そのほか
おなまえ
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帰路に寄り道をする。夕焼けのにおいは甘くてくすぐったい。夏に染まりかけた気温にふれると、すこし湿っている。銀のフレームの外から彼女のあくびの声が聞こえる。こどもみたいに僕たちは、何も起こらない住宅街を帰っていく。
「そうだ。今日の数学の小テストは大丈夫だった?」
「たぶん、大丈夫だった……と思う」
「自信なさげだね。ちょうどこの前教えたところばかり出たのに」
「うん。それはわかったんだけど、答えが合ってるかは……」
生暖かな風が僕たちを別つように吹いていって、雲がもたもた流れる。坂道を下りて足音がわずかに勢いづくたび、いつもどこかで、その足を止めてくれないかと願ってしまう。
そしてその願望は、今日ついに叶ってしまった。
「石田くん、なんか、いつもありがとう」
彼女の口から出た予想外の言葉に頬が勝手にゆるんだ。
また風が吹いた。
僕が夕焼けのにおいだと思っていたものはあなたさんのにおいで、そう気づくといっそう、喉がくすぐったくてたまらなくなる。落ちてもいない髪を耳にかけなおし、隠れて息をついた。彼女は笑っている。いとおしさのような、おそろしさのような……僕の肋骨の内側で膨れ育って手を伸ばしてくる存在は、きっと彼女そのものだ。
「ど……うしたんだい、急に」
「いや……ちょっと前、母の日だったから。感謝したくなって」
「……僕はきみの母じゃないが」
「だけど、いつも気にかけてくれて、勉強も教えてくれるし。お母さんみたいに大事な友だちだよってことで」
大事な友だちだよ。頭の中が一瞬、殴られたみたいにぐわあんと揺れた。と同時に、視線をどこへやっていいか分からなくなって眼鏡をあげた。いまは顔を見せたくなかったのかもしれない。僕自身のことなのに、この状況で自分を俯瞰している自分がいる。だって僕はなんだか、打ちひしがれている。
「そう、だね。うん。ありがとう」
凡庸でありふれた挨拶のような無味が、どんどん口の中を渇かしていく。あなたさんの声が反響するたびにそれは苦く変貌していく。
「……僕もあなたさんのことを、大切だと思ってるよ」
自分でも怖いほど軽薄な言葉だ。彼女の後ろに落ちていく太陽へと、わずかに目を逸らしながら吐いた嘘に濃い影ができる。
「あはは。こちらこそありがとう」
『大切な』……僕にとってきみは、何なのだろう。きみにとって僕は本当に、ただ大事な友だちなのだろうけど。
僕はきみがかわいくて、いとおしくて、こわくて、まぶしくて、失いたくなくて、壊したくて、壊したくなくて、大切で、大切な、
紫の病的な空に夕陽の色が残留している。健康的ではない気分のまま、当たり障りの無い会話をつづけ、彼女を家へ送った。
「ありがとう。じゃあ、また明日」
「ああ」
僕は逆方向へと歩を進めながら思考の隙間を作らないようにと、明日の時間割やこれからの予定を頭の中で整理していく。眉間を揉み、指の小さなささくれを触り、本でも読みながら帰ろうかと思う。青信号を待つ時間が永遠じみていたので、その間に靴ひもを結びなおして立ち上がった。めまいがしても思考は止めない。虚のことだとか、将来のことだとかを考えて、考えて遠回りして帰る。これ以上は無理だというくらい、心を頭におしこめる。
あなたさん。
なのにどうしてきみはいつも僕の中に入り込んでくるのだろう。
もしかしてきみは、これからずっと僕の中を離れてくれないのだろうか。
まっすぐに帰路をたどって、夕焼けにはにおいなんてなくて、夏に侵されかけた気温には触れられなくて、きみの手にも触れられなくて、僕はどうにかしてしまっている。夕陽がじりじりと沈んでいく。手のひらの中央へ沈んでいく。そして紫の影がついに、僕を覆い尽くした。
「………」
もちろん。
都合がいい考えを持ち続けるのはやめておいた方がいい。いつもそうだと決まっている。期待は必ず裏切られるし、志は必ず空振るし、いつかは大切にしていたはずの感情だって時が経てば必ず忘れていく。ようするに、そういうことを理解していながら彼女にとらわれたままの僕を、僕は恥じている。
だってきみは僕の大切な
いちばんの 唯一の 大切な
「………わからない……」
時さえ経ってしまえば、全部わかって、頭が大人になっていって、この痛くて苦い気持ちも青春だったねと笑えてしまうのだろうか。土埃が立って目も開けていられないような戦場の心持ちに、いつかはだれかが、花を咲かせてしまうのだろうか。それがおそろしい。なによりも。
そのだれかが彼女だと信じたくて。
玄関を抜けて、自室にこもって、なんとなく座って、それとなくため息をついた。
まだ若い僕の網膜は、彼女の笑顔を新陳代謝することなく視界のすみへとどめ置いている。なによりもかわいいと思う、守りたいと思う笑顔。無邪気に人を殺す笑顔だ。ああ。それを消そうとすればするほど、彼女のことを思い出す。それが僕の中に焼き付いて傷になって離れない。
はじめて同じクラスになったこと。席替えで彼女と隣になったこと。あの日。勉強を教えてくださいと泣きついてきたこと。テスト期間中、図書室で勉強会を開いたこと。僕の裁縫に驚いて、感動してくれたこと。僕が戦いに身を投じて学校を休んでいる間、すごく心配していたと聞かせてくれたこと。はじめて一緒に帰った日の会話。家を教えてくれて、今度遊びに来てと誘ってくれたこと。クラスでもふつうに話すようになったこと。
クラスメイトに仲のよさをからかわれたこと。それをきみが友だちだよとかわしたこと。その無重力の声音。その言葉がなによりも真実だということ。
僕はきみが好きなんだと気づいたこと。
きみが僕を好きではないと気づいたこと。
きみのことは全部覚えている。きみに抱いている感傷も。恋や愛も。だから今こんなに、考えなくていいことにまみれているんだ。
いちど、目を逸らしたくて教科書を開いたが、頭がきみから逸れてはくれなかった。顔を洗おうとしてふと鏡を見ると、僕は自分でも知らないような表情を浮かべていた。なにか、だれかの機嫌を取ろうとして失敗しているような顔だ。どこかが笑っていて泣いていた。もしかして、あの言葉を言われてからずっとこんな顔をしていたんだろうか。それから僕は再び部屋にこもって、きみを反芻しては、きみを諦めたくなって、またきみを好きだと思ってしまう。
そうして呻吟しているうちに、窓から差す光は月陽にすり替わっていた。
「あなたさんは……」
こんな顔をして、こんなに時間を無駄にしてきみのことで悩む僕を可哀そうだと言ってくれるだろうか。同情してくれるだろうか。それとも、軽蔑してくれるだろうか。
「雨竜くん」
「……あなたさん」
彼女に下の名前で呼ばれたのは初めてだった。それなのに違和感はなく、僕はまどろむような心地よさで歓喜していた。
僕たちは裸でいつもの帰り道に立っていた。それに気づいて、身体じゅうを粟立たせてしまった。彼女だって当然のように服を着ておらず、空想上の動物のようにもやがかかっている。
だが、なにも不思議なことはない。これは夢なのだから。
ここではなにもかもが都合のいいように動いてくれて、視界の街には誰もおらず、においも音もしない。空は永遠の夕暮れを維持し続け、疲弊しているように見えた。
一度瞬きをするうちに彼女が近寄ってきて、僕のからだに抱き着いた。もちろん僕はその感覚を知らないから、その重みや体温を感じることはできない。ただ自分の鼓動や呼吸の音は頭の中を独壇場にして切っ先鋭く鳴り響いている。きみの音は聞こえない。
ゆっくりとした動きで僕は抱き返す。肌がとけあう感覚が、幻だろうがわずかにある。緩慢な速度で落ち着けた脈拍のつながる感覚がする。
この腕の中にいる彼女は、たしかに偽物だった。僕の欲望がつくりだした偽物で、僕の望むことだけをしてくれる傀儡だ。夢の権化だ。それなのに、もうこのからだを手放したくなくなっている。
「あなた」
彼女のほほに手を添えて、上を向かせる。
「………」
「好きなんだ」
「……おかしくなりそうなくらい」
目を見開くその顔は本物そっくりだ。
「雨竜く」
「だからもう僕の夢に出てこないでくれ」
顔をぐっと引き寄せて唇を合わせた。感覚は無かった。あたたかさも。やわらかさも。僕は知ることを許されていないから。
黄昏がかりそめのキスに収束していく。どちらともなく離した口を僕がもう一度求めると、彼女も甘えたような顔でそれを受け容れた。たぶん、この顔は現実のあなたさんとは似ていない。穴を開けられた空に無限の雲を注ぎ込むように空虚な、うつろな気持ちだ。
あなたさん。おかしくなりそうなくらいきみが好きだよ。きみに会いたいと思いながら目覚めた朝は、いつも夕焼けのようなにおいがする。
「石田くん、おはよう」
「おはよう」
僕の心象風景とは裏腹に、今朝はとても穏やかな晴天だ。気温も程よく上がるという。きっと楽しく過ごせる日になるだろう。あなたさんは、いつも通り僕の隣の席に座ってあいさつを投げかけてきた。すごく朗らかだ。安らかだ。
そういう清らかな、席替えの日だ。
静かな鼓動と矛盾する教室。帰りのホームルーム、窓ガラスを突っ切る飛行機雲を目で追っていた。一日中の晴天が少しずつ、気づけないほど少しずつ僕たちを焼き切ろうとしている。悠長な担任の話に、白い雲がだんだんと朱にぼやけていく。
また同じ(きみと見た)夕陽だ。もはや僕はなにもかもを、きみに紐づけないと考えられなくなっているのかもしれない。
あなたさんの席は、僕から近くも遠くもない位置へ移動した。これからは朝の挨拶もなくなるだろう。
これで終わらせられるような気がしていた。いい機会だから、彼女のことばかりを考えるのはやめにしたかった。
この馬鹿げた執心に物理的な距離なんかは関係ないと、この程度の障害できみを諦めるなんてできないと、僕自身が一番わかっていたはずなのに。
「石田くん。帰ろう」
「……ああ。」
僕は時折、少しだけ壊れてしまいたいと思う。いまあなたさんのことを壊せるほど壊れていたなら、この鼓動も、気持ちも、苦味も、どうにかできていたんじゃないかと。
怖いほど昨日と同じ時間を、昨日と同じ帰路をたどる。なぞっている。だが昨日と同じ感情にはなりたくなかった。薄青と朱色と薄紫をごちゃ混ぜにした光が僕たちを攫っている。さっきよりも少し曇っていた。
「ありがとう」
「あはは。昨日にひきつづき?」
そんなんじゃなくて、もっと誰にも見せない顔で笑ってくれ。
そういうことを考えてしまう僕の、誰にも見せられない独占欲。が少しだけ、口からこぼれ落ちそうになる。
「ううん。うん。もう一緒に帰らないのかと思って」
「席が離れたから?」
「うん」
僕は、きみに手を取ってほしい。いつだってそうだった。昨日だって。クラスメイトにからかわれたときだって。期待するなと言い聞かせるたび、きみの棲み処になったこの心が窒息していく。
「そっか、」
これ以上はだめだ。彼女は昨日と同じ目をなぞっている。これ以上の言葉を聞いたら、僕はきみを壊せてしまう。
「好きなんだ」
「え」
「あなたさんのこと。ずっと好きだった」
坂道をゆるやかに下りていく。それと同時に鼓動が少しずつ、おさまってくる。僕たちは足を止めない。機械的に一定なスピードをゆるめないで歩く。そして、ただ押し黙っている。
「……………、い。今言う?」
彼女の家が近づいてきたときになって、やっとあなたさんが口を開いた。彼女はいつもとちがって、僕じゃなくて地面を見て話している。
「うん。……だってあなたさんは、今しか僕を見てくれないだろう」
「そ、んなこと、ないよ」
「ああ、違った。“今は僕だけを見てくれるから”だ。ここにはクラスメイトとか、きみの友だちもいない」
「う」
「ああ、僕は……きみの周りのやつらに嫉妬していたのか。いつもなにかに、心がつぶされそうだったんだ」
そのなにかがきみだと目で伝える。
とても優しい手つきのまま、たった一人で僕を侵略し征服したあなたさんの目は、わかりやすく動揺していた。目だけじゃなく、指先は常にいじらしく動いて、歩幅は少し狭く早足になっている。きっとそれは誰にも見せたことのない、特別な顔だ。ずっとずっと、そういう顔が見たかった。
隣でその様子を見ることができた僕はうれしくて、愉快で、これまでの自分の懊悩が馬鹿らしく思えて、あんなに恐れていた一瞬の情動に駆られそうになった。しかし、なんとかそれをたった一歩の接近で抑え込むと、我慢しきれなかった口角から息をつく。
「……僕のことを好きになってはほしいけど、好きになってくれないと嫌いになるなんてことはないよ」
でなければ、いよいよ僕は幼子だ。彼女の家の前に着いて、足を止めて吐いた言葉はひとりごとみたいな声で、たぶん僕は今同情をひきたいんだなと、また俯瞰するもう一人の僕がそう思う。
「返事だって今じゃなくていい。ただずっと、これからもきみを好きでいさせてほしいだけで」
「なんなら返事をしなくたっていいよ。きみは気まずく思うかもしれないけど、気にしないで」
「今僕の中できみのいるところが、きみのいたところになるのが怖いだけだから」
これまで終わらせられなかった思考の奔流が唇を割ってぼろぼろこぼれ出て、いままでの虚飾がはがれた痕はひりひりと痛む。一方的な言葉の一音を発するたび、僕の中にいたたくさんの彼女が正しくなっていく。そして喉の圧迫が楽になって、うまく笑えている気がしてくる。とたんに夕陽がまぶしくなって目をすがめた。
「その……ごめん。前からちょっとだけ、なんか、気づいてたというか……わ、私ずっと気づかないフリして、」
「そうか。じゃあ、……、いいよ。無理になにか言わなくても」
「………ごめ」
「言わなくていい」
「…………ごめん……」
この帰路は僕にとって唯一の安心で、唯一の危機だった。そして僕の唯一になってしまったきみが、みぞおちのすきまを縫って僕の中から出ていこうとする。それを引き留めようとした手をすり抜けて、静止の声を透きとおって、もうここへ戻っては来ないのだろうと直感で分かった。
未来に咲き誇る花畑が腐敗していた。
嘘みたいに喉が苦しい。僕は自分の行いを後悔し始めている。
手放せたはずの苦しさが帰ってきて、あなたさんのかたちをして、あなたさんのいた心へ居座って、僕の機嫌をとろうと笑っている。
「さっきのはうそだった」
「え?」
「僕を好きにならなくていいなんて言った」
「……」
「僕は聖人でも博愛主義者でもなくて、ただの男だ」
「……」
「あなたさんに好きになってほしかったし、きみの唯一にしてほしかった」
「……意外だね」
「そうでもない。ずっと考えていたことだから」
「そうなんだ」
「うん……うん。だからもうこれで、今日で終わらせたくて」
「うん」
「少しでいいから、手をつないでくれないかな。……」
「………わかった」
右手を差し出した僕に呼応し、あなたさんも右手を出した。これじゃ手をつなぐというよりはただの握手だ。でも、それでもよかった。どこか泣きたい気持ちだ。
僕たちは融合を果たした太陽のように、むろん、そうも輝かない夕景のなかでふれあった。
かわいい小さな手。宝石のように光る爪。なんてあたたかな手のひらだろうか。夢とはまったくちがう温度で、心がどきどきいっている。このまま永遠になりたい。すぐさま消え去りたい。やっと触れることのできたきみの手のやわさで、胸の中がいっそうぐちゃぐちゃに荒れる。
「わかってる」
「うん」
「……すぐに放すから。」
「うん」
放したくないよ。
だってわかっている。これで終わりだということが。もう二人きりで勉強も下校も雑談も挨拶もできないんだということが。
苦しい。
「……いま、放すから」
「うん……」
離れたところからどんどん外気が入り込んできて、きみの体温が染み出して消えていく。永劫だった光芒があっさりと消えていく。ふたりはふたりであって、他人であって、それ以上でも以下でもなくなる。
もう夜が近い。すぐそこまで来ている。
「ありがとう」
「いいよ。……じゃあ」
「それじゃ」
さようなら。
きみがいた手のひらを握ったりなぞったりしてみても、もうさっきのような気持にはならない。しかしその代わりに、夢の中で飲みこんだキスや、現実で吐いた告白の言葉の味が、繰り返し重なり合って反芻されて気分が悪い。めまいがする。何が現実なのかわからなくなる。
足を止めた。
あなたさん。
もう離れたのに。放したのに。
どうしてまだ僕を苦しめるんだ。
「………いやだ……」
誰にも届かない声でつぶやいた脆弱な拒絶が、落陽に掻き消える。紫藍の雲に押しつぶされる。みだれた空が思い出まで奪っていくようだ。
あなたさんと歩いた道を振りかえる。きみのいたこころの部位が、血の噴き出る痛みをともなって塞がれていく。瞬きの一回一回のたびに全ての花が咲いて枯れる世界がおそろしくて目を瞑ったら、頭の中にきみの声はしなくなっていた。
きみはおそらく、また夢に現れるだろう。今度は手のすべらかな感触とともに。
そうしたら僕はきっと、つぎは、もっとうまくやる。
できるはずだ。
帰路をまっすぐに歩く。夕焼けのにおいなんてどこにもしない。夏になった気温に侵されると、すこし頭痛がする。銀のフレームの外にはなにもない。大人のふりをして僕は、帰っていく。本当の自分に還っていく。
「あなたさん。」
…………
「そうか」
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