ケンガンアシュラ
おなまえ
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扇風機をつけっぱなしにして眠ってしまった。遮光カーテンの隙間からわずかに月のあかりがこぼれて、真っ暗い床へ落ちている。それが雲で薄く覆われ、心許ない照明がその光度を絞ると程なく、どこからかクラクション。世界が終わるならこんな夜だろう、と、わたしはふと、起き抜けの頭で考えた。
ぶうんと唸る人工の音と、それにしてはやけに暑い空気が部屋にこもっていて、わたしは首に滲んだ汗をぬぐいながら、首を振り続ける扇風機を押さえて、無理やり自分のほうだけに固定した。その型落ち機械の、けたたましい抗議の声、ああ、いけない、もう出なければ。
「あなたさん。」
「金田さん、こんばんは。」
心底迷惑そうな表情で、さもそれが気づかれていないかのように、懇切丁寧なあいさつ、わたしはこんな人になりたかったのだ。あなたさんは一日をとても大切に生きている。もしここで車に轢かれても、彼女はおそらく現世に悔いを残さないで死ぬのだろう。それほどまでに、あなたさんは何もかもを愛しているような体であるし、それを真に受けた何もかもに愛されてしまうのだ。
(ほんとうはそんな人じゃないはずなのに。いつになったら、わたしを拒絶できるようになるんですか?)
なんでもないように隣を歩き、恋人同士でもないのに笑い合い、うわべにうわべが塗り重なった、もしそこに風でも吹こうものなら、それがおんぼろ扇風機だったとしてもすべて吹き飛んでなくなってしまうだろう薄氷じみた関係を、わたしは必死になってつなぎとめている。
「今日は、遅かったですね。残業でしたか?」
「…うん、そうです」
街灯をひとつひとつ歩き去っていくたびに、わたしたちの間にどんよりと沈殿していた違和感がだんだんと首を擡げはじめる。漫画の巻数を入れ替えて本棚に並べてしまうような、いいやそれよりももっと、壊れた家電を入りもしない本棚へ押し込もうとしているかのような、強烈に鮮烈なわたしという不純物が、あなたさんの中に、押し入ろうとしているのだ。
続かない会話のなかに横たわる沈黙がいよいよ目を覚まし、ふたりどころか、あんなに煌煌と照っていた月明りも丸呑んで、一方あなたさんは気まずそうに、片手をポケットに突っ込んだ。わたしの歩いている左側の手を、故意でなくても、さわられないように。厳重に。
誰かがわたしたちの関係について訊いてきたなら、彼女は「知人です」と、そのかわいらしい口から控えめな声で放つのだろう。
あなたは偽善者です。
わたしはあなたが、左ポケットに煙草を隠していることを知っている。
前は吸いもしなかった煙を、誰の影響でその肺に入れているのですか?
それが誰のせいであるかも、知っている。
「わたしのことを迷惑だと思っているなら早く言ったほうがいいです。」
「…え、金田さん、」
「そのせいであなたの男に殴られているんでしょう。浮気だと疑われて」
「な、なん……」
「疑われているのはなぜですか?…あなたさんが彼氏でもない男と一緒に歩いて帰るのを受け入れているからです。わたしを早く否定しないと。あなたが好きな人は誰ですか?俺じゃないですよね。俺以外のために早く俺を、迷惑だと言い放って、本当のあなたに戻らなくちゃ。こんな博愛主義のまねごとはもうやめにしましょう。あなたが俺を嫌いなことはわかっているんだ、俺は……殺してしまいたいほどあなたが憎い…おかしい、ずっと好きだったのにな……ずっと純粋な気持ちであなたさんが好きだったんです、ずっとあなたを見ていたから……愛していたんです。でもおかしい、こんなこと…あなたを殺してしまったら、もうあなたは俺のことを拒絶できないのに。知っているんですよ、ぜんぶ……気持ち悪いですよね。でもあなたさんが好きだから心配だから、このままどこかに連れ去ってしまいたい、違う!あなたはまっとうに生きてわたしを否定しながら生きていくべきだ、そう、そう……あの男と幸せになって、俺はそれを見て泣く、あなたに好かれなかった俺が弱いから、俺が弱いから。わたしのせいだからぜんぶわたしのせいだから、あなたは何も悪くないんです、本当に……俺があなたの悔いになりたかった。たとえば事故で死ぬってとき、あなたが見るだろう走馬灯のなかに、無理やりにでも入り込んで、そのほかに出てくる人間をみんななかったことにしたい。死ぬとき最期の視界には俺一人だけが映っていればいい、とか傲慢なんです俺は、あなたの悔いがないように、あなたには、わたしの知らない奴らが大勢味方してくれていますもんね、それも知っています、知らなくてもよかったけど、知ってしまいました。あなたのせいで、ああ違う、全部がわたしのせいなのに。自業自得なんですあなたを好きになっても仕方がないんだだってあなたさんにはとっても素敵な馬鹿みたいに素敵な皆さんがついていらっしゃるから、わたしひとりが汗水たらして働こうがどんなに上手なキスをしようが一生残る傷をつけようが、あなたに現状以上の幸福を与えることなんてできないんですよ、だから俺をいっそのことぶっ殺してほしいんですけど、あなたは血が苦手でしょう、だから……だから、拒絶の言葉で俺を殺してください。(金田さん。もう一生、わたしに近づかないで。)それだけで殺して、恋を終わらせて、その言葉たったひとつだけ、俺の心を刺すことができたならもうそれで、おまえを、あなたを、どこかへ連れ去ろうなんて…あなたさんを殺してしまいたいだなんて……言ったりしなくなるはず、ですから…………」
わたしがしゃべり終えた時には、もう、周りの、街頭や月やそれを吞んだはずの雲が、誰もかもいなくなっていた。その乖離はしかしあなたさんとの距離を広げも狭めもしない。これ以上、ふたりの心がどんな関係にもなりえないことは明らかだった。渇いた口内を慰めるように、震えながら息を一心に吸い込むと、煙草の匂いがどこからか空に混じって鼻腔へ這い寄ってくる。不味い。ああ、嫌だな、これほど些細なことなのに、足がすくむ、あなたさんがこんな夜に不釣り合いな、あんな男とは不釣り合いな、薄桃のくちびるを開こうとしている。
「金田さん。もう……」
(嫌だ。嫌じゃない。こんなのおかしいだろ。おかしいのはわたしだ。離れたくない。離れなきゃいけない。愛されたい。愛されるはずない。言うな、それ以上何も言うな、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ………)
「」
わたしは泣いていた、夜に泣いて、あの扇風機の羽のまわる音がただ、囂々と鳴るのを聞いた、もうどこにも俺という存在がそこにはいないことを目で確認した。あなたさんのくちびるは「い」の形に固定されたまま、情けなくも、わたしのくちびると重なっていた。これほどみじめな
「わかってるんだ、あなたが俺を嫌いなのは、もう、わかっていますから」
そして俺があなたを諦められないということも。
ふたりの影が極限まで近づいて、そして離れて、ゆらゆらほのめいた。あれほど待ち望んだあなたさんとのはじめてのキスは、どこか苦い味がして、もうわたしはため息をついてしまいそうだった。
「嫌、金田さん、やめ、」
「うるさいッ!!!!」
「……なんで…」
「うるさいうるさいうるさい!!もうやめろよッ!!……」
わたしの
声が空しく響いている。機械音にも似ている。首を汗が滑り降りると、いよいよ現実味が増してきた。そして瞬間にデジャヴ、もう覚えていない夢の中で、わたしはこうして、あなたさんを拐そうとしていたのだろうか。
あなたさんがこっちを見ている。
その目に月の光が淡く反射して、わたしを激しく糾弾している。
世界が終わるのだ。
夢のようにあざやかな色彩の中だけで生きていたあなたさんを、わたしはぜんぶ奪い去ってしまおう。わたしの視ている、夜の色だけが広がっているこの世界に、あなたを引きずり込んで動けなくさせよう。
生暖かい風が吹く。生暖かい風が去る。殺してやりたいだなんて嘘だ。ただ、そんな嘘をついても、あなたさんに振り向いてほしかった。もう一度、夢でないことを確かめるようにくちびるがふれあう。そして、薄い皮膚どうしを、湿らせながら離れて、体温がもういなくなってしまうのをはっきりと感じた。
互いの息のかかるほどの距離で、わたしはうまく、笑っているように見えただろうか。
「静かに。もう、じゅうぶん、嫉妬はしましたから。ね、」
あなたさんだけ、ずっとずっと前から、愛していました。
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