ケンガンアシュラ
おなまえ
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世界にだれもいないかと勘違いをしてしまいそうだった。夜のにおいが忍び寄るのを感じさせないほど頭をまわるあなたのことと、生ぬるい気温がそうさせた。雨がにわかに降ったあとの、ペトリコールの呼び声が、俺をそうさせた。
路地には生活のにおいも、街灯のあたたかさもまばらに、ひとりで歩く。思ったよりも暗く落ち窪む空の向こう岸を果てしなく、湿ったままの草木や、水たまりに浮くきたならしい泡や、てかてかと雲々を反射するタイルを目の淵に滑らせながら、俺はひとを待った。
ちょうど心地好い程度の息苦しさを感じながら、この胸のくるしいほどのそれの、答えをしきりに知りたがっていた。ただしく解答が出てしまえばきっと終わると、視界の隅でわかっていた。それがどんな終わり方だったとしても。
「あ、え、なん……」
「おかえり」
どれほど彼女が拒絶しようとも、彼女の通る帰り道はすべて把握していた。もうほとんど夜になった、俺たちはいつだって世界から取り残されている。
「遅かったな」
「は、はい」
あなたは動揺を隠さずにこたえる。その声をきいて、やっと息ができるような心地だった。だがこの胸の閊えは癒えないまま、彼女のほほに触れようと手を伸ばし続けている。またひとつ、ほしいものが増えていく。とどまることを知らないこの感情が、もしも人間にもとから備わっていたものだとしたら、神はきっと、娯楽のかたちをはき違えている。
「送る」
「……はい…」
きのう、彼女と別れたその一秒、瞬間からほしかったその声は、やはりいつも通りしおれていた。とくに、笑顔などは久しく目にしていない。それでも、彼女のそばにいられるだけですこしだけ、息がうまくできるような気がするのだ。
頑なに俺の名を口にしようとしないあなたと、水を含んだ足音をぺたぺたといわせながら寄り添って歩く。もと来た道へ、俺だけが正当に順を踏んで帰っている感じがした。
俺たちの距離を裂くものも、また縮めるものもなく、うつむいて歩くあなたの横顔と湿気た沈黙と薄曇りのほか、視界に入りこむものはなかった。あなたがあえてこちら側の手で荷物を持つようにしているのも、知っていた。
また、ときおり車がそばを通過するのを、あなたは助けが来たかのように顔を上げて反応した。俺とこうして歩くのを楽しく思っていないことすら、あなたは隠そうとしなかった。それは、きっと、いいことだろう。あなたがきれいに素直に歪みなく生きている、それを俺は好きなのだ。子供のように泣き、笑い、生きていくのを、あなたはいつだって簡単にやってのける。それにきっと、憧れているのだ、俺という男が。さも当然のように。
「また降りだしたな」
ふたつの傘がふたりを上手に別け隔てる。距離を保ったまま、ああ、もうこんなところまで歩いてきてしまった。ともに歩くスピードは遅いはずなのに、あなたと過ごすわずかな時間は青い風のように吹き抜けて俺を置いていく。彼女の腕時計の刻む、望んだとおりの時刻に。
「傘に入っていいか」
そばの排水溝に葉や花弁がまとまって流されていくのを見てから、ようやく俺はあなたのふたつの眼球へと視線をすべらせる。俺の言葉には疑問符はついておらず、言葉尻にたどりつく半歩前すでに自分の傘をたたみ、あなたが持つには大きなそれに身をかがめて侵入していた。
「俺が持つ」
あなたはたじろいだ様子だったが、いまにも触れそうな距離を見てからは何も言わないまま傘の手元を俺へ渡した。
先ほどまでよりも近くに感じるあなたのちいさな呼吸を意識するたび、俺の息がその音をかき消してしまいそうに荒くなり、思わず何度も手に力を籠める。ああ、やはり俺はこのひとの飼う獣なのだ。躾がなされていないだけの。
「別れたくない」
俺は歩みを止めた。
俺が傘を持っているから、必然的に、本能的に彼女の足も止まった。でもほんとうは止めたくなどなかったのだろう。俺はあなたのすべてを知っていた。その奥にひそんだ、誰にも見せたことのないうつくしい感情以外は。
俺の両腕が、不釣り合いなほどか細い彼女の身体に巻き付いていく。頭では、いつだってわかっていた。世界にふたりきりにはなれない。また一台、水しぶきを舞い上げて、すぐそばの車道を走って消えていく。その一瞬の光から身を隠すように、俺の身体が完全に彼女のことを覆ってしまっても、彼女と同一の存在に、ひとつになれたなどとは思えない。
「おまえと」「抱き合いたい」「くちづけたい」「まぐわいたい」
口からつるつると、濁った水が寄せるように欲望ばかりが流れ落ちた。俺の言葉のあとには、すかさず雨が地面をたたく、俺は音という外界をかき消すように、好きだ、そばにいたい、いてほしい、と、使い古されているであろう安い愛をふたたびささやいた。
愛することに許可が必要ならば、俺は何億回でもみじめに乞うだろう。粘性をたもったままの嫌な湿度で、あなたの体温だけが突き刺すようにあいまいにあたたかい。俺の濡れた肩が彼女にふれてしまうと思っても、離れることはできなかった。
「ご、ごめんなさい、わたし…」
可哀想なほどに声をひきつらせ、見なくてもわかるほど表情も怯えていることだろう、つむじ風たったひとつで散ってゆく存在、花のように弱い。だから俺の胸に花弁が居座って枯れないのだ。
……
「そんなことはとっくに、わかっている。」
この手を離したほうが、彼女は幸せになれる。幸福に恋をし、笑って泣いて生きて死ぬ。それがヒトの最終形であり、だれもこんなひどい思いをかかえこむ必要はない、本当なら、こんな逡巡しなくとも生きていけるのだから。
だが脳髄を攫んで離してくれないこの感情の名が恋であると、おまえがその目配せただひとつで俺に教えてしまった。刻みこんで終わらないようにしてしまった。恋が終わらないようにと、まじなう気持ちで俺の虹彩を奪い去った。手を離せなかったのは俺だった。つたない手つきで触れて、そこから火傷の痕が広がっていくのを黙って見ていたのだ。
おまえの体温ひとつで。焦がれるほどあついこの花首の落ちるのを。
「だから俺におしえてほしい、最後まで」
俺のしらないあまいかおりを纏いはじめたのはいつからなのか?いつまで経ってもそれが、地面から立ち上ってくる雨のにおいに掻き消されないのはなぜ?どうして俺をここへ閉じ込めるんだ?どれほど一緒にいればおまえは愛してくれるんだ?
「愛してる。」「愛してる、愛してる。ずうっと前から」
おまえをさらいたかった。まだ知らない、あなたの最奥にあるものまでぜんぶ、俺に愛させてくれ。
コンクリートに落ちた傘が、つめたくなった風に押されて回った。街灯の光のとどかないしたたり、いつまでも続くような驟雨、その錯覚に気付きながら、俺の冷えた指があなたのくちびるをなぞり、ふたりだけが世界から姿を消した。