そのほか
おなまえ
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まちあかりの残像で星空がおしのけられ、窮屈な飲み屋街を人々が練り歩く金曜日。もうかなり深い時間であるにもかかわらず、狭い道を這うようにして、笑い声と酒とたばこのにおいがたちのぼる。
あなたは繁華街からわずかに外れ、歩みを進めている。
その足は駅を目指していた。しかしふたり分の足音は調子がどうにも合っておらず、片方だけがだんだん強くなる。あなたの懸命であってさりげない誘導が、だんだん押し負けていく。
「いやあ。あなたちゃん、意外と強いよねええ……」
突然、上司がむぎゅっと肩を組んだ。その勢いであなたは少しよろける。
「まあ私も強いけょねえ!あはは!」
「あっえ、いや……あのもう、おひらきに」
「だからもう一軒ん~!いこっ!ねえ?」
あきらかに滑舌が泥酔を物語っているが、上司はねだるように身体をゆらした。もう帰った方がいいと提言しようとしたあなたの身体もゆれる。傍から見れば、ふたりで陽気に踊っているようだった。
まさかのアンコールに驚きつつ、しかしあなたは断り切れず、どこへ案内されるかもわからないまま、上司に手を引かれるのだった。
黒い風が吹いている。
路地裏には絶えずなまぬるく晩夏の火照りが居残っている。
繁華街をさらに離れ、怪しい雰囲気のただよう通りに入った。ビールケースの塔、屋外なのにほこりっぽい空気、少ない街灯と汚れた室外機が並ぶ道のりに、またそれでも歩みを止めない上司にも恐怖を感じながらそのまま連れられ、あなたははじめてそこへ足を踏み入れた。
「あー!ここよさそう」
店構えからしてバーであるようだが、看板などが出ていない。営業しているのかも怪しいほどだ。
「ここはいろおー」
しかし夜風にあたっているというのにまったく醒める気配のない上司がなだれるようにしてドアを押すのを、あなたはあわててやめさせ、そろそろと開けた。
うす暗い店内は、ぐるぐる見渡さなくともすべて視界におさまるほどこぢんまりとして、そして静かだった。立地のみならず、店内までまさに隠れ家といった様相だ。
シンプルな造りのカウンターに、テーブル席が一組のみ。どう見ても大衆向けではなく、二軒目に選ばれないような店だった。
ジャズらしき音楽がかかっているが、その音量はかなり小さく、かすれていた。それによって、まったくの無音よりも沈黙が際立つ。
しかし、レンガをほどこされた壁紙に、わずかに橙がかった照明があたたかみを感じさせる。
ふたりとも一見であるので不安だが、慣れれば親しみがもてるかもしれない落ち着き、といった印象だった。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
ドアがばたんと重く閉じられるとともに、もやもやとした黒い顔部分から、黄金に光る目をわずかに細め、マスターが放った。
あやしくも優しい声だった。踏み入れてしまった、と考えかけていたのが失礼に感じるほどに紳士的な店主のようだ。
あなたはその場に立ち尽くして店内をながめるのをやめ、慌てて男に会釈を返したが、どこへ座ろうかと悩んでしまった。するとそんな様子を見かねて、すかさず「お好きなところへ」とマスターから声をかけられる。
すぐさま上司のほうがそれに応じ、ふわふわした足取りでテーブル席のほうへ向かった。
あなたはその危なっかしい足取りに肩を貸しつつ、狭い店内においてもっとも気になる要素に目をやる。
カウンター席におどろおどろしい風貌をした痩せぎすの男性がひとり座っているのだ。
グラスが申し訳程度に手元にあるものの、客かどうかわからないほどに堂々としており、さらに店主の真正面の席に座っていることから、店主の知り合いかと思われた。
そのように思考をめぐらせていると、男がわずかに振り向き、一瞬目が合った。
「っ」
あなたは驚きの声を抑えながら、あわてて逸らす。男もすぐに正面へ向き直った。
まだ不気味な眼光に心臓がこわばっているが、わざわざ声をかけたりあいさつしたりするのは不審かと考え、黙って歩いた。じわりと背中に汗が滲む。
どことなく、店の内装が与えるあたたかなイメージをこの男ひとりが打ち消しているかのような雰囲気が流れていた。
あなたは、そんな男の横をできるだけ足音を立てないよう通り過ぎて、緊張したままテーブルにつく。
そんな中でも、上司の高い声は静けさをまろやかに割く。
「いやぁ。こんなとこはじめてきたよねえぇ」
「や、やっぱりそうだったんですね……」
もう少し静かに、といまの上司に言ってもきかないだろうと踏み、あなただけが小さめの声で返すので逆に目立っていた。
「お越しくださりありがとうございます」
マスターがカウンターの向こうから言葉をかける。
あなたはその声にはっとして、なにか注文しなければと思った。
「あ、す、すみません。お水と……」
「おみずうう?おぉい!なんでよ!日本酒かなんか!水割り!で!」
「ちょっ、ちょっと……」
「この子にも日本酒!ぜんぶで2こっ!」
なぜだか上司の酔いはさっきよりも増しているようだ。
どんどん上がる声のボリュームで、たしなめようとするあなたにかぶせて注文を放つ。
「……かしこまりました」
マスターはひとつ頷くと、背後の瓶を手に取った。
あなたは通ってしまった注文と上司の様相にぎゅっと、こらえるように強いまばたきを二、三した。
カウンター席に座る男への、またマスターへの緊張感はまだまったく拭えていない。いくら店内の雰囲気が落ち着けるものであっても、いかんせん状況がよくないように思えた。
水をくださいとこっそり頼みたいが、この狭さと近さと静けさではそうもいかないだろう。いろいろ考えつつ横目で見ると、この場所にくるきっかけとなった当の彼女は、ご機嫌そうに店の内装をきょろきょろながめている。
あなたはそんな上司のことが嫌いなわけではないが、ただただその強引な大胆さに緊張しきりだった。
このままの感じでいくと終電も逃してしまいそうだ。タクシーで帰る、のはけっこうかかりそう、どうしよう……と、考え込んでしまう。注文の酒が届くまでのわずかな間に、あなたはぐるぐると思いを募らせていった。
そうしているうちに、透きとおった液が注がれたグラスが置かれた。
「……お水です」
マスターがひそやかな声であなただけに告げた。
たまたま日本酒を注文したのが功を奏したらしく、上司はそれがただの水と気づかないままさっそく口をつけている。「おいしい~!」と大げさな声をあげながら。
あなたは驚くとともに、プロの心遣いにいたく感激をおぼえた。
「す、すみません。ありがとうございます……」
「いえ。」
静かに礼を言うと、マスターは微笑み、カウンターへ戻っていった。
その顔が印象的だった。
疲れる一日だったけれども、あの場所にはまた行ってみたいなと思えた。
それから何日か後。あなたはたまたま、あの日の路地裏を通りかかった。
「あ、ここ……」
「………いや……んー……」
あれよあれよと店の前まで足を運んでしまったが、ひとりで入るのはためらわれた。
前回とは違った状況なため、また違った緊張がぽつぽつと生まれてきたのだ。ドア前に立ち、うーんと唸る。幸か不幸か、この店に入ろうとする客の存在はなく、彼女が他人の入店の妨げになることはなかった。
客どころか、人通り自体が薄い路地だ。どこも薄暗く、怪しい雰囲気は相変わらずだった。
そう意識してしまうとだんだん怖くなってきて、「きょうのところは帰ろうかな」となんとなく決め、踵を返しかけた瞬間。
突如ドアが開いた。
「んわっ!」
あなたはぶつかりそうになり、反射的に声をあげてしまう。
どうやらマスターがドアを開けたようだった。
「おや、……はは」
マスターは隙間からもやもやと顔を出して、悲鳴の出所を確認すると、なぜかやわらかく笑った。
「え……」
思いがけない表情に、あなたはその笑顔をきょとんと眺めてしまった。すると、彼はその視線にはっとして、謝罪を口にする。彼自身も、自分がなぜ笑ったのかわからなかった。
「……ああ、申し訳ありません。お怪我は?」
「あ、いえ、大丈夫です……」
「よかった。それで、どうなさったんです?こんなところで」
「あっ、……えと、あの……きょうはひとりなんですが……」
まごまごと口ごもるあなたを、ほほえましいと言わんばかりの表情で見守るマスター。
「ええ。よければお入りください。」
そう言うと彼は店内を見せるようにして、ドアを大きく開いた。
カウンターにもテーブルにも、客は誰もいない。
きょうは緊張感を放つあの男性もいないようなので、あなたは単純ながら少し安堵する。
もう帰ろうと思っていたはずなのに、マスターのひと押しで店に入ることに決めたのだった。
前回とは違い、カウンター席へ案内される。
かすれた小さなジャズは変わらず、端に置いてあるジュークボックスからつるつると橙色の空気を流れていた。
マスターの真正面に座るのはどこか恥ずかしく気が引けたため、真ん中からひとつずれて座った。
そして腰を落ち着けたところで、互いに軽い自己紹介をした。
マスターの名は黒霧といった。
あなたはハイボールを頼んだ。
ときどき軽い雑談がふんわりと交わされるものの、基本はグラスを拭く音、氷がかたむく涼しげな音、一曲が終わって次が始まるときの沈黙音、声ではないたくさんの音で、ふたりは過ごした。
店内はほとんど静寂に包まれていたけれども、互いによく話すほうではないし、これが一番落ち着く形を無言のうちに譲歩しあって納得できるような過ごし方だった。
そうして何杯か分の時を過ごし、会計を終えたあと、あなたは「ありがとうございました」と頭を下げた。ほんのりと色づいた頬は、どこか安心したようにほころんでいる。
「とんでもありません」
「いえ……あの、また来てもいいでしょうか」
おずおずと、あなたが切り出す。
「ええ。もちろん」
店前で見せた顔とはまた違うあたたかさで、黒霧はにっこり笑った。
あなたはそれから、残業に追われた日の帰りにはバーに立ち寄るようになった。
最初のとき目を合わせてしまった威圧感のある男性や、またときどき壁にもたれかかるようにして黒髪の男性が立っていることもあり、あなたは彼らにおびえつつも、黒霧との交流に楽しみを見出すようになっていた。
何度も通ううち、来店のたびその男性たちともあいさつ程度の軽い話を交わせるようになったほどだった。
黒霧はいつも横目でそれを見ていた。
行きつけのバーというものができるのは、あなたにとって初めての経験だ。
仕事や人間関係について、黒霧にささやかな相談をすることも増えた。
最初は少しおどおどしていたあなたの態度も徐々に打ち解け、やわらかいものになっていった。ふたりの会話にはいつでも、二度目の来店のときのように静けさと優しさがあり、互いを重んじあうような笑顔が増えた。
落ち着いた店内の空気と黒霧との温和なやり取りによって、ちょっとした心のささくれを癒してもらっているような感覚が、いつしかあなたの中で芽生えていた。
「黒霧さんは、いつもおやさしい……ですね」
「いえいえ。あなたさんがよくがんばってらっしゃるのを知ってますから」
「えっ、いえいえいえ……!ありがとうございます」
「こちらこそ」
次来るのが楽しみになるほど、快い時間を過ごした。
だからまた次も楽しく過ごせるだろうと、ふたりは思っていた。
そして、ひときわ曇りたくった夜空のある日。
「こんばんは」
あなたの声が、店内の静寂を控えめに割った。
「こんばんは。」
黒霧は振り向きざまに、心地よい声に答える。
「こんばんはー。」
その日、二人目の男の声がついてきた。思いがけないそのあいさつに、黒霧は「おや」と声を漏らしてしまった。
その声で静寂は若干の緊張を帯びる。
あなたはわずかに変貌した店内の空気感に初めて来店したあのときのような怯えをみせつつ、同僚を連れてきたと説明した。当の同僚も、彼女による紹介が終わると改めてあいさつをした。
黒霧は、無意識のうちに彼に対して「可もなく不可もなし」と感じたが、初対面の人間を第一印象だけで勝手に評価するのはよくないと思いなおし「お好きな席へ」ととりあえず促した。
あなたは、正面からひとつずれたいつものカウンター席につく。それについていくようにして、同僚がその隣、黒霧の正面へと座った。
「すごい隠れ家って感じ。なんか、あなたちゃん大人っぽいんだね」
ごく小さなジャズに紛れるようにして、同僚がひそひそと話した。あなたも、それに返すようにして小さく笑った。
黒霧は囁き声とともに近づいたふたりの顔を二秒間ほど見つめ、ご注文は。と短く問う。
「あ、えーと……あなたちゃんはなに飲むの?」
「え、いつもはハイボールとか……かな」
「じゃあ、俺もそれで」
並んで同じものを注文するふたりが恋人のように見えた。
そのシルエットが、さも正しい恋人の在り方のように、一瞬錯視した。
「かしこまりました」
それでもきわめて冷静な声で揃いの注文を承ると、くるりと後ろを向いて酒の準備にとりかかる。
あなたにはその後ろ姿がいつもと違って見えたが、どのように違うかについては詳しく察することができなかった。
他愛のない会話は、ふだんよりさらに他愛なく、微風じみて流れ去っていく。三人というよりは、あなたと同僚の間で交わされる言葉たちに黒霧がときどき参加するという形式で、会話は店内に満ちていった。
あなたはいつもより静かな黒霧に一抹の寂しさを感じたものの、その代わりをつとめるかのようににぎやかな隣の同僚を見て、こういう日があってもいいか、と、切り替えた。
「おや。そのネックレスは……」
ふと、黒霧が見たことのないネックレスが、あなたの首もとできらりと光った。
小さな
「あ、これ……」
「俺があげたんすよ」
すると彼女の代わりに、すかさず同僚が黒霧に返答した。
黒霧は、あなたの口から紹介されたばかりであるはずの彼の名をすでに忘れていたし、彼自身の個性や性格などにも興味がなかった。
それでも、男の言葉はじゅうぶんに耳を疑うようなものだった。
「こんなかわいいの、ほんとにありがとう」
「いや、全然……いいよ、似合ってる」
そして苦笑いに似た同僚の笑顔に、そしてあなたの無邪気ともいえる無垢な笑顔に、一種の残酷さを感じた。
ただの同僚にアクセサリーを贈るはずがない。
恋人が記念日に照れながら贈るようなプレゼントを、あなたはただの善意だと、友情のあかしだと本気で思い込んでいるのだ。
黒霧は彼にわずかな同情を寄せながら、笑みを深くした。
それにくわえて、こめかみから感情ですらない情動のなりそこないが吹き出しそうなほど、喉にぎゅっと力を籠めた。
そうしなければ、目の前の男に
男からの贈り物と知らなければ、「よくお似合いです」と褒めていたところだった。それがひどい屈辱であるように感じた。
それからの時間、黒霧は寒々しいほどに接客用の笑顔を駆使して過ごした。
彼女と男が親しげに話すたび、ふたりにしかわからない話が聞こえてくるたび、黒霧はかつてないほどの攻撃的な気色に襲われた。
いつもは楽しく、あたたかな言葉と笑顔がこぼれていくはずの口から、当たり障りのない、第三者じみた語彙が選出されて通り過ぎていく。時間ごと通り過ぎていく。
そして時が流れていくと同時に、「離れてほしくない、いや、自分から離れてほしくないというよりは、[#ruby=あなた_このひと#]を自分のいないところへやりたくない」と思った。強く、刻むように思った。
グラスに運ばれるあなたのくちびるを、ひどく意識した。
「そちらに行ってはいけません」「どこにも」「行ってはいけない」と、淀んでどろどろになった欲求がどうしようもなく、喉をつついてせり上がりそうになる。当の本人にぶつけて、刺してしまいそうになる。
この日彼は、自身のなかに息づき芽吹いて育ちきった独占欲をはじめて自覚した。
ようやく、してしまった。
だから、そのまま何かを言ってしまいそうだった。
しかしそれでも、真実の言葉を閉ざしたまま終電近くまで時間を過ごした。
黒霧は、まったく無為な時間だったと言い切ることができる。
あわれなほど嫉妬と苛立ちに満ちた最低の時間だったと。
そう男からの侮辱を受けたような気分に陥りながらも、黒霧の笑顔がはがれることはなかった。
「きょうも、ありがとうございました」
「はい。お気をつけてお帰りください」
「ありがとうございますー」
『さようなら、もう永遠に、さようなら。』
黒霧は口をつぐむ。
もちろん、その気持ちを誰にも明かすことはない。
閉店したあとも、翌日にも、翌週にも、いつまでも彼の中に沈殿していくだけだ。しかし、心の汚泥の底まで沈み切っても、この日を忘却することはできないだろうと確信していた。
この日我慢した言葉がもつ最悪な苦味と、彼女の首もとでいちいち存在を主張する不必要なきらめきの光景。
その中のたった一秒でも思い出すと反吐が出そうだった。
自分らしくもない、ひたすら苛立って、それを少しでも逃がそうとため息をつくと、むしろ胸の棘が深く刺さる。極悪の循環。
もっとよい対処ができたのではないか、と過去を逡巡することすらも無益だと、よく知っていたはずだった。
「…………」
あの腐った空気のなかで何度も飲みこんだその言葉は、呪文のようにすべてを破滅させるだろう。どれを切っ先に選ぼうかと、黒霧は肺の奥底で言葉を吟味し尽くして待つ。
じわじわとおちてくる彼女を待ちきれなくなるそのときをじっと、待つ。
そしてその日から、あなたはバーへ足を運ぶのをやめた。
理由はあった。
それでも、日が経つごとに罪悪感はつのっていく。
なんの釈明もあいさつもしないままお別れをしたことに抵抗を感じはじめたのだ。今までの親切を仇で返してしまったような気がしてきて、そう考えだすと日に日に申し訳なさでいっぱいになる。
そうして何日かを過ごした。
そして、優柔不断にも彼女は思い立ってしまった。
せめて最後に店に入り、あいさつ程度の話を少しだけしたらすぐに出て、もう行かないことにしようと。
そしていま、路地裏。
いつもの小さな路に入る手前で、二、三歩曖昧な歩幅を重ねている。
ビルの隙間にはいつもどおり、黒くなまあたたかな風が吹いている。その通り道でひたすらに佇み、足を進めることができないでいた。
濁った空気の先にある店には、きょうも橙色の明かりがついて、彼がいることだろう。
だからせめて、勇気が出ない自分の背中を押す弱い風でも作り出せたらと、深呼吸をするために息を深く吸いこんだときだった。
「あなたさん」
突然背後から呼ばれ、あなたはびくりと肩を震わせた。
後ろに立っていたのは黒霧だった。
バーに入ってすらいないうちから、マスターであるその男と話すのは初めてだった。「偶然」で片づけるには不自然すぎる運命。
黒霧の声は相変わらず親切な味付けで、それでいて、きょうに限っては不安定な抑揚を含んでいた。いつでも安定して優しく低い声が、地を這うように迫ってくるような気迫を帯びているのだ。
あなたはただ名前を呼ばれただけだというのに、心臓から嫌な汗が吹きだすと同時に、空が暗く狭まってくる感じを覚えた。
「最近いらっしゃらないから。心配していました」
最近の様子も動向も趣味も嗜好も思考も退路も生活も習慣も住所も好物も恐怖も瞳孔のひろがりもすべて知っている黒霧が、知らないふりをしてにこやかに言った。
それでも心配しているのは本当だった。
自分と接触しているせいで、あなたの存在が連合と関連づけられ、連合を敵視している者やヒーローなどといった第三者にさらわれてしまうのではないかと。
むろん、あの同僚の男のこともある。
そうなることを想像しただけでも虫唾が走り、汚くて悪い言葉を吐いてしまいそうになる。
あまつさえ、くだらない同僚の好意に気づけないほど鈍感な人間であることを知っているから。
もちろん、変質していく黒霧の独占欲に気づけないほど、危機感に欠けた人間であることも。
あなたの足がぴたりと、店の前で止まった。
「きょうは、飲みたいご気分ではないのでしょうか?お話をするだけでもかまいませんが」
それを見て黒霧は、あくまでやさしい口調で問いかける。
しかし言葉たちは、闇の陰にだんだん流れ込んでいなくなるだけだ。空虚ともいえる誘いで満ちていく。微々たる音量で流れるジャズよりも攻撃的な響きで。
あなたの足がいつもどおり店内へ進むことはなかった。
見かねたように、男がふたたび口をひらく。
「それとも」
「なにかこわいことが……ありましたか?」
「い……え。あの、」
あなたの中には信じたい気持ちがあった。
あの落ち着く居場所が、そこで過ごした時間が、あの親切な黒霧が、
たまたまニュース番組で流れていた指名手配犯たちの顔が、いつもバーに集っている男たちと合致してしまったのだ。
白い髪の男、火傷痕の男、頭部が黒く靄状の男……いつも優しく微笑んで話を聞いてくれる男。とても慣れた手つきでお酒を出してくれ、帰るときには「お気を付けて」と声をかけてくれる男。
黒霧という男。
自分の目の前にいる人がそのうちのひとりであると、偶然見てしまった。
だから理由を正直に言うことはできなかった。
だから否定の言葉が、未満のかたちのまま、思わずあふれた。
本当に『そう』かもしれないという疑念を目にうつしてしまうのは、失礼なことだと思ったから。それとも、単に恐怖していたからかもしれない。
だから顔をまっすぐに向けることができなくて、視線をどこでもない場所へ散らす。あちこちへ。黒霧以外のところへ。
男はじっと、あなたのそんな様子を観察するように見ていた。
その心をかき乱しているのが自分であるとはっきりと確信できるまで。
そうしていると、黒霧を構成するやわらかく暗い水面に、尖った雫がさしこまれた。
ああ、自分はいま、この弱い存在をおびやかしている。
自分の動作ひとつぽっちで守りも殺しもできるのだ。ついこの間まで、ただの話し相手にすぎなかったのに。いつの間にこれほど大きくなったのか。
あわれにも、くだらないと見下してさえいた心のようなものに憑りつかれそうになっている。
ひとりよがりな執心と悦楽の感情がぽたり、ぽたりと、波紋をひろげていく。
黒霧はふっと笑った。
力が抜けるみたいに。その響きは自嘲じみていた。
心を恐怖で掌握できてしまうという自覚が、その感覚が、ひどく手軽で心地よい。
奥底の水鏡をひっきりなしに揺らすあなたという征服者におそれを抱いておきながら、脆弱だと、自分より下の存在であると見なしてもいる、それはほとんど破壊衝動に似ていた。
「ああ、もしかして……」
そして、すっと、黒霧の顔が近づく。あなたは反応できない。
「、っ」
それでも思わず、声にならない声が出た。
絶対秘密のないしょ話をするみたいに、耳元で黒霧が言った。
「………私がわるい人 だから?」
高い温度のささやき声。
その声は笑っている。
あなたと雑談をして、あなたのささやかな幸せを願ってほほえむときと、同じ声色で。
彼女はぞっとして、とっさに距離をとる。
黒霧は主導権の所有者として、わざわざそれを追いかけることはせず、ただ見ていた。
自分が与えた恐怖におののくあなたの表情と、それでもまだ自分のことを信じようとする、痛いほど健気な目のふたつぶを。
それらはやにわに星のような潤いをまとって、こぼれ落ちそうになる。
彼女の息は少し荒く、その顔には、黒霧が意識をそらした一瞬の隙に逃げ出そうと考えている目論見が如実に感じ取れた。
しかし好機が訪れないので、恐怖すると同時に焦っているようにも見える。
今にも膠着が揺らいで、のみこまれてしまいそうだ。ふたりの隙間をなまぬるい空気が抜けた瞬間。
がしゃあん!
突如として路地じゅうを大きな音がつんざいた。
積み上げられたビールケースを、誰かが倒してしまったらしい。
恐ろしいほど都合がよかった。
そのわずかな隙に、あなたは踵を返して駆けだす。
「風」の個性で自身に追い風を吹かせながら、冷や汗を流しながら、必死に足を大通りへ進ませる。後ろを確認する暇はない。ただただ、きょう自分がたどってきた道を正確になぞって戻るだけだ。
背後から足音はしなかった。何も考えないようにして、ふらふわ走った。
あなたはそのまま大通りへ出て、黄昏どきを通り越した色の大きな空を見た。濃紺があたたかな橙を侵食している。
束の間目を閉じて、深呼吸をする。勢いよく吸いこんでむせてしまう。
頭いっぱいに大きく響きわたる自らの心音が、ようやく少しずつ落ち着いていく。
ふだんは煩雑にすら感じる人々の喧騒にひどく安心した。
自分を通り過ぎていく人の群れに隠れて埋もれて、先ほどのことは忘れてしまおうと強く思った。
黒霧の言葉と、いままででもっとも近くに感じた温度と、なにか言葉では形容できないような被掌握感が、恐怖が、小さな歩幅で歩く足をいまだに震わせる。
追い風の余韻のわずかな空気のゆらめきが、苦しいほどにあなたの心をざわつかせていた。
もう橙色の抵抗もむなしく、黒く膨大にゆがんだ空は、ひたすらに星を包んでいた。
男は、逃げ出した彼女の背を追って一歩踏み出しかけたが、そのまま静止した。
初めてあなたが個性を使っている姿を見た。
それでも後ろ姿は弱々しかったが、個性を使わざるを得ないと考えるまでに追い込まれ、必死だったということだろう。と思い、黒霧はわずかにほほえまし気な表情を、誰に見せるでもなく作った。
もちろん、黒霧にとってあなたという一般人に追いつく程度、造作もない。一瞬のうちにつかまえられるだろう。
それどころか、もっとも残酷な目に遭わせることすら容易だ。
いくら個性を使って抵抗したとしても、あなたには勝ち目も逃げ目もない。
それでも胸の、寂寞にも似たむかつきをおさえるのが、苦しかった。
自分に恐怖する顔が脳裏から離れない。
初めて、きちんとあいさつをせずに別れてしまった。きちんと会話もせずに。相談も談笑も笑顔も。いつも私だけのものだったのに。
男は黙ったまま歩を進める。
自分は、愛しあいたいのかもしれない。と思った。
しかしもう、そうならないのかもしれない、とも。
壊したくてたまらなかった。
それは混乱であり、自壊であり、衝動にほかならない。どんな状況においても衝動で動くのは危険で、悪いことであると知っている。わがままに、幼稚に、だだをこねれば手に入るものでもない。
それでも本能は、絶えずなにかをつぶやいている。
あの日我慢したのと同じ言葉で。
手に入れたい。
ふと、店の前に立ち尽くしている黒霧の背後で、ドアが開いた。
「黒霧」
そして男は声をかける。心配でも興味でもない、無感情な音で。
「死柄木弔……」
「ずいぶん気に入ってんな」
「……どうやらそのようです」
黒霧は話しながら、死柄木の口からあの清浄な名が呼ばれぬようにと静かに祈っていた。
もうその程度のことすら許せそうになかった。
ほかの人間から出てくるあなたの成分は、自分以外ばかりを向いている彼女の心を示唆しているようで、いつもの笑みを浮かべていられないほどに腹立たしかった。
人間性はいつでも余裕を奪う。愛という、刹那に似たいちばんの人間性に黒霧はすっかり蝕まれていた。
「もらっとく?」
「ええ………私が。」
誰のものでもないものに、しるしをつけるだけ。
未だ誰にもふれられていないところをふれるだけ。
簡単にそれができてしまう力をもっている。男は、それができてしまう執着という動機をにぎりしめている。
「わかってるよ……」
独占欲をあらわにする黒霧に、死柄木はつまらなそうに頭をかき、いつものようにどこかへ消えた。そのゆくえは彼自身にしかわからない。
死柄木が反対しなかった、むしろその『提案』さえしてしまったということは、あなたの自由はもう彼らに、彼にゆだねられたも同然だ。
螺旋をまわる運命上で逃げまどう背を、黒霧はまた夢想しはじめる。握られた命の綱を首に巻かれて、精一杯に逃げている。どこにも逃げ場などないのに。
弱い背を、弱い風を、弱いそのすべてを手にかける罪と、手に入れる悦とを、左右の脳できちんと推し量る。
空はとっくに、すべてを呑む黒になった。
そして天秤がかたむく。
残業終わりのため息が、宵の黒色に溶けていく。
あなたが黒霧の手を逃れて数日、彼女はできるだけ暗い道は通らず、もちろんあの路地に近づくこともないよう気を配って過ごした。
自分の背後、すれ違う人、あのバーで見かけた危うい敵たちの姿、すべて怪しくないことを確認してから歩き出すのには精神が消耗したが、仕方ないことだと思った。
脳裏に隙間ができると、黒霧の『個性』はなんだったのだろうか、などとつい思いを馳せてしまい、あそこで捕まっていたらどうなっていたのだろうかと、恐ろしいイフの世界を想像してしまう日々だった。
そんなことにならなくてよかった、そう実感する、ありふれた日常を幸せに享受する毎日だった。
そんな日々が終わった。
あなたは眼前に現れた黒霧に愕然と立ち尽くすほかなかった。
「こんばんは」
絶望する彼女の表情を見ても、物腰は変わらなかった。いつもの調子で腰を折ると、ほほ笑む。
「では」
「ぇっ、!」
黒霧は紳士的なあいさつを投げると、突如としてあなたの全身を靄で覆った。
攫った瞬間を、攫われた恐怖を、誰も見ていない。誰も知らない。
街は喧騒のまま、空は平穏のまま、世界はあなたを攫われたことに気付かないまま動いていく。
ふたりは、バーにいた。
出会い、話し、笑いあったバーのいつもの席へと、あなたはついていた。
まばたきのうちに切り替わった景色に、彼女はまたも呆然とする。
しかし、はっとしてすぐさま立ち上がった。
黒霧はそんなあなたの表情を確かめてほほ笑んだ。
ワープのため初めてふれた彼女の身体に、高揚をおぼえていたからだ。
上機嫌なうえ、あなたのことを信頼しているからこそ、脅したり攻撃したりといった方法はとらなかった。
しかしその笑みはすぐに鳴りをひそめる。
あなたの首もとに、あの日と同じネックレスが輝いていたのだ。
あしらわれた梔子のチャームは枯れることなく、いまいましくもあなたの中心に咲きほこっている。
そのちらつく光は黒霧にとって夢に出るほどうっとうしく、自分たちの深まりを邪魔しているように思えた。
そういう苛立ちを呼気に含ませながら、背を向けて扉に駆けたあなたを呼び止める。
「逃げるのですか?どこへ?」
あくまでも、交渉するように、そして悲観したように、うやうやしい口調であなたの背に言った。
「また、
「……えっ?」
あなたは律儀に立ち止まる。
黒霧はそれをわかっていた。
あなたがどんな性格であるかは、すべて理解して掌握できていた。
愉快なほど、自分の大部分が、あなたという優しさに侵されていた。
名前を口にするたび、乗っ取られていった。執心の気持ちに、これまで構成してきた自我をつつかれるのだ。そのちくちくとした刺激は、ひどく不快であって人間的だった。
それから黒霧は、歩みを止めたあなたに近づく。近づく。ゆっくりと。
硬質な足音が鳴る。
もつれた足であなたがまた逃げようとしたところに、追い付いた。
そして、ついにふれる。あふれる。
逃がさないと言わんばかりに、黒霧は腕のあたりをぎゅっと掴んだ。
ずるり、と侵食される感覚がした。
つかまえられたところから粘性をもった恋心と独占欲が伝染してくるかのように胸が重くなり、もう、逃げられないのだと、あなたは本能で悟ってしまった。
そのまま黒霧は恋人のように手をつないで、指をからめた。
もやもやとした手指の触感が、あなたの皮膚へいやに焼きつく。刻印、痛みをともなわない、甘えたような曖昧な体温が、混乱と諦念を思い起こさせた。
そして男は、彼女の存在をかくまうように店の奥側へ連れていく。
なんの焦りもない穏やかな足取りは、ただ征服者としての余裕だった。
彼とは対照的に力が入らずよろけた歩調で、あなたはついに連れられてしまった。
その結果は決定づけられていて、あらかじめ未来を設定していたかのように、黒霧は落ち着いている。
あからさまに『ふたりきり』を意識させられるような片隅で、ふたりの間隔がぎゅっと狭まる。黒霧が、つないだ手をたどっていくように身体を寄せたのだ。
口づけるかのような距離と体勢に、否が応でもあなたの身体はこわばった。
恋人でもない、ついこの間までよき相談相手だった存在だと思えないほどの至近距離で、男は震える彼女のようすを一瞬、観察したかに見えた。
そして手をつないだまま、黒霧は反対側の手をあなたの首もとへ這わせる。
その欲望的なふれ方に、彼女はぞっと寒気を覚える。思わず顔を上げると黒霧と目が合ってしまったが、その真意をうまく読み取ることはできない。
鎖骨あたりでとどまった彼の指は、ネックレスの梔子をつまんでいた。
「これはあなたに似合わない。」
囁きとともに、彼がわずかに力を籠めるのがわかる。
身体ぜんぶが、びくりと大きく動揺した。それでも指先だけは絶えず震えている。
ほどなくして首のそばを、軽い破壊音がつんざいた。
ひびが入るような音だった。
簡単に、枯れてしおれて梔子は、すがるように一瞬あなたの鎖骨にふれる。そして、脱力し金属の線になってしまったネックレスを、そのまますうっと引く。
首もとをかけぬけるその感触がひどく冷たく感じて、あなたは背を粟立たせる。
「似合わないものは、いらない。」
千切れたネックレスは手のひらにくしゃくしゃ絡められて、いともたやすく放り投げられ、そばにあったごみ箱へ吸い込まれた。
そのむなしい放物線は、誰からも忘れられる。もうすでに無価値なごみくずたちと同化し、窮屈な中であなたたちを見上げていることだろう。
ふたつに割かれ捨てられたあの同僚の男と同様に。
「わかりますね?」
低い声にはひとつの揺らぎもない。
さも教育者のような音程で、落ち着き払っている。問いかけるような口調が白々しく空を切る。断じている。
あなたは何も言えないで、ただ呼吸を少しずつ乱れさせていく。目の前がくらくらして、足がすくんだ。
手の、つないだままのところから、黒い邪悪な靄が流れ込んできて具合が悪くなっているような錯覚にまで陥っていた。
どれほど悩んで購入されていようが、どれほどの価値があろうが、どれほどの想いがこもっていようが、あのネックレスに対して黒霧は何とも思わない。
黒霧が敵であるからではない。
枯れた花よりもずっと悩み、尊く、重く、あなたに執着しているからだ。
嫉妬、破壊、暴力、負とよばれるすべてのものが日常でありながら、あなたは黒霧にとっての衝動だった。
独善ともいえる独占欲が、ぐるぐると彼女を取りまく。真っ暗なとぐろを巻いてがんじがらめになる。
ずっとふたりきりでそうしていることだけが、黒霧の衝動をどうにかしておける最善の手段だった。
黒霧は、あなたの腕をぐっと引っ張った。
そして、きつい力で抱きしめる。
ふだんの紳士的な態度からは想像できないほどの強さで、自らの中へ招き入れ、綴じこめるように。
「よかった……」
体温は奇妙なほどあたたかい。愛というものを空気中から取り出して温度をはかれば、ちょうどこれくらいだろう。
「ああ、ずっと………あの日からずっと………こうしたかった……」
ようやく自身の欲望を低く吐露した黒霧のがっしりとした肉体は、呼吸のたびなぜだか震えていた。
それは感動だろうか、安心だろうか、それとも悲しみか、彼自身にも把握しきれない、身体じゅうのどこを探しても見当たらない感情が、ただあなたにふれるだけで見つかった。
冷えた指先をあたためるときのように、血が通う。名前がわからないまま、感情は心が拠る場所になる。
苦い酒と血のようなにおいがする、と、腕の中であなたは思った。
「………、っ、」
「離さない。離しません」
あなたが少しでも腕を動かせば、すかさず声が飛んできて力がさらに強められる。
彼女はもはや男の胸にうずめられるようにして拘束されていた。
世界が終わる予感がしていた。それを横目に、手をのばすことはおろか、身動ぎすることもかなわないまま、黒霧の奥へ取り込まれる。その心にふれさせられる。
幾重にも積み上がったコミュニケーションの残像と、それが残していったきらめく足跡、ひどい嫉妬の痕、空っぽの店であなたのことを待つ数日間に募らせた重たい恋慕、その自覚。
そしてあなたに逃げられたあの日、じわりと滲んだ濃い愛惜の夜色。
ひときわこぼれて治せなくなった寂寞の液、その体積はあなたにしかもはや埋められないものだった。
病的ともいえるほど、気づけばひとりのことだけを考えつづけていた。
「……あなた………」
運命という痛覚を確かめて、ひび割れそうになる声で、名を呼んだ。
もう一生、自分以外の誰にも呼ばれることのないように。
「あなた……あなた………あなた……」
抱き締めたまま、本当に愛おしげな声で、名を呼んだ。
何度も呼んだ。この人が何者からも何処からも解放されますようにとお祈りをするように呼んだ。世界から解き放ってさしあげる自分のことも愛してしまう幼稚な欲求ごと呼んだ。
世界を裏切って清廉な泥に身をひたす。底なしの終着地が、あなたの一番そばにいるこの時だと、確信めいた愛を嚥下する。
「ぁぁ……よかった……」
黒霧はかすれた低い息を吐きだすとともに力をゆるめた。
そして、あなたがそれに安心した途端肩をつかんで、そのわずかな距離をついに無くしてしまった。
もやもやと常に流動する黒霧の顔の、ひいては唇らしき器官の感触が、不思議なほど非現実的で、彼女はちょっと間何も考えられなくなった。
「愛しています。」
細められた目が、残酷なほどに今までのいつの日よりも真実を語っている。
幸せにとろけた声は、あなたを取りまいて憑りついて、欲しがっている。手に入れることができた充足感でいっぱいなのに、それでもまだ恋しがっていて、未来を誓うように誠実な色で満ちていた。
「誰にも渡しません……誰にも………」
黒霧は、自分に、そしておそらく自分以外にも笑顔を振りまいて遠慮を口にしてきただろう唇の味を、言葉とともに秘密のように仕舞いこむ。
あなたのこと、あなたに抱く願望の名前のことのように、ひそかに彼女が入った唾液を呑みこむ。
あなたは黒霧の腕の中で、思惑の奥で、溺れるようにしてあきらめていた。
もう逃げられるすべはなかった。
もしなんらかの方法で黒霧から逃げおおせることができても、相手はもはや連合なのだ。黒霧ひとりではない。彼には同胞がいる。
狂執に身をやつした破壊的集団はすぐさま彼女の居場所を突き止め、あなたの心も身体も簡単に壊し尽くし、恐怖で支配するだろう。
血や炎や灰にまみれて横たわる自分の姿を想像するのは、散り散りになった自分の四肢の断面を想像するのは、思っていたよりもとても容易だった。
(それなら、そうなるなら………)
狭められた暗い選択肢を、無重力のようにふわふわした気持ちで眺める。
黒霧のぬるい体温に包まれながら、その胸の中に明かせない諦念をぼんやりと、考えるとまでいかない程度の夢想感にくるんで持った。
そうすると、こわばった身体がいくらか楽になった。息が楽になった。漆黒な檻にとらわれて、生きたいと思った。
生きられるかもしれなかった。誰からも庇護されてひどく嘘に塗り固められた奥底で、大切に生きられるかもしれなかった。
畏怖の世界で闇を光と見紛うほどに、あなたの心拍は慄いていた。
黒霧に、わるいこのひとにすべてを掌握されても、拒否さえしなければ、もっとわるいことにはならない。こわいことはされない。……
だからあなたはもう、梔子が打ち棄てられたごみ箱に一瞥すらやらない。
もう一度、あごを優しく導かれて上を向かされる。彼と目が合う。
安堵したような息が聞こえる。
「……やっと………私の……ものに。」
恍惚に似た安心を掌中で確かめて、彼は深く笑んだ。
単にすばらしく狂っているだけの、星陰で育まれた純粋を愛と形容できるとすれば、それはとても愛だった。誰の心より愛だった。破壊よりも執着よりも衝動よりも愛だった。
そしてふたたび口づけが落とされる。
先ほどよりも現実味を帯びてきた感触が、やわらかくゆがむ。唇が濡れていくほど、地獄が眼前に迫る。
飴色の空間で、笑顔を交わし合っていた過去を裏切るようにして、水音がふやけてぐずぐずに熱っていく。
あなたを除いた世界は変わらずまわっていく。
最初からなかったかのように、いなかったかのようにして。誰も知らないまま、彼女だけが闇の空に閉じ込められる。
路地裏には星月の明かりも届かない。店の奥ならなおさらに。
誰も知らない空がふたりに落ちてきて、とけあって、呼吸と交じりあう。
黒い風が吹いている。
吹きすさんでいる。
星が覆い隠されるようにして、乱れた黒雲で天井がいっぱいになる。街のあかりを一息で吹き消すことの罪。恐怖という酸素。怯えてわななく日々のひとかけ。ひとかけの日々。誰もが抱える恐怖の正体を突き止めたそのあとに残るもの。その残骸が転がる路地裏に黒い風が吹いている。
あかりはもうない。
それは外の話で、ふたりに関係ない。
ゆっくりと目を閉じる。