目をつむった。
「……ありがとうございます。」
そして感謝を伝えると、重なった睫毛の隙間から、宝石じみた輝きで涙がひと筋流れた。誰にも見られることのなかったその泣き顔には、先ほどまでの絶望の色はなかった。完全に晴れたともいえないが、声はもう、こわばっていない。
彼女が落ち着いたことを感じ取って、どちらともなくゆっくりと身体を離すと、途端にそこへ流れ込む風が馬孫にはひどく冷たく思えた。体温のない存在であっても、どこか、淡く甘い残り香のような温度が残っている気すらする。
あなたは、うつむいたままだ。そして、いつも挿していた桜の花を、髪からそっと抜いた。思い出せないほど昔に、恋人だった男が贈ってくれたものだ。居所を失った花は、すぐに崩れて風に消えた。彼女の指先は一瞬だけそれを追いかけたが、すぐに方向を変えて涙の跡をぬぐいさった。
咽ぶような風が吹いている。桜が舞っている。
しかしその中には、あなたが好きだった桜はもうひとひらもない。なくなった。
彼女は馬孫のつくりだす影から一歩出て、みんなに届くよう言った。
「アンナさま、みなさまも……来ていただいて、助けていただいてありがとうございました」
「私は……このまま成仏しようと思います。」
そして、もう震えていない、強い声でそう言い放つ。
「え、ええッ!」
あなたの言葉に、まん太は思わず大声をあげた。はっとして口をふさぐが、驚きの表情は隠しきれていない。
なにも驚いたのはまん太だけではなかったし、その場にいた全員が苦い顔をするほかなかった。彼女の強い想いをつなぎとめていた大きな原因が、腐りはてたのちに消えてしまったのだ。
ほとんど事情を知らない自分たちでさえ衝撃的な光景だったのに、恋人のことを信じていたあなたにはなおつらかっただろう。だから、本人が納得しているのなら誰にもあなたの成仏を止める権利などないのかもしれないと、まん太はどこか思った。
しかし、反対の意見があがる。静寂にも物怖じしない凛とした声は、アンナだ。
「待ちなさい。アンタみたいな霊力の高い霊がそんなに簡単に成仏できると思ってるの」
「えっ」
「いや、成仏は簡単にできるだろうけどよ……」
竜が口を挟むと、アンナが鋭くにらみを利かせる。凄腕のアンナのことなので、あらゆる事情を無視してしまえば、確かに成仏させること自体は難しくなどない。しかし、これは心の問題なのだ。そして、力の問題でもある。
「うるさい黙れ。とにかく!そんな霊が成仏するのはもったいないの。この世に残って、蓮の持ち霊にでもなることね」
「ええっ」
まさかの提案に驚き、あなたにしては珍しく素っ頓狂な声をあげてしまう。彼女が困って目を白黒させているようすを、突然話題にあがったにもかかわらず大して動揺する素振りもない蓮は、わずかに口角を上げつつも黙って観察していた。
「そだな、それがいいかもな~」
葉がゆるく賛同の声をあげると、あなたはさらに困惑する。
「それに。あんなロクデナシよりも、身近にもっと一途なのがいるでしょ」
「あ、え……」
付けくわえるようにそう投げかけられて、あなたの心によぎったのは馬孫だった。いつも自分を大切にしてくれる存在、そして自分を大切にできるようそばにいてくれる存在。
それまで自覚できていなかった想いが、これまでの思い出を反芻するとともにあふれだし、とっさに彼のほうを向いてしまった。
「そんなヤツを薄情にも置いていくって?ねえ馬孫?」
そしてアンナがにやりと笑いながら振ると、彼はぎくりと肩をゆらす。
しかし、まだあなたは混乱と迷いの渦中にあった。
もちろん、馬孫に悪感情を抱いているわけではない。むしろ、出会ってから今まで、馬孫にいやな思いをさせられたことなどないし、これからもないだろうと断言できるほど信頼を寄せてしまっている。いつの間に?いつの間にか芽生えた言語化できないもどかしさが、未練を喪った今になって、ようやく胸を押しつぶすように締めつけてくる。
つい先ほどまで恋人とのことに打ちひしがれていた自分が、新たな恋などと。それに、自分と恋人との再会を願ってくれていた人と。あまりに都合のよい考えであるような気がして、苦しくなる。
「そんな顔せんでも」
葉が、いつもよりほんのりと気を遣った声色で言う。
「今からでも遅くないだろ。バチは当たらんだろうし、そうするべきだとオイラも思う」
あなたは、たじろぐ。葉の優しい言葉と表情に、泣いてしまいそうになりながら。
「で、でも……私はなんのお役にも立てません、から、ご迷惑、では」
「かまわん。これ以上馬孫が腑抜けては困るしな」
「ぼ、坊ちゃま……」
「それに、今更持ち霊のひとりやふたり増えたところで、何の問題もない」
「ほらね」
蓮の余裕ある発言にアンナが振りむき、予想どおりとでも言いたげにほほ笑みの視線をよこした。あなたはもう、困惑も混乱も超えてもはや迷うことのない境地へ立たされていた。
おもむろに、枝垂れ桜のとなりで咲いていた八重桜の枝を、やさしく髪へさしてやった。
馬孫は、傷つけぬようにそっと彼女の頬へ手を添える。そして、ついにこぼれた涙を指の腹でぬぐう。
「あなた、あなたが真に幸せになれるなら、私は身を引こうと覚悟した。強く、自分を縛った」
ぬぐってもぬぐってもこぼれ続けるあなたの涙に、男はそれでも微笑んだ。
いつか抑した独占欲をはらんだ指先が、そっと頬をなでる。渇望した感触は震えて、ただ馬孫の温度を待っている。
「しかし今、その必要はなくなった。あなたのことを薄情な女などとは、思わない」
それまで微笑を浮かべていた馬孫は、唇を引き結ぶ。いつになく真剣な表情と熱をもった声に、あなたはひどく、どきりとした。
「私の心はあなたのものだ。もうずっと前から」
「だから、あなたをすべて、もらいうけたい」
「あなたのすべてをくれ」
「……は、い」
あなたは、またひと筋涙をこぼしながら、うなずいた。
恥じらうようにしてせわしなく動く視線が、馬孫のそれとかち合う。
すると低い声でまた笑った馬孫は、あなたをぎゅっと抱きしめる。今度は誰からかばうためでもない、愛していると伝えるためのやわらかな抱擁。そのやさしい感触に安堵したのか、あなたの涙は止まった。
「はは、アツいな~」
「意外とやるわね、馬孫……」
「ば、馬孫……いつの間にあんな文句を」
「よかったでござる……!」
感心したり照れたり感激したりな面々の言葉が耳に入り、今度はたちまちあなたは顔を赤くする。それでも、それを感じているだろう馬孫が離してくれないのがどこかうれしくて、また、ぎゅっと抱きかえした。
そして、約10分後。
さすがに長い!とツッコんだ蓮によって引き離されたものの、手をつないだふたりが、何やらあわただしい葉たちの様子を見守る。
「じゃあ、ここ掘ろう。よろしくな
「わんわんでござる!!」
そう気合いを入れ、阿弥陀丸は持参していたスコップで一心不乱に地面を掘り始めた。ざくざくと深さを増していくと、何かにあたった。その何かに、まん太が驚いて声をあげた。
満開の桜の下には、あなたの骨が埋まっていたのだ。
それを丁重に弔うと、骨のあったそばに扇子も埋まっていることにアンナが気づいた。桜という
そして、桜が切られる日。
ものの二日間で、それまで満開だった花はほとんど散り、葉桜となっていた。これは桜に籠っていたあなたの想いという強い霊力が霧散したからであるが、本人にとっては知るよしもないことだ。
この枝垂れ桜と、悠久とも思えるほど、長いときを過ごした。不安にさいなまれて、目を瞑れば夢に見る過去と、終わりの見えない未来を、きっとこの先ずっとひとりで過ごしていくものだと思っていた場所。しかし今となっては、馬孫たちと出会えた大切な場所だ。
あなたは、その場所に立ち入り禁止の線がひかれて、重機や作業員が入って来るのを眺めていた。馬孫はそんな彼女に寄りそって、ただ黙ってそばにいた。
あなたは、寂しくはあるが、空虚ではない。けして孤独ではないと信じられる。
それは馬孫がそばにいてくれるからだった。きっと昔に夢見ていたほんものの愛情を、馬孫と分かち合ってこれからを歩む。そう心から信じられる相手に出会えたことを、満ち足りた気持ちで感謝した。
静かに執り行われた一本の桜の死を見届けてから、あなたと馬孫はその場をあとにした。そして、まったく新しい道を進んでいく。あなたが、馬孫と蓮とともに、中国へ発つ日。
旅立ちに歌うように、淡い色の風が吹いた。まっさらな青空と新緑の薫りは人々へ、ひとしく幸運を分け与える。街をまた書き換えるようにして、さわやかに吹き抜けていく。
その行き先は分からなくても、きっと光に満ちあふれたものになる。
「馬孫さま、これからも……よろしくお願いします」
「あなた。……愛している」
「私も、」
ふたりが並んで立つ。馬孫から手をつなげば、あなたは愛おしそうにやわく笑った。
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