そのほか
おなまえ
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本丸の景趣は月によって変わる。
青い光に雲ごと染め上げられる空、縁側をごうごうと走るこごえた風、ふかふかした血の色の絨毯、踏まれるとすぐに汚れてしまう桜の花びら。そのどれもが俺にとっての世界のすべてだけど、ひとがたをとって暮らすには難しいなと思うものばかりだった。
主さんはこまやかに丁寧に、世界に打ちのめされるような人間らしいこころを教えてくれているんだと思う。人間ではない俺たちを、人間にするみたいにほめたり、撫でたり、抱きしめたり、慰めたりしてくれる主さんだけど、やっぱり本丸には主さんしか人間がいないから、さみしいのかな。
俺たちに欠けているのは道徳とか人道とかいう、やさしく言葉にできるようなのじゃなくて、かなしいほど相容れない不可視の部分だから。
神が人間に近づいていくことがどんなに難しく複雑でこわいことか、と蜂須賀兄ちゃんは眉を顰めるけれど、俺にはやっぱり、よくわからない。
「主さん。帰ってきたよ」
遠征の報告のため主さんがいつもいる執務室の前で声をかける、けど、いつまで経っても主さんの声は返ってこなかった。
そっと足音を消して入ると、主さんは文机のそばで丸くなって眠っていた。珍しく部屋には近侍もついていないようだった。俺がふすまを閉めると、執務室にさしかけたお日さまの光はみんな向こう側へ帰って、空気はぴたりと流れるのをやめた。
「主さん。」
ほほの肉が畳に押し付けられてゆがんでいる。そっと近づいてささやいても、いつものように答えてはくれなかった。黒い髪が輪郭や肩の曲線に沿ってあっちこっちへと分かれて、部屋の残光をちらちらと反射している。呼吸のたびにそれが、花を散らすように落ちていくのが惜しい気がして、赤く透ける耳に髪をかけてあげると、死体とはちがうなまあたたかい温度にくすぐられる。
そのままそっと指をほほへやって、鼻へ、くちびるへ、顎へと順番になぞっていくと、抱き締められたときよりも、なまっぽい人間をさわっている感じがする。俺がつくりだす影が彼女の顔に覆いかぶさって、すごく邪魔だった。
主さんの、かわいい産毛、眼球のつまったまぶた、伸びた睫毛、すこしぬれた口の端にふれる、鋳肌のように不変のためつくられた俺の指とか爪が、いつも見ているのより変てこな形と色をしている。かわいいな、主さん、なにも知らないでかわいいまま死んでいく主さん。人間が神を信仰するみたいに、俺はきっと、あなたを信仰してる。
「主さんのこと、ほんとはさわっちゃダメなのにね」
いま主さんが起きたら、俺を怒るかな。
俺は、怒らないんじゃないかと思う。
試すような気持ちでくちづけた。つくられた冬の室温が染みこむ主さんのくちびるは、ちょっと冷たくて、一秒にも満たない永遠でいろどられている。この中を流れる血の刻む鼓動ひとつひとつで、俺のなかの「生」が鮮明に肉付けされていく。主さんから、愛してるという感情の香りがする。見様見真似だったけど、俺のと主さんの唾液がまざりあうのを見て、自然に反しているような気がしてならなかった。
「……主さんのほんとのおなまえって、なんていうのかな?」
俺の身体に流れる血が全部人間のと入れ替わっても、俺は人間にはなれない。それが主さんのきれいな血だったとしても、たとえ主さんの肌がしわしわになって、やがては壊れて、死んでしまっても、俺はこのまま。
俺がそれまで折れずにいられたとしても、主さんのお墓には入れないだろう。主さんには、もっと大事なひとがいるかもしれないから。
本当ならそういうむずかしいことをうまく体内に順応させないといけないんだけど、もしそんな人間みたいにかしこい俺が未来にいるのなら、今この瞬間熔けていなくなったほうがいいなあ。
「おきて、主さん」
さわっていた手を離し、彼女の肩をゆすって起こしてあげる。
うっすらと開いていく主さんのまぶたから、待ちわびた希望のようなまるい光がのぞいて、俺はいつもみたいに笑った。