短編
おなまえ
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きのう靴擦れした。おとといはささくれを剥いて血が出た。その前には手首を切ってた、わたし。だからお風呂がきらいなの。
と、精神が安定しているかのような顔をして話すあなたの人格はとっくに破綻していた。あなたは被害者で居ることが得意だ。十分に自分が加害者たりうることには気づいていないのか、気づかないフリをしているのか……
俺は昔からあなたの価値観が嫌いだった。
きのうは足が痛いと言うからおぶって帰っただろう。おとといは指に絆創膏を巻いてやっただろう。その前には、もう手首を切るなぞくだらないことはやめろと言ったのに。
あなたは感じないのだ。どれほどやさしくしても、ひどくしても、接吻をして抱いてやっても、あなたは俺から目をそらすだけで、ベッドの上で喘ぐこともなく。罪悪感も快感も拾わない、あなたの壊れた価値観が大嫌いだった。
「…つまらねえ女。」
「なら、ほかの女の人にしていいよ。わたしもそうするね。」
あなたはあまく目を細めながら言う。極端なことを言って人を遠ざけるのがこいつの常套手段であることを、俺はとっくに知っている。幼気なふりをして俺の首を優しく、やわらかな臓物でくるみ絞めてゆくのだ。母の羊水のなかのようにここちよいようで、早く出て呼吸を始めてしまいたいとも思う。二律背反、絶対の矛盾、それだけがあなたを形づくっているものだった。
あなたと俺はずっと昔から一緒にいた。不名誉なことに、不本意なことに、100年前から。俺は変わった、ありふれた家に生まれ、ありふれた人生を送ってきた。そこそこに家族にも愛され、そこそこに他人とも交流がある、付き合いで飲みに行くことだってある。
だがあなたは100年経てども変わらなかった。死んでも生まれ変わっても、また俺に再会しても何も変わっていなかった。
その頭を撃ちぬいた瞬間の、あなたの安心したような顔を見て、ああ、やはり、一発で殺すんじゃなかったと後悔したものだ。ぼんやりと熱を忘れ、ただ血が噴き出るだけの玩具になっても、そいつは布団の上で看取られたかのような安らかな顔を浮かべていた。
(だからもう殺してやらん。)
煙草のつくる霞雲、それが汚染、滲入、あなたの肺胞まで。
(あなたの手首に横たわった新しい血が、その玉結びをほどいて重たげに流れてゆく。)
ただずっと眠りたいだけなの、と、怠惰、貪欲、嫉妬、その他。
(何本もの糸となって、白かったシーツに滲んで、じわりと散らばる。)
(あなたがそのままぼう、としているので、血は鮮を失って黒く死んでゆく、それを俺は横目で見ている。いつも。)
いつも、
一緒に風呂に入って、湯船にあなたの顔を沈める夢を見る。
「こうしてるとさ、痛いな。ほら、傷に染みるの、ずっと、」髪をひっつかんで、ゆがむ水面にごぼごぼと、なんらかの言葉が泡になって浮かんでくるのを眺めている。瞬きのたびに網膜に焼き付いた白い靄が増えてゆく。それが脳みそまで食べようと手を伸ばしてくるのだ。目を開けているのに、残っているのは手に絡みつくような、あなたの髪の感触ばかりだった。
俺は、どんな気持ちだったのだろうか。あたたかな水を攫もうと飛沫を上げる傷だらけの腕に、サヨウナラと、別れを言うことはできたのだろうか。そして得たものは、失ったものは、目の覚めた俺の視界のどこにあるのか。
やがて、被害者Aの見るすべては白く覆われ、そこから抜け出すように目が覚める。
「……そうか。」
おまえは、苦しいときに笑うのか。
俺の手がだんだんとあなたの首に馴染んでゆく。肉の抵抗を通り過ぎると、頸動脈のわずかなささめきが指先に触れた。あたたかいのが不気味なほど、あなたはどこもかしこもが死んでいる。
「ぅぎゅ」
顔が赤く染まったあなたは奇妙なうめき声を漏らしながら、恋をするような表情を浮かべた。とっくに昔から、そうだった。
もう俺以外のために新しい靴なんかおろさなくていい、もう俺以外のために指先を気にしなくていい、もう俺以外のために可哀想ぶらなくていい。もう俺以外のことを考えるな。あなたが一番カワイソウだとわかっているのは俺だ。そう言って縋っても、おまえは俺の貼ってやった絆創膏をその辺に捨てて、いなくなるのだろうが。
開きっぱなしになった口の端から唾液が垂れるのを舐り、そのまま唇を食んで、俺はあの夢を、ゆっくりと想起した。
ああ、どうか、まだ俺に殺させないでくれ。