短編
おなまえ
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車窓から見える水面が、点々と視界に光を散らしまわっている。
海なのか、それともでかい川か、湖なのかも知らないが、この濁って鋭い光を直視することによって精神が安定を失うだろうということは間違いない。
薬をもらった帰り道はいつもこうだ。俺がかかるべき病院が自宅近辺にないから悪いのだ。これも症状に入るのだろうかと、俺は最寄駅から帰路をうだうだと歩みながらいつも考える。
「ひとりでも歩ける。」
コンビニを過ぎ、横断歩道を過ぎ、マンションへまっすぐ帰る。そうするように主治医に言われているからだ。
しかし、マンションに入ると同時に、すぐそこでおとなしそうな女がひとり、エレベーターの到着を待っているのが見えたので、ほこりがたまった暗い角を曲がり、階段を使って4階の自室へ戻ることにする。
靴音のたたないようゆっくりと段々をのぼってゆくと、気分の悪くなるほどの猛烈な熱気が俺の身体を包んでは解放して弄んでくる。思考がのろい歩みを追い越したのだろうか、帰ったらまずトイレに入ってゲロを吐こうと考えだしてからは、4階につくまで時間は要さなかったように感じる。
まあ、単に暑さでやられてしまっていたのかもしれないが、この速度に際して、靴音をたてないという俺の必死のいとなみがきちんと為されていたかどうかは定かではない。
・・・
………今日もベッドの真上でごうごう鳴くエアコンや、いつまでも鳴く鴉のおかげで4時になっても寝付くことができず、俺は起き上がって息をついた。
眠ろうとする緊張で眠れないということは頭でわかっている。それがわかっているのに眠れないのでまた新たな緊張がうまれる。そしてそれを把握していながら眠れない自分にため息をついたのだ。
ため息のあとにもうひとつ大きく息を吸って吐くと、胸のあたりの抑圧がいつもよりいなくなって、久しぶりに心臓が動いている感じがする。小さな頃から使っていたタオルケットをくちゃくちゃになるほど揉んで、部屋のフローリングに花がいくつも咲いて花畑みたくなっているのを一瞥し、ああまたかと思う。胸が苦しくないと落ち着かない。
いまだ眠気に襲われない俺は浅い呼吸のまま台所へ行って、包丁を取り出してじっと見た。
遮光カーテンのすきまから漏れだすマンション廊下の蛍光灯が、このときばかりは救世主のようにちらちら光っていたように思う。包丁の反射光は、きょうの帰りの電車で見たのとは少し違って、もっと直接的に俺の心を乱していた。
なぜだかうれしくなって、胸のあたりの抑圧はひどくなった。
俺はそのまま歪んだ玄関ドアを開け、蛍光灯を見に行った。
……しかし、蛍光灯にはいっぱい蛾がたかっていた。俺が救済の存在を信じかけた対象はうぞうぞとうごめいたり跳ねたりする集合のすきまを縫ってやっとのことで漏れたカスみたいな光であって、世界が反転するほどの極光や太陽信仰の後光などではなかったのだ。
ああがっかりだ。心底がっかりした俺は項垂れるままに、手に持ったきらきらの刃をじっと見た。そして、誰にも気づかれないように、左人差し指の指紋の真ん中を、そうっと切った。
急いで玄関へ戻り、自分の部屋へ戻り、足元に落ちていた薬袋に指をおしつけ、ぷくりとやわらかそうな曲線であふれていた血をなぞりつけた。
できれば、日付なんかも血で書いてしまいたかったが、きょうが何月何日なのか忘れてしまったし、この家にはカレンダーがないので、俺はそのままじっとする。人を殺したことが無い指先が冷たくなってきたころ、やっと紙から傷口を離した。
「だいじょうぶ?」
ああ、やっとやってきた。紙には鼻で笑えるほどの大きさの薄黒い印が残っていた。俺が大丈夫かどうか答えようが答えまいが、会話らしき濁流は進んでいく。あなたはくだらない指の傷を見て、うう。と唸った。血はもう止まっているのに、手当てをしようと兢々と覗き込んでくる。あなたは血が苦手だった。
「……手当ての道具もなにも持ってねえだろ」
「う、うん。でも、痛そう」
「おまえが気にするようなことじゃない」
クラックを吸ったあとの憂鬱よりもつかめないあなたの腕が、居心地悪そうに揺れている。
あなたは間違いなく、俺がみている幻覚だった。きょうのあなたは、エレベーターを待つおとなしそうな女の見た目をとっている。ほんとうのあなたのすがたなんかは、もう忘れてしまった。
俺はなんとなく、部屋の隅のごみ袋や、電池が切れて止まったままの時計を見たり、開けっ放しになったカーテンの向こうからいつも覗いてくる死んだ父親を眺めたりして、あなたの目を見ることができないでいた。
俺はひとりでも歩けるのに。
あなたはうつむく俺に合わせてかがむ。こうやって手首をにぎって離さないほそい手が、歩く俺のとなりにいつもついてくる。きょうの分の薬を飲み忘れていた、俺はうつむいたまま「消えろ」と言った。あなたはいなくならないで、あなたは、笑っていた。
俺を可哀そうがるようなその笑顔を見ていると、「お願いだから、ぬいぐるみの腹をなでる手つきで俺を殺してくれ。」と思った。
俺の記憶から継ぎ接いだだけの声で殺してくれ。小さな傷どもの跡で殺してくれ。世界が終わる包丁で殺してくれ。倒れたままの写真立てで殺してくれ。落ちる光で殺してくれ。枯れた花で殺してくれ。腐る心で殺してくれ。熱で。海で。色で。目で。虫で。血で。幻で。あなたという幻覚で殺してくれ。
あなたの身体がぐちゃぐちゃにくずれて、俺といっしょになる。頼むから殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ
翌朝目が覚めた俺のそばにはなにもいなかった。