そのほか
おなまえ
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きょうは、授業で失敗した。目の前で名前を十回呼ばれるまで気づかなかった。曲がり角で曲がるのを忘れて壁に激突した。
彼女のことばかり見ていて、思い出していて、考えていたからだ。
あの放課後の景色、はじめて感じたあなたくんの手の温度、俺のなにか大切なものがぐずぐずに溶かされて大切に奪取されたような感覚、に、おぼえた充足感たりえる感覚。あの日経験したいくつもの知らない感覚が、着実に俺の日常を食んでいく感覚。
どうしようもないほどたくさんの感覚たちが、なにをしていても手のひらによみがえってくるのだ。
本格的に、本当にまずい。
このままでは、気が利き屋さんな彼女のことだから、一度距離を置いてみようとでも切り出してきかねない。それ以前に、ここまで腑抜けた俺に愛想をつかしてしまうかもしれない。いや、それはないか。
もちろん、一度距離を置いたからといってこんな状態を脱することのできる保証はない。というよりも、確実に、俺のこれはもっと重症化してしまうだろう。
なぜなら、そんなことになったら、寂しい。とても寂しいから。
壁に激突どころか、個性まで使って廊下を走り回り、すごい速度で壁を破壊してそのまま空のかなたへ突き抜けていくかもしれない。あなたくんのいるところに、すぐ飛んでいってしまうかもしれない。
もうそれくらいの事態なのだ。
だからヒーローを目指すものとして、委員長として、男として、人として!
俺はこれ以上甘えているわけにいかない。
だから今度進展するとしたら、今度こそ、俺から。俺から切り出すべきなのだ。切り出される前に、俺が先手をとる。
これは、俺が普段どれほど彼女にどきどきさせられっぱなしであっても、いつも彼女から手を差しだしてもらっていても、愛玩のような言葉を受けて甘んじている、というより喜んでいるような立場であっても!揺らがぬことだ。
そう、強く決心した。
「飯田くん、してもいい?」
だが事件が起こるのは、いつもなんでもない日だ。
なんでもない日の夕焼けは特に赤く燃えているものだ。
きょう一日ずっと暑くて、俺たちはどこか、からからに渇いていたように思う。その慰めかのように白んだカーテンの揺らぎが、日没を寂しく告げる。もう三十分もすれば、雲のない空は濃紺でいっぱいになって星々を腕に掻き抱くことだろう。という時刻。
例によって放課後。
もう帰ろうかと提案したほうが負けなのかと錯覚するほどの、意味もない居残り。
そして、ふたりきりの清潔な教室を割るがごとく、彼女がそう、口を開いたのだ。
「ん?いいが……なにをだい?」
なにやら切り出してきたので、とりあえず許可を出しておく。するとあなたくんはどこか苦い、複雑そうな顔をした。
「だめだよ、詳しく聞くまえに承諾したら」
「あ、ああ……確かにそうだ。詳しく聞かせてもらおう」
その通りだった。俺が彼女の目線に合わせるようにして少しかがんで返すと、なにかを予感させるような浅い深呼吸ののち、あなたくんはその口を開いた。
「うん。あの、キ……、……チューを。してもい」
「キッ!!!……ッス、いや!!チュッ……ッ!!!を?!!!ぐっごほ!うっ失敬……ごほげほっ」
なんと!
驚くべきその言葉に俺はのけぞった!
だだん!と、やけに大きな足音が教室の空気をゆらす。どれほど強大な敵に相対してもすることはない後ずさりを、大切な人の前で思わずしてしまったのだ。
しかも突然大声を出してしまったので、ものすごくむせた。
そんな俺の背中を追いかけてすぐにさすってくれるあなたくんが、心配そうな声をあげる。
きょう!たったきょう!
なにかしらの進展を切り出すのは俺からだと決心したばかりだというのに、その日のうちにこのありさまだ……
「あ、あの、ごめん急に。びっくりさせちゃって。大丈夫?」
「い、い、げほっ、いや。かっかまわない!もちろんかまうが、かまわない。むしろ、俺のほうが……すごく動揺して、しまって。申し訳ない」
正直、いまも触れられている箇所に意識がいってしまっているので、自分がなにを口走っているのかには十分注意しなければならなかった。
「、キ……せっぷ……んんぐ、くちづ……け……んんっ。おほん!その行為!を……俺と?なぜ、急にそんなことを……」
なんとか咳ばらいをして頭をひねり、その破廉恥な言葉を口にすることを回避する。別に、あなたくんは言えと強要などしないしなんの気にも留めないだろうが、それでもなんとなく気恥ずかしい気持ちが沸き上がってくる。しかもこの口調だと、したくないと思っているふうに取られてしまうかもしれない。失敗した。
「きょう三奈ちゃんたちにさ、そういうのは?とか聞かれてね。なんか……」
「芦戸くんたちっ!なんと……」
いまどきの女子高生というものは、そういった話題も臆さずに口に出すという。
どうやらそれは本当らしい。自分を対象とされるとは思いもよらなかったが、そういうこともまあ、あるのかもしれない(俺とあなたくんとの関係は大々的に公言してはいないものの、追及されたあなたくんが否定をしないこともありみんなに薄々勘づかれてきている気がするため)。
俺が仰々しく驚いてむせてしまうほどのその行為すら、彼女たちやあなたくんにとっては話題のひとつとして消化されてしまえるものなのかもしれなかった。
そう、半ば乖離を感じつつうなずいた。
すると、彼女は付け加えるようにして言う。
「だけどね、んー……まあ、それを言い訳にするのはちょっと、よくないし。だからほんとにそういうの抜きで、さっき私が、したいなと思っちゃっただけ……で。ごめん」
「ん、あなたくん、が俺に、……」
「うん、すごく、横顔がきれいだったから。好きだなって」
その言葉を聞いたとたん、胸じゅうが鮮やかに感動したような色に駆られた。俺という人間が、大切な人から魅力的に思われているという告白。
あたたかくて、丁寧で、何重もの上等な布にくるまれた心。その少しを、分け与えてくれるのだ。鼓動する。あたらしく鼓動しはじめて止まらないのが、俺の胸に宿る。
このひとは、俺に何度恋を教えれば気が済むのだろうか。
たといその欲望がただの好奇心だったとしても、実験的だったとしても、かまわないとさえ思えた。
きみの横顔もきれいだなんてこと、俺だってとっくに知っていた。なんというか、すごく、好きだと言いたい気分だ、あふれるくらいに。
「あっ、ごめんなさい。無理しなくていいからね。ほんと、ただのわがままだから」
「無理!じゃない!無理じゃない、無理しているのではなく、ただ、……」
安定しない声でつんざいた否定も、唾を飲みこむ音をすら、あなたくんが黙ってうなずいて待っていてくれる。
その目のことが、僕はどうしても、ひどく好きだ。
「そう言ってもらえて、うれしく思う。僕もきみと……したい……よ、その………、」
「言わなくても大丈夫だよ、うん、ありがとう」
「す、すまない。こちらこそ、ありがとう」
握りこんだ拳は痛いほどだ。こういう場面に余計な力は必要ないと頭ではわかっているけれど、彼女の前ではいつまでも肩ひじを張って緊張してしまう。
それでも、その感情すら尊重してくれるなら。これから僕たちを迎えるであろう苦難や幸福のたったひとつたちを、丁寧に慮ることができるなら。
ゆらいだりゆらがなかったりする気持ちひとつひとつを、きみに読み取ってもらって、そして僕もそうすることができたなら、どれほど幸せなことだろうと感じる。彼女となら、ずっと思いあうことができる気がするのだ。
夢を見ているようだ。この夕焼けの夢の中で、ぼうっと遠い将来の蜃気楼を、てのひらにおさめるように感じた。
「じゃあ、」
そう発したあなたくんの表情が、先ほどとはどこか変わった。やわらかいままなのに、なにか、欲しているような。今まで見たことのない表情に、まんまとどきりとした。
「ん、」
いとも容易く緊張の糸玉をほどいていくあなたくんの手が肩に落ちて、さっそく、いや、いよいよ、ぎゅっと目をつむる。
まぶたのあたりが震えるほど、力が入ってしまう。それに、口のあたりに全神経を集中させていると、気恥ずかしくてたまらない。
こんなことはいけないと思う反面、はやく、来てほしい。
こうしているだけなのに、まだ待っている段階にすぎないというのに、十分にいつもより近づいた距離が、はしたなくももどかしかった。
だが、そうして待てども待てども、なかなかその感触はやってこない。
どうしたかと目を開けると、とたんに視界じゅうを夕暮れが刺してくる。まばゆくて何度かまばたきをすると、そのつぎに、僕の瞳孔は面映ゆいきらきらに包まれた、彼女の困り顔を彩っていた。
「あなたくん、?俺はいつでも……」
「ごめ、ちょっと、高い……かな?」
「えっ?」
一瞬なんのことかつかめず、素っ頓狂な声が出た。
「飯田くんが……」
「……あっ?!」
なんということだ。
なんという……僕はかがむこともせずにただ目をつむって待ちぼうけていたのだ。彼女もきっと、僕が少しだけでも縮こまるのを待っていただろうに。
些細な気遣い、いやそれ未満の最低限にも気を配れなくなるほど余裕を失った待ち顔は、どれほどアホみたいだったことだろうか。
期待をぱんぱんに膨らませ、過剰なほどぎゅっっ!と目をつむっていたうえ、くちびるなど少しすぼめてしまっていた気がする。
そんな間抜けな顔を観察されていたかと思うと!あああ……!恥ずかしくて顔から炎が噴き出すようだ。
「また僕はっ……!すまない!!本当に気が利かん男でッ……」
手をつないだときに続いて、またも失態を犯してしまうとは。
自分で自分にあきれてしまう。
「あはっ、いや、ぜんぜんいいよ。頭あげてよ」
「いや!俺だけじゃなくきみにも恥をかかせてしまって……!申し訳ない!!」
すばやく頭を下げる。
どうしてこの姿勢になるのが恒例のことのようになっているのだろう。前回のことで、あんなに恥ずかしいことはもう二度としないと強く誓ったはずなのに。
もはや燃え盛るように熱い頭を下げたままでいると、彼女は以前のようにまた撫でてくれる。
重力にひたって落ちる髪の流れを乱すようにして。そうされるだけで、不思議と力が抜けて、関節がふにゃふにゃになってしまう心地がするのだ。
こうされたくて頭を下げていたのではないのだと心の中で言い訳をつぶやくほどに、この行為たったひとつで文字通り骨抜きにされてしまう。
「大丈夫だよ、気にしないで。かわいいから。ね」
「ん……や……僕は、かわいくなど……」
髪の毛をもてあそばれる一秒を更新するたび、なにかが欲しくなってくる。
「よしよし」
「んんん……」
撫でられつづけている頭が、みるみる位置を下げていき、俺はしゃがみこむようにして姿勢を低くした。恥ずかしくて顔を上げられないのに、身体はもうこれ以上下げられない。
彼女が俺を「かわいい」と言ってくれるのは、その言葉がたぶん、「好き」と同じ意味を持っているからだと、かすかに一縷の希望のような考察をしてしまってもいいだろうか。あなたくんにとって大切で在れる俺でいることは、俺にとってもすごく大切なことだと思う。
「いまなら、しやすいかな」
その言葉に顔を上げてしまうと、もう。
「あっ、ッん!」
ふいをつき、つかれるように、僕らは重なった。
丁寧に奪われた唇から、すべてが伝わってくるようだ。
恋しがっていたのは僕だけではないのだと、僕を離さない、淋しがらせてくれないやさしさが、たちまちに包んでくれる。
目をつむる。
感触が、ふれている感触が、こそばゆいほど伝わってくる。
与えられるような体勢なのに、僕たちは分かち合っている。かぎりなく赤色に近い熱が壊れそうに揺らぎ合っている。ひどく感動したような気分だ。このまま時が止まればいいと幻想するほどに。
ずっとしていたかったが、息ができなくて、苦しくてこわばった息がつい漏れる。
すると、僕を見かねて彼女から口を離してくれた。離してほしいと思ってはいなかったので、正確に言うなら、僕の身を気遣ってくれた。
「……ごめん、急に。大丈夫?」
「は、ぁ……だ、ダイジョーブ。とても。大丈夫、で、その……うれしくて……心地よかった……」
酸素を取りいれても、頭のぼわぼわしたのが取れなくて、たまらなかった。単なる酸欠だけでは、ここまでにならないだろう。
格好の悪い曖昧な舌ったらずなまま、僕は思わず彼女の腕をつかみつつ感想を述べた。素面のときに思い返したら卒倒してしまうだろうというほどに、素直にあてられていた。酔っていた。魔法にかかっていた。
「あっ、ぁ……すまない」
ひと呼吸おいてから、自分がどうして彼女の腕をつかんでしまったのかわからなくて困惑してしまった。彼女にしてみれば、迷惑な話ながら。
「ううん」
気づけば、俺は跪くような姿勢になっていた。
あなたくんは、離れていくでも振りほどくでも手を添えるでもなく、あくまで受容だけをして待ってくれている。おそらく、運命づけるような俺の言葉を。
ああ、俺は、まだ離れたくない。のだろう。だから無意識のうちに、身体が動いてしまったのだろう。
彼女のてのひらを、俺の頬に案内する。はじめてのときより繋ぎなれて、触れなれた手を。ゆっくりと、間違えないように。間違えたとしても、きっとやさしい彼女は許してくれることだろうが。
それでも、いまだにふつふつと融ける体温に導くように、俺に誘われてくれるように、なるだけ上手に。
目が合ってしまうと、照れくさくて沸騰してしまいそうだ。
「飯田くん」
きみにそう呼ばれるだけで。
「あなたくん。……来てほしい、もう一度、あの、きみがよければ……」
「……わかった。ありがとう」
「……こちらこそ」
ぐっ、と、距離が近くなる。もう僕の頭は壊れかけていて、僕が近づいてしまったのか、彼女が近づいてきてくれたかもわからない。
「鼻で息してみて、もし苦しくなったら、すぐ合図して、ね」
頬にぴったりくっついたままの手から、指先だけが僕をさらに壊す動きでなぞられる。
息。もうすでに上がりかけているというのに、そんな余裕があるだろうか。鼻で息。鼻呼吸なんていつもしていることなのに、おかしい。いまさら教わるなんて、ことごとく、恋は人を変にするのだなと思う。
「わ、かった、善処する……」
途切れ途切れに、僕は唾を飲みこんだ。その声は、自分のあまりにも大きい心音のせいか、やけに弱々しく小さく聞こえる。
彼女が垂れた髪を耳へかけた。
だめだ、もう、ああ、重なる。してしまう。また……
その瞬間、ふいに、いつの間にか僕の頭に添えられていたもう一方の彼女の手が、すべるようにしてうなじをさわった。
「ッうぁ!?」
これで声をあげてしまったのは、仕方のないことだ。こんな状況でこんなことをされたら、誰でもこうなってしまうだろう。だから仕方ない。言い聞かせる。
後頭部の、ほかより短く刈り上げている部分。
それは肌を直接さわられるよりもむしろ、誘惑的である行為に思えた。粟立った首筋のあたりまで、じわじわ熱がやってくる。もう、こんなところ、普通なら熱くなったりしないのに。
大罪的なまでにやわらかな指先と、耳元でざらり、と鳴った音がいつまでも反芻されている。
「あ、ごめんね、びっくりしたよね」
「あッいや!なにも問題はない、うん、なんにも。はは……」
取り繕うようにして笑う。あわれな自己暗示だとしても、胸の内側で深呼吸をするように。そうしたらやっと、いくらか緊張がほぐれたような錯覚がした。
「でも飯田くん、声、かわいかった」
せっかくほぐれたというのに、彼女は秘密をつげるように、こしょこしょとした声で告げた。
「はっ……?!」
もう、すでに顔から噴火が起こっているんじゃないだろうか。僕というものは、どこまでも、きみに壊されることができてしまうようだ。
腕もなにも動かせない状態のままなので、熱をどこにも逃がせなくて、もっと関節が固まってしまう。いや、逆で、ふにゃふにゃしすぎているのか?もうわからない。
まるで『愛している』みたいに「かわいい」と言うものだから、ずいぶん単純になった僕はうれしさでどうにかなりそうになっているのだ。だから、なにも言えないまま、縛りつけられたように待っている。
「はは。ごめん、……いい?」
あなたくんは、乱れていた僕の前髪の分け目をさらりと整えながら言った。その睫毛のきらめきと陰翳、誘惑に似た指づかいといったら!
「んん……ああ、僕はいつでも……いい。ん……」
降伏宣言でしかない許可を出したなら、すぐに塞がれる。
待ちわびた感触が、ふたたび降り注ぐ。
目を開いたままだったのがなぜか申し訳なくなりあわててぎゅっと瞑った。そうしたら、錯覚かもしれないが、その感触がもっとこそばゆくなる。柔らかくて、融けてしまいそうに。すべての意識がそこに集中してしまって、身体じゅうのどこにも力が入らない。
喉が緩んで、思わずなんともいえない声未満の吐息が漏れそうになる。文字通りの骨抜きだ。恋をしている僕はなんと、腑抜けたことだろう。
これほどまでに余裕がなくなるなんて、おそろしい行為だ。キスというものは。特定の部位同士をただくっつけあっているだけなのに。
それ以上になんの動きもない、夢の中で時間が止まったときのようなあまい眩暈。目を閉じているはずの視界が、暗いままぐるぐる回っているような酩酊感(飲酒の経験はないがこう形容するほかないと思われる)をくちびるから直接くらう。
その感覚が怖いのに、いとおしい。
だから現状、僕があなたくんとのそれに夢中になりつつあるのは確かだった。
僕の唇は中途半端に震えていた。もしかしたら、あなたくんの口にも伝わって、くすぐったいほど震わしてしまっているかもしれない。それでも、力を入れずにいられなかった。
すると、そんな僕のことを見かねてか、彼女の手がいつの間にか肩にやってきて、落ち着かせるみたいにして撫でてくれた。しかし残酷にも、そのせいでますます落ち着かなくなっていく。
ぽんぽんと、子どもをあやすようにされると、本当に恥ずかしくてたまらなくなる。体内には鼓動だけがばくばく響き渡って、息が苦しくなってくる。
どれほど陶酔の魔法がかかっていようが、やはり苦しいものなのだ。
けれど僕はその最中に「鼻から息」を思い出した。
「っふん、ん……」
彼女にも触れているであろう吐息の残滓がどれほどの高温だろうかと想像すると、教えをそのまま実践しているこの瞬間にどうか気が付かないでほしいと思わざるを得なかった。
しかし、辛うじて吸いこんだわずかな酸素で、僕はこの時間を延長させることができたようだ。
そううれしくなった瞬間、突如としてあなたくんは口を離した。
「ッえ……、?」
予想外の別離によって思わず声をあげた僕に、彼女はなぜか笑いかける。
「じょうずだね」
そして未だ体勢を低くしている僕の頭を、そう言ってまた撫でた。その声はそよ風のようなのに、いやに熱い。じわじわと空気に残留して、頬にはりついたまま飛んでいってくれない。
これは最近気が付いたことなのだが、彼女は、僕にだけちょっぴり意地悪だ。
その意地悪に僕がどんな反応を返すか、どんな声で戸惑うか、見定めている。抜き打ちテストのようなその気まぐれに、僕はいつも動揺しきりで心臓の奥の恋情をわななかせている。くすぐったいのでも、触れてくれるのが彼女の手ならそれでいい。
もしかしたら、もう僕はだめになっているのかもしれない。
そうぼんやりと考えながら、甘んじて彼女の手を受け入れたそのとき。
「あれ?まだ残ってる人い……あ、」
突然、がらり、と教室のドアが開く音。そして声。
「だあッッ!!!?」
俺は驚いて立ち上がった。
その勢いのよさに、彼女の手がばいーんと波打つように離れる。意味のない大声を上げてしまった俺の慌てように反して、あなたくんは落ち着き払った顔だ。
「あ、緑谷くんだった。自主練?お疲れさま」
「わかっ……!?」
っていたのか。
もしかして、誰かが教室に入ってくる気配を察知していたから口を離したのか!?それならそうと言ってくれればよかったのに。
それに、あれほど破廉恥な行為をしたあとに、どうしてそんなにけろっとしていられるんだ?ああ、また……俺は思惑通りにうろたえている。
「いや……あの……ごめんなさいホントに……」
緑谷くんも、俺の顔色とこの場の空気を見て悟ったのだろう。交際を公言していないはずなのに、どうしてか俺たちの関係はクラス中になんとなくばれているのだ(原因としては前述のものが有力か)。
恋人同士が放課後、教室に残ってふたりきりですることと想像するならば、……やましい!やましすぎる!
彼は俺たちが何をしていたと思って謝っているのだろうか。だがどう思っていようが、正直に「キスをしてもらって、息継ぎがじょうずだと褒められて撫でられていた最中だったんだ」と弁解するわけにもいくまい。
「大丈夫だよ。あ、もうこんな時間。帰ろうか」
ああ、彼女が冷静なおかげで、二倍、いや十倍も恥ずかしい!
「………ああ……うん。帰ろう」
これ以上隠しても無駄だと身体が判断したのか、僕の声には未練があふれ出ていた。この期に及んで……もうあの空気には戻れないというのに……緑谷くんがどれほど鈍感であろうとも、易々と感じ取れるだろうというくらい顕著に。
彼女はもう荷物をまとめはじめている。僕も、身体を動かしたい気持ちになってそうする。
「ごめん、飯田くんも……あの、僕はすぐ帰るからぜんぜん」
「謝らないでくれ!ますます……、うぐう……」
もはや熱暴走しそうな頭をかかえてうずくまりたい、いや、もうむしろ全力で走り回りたい気分で天を仰ぐ。今はただこの顔の熱が冷めるまで、どこまでも走っていきたい……
めがねを掛けなおすふりをして、手で顔を隠した。
「ああさらなるダメージ!本当にごめんっ」
「謝らないでくれッ……!ぐっ……うあああ」
「あああ!ごめっ……ああ!わああッどうすればああ」
「よし、じゃあ三人で帰ろう。あ、教室のカギ職員室に返してくるね」
てんてこ舞いな僕らを廊下へやって施錠まで済ませ、あなたくんは呑気に笑った。
ああ、やっぱり先ほどまでとは違う健康的な笑顔だ。あしたこそふたりきりで……なんて、過ぎたわがままだろうか。きっと、そんなことを言ってしまったとしても、また『かわいいね』なんて笑ってくれるような気がしてしまう。
「いや!僕が!僕がカギ!返してくるからァ!………」
「あ」
突然、緑谷くんはチャンスだ!とでもいうように駆け出して、あなたくんの手からカギを奪うとそのままの勢いで去っていった。それはもうものすごい勢いで、すでに背中が見えなくなった。
「ありがとうー……」
彼女はもう見えない背に感謝しつつ、危険行為を食い止めることもできず、力なく注意の声を発した僕に、笑った。
「こらっ、廊下を走るんじゃない……」
「元気ないね、またふたりになれたのに」
クラスのみんなに見せるのとはわずかに違う、おそらくは僕にしか読み解けないほどのよこしまが含まれた笑みに戻っている。これが、僕はおそろしくて、とてもいとおしい。
「んぐっ……いや……ッ!、教室は閉めたのだし、大人しく帰ろう。遅くなってはよくない」
「うん。そうしよう」
「っわ」
そのままの笑みで、彼女は僕の手をいともたやすく奪った。それと、心なども。
驚くほど簡単に、もとから自分のものだったみたいに奪うので、僕はすでに彼女のものになっていたのかと錯覚してしまう。
やはり、あたたかい。何度でもくりかえし実感して感動する温みに、だんだん溶かされていく。
廊下に伸びてとろけるふたりの影は、恋人すぎるほどに恋人だ。夕暮れをそのあかしのように燃やして、拙い僕の恋がまた一日過ぎた。
いつかはこの体温やあの感触にも慣れて、大人になるのだろうか。彼女のような余裕を持てるだろうか……蜃気楼のごとき遠い気持ちになりかけては、手指に引き戻される。
僕たちがこの先どうなろうとも、このままであれたらそれで。この体温以上のなにを求めることもない。
放課後の暮れの恋人繋ぎへと、ぎゅっと願いをこめるように、好きだと思った。
「バレバレ、ほんとバレバレすぎ!なぜなら飯田がヤバいから!」
「授業中とか、あなたちゃんのことよく目で追いかけとるよね。たまに足でも……無意識かもやけど……」
「よ~く見なくてもすぐわかるわ。飯田ちゃんはウソがつけないものね、ケロッ」
「ええ、存じておりました。明言はされてないようですけど……お互いをとても想いあっているおふたりだと思いますわ」
「いや……飯田、わかりやすすぎっから……あーもーこっちが恥ずいぐらいだわ!」
「うーん。あなたはあんま動じないタイプだしさ、飯田さえしれっとしてれば隠せてたかもだけど……や、ムリか、ゴメン」
「え?あいつら、付き合ってたのか。どうりで、あなたの前だといつも以上に飯田の様子が変だと思った」
「飯田少年、授業に集中しなさい。でも青春でいいな~!」
「飯田くん………ガンバレ!!」