そのほか
おなまえ
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夜に飽きている。
暗闇に目が慣れすぎて、余計な光まで拾いかけている。
たとえば、女の目玉の表面などといった取るに足らない微光。
逃げるその光を追うと、つるつるとして、白目と黒目の境界線を爪でなぞろうと手を伸ばしかけるほど、完璧に曲線を描いている。
「あなた………ああ………そうだったか」
とてもつまらない夜の退屈な朧月が、わずかにその煌々とした太陽の残像を強めた。
永劫の灰色でかまわないというのに、空は言うことをきかずにうつろうから嫌いだ。絶えずうつろって、雲はどこかへいって、月光はいつも彩度を乱し、落ち着きがない。
頬に。目玉に。瞼に。額に。鼻先に。顎に。睫毛に。
あなたのあちこちに究極の曲線が描かれている。
肌色は空模様と違って均一な白で、それは不変な、私の指ともそう変わらないほどの色で、輪郭をはっきりと認識するのが難しいほどに溶けあっているように見えた。
先ほどより明るさを増した月光が、輝かせるようにしてふたりを、人間ではないふたりを照らしている。じつに忌々しき強い光。いつも私によい考えを齎す光。
愛撫の温度でほほへ指先を滑らせる。
夜風のせいか表面は少し冷えている。指紋に塗りたくられるその手触りに、苛立ちと微かな興味が湧いた。
爪を立てる。
その鋭さで裂いてとろりと出てきた血が、皮膚上の完璧な湾曲にのっとって滑っていく。
顎のほうへ吸い寄せられて、ひとつふたつと鮮烈な雫が滴った。
例外なく。指先にちょんと触れた血は頬と裏腹に熱をもっていて、そして散逸していく。
「っあ!……っ、……」
「……………」
あなたは私から歪んだ顔を逸らして、手で傷口を庇おうと一瞬俯いた。
しかしすぐに、そうすることを私が許すはずもないと悟ったのだろう。
額に汗をにじませながら私のほうへ向き直った。その目は震えと怯えをひた隠そうと必死だ。
一歩、あなたに近づいた。
さっきよりも多くの光をこぼれ落ちそうなほど湛えた瞳を、私は間近からじっと見た。
もう一歩近づく。
もう鼻先が触れあおうというほどの距離でよく観察した。
黒目は、近くで見るとわずかに茶色がかって、真ん中は窪んだように縦長な瞳孔が時折ピクリと逃げ出そうとしては己を律しなおしている様子だ。
見ているだけで苛立つ青白い月の光は、近寄った私の影が奪った。そのことが快かった。
なんの変哲も面白味もないただの、舐りやすそうに丸い眼球であるのに、私は妙にあなたのそこばかりに執心しているようだった。
それでもあなたは私の眼から逸らすことなく、十数秒見つめ合っていた。
息がふれあっている。気がふれそうになっている呼吸の乱れがふれている。
なんとしてでもまともなままで生を甘受したいと喘ぐそのずうずうしさがとても愛おしく思えた。気の狂わない夜がこの世に訪れることなどないのに。
健気だ。なんと健気でかわいくて不細工で殺したくなる、愛らしい生き物なのだろう。
喰らってしまえるほど無防備で脆弱で、くちづけてしまえるほど可愛い雑魚。
傷口にもう一度爪を立てると、痛みを思い出してか喉を震わせている。
私はその間近から、震えるばかりでなんの防御も抵抗もしてこない馬鹿な女を殺そうかと一瞬思案を巡らしたが、その一瞬のうちに、わざわざ月にあなたの肉片や血飛沫を見せてやることもないとなぜか考えなおした。
この手を握り締めるよりも簡単な力で、とてもとても弱い力で、情けなく・ふるえている・大切な・尊ばれるべき・ちいさな命を指先にのせている。
後から考えれば、これは実に馬鹿げた単純な話で、このとき私は、月にすら嫉妬していたのだ。
勝手にうつろって乱れてはあなたの目玉へ光を注いだり隠したりする我儘な天体に、もうこのあばらの内側に無いはずの心のどこかで苛立っていた。
猫のひげのように、無様な傷だ。私は残酷が好きなのだ。空が嫌いなことと同じに。だから、滑稽で残酷な傷跡を見るのはたまらなくおかしい。
弱いせいで治癒も遅い此奴の顔に、完全には治らないだろう永遠の証ができた。もう一生、痕をその手でなぞるたび、私の恐怖を思い出すことだろう。とてもおかしい。
喉からくくと笑い声が漏れた。
それから顔を少し傾けて、私は頬の傷を舐めた。
「不味い」
「………、申し訳ござッ、ございません!っ………」
鬼が鬼の血を口にするのは馬鹿な行為だ。なんの意味もない。この時間にも意義はない。
ほとんど泣きながら謝罪するあなたをじっと見ながら、内省のようにしてぼんやりと思った。意味のないことを施してやりたくなるのはどうしてなのか。
そうして思考している間にもあなたは震えながら何度も謝罪するが、私が頬から手を離さないので土下座をすることができず困っているようだった。
柔らかな皮膚を挟みこみ蹂躙する私の御手に触れることもままならず、ただ眉を寄せて汗を分泌し謝罪を述べている。
光景は滑稽きわまりないが、しかし、とても邪魔だと思った。
その声が私と此奴の距離を阻んでいるのだと。
「煩い」
「っ!!……、…………」
口内でわずかに残留した血を流し込むように口付けた。
態々そうしてやらなくても黙っただろうが、そうしたくなったからそうした。
馬鹿な行為で、なんの意味もない行為で、それでも触れる粘膜の冷たさがどこか心地よかった。
息を呑むあなたの音が最も近くで聞こえる。
月が観念したように雲に隠れ、夜がいっそう静けさを増すと、大きく乱れて喉にからまる吐息がとてもよく聞こえた。
きっと誰も、あなたの生きる音などという矮小な事象に耳を澄ましてやったことはないだろう。その事実が、私を妙に愉快な気分にさせた。
「不味いだろう」
最早私の口内には血の不味さが記憶されつづけることなく、混ぜあわせられた唾液の味だけが俗っぽく残っていた。
低い体温を分かち合うだけの無意味で無価値な時間に娯楽を見出すのは、そう難しいことではないのかもしれないと思った。
「………っ、っは、はい。申し訳ございません、」
はっとしたようにあなたはまた謝罪した。今度は頬をおさえられていなかったので、深い礼とともに、私の足元へと声が投げ出された。
そして頭を下げたかと思えば、それでは足りないと思ったのか、焦っている様子で今しがた私への言葉をうずめたばかりの地面へ平伏した。
「……………」
私が与えた唇と唾液の温度を、冷たい地面へ霧散させるその深い座礼に一瞥をやる。
自分を見下ろして黙ったままの畏怖対象にこれ以上降伏しようがないと思ったのか、あなたはついに黙った。
弱くちいさな背中が震えている。
もしかしたら、殺されると考えているのかもしれない。
あなたが死んでも誰も悲しまない。喜ばれることもないだろう。
誰にも知られないで、咎められないで、月の監視を潜り抜けられる今殺してやりたい気分へと、私はようやく落ちていく。此奴は不敬をはたらいたのだから。平然として動かない殺意の水面へと、内臓の中心で着地する。
私はあなたの背を貫いて殺し、弛緩した身体を仰向けにしてから目玉を抜き、纏わりついた神経をぶちぶちと絶ちきった。
僅かな明かりの下で、黒目の部分をさっきよりも近い距離でよく見ると、表面が少し濡れているだけで、もう生きていたころのような光を孕んではいなかった。
深く奥行きのあった瞳孔はただ空虚な穴に見え、ただ真っ暗一辺倒に彩度を落として、私を見ていない。白目と黒目の境界線を指でなぞろうなどと、馬鹿げた考えはもう消え失せている。
涙ではない液でぬるつく感触に心底気色悪さを覚えた。死体の頬に刻まれた私の痕が、不格好なその身体とそぐわないほど美しく裂けている。
先ほどまであったはずの苛立ちも愛おしさも、あなたが地面に向かってそうしたのと同じに霧散した。
首を刎ねた。じき肉体も消え失せる。
私は「くだらない」とおそらく口に出して、手のひらにあった目玉を放り投げて捨てたあと、あれほど飽いた夜の暗闇へと、月の消えた路を消えた。