そのほか
おなまえ
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困り顔の硬直に蜜のような血をかけて食べる。思い出にはとても残らない凡庸な味。俺のこの悦楽が普遍的なものかどうかはわからないけれど、頭がそういうふうにできている生き物も、この世にはいると思う。快楽と苛々を感知する神経しか脳みそに通っていない生き物。悲しいけど、その神経すら死んでいるやつは、もう食われるのを待つだけ。
ぼんやりと暗い道の真ん中を、俺は現実主義者ぶって歩く。
月の下では息をするのがとても楽で、楽しいとすら感じる。もしかしたら、息をすることが生きることではないのかもしれない。でも、俺は息をすることみたいに他人の息を止めることができるから。生きるみたいに殺せるから、俺って本当にだれよりも生きている。
ずいぶん伸びた爪で月の裏側にちょんとさわって、夜を永遠にできたらいいのに。だって夜はよい子が眠る時間。
月がこわれたら暗闇がずうっと向こうのほうまでつづいて、町の灯りをぜえんぶ眠らせて、ぬばたまをぶち割ったって生まれない黒ばっかりの世界になるだろう。俺はそうしたらいつまでも踊るみたいにして、命を大切にして生きていこう。目玉を閉じると簡易的なその世界が現れた。そしてその世界のまんなかに、だれか現れた。
手指にすがりつくように付着した血をていねいに舐めとる。しつこいなあ。たったの一滴におちぶれても生きたがるやつには、毎回うんざりする。だけど不思議と気分は悪くない。
「こんばんは」
あいさつをすると、俺は人間になる。そして殺して食べると鬼になる。俺はその辺のけだものよりは結構頭が良くて、だけれども、誰よりも頭がいいわけじゃない。でも、愛だ。愛を持っていないだけで、知らないわけじゃない。どこまでも広がる平原の夜空に点々とそれが浮かんでいるのを見たことがあるから。詳しくは思い出せないけど、どっかの夢の中で……そういう気持ちの悪いあたたかさを少しだけ覗いたことがあるから。
けだものは愛もあいさつの言葉も知らない。
「きみは……地獄に落ちたいって思う?」
「俺はね……苦痛に耐えられなくなってゆがむ人間の顔が大好き」
「だから純粋が大好き」
最近誰とも話をしていなかったからか、血を浴びて乾いた唇がふわふわ、夢遊病者のようにあゆみはじめた。暗闇のほうに手招きするような優しい声を、喉の管から精一杯ひりだす。鬼じゃないよ、俺は単なる案内人。
「純真で真剣で素直なのもいいよ」
「だって純粋であればあるほど、いっぱい俺を信じて、その分裏切られてくれるから」
「純粋すぎると、ちょっぴり苛つくけどね」
俺には思い出があるのだろうか。さっきのやつの味はもう忘れてしまったので、思い出だとはいえないだろう。俺が夢を見るとしたら、そこはどんなところで、なにをして、誰と……誰のことを思い出しながら死ぬのだろう。幸せな夢って実在するのかな?永遠の夜の妄想は?目をつむってする世界の創造は?人間はそういうのも思い出だというのだろうか。
ふと一瞬立ち止まって、いろいろなことを考える。そうすると頭がぼんやりと痛んできて、まだ月はきらきらと真上に吹っ飛んでいるというのに息が少し詰まった。
人間の子が後ずさる。えらいなあ。地獄へ行く準備が整っていない良い子だ。
「狂ってるって思う?」
「狂ってるやつは地獄に落ちるべきだって思う?」
「そっかあ」
人間性を無視されたような気持ちでもう一度目をつむって、眠るように力を抜く。思えば、最後に眠ったのはいつだっただろう。あまり眠ったときの記憶がない。俺は瞼の奥に広がる暗闇と、そのまた奥の無限の色へとじっと目を凝らしてみた。ちょうど、きみのような色。
「俺はたぶん、まだ行かないかなあ」
「きみはどう?」
まあ、どうでもいいか。きみがどう答えようが、それとも無言でここから去ろうが、地獄に落ちるときはいずれ来るんだから。地獄はどんな場所だろうか。
人間はやたら恐ろしがるけれど、鬼は地獄を恐れるものなんだろうか。血と肉と悲鳴であふれかえっていて、気持ちいいほどの痛みでいっぱいに満たされた真夜中の空が天井に描かれたようなところなら、星がない真っ黒の空が精いっぱいに再現されたところなら、そこに行けたなら、俺はそこで眠って夢を見てみたい。
ああ、今夜は、たくさんのハテナが生まれたなあ。いろんなことを考えた。夢……目標……希望のようなきらきらした言葉では表現できない感情のゆらぎも、ちょっとは自分の中に見つけることができた。長いこと生きているとこんなことは珍しいので、少し面白い。何も考えずにけだもののように人を喰うんじゃつまらないと、俺はきっと今まで思ってたんだなあ。
「うん……こんなところで死にたくないよねえ。それは、うん。俺も同じ」
「夢を考えるといいよ。きみは、何になりたい?どこに行きたい?」
「傷つきたい?痛がりたい?苦しみたい?それがいやだ?」
「そんなことを考えるよりさあ、もっと前を向いたらいいよ」
「ごらんよ。未来みたいな、希望とか、星とか、ほら。月も上がっているんだし」
「あそこにあるよ」
「きみのこれから行くところ」
「俺がいつかぶっ壊すところ……」
「名前は?」
「あなた。」
「へえ。ふうん。」
「それじゃあ、人間のきみは、天国の夢を見てよ。楽しんでね。」