そのほか
おなまえ
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桜色の風で街が染まる。涼しい、ぬるい、体温のように吹きぬける甘い風は、空をすらどこまでも染めていく。無数の花びらが夕焼けの陽に融けるようにして、物寂しく散っていく。どこまで飛んでいくのか、その行き先は誰にも分からない。そうやってあの世にも届いてしまいそうなほど高く吹きあがる。
その樹のかたわらには女が立っている。彼女はきょうもひとり、桜吹雪に目を細めていた。
それはある夜のこと。
ふんばりヶ丘霊園近く、桜の名所。
春先には数多くの種類の桜が咲き乱れ、ちょっとした穴場観光スポットになる場所だ。
しかし夜になると、月光をまっすぐに反射して仄白く見える桜のかけらたちが、ひどく妖しい。しかも、いわゆる桜の季節を少し超過している現在でさえ、満開の状態を維持している。
冷え込んだ影響で例年より遅い開花になっていたにしても、いまだ葉桜のひとひらも見受けられない異例の長さだった。確かに散っているはずなのに、すぐにまた新たな花びらが生まれているかのようなのだ。
春が終わろうとするというのにいつまでも咲き狂っているので、近隣住民からはなんとなく不気味がられている場所になっていた。
そんな場所に、霊はやってきた。
二体、阿弥陀丸と馬孫。
道蓮が家業のため日本に一か月ほど滞在することになり、持ち霊である馬孫もともにやってきた。そして今日、蓮が用事のついでとして葉へ会いに来たので、馬孫と阿弥陀丸の再会もかなったのだ。
そんな二体がそろって、名所であるここへ立ち寄った。葉と蓮の再会を邪魔せぬようにと離れつつも、しかしもしものことがあればもちろん彼らの身を守る役割を果たさなければならないので、宿からちょうどよい距離であるここを訪れてみようという話になったのだ。
「これは……すごいでござるな」
「ああ……」
皆にそう伝えたときには「男霊ふたりで花見か」と蜥蜴郎に言われてしまったが、まあそれはそれとして、この場に到着したふたりは、桜の圧倒的な荘厳さに見とれ、気圧されてすらいた。
桜の木はある程度の距離から見ることができるし、例年より長い満開時期についても知っていたが、こうして近くに感じるとまた違った情緒に包まれるようだと、感動してしまっていた。
桜にやどる元来の幽玄性が、惜しみなくはらはらと散っていく。それなのに不思議と減らない春の夢心地たちは、薫る風となって街へ降りていく。花びらのひとつひとつが意思を持つかのように、揺れている。
ふたりが数々の樹を見上げていると、ふと雲が晴れて、月があらわれた。
するとほのかに白んだ樹の下で、くるくると遊ぶような風がそよぐ。根本にも咲いていた名もなき小さな花を無害にゆらす、やさしい風。ふたりが見やった瞬間、その風は強くなる。
「おおっ」
ぐわっとのぼってくるような風は、とても自然的現象とは思えないほど美しい桜の花びらをまとって、なにかをかたどっていく。
かすかに甘くかぐわしい香りがたちのぼると、阿弥陀丸はそれが人型であることに気付いた。思わぬ敵襲かと、無意識のうちに腰の刀へ手をやる彼だったが、馬孫がそれを制する。
ひときわ甘くやわらかな風、そしておびただしい花びらが舞うと、ふわりと、それはようやく姿をあらわした。
「こんばんは」
女は、そう言って深くお辞儀をした。この月の薄明かりでもわかるほど上等そうな着物に、つややかな髪。そして、人畜無害をそのまま具現化したかのような微笑みと声。
拍子抜けするほど悪意の見えない彼女が、悪い霊であるはずがない。もしこれが悪霊なのであれば、自分たちであってもかなわないほどの強大さだろう。そう思い、阿弥陀丸は手をおろした。
「、こんばんは」
驚きつつも馬孫があいさつを返すと、彼女は眉を下げて笑みを深めた。
「あなたと申します。460年前から、ここで人を待っております」
うやうやしく頭を下げるあなたにつられ、ふたりも改まった態度で自己紹介をする。
「馬孫といいます。1800年前の生前より
「拙者は阿弥陀丸でござる。600年前の侍でござるが、いまは麻倉葉殿の持ち霊としてがんばっているでござるよ」
それぞれの言葉に、あなたは目を丸くする。馬孫に関しては、霊になってから過ごした歳月の長さに。阿弥陀丸に関しては、知っている名前であったためだ。
「あ、阿弥陀丸さま……あの首塚の?」
そしてそう問うとともに、髪を耳にかける。すると耳元に飾られた枝垂れ桜の生花がふんわり光って、男たちの視線を一瞬奪った。
「、……そうでござる。知っているのでござるか」
「はい。もう長い間、この場所にいますので……お会いできて光栄です」
「いやいや、とんでもない」
阿弥陀丸は照れくさそうに頭をかいた。
「ところで、持ち霊……というのはなんでしょう?」
そう首をかしげたあなたに、阿弥陀丸よりも持ち霊歴の長い馬孫が説明する。
霊能力者・シャーマンの存在と、その者の魂の深いところで結ばれた霊が持ち霊となること。シャーマン同士で戦ったり、霊を成仏に導いたりすることや、持ち霊の役割についても簡単に話すと、あなたは目を輝かせて、ふたりのすごさに感動した様子だった。
「そのような世界があるのですね。まったく知りませんでした……おふたりとも、大きなお役目を果たされているのですね……」
まさに箱入り娘といった様相に照れ笑いするふたりだったが、あなたが俗世とかかわるきっかけとなれたことに若干の喜びを感じてもいた。
そして、阿弥陀丸が咳ばらいをしてから切り出す。
「んんっ。あの、あなた殿、そうかしこまらなくてもいいでござるよ……」
今まで出会ったうちの誰よりも丁寧な物腰に、少し申し訳なさを感じたようだった。二体ともに高名な霊であるのにもかかわらず人に敬われる機会がほとんど皆無であるため、こういった扱いをうけるのは珍しく、くすぐったい気持ちがしたのだ。
「いえ、私はお二方よりもずっと年下ですので。こうさせてください」
しかしあなたは眉を下げ、ほんのりと微笑む。驚いたときにさえまったく崩されない敬語と控えめな態度もあって、立場を重要視するようにとしつけられた高貴な出自であるのか、この子は本当にそういう性分を持っているのかもしれないと、阿弥陀丸は思った。
「それにこうしているのが、いっとう落ち着くのです。もしご不快に思われれば……」
「あっいや!不快だなんてとんでもないでござる。あなた殿が落ち着くのであれば、このままで」
「そうですね。あなた殿にとっての自然体がいい」
本気で切なそうな顔をする彼女に、ふたりはあわてて訂正をいれる。
すると、あなたはぱっと花の咲くような笑顔をみせた。
「よかったです。……これから、よろしくお願いいたします」
それから、ふたりは毎夜のようにその場所を訪れるようになった。
主人である蓮は馬孫の動向にもちろん気づき、訝し気な顔を浮かべてはいたものの、何の口出しもしなかった。それは不器用な蓮なりの心遣いだ。
出会いから数日が経っても、桜は満開のままだ。今宵も夜空を覆いつくさんばかりに風へ散っているのに、木々にはまったく新緑の芽生える気配がない。
葉に、ここ三週間はこの状態を保っているらしいと聞き、阿弥陀丸はとても驚いた。
日本の桜になじみのない馬孫でさえ、もちろん花はいずれ枯れるものと知っている。なにか妙なことが起こっていると胸をざわつかせながらも、三人の霊たちは親睦を深めていった。
酒を持参して飲み明かすこともあり、あなたがその頻度に遠慮して「そんなに私を気にかけてくださらなくても大丈夫ですよ」と、控えめに主張したこともあった。
しかし、ふたりは「いつもひとりでは寂しいでござろう」「そうです!せっかく友になれたのだから」と、それを断った。その理由はただあなたの孤独に同情しているというのではなく、あなたと過ごす平穏が心地よいものであったからにほかならない。
彼女は馬孫の発した「友」という言葉に思わず頬を染めてしまったが、夜の明かりの少なさのおかげでふたりに気づかれることはなく、すぐそばをただ甘い香りの風が一陣、駆け抜けたのみだった。
ふたりは、おそらくあなたの待つ相手というのは恋人なのだろうと、なんとなく感づいていた。
それはあなたがふとしたときに浮かべる物憂げな表情、その睫毛のきらめく角度、舞い散る桜の花びらに想いを託すように、ぎゅっと引き結ばれる手のひら、近くはないであろうどこかへ遣られる春色の視線。
なんでもないようなふたりの問いかけに、なにか……または誰かの名前……を口にしようとしてか、言い淀むこともあった。
その仕草たちが、会えない相手に恋焦がれる姿そのものだったためだ。
しかし、意図せずふいに指先がふれてしまったときなどは、顔を真っ赤に染めて大げさなほど慌てていた。
その男性への免疫のなさから恋愛経験が豊富であるとはとても思えないが、それでも、彼女の心の奥にもっとも大切にしまわれた存在がいることは確かだとふたりには感じられた。
「しかし、ここに初めて訪れてから寸分も変わらぬ美しさでござるな」
そして、またある日。花見酒を楽しんでいた阿弥陀丸が、そう切り出した。この不可解ともいえる満開現象について直接切り込んだのは初めてだった。
あなたは、もう460年もそばにいる桜の木をどこか新鮮な気持ちとともに見上げた。
「そう……ですね。」
「、中国の桃の花も、桜に負けないほど美しいですよ」
そう馬孫が割り込むように言った。
月か空か桜か、それともここにいない誰かか、そのいずれかをぼんやりと夢想するあなたの横顔が、あんまり切なそうに見えたからだ。
「桃の花……」
「ええ。桜よりもあざやかな紅色で、風が吹くと踊るように揺れるのです。」
遠い生前に見た幻想的な光景に揺られながら、言葉を続ける。
「詩人はこぞって美しいひと、を桃の花にたとえて詠った……、といいますし」
馬孫は、なぜだかわからない動揺を覚えた。自分にとっての『美しいひと』が、今、すぐそばにいるような気がしたのだ。つい、そちらの方へ目をやってしまいそうになって、空に視線を移す。
不格好に途切れた言葉。しかし、その間に運よく強い風が吹いたので、言及されることはなかった。
「それは、たいそう美しいでござろうなあ」
「そうですね。私もいつか……見てみたいです。」
光景を思い描いてか睫毛を伏せつつ微笑んだあなたに、馬孫は驚いた。
月の光が切り取る輪郭を、ひとたびでも視線でなぞってしまえば、永遠に見つめていられるような気がしてしまったのだ。
永い間、一途に恋人を待ち続けている人へこのような感情を抱くとは、彼女に対して失礼千万だ。男として、の以前に人として、不貞という言葉が一瞬でもよぎった自分が恥ずかしかった。友だと言い切ってしまった自分を、後悔してしまいそうになった。
この気持ちがあなたに知れたらと思うとさらに恐ろしい。そう思った馬孫はぐっと酒を飲み干すと、このことをこれ以上考えるのはよそうと固く決心した。
それからも、何度かの夜を三人で飲み明かした。
飲み明かしたといっても、宴会というよりは、しずしずと行われる儀式のような大人しさで、桜の木の下はいつでも、ふだん葉たちと過ごしているうちには手に入らない落ち着きと静寂に満ちていた。
馬孫は、けして固い決心を反故にするようなことはしなかった。あなたの個人的な情報を必要以上に聞き出そうとしたり、ましてや身体に触れようとしたりするなど言語道断といわんばかりの友情を築いていった。もちろん阿弥陀丸も、霊三人で過ごす落ち着きのときを気に入っていた。
それでも。
馬孫には、彼女がひどく弱い存在に見えてしまうときがあった。
たった一陣の風が吹いただけなのに、かき消えてしまいそうなほど不安定な輪郭を、思わずつかまえてしまいそうになる。
いつか偶然触れてしまった指先の感触を、そのときには何も感じなかったはずのそれを、思い出したくなりそうになる。
それは馬孫の本心だった。
手の中のちいさな水月のように、ぐらぐらと揺れている。震えている。
あなたはいつでも小さい。脆い。今すぐにでも壊れてしまいそうに、夜桜のひとひらにさらわれてしまいそうだと、何度も思わされるほどに。それなのに、一途な想いをか弱い腕に掻き抱いて守っている。自分の心と存在の理由を愛というこわれものに託して、信じて、待っている。
彼女がここにいられるのは、それがあるからだ。もしあなたに愛するひとがいなければ、馬孫や阿弥陀丸と出会うことはなかっただろう。それほどまでに強い存在の証明が、彼女が信じる永劫の愛なのだ。それも、恋人という誰かに向けられているからこそ輝いている愛。
そしてあなたという誰かに向けられてしまう、馬孫の愛。
だから、この気持ちは胸の中だけですり潰しておかなければいけないと、馬孫は強く思った。
言葉にも行動にも、視線のひとかけにすら、その気持ちを乗せてはいけないのだと理解して、苦しくなるほど自らの心を縛った。
それなのに時折、絶対に口にしてはならない心が、絶対に口にしてはならないとわかっているのに、あふれそうになる。
そんな時には、彼女がほほ笑むたびに喉を駆けあがってしまいそうなその言葉を呑みこむように、きまって一気に盃を空にする。
やたらと飲むペースが速くなった彼を見て、そばにいる阿弥陀丸は何も言わないながら心配していた。
夜が更ける。誰の想いも飲みこむ真っ暗な空を、ぼんやり薄明るい桜の花びらが、ずっと向こうへ散っていった。
馬孫と蓮が帰国するまで二週間を切ったある日。
その日はとても晴れて、春と思えないほどの陽気が予報されていた。お天気お姉さんの言葉どおり、朝からすっきりとした快晴が人間たちと霊たちとを照らしていた。
またきょうも、のほほんとした一日が過ぎていくのだと、誰もが思っていた。
「あのおっきな枝垂れ桜の木、あと二週間で切られちゃうんだって。きれいだったのに残念だよね」
「へ~、そうなんか。なんかさみしいな、せっかくあんなに咲いてるのに」
「ね~……」
そうまん太と葉が話しているのを耳にするまでは。
阿弥陀丸は急いでふたりへ詰め寄る。
「まん太殿!」
「えっ、阿弥陀丸?」
その様子を、少し離れた場所から馬孫が見守る。その指先がそわそわと落ち着かない様子だったため、そばにいる蓮も何かあるようだと視線をやった。持ち霊の動揺は主人によく伝わる。
「……その話、本当にござるか」
「う、うん。あれはもうずいぶん古い木だし、倒れそうで危ないから切るんだって聞いたけど……」
「……そうで、ござるか……」
まん太はその剣幕に驚きながら答える。彼がこのような嘘をつく人間ではないということを、この場にいる誰もが知っていた。話は真実なのだ。阿弥陀丸は、視線を下げた。
「どうした?あの桜の木になんか思い出とかあったんか?」
「い……いや。いやあ。あんなに美しいのに、もったいないと思ったのでござる!」
葉が不思議そうな顔をして聞いた。しかしふたりの霊はなんとなく言い出すのをはばかられて言葉を濁す。
葉は「ふーん?」と、腑に落ちない声を返したのち、どこかへぶらぶらと歩きだした。おそらく散歩だろうと思われた。
そんな彼の後ろをついていく阿弥陀丸は、目だけで馬孫に合図を送った。
桜の木が切られてしまうことを、あなたに伝えなければならない、と。
馬孫は、見るからにあなたのことを気にかけていた。どこか鈍いところのある阿弥陀丸から見ても、特別あなたを大切に思っているようだと勘づいてしまうほどに。
だから阿弥陀丸は馬孫にその重要な役を任せることにしたのだ。あなたの心を傷つけないで、伝えることができるだろうと。
眉を下げ心配そうな阿弥陀丸だったが、任を受けて力強く頷く馬孫にまた頷き、葉のあとを追っていった。
「ぼっちゃま、私は急用ができましたゆえ、これから」
「ああ、かまわん。行ってこい」
「あ、ありがとうございます」
言葉を言い切る前に許可を出した蓮に面食らいながらも、馬孫は頭を下げた。
いつもの、どこか突き放したような声ではない。あたたかく見守るような気持ちがにじみ出ている声色だった。
主人のことなのですべてお見通しなのかもしれない、と、内心ひやひやしつつ、馬孫はその場を離れる。
まだ彼女は恋人と邂逅できていない。その未練が果たされぬままにあの大切な拠り所が失われるというのは、霊としての目的、意志……すなわち存在理由に関して重大なゆらぎを及ぼしかねない。
特に彼女は俗世とかかわらないタイプの霊だ。このことを知っているという可能性は低いだろう。だからたとえ切られることが決定しているとしても、突然その時が訪れるよりは、事前に知らせておくことで彼女へ波及する負の感情が軽減するかもしれない。
一刻も早く伝えなければと逸る心と、嘘ならばよいのにと祈るような気持ち、そして伝えてしまったあと彼女がどんな顔をするかと、それを想像してしまえば半ば恐ろしくもあった。