短編
おなまえ
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男は憤っていた。
そしてその胸に煮えたぎる怒りが最上級の愛情であるのだと確信していた。
呼吸のたびにいちいち、初恋のような鼓動がはずむ。
リズムは、とてもかわいく地獄の体をなす。
初恋を重ねるたびに強くなる欲望の臓腑が、もっともっと欲されたいと叫びをあげる。
喉を駆けあがってすべてを破壊しようと目論む、体温に似た憎しみの温度が、もはや心地いいとまで感じていた。
恋人の帰りを待つこの間も、黙っていられずにちいさく唸り声を上げ続けている。
この地域でいちばん大きな病院の診察券の文字を、荒い視線で唱え続けている。
来院の際は必ず診察券を持参すること、毎月初めの来院日には保険証を提出すること、杉元の患っている永久的な病はきっと診察で治るものではないだろうこと。
割り振られた患者番号のように絶対的な天命の恋は、いつだって彼を未知の暴力思考に引導する。
部屋には思考と唸り以外の沈黙が気まずそうに流れる。
杉元佐一は愛の味を覚えた獣のように、ひっきりなしに誰もいない世界を威嚇していた。手のひらを結んで開いて、待っていた。
30分ほどそうしていると、玄関の扉が開く音。
彼にとってはようやく。
「おかえりなさい。」
立ち上がって、少し驚いた顔をしているあなたのもとに駆け寄った。
「うん。おつかれさま。」
そしてかばんを持ってやり、上着を脱がせて手近なハンガーにかけ、すぐに手を洗えるように袖をまくってやり、それからわずかに乱れている髪の毛をくしで梳いた。
前時代的ともいえるほどの杉元の献身的な態度は、きわめて理性的で慈愛にあふれた真人間のおこなうような善行にみえた。
その実、核のように加熱をやめない、もはややめることができなくなっている杉元の瞳孔が、徐々にあなたという光に慣れていく。
その奥に反射しながら、あなたは増えるばかりの疑問のうち、ひとつめを投げかけようとした。
しかし彼はそのための息継ぎを察知して、突然肩をがしりと掴む。
紳士的でも優しくも理知的でもない力で。
そして静かに言った。ただ愛に悩んでいる獣の声で。
「座って?」
「………」
あなたは黙って従った。
そしてなるべく息をしていることすら知られないようにと、胸の浅いところで鼓動と呼吸のいとなみをはたらいた。そうしたほうが賢明である気がした。
囁きにも似た杉元のお願いが、場を支配し始めていた。
向き合って座ると、ふたりの座高の差がはっきりとわかる。
あなたは男のまっすぐな視線から逃げて、なんとなく左下を見ていた。その先にあると信じたい、いつもの平穏な生活を夢見ていた。
それでも、杉元はできるだけかわいくて平坦な抑揚で口を開く。
「携帯見せて。」
「え……え?」
その次にした要求に面食らい、彼女は思わず杉元の顔をわずかに見上げた。
「見せてよ。」
「ぃ、」
真っ暗な目。拒否も虚偽も、うまい返答ができないで舌がもつれる。
そうして呼吸を二度ほどついてしまうと、男はやんわりと笑った。
目じりに浮かぶやわらかな線は、どこか震えてゆがんでいた。
「そうだよな。」
「じゃあ、なんで見せられないか、当ててあげる。」
杉元は子どもにするように手招いた。今度は耳を貸してとお願いしているようだった。
怯えながらも、あなたはまたしても従う。
おとなしく、その淑やかな笑みに近づいた。
すると頭をぐっと引かれ、くっつかないぎりぎりのところまで寄せられてしまう。
驚きで声をあげそうになったあなたは、至近距離でつぶやかれる杉元の言葉に息をただ飲みこんだ。
「あなたさんが浮気してるから。」
「っ……え?なに、なんのこと、」
否定でも肯定でもない疑問符が、脳内をはじけそうなほど生まれては死ぬ。
立て続けな接触と断言するような口調に、彼女は混乱の迷路に突き落とされたような気持ちだった。
あなたの曖昧な反応をはじめから見越していたかのように、ただ笑うのとは違う角度で目を細めて、杉元はさらにゆっくりと近づく。
拒絶の視線を頬にくらって、とても傷ついた心で、泣きたいのを我慢して、きょうの受診予定をすっぽかして、あなた以外の問題をすべて忘れて、忘れざるを得なくさせられて、杉元は、被害者だった。
「なにも、なにも………私、」
「んーーーーーー………」
安心しているときと同じような音程の吐息。
納得などしていないのに、ねめつける眼を刺しながら、ゆっくりとあなたに身体を預ける。
いとおしい恋人に甘えているような体勢だが、それよりはいくらか動物的な姿勢にも思えた。
ずしりと感じる体重と、ともすれば発熱しているのではと感じるほどの体温の集合、埒のあかなさ、彼女は震えるあばらの内に冷や汗を流した。
首からあごに這わせる。
視線の次に、舌を、喉仏を呑みこむようにして這わせる。
「っ、ひっ!」
ぬるりと、不穏で温かな感覚にあなたは悲鳴をあげた。
しかし、身動ぎをすることは許されない。
重くのしかかる杉元の身体と彼女の境界線が、少しずつ薄れていくせいだ。
あなたの身体をいつの間にか太い腕があたたかく囲み、その体温で逃走経路をつぶしている。
ぴちゃ、と、隠しもしないで、ふたりのわずかな隙間でどこか嫌らしい音が鳴った。
恋人よりも恋をし合っているような至近距離なので、心拍数すらもひとつひとつ丁寧に指で数えることができてしまうだろう。
現に、首元あたりには獣といってもいいほど激しく如実に、男の生温かい息が感じられた。しかしそのような近さでありながら彼の思考だけが、あなたにとってなにより未知だった。
杉元は二、三度、緩慢な動きでその部位を舐めたのち、灼熱の様相を呈する口許が舌をしまいこむ。
「んん………」
そして、誰にも触れられない場所に、楽園の刻印のように、神聖な静けさとともに強く吸い付いた。
誰にも見られないまま、杉元は少し笑っていた。
あなたのこと以外考えられなくなる世界の狭窄が、唇の端から頭に染みわたっていく感覚が、この上なく温かくて気持ちよかった。生きていた。
唾液で冷えた肌に、鬱血の熱がともる。
あなたの呼吸のたびに空気が通り抜けるその傷跡で、彼の検閲がなされる。彼女はもはや震えていた。
あなたには男がどこに触れていてどこに触れていないのかも、だんだんわからなくなっていた。身体のどこも掌握され、手のひらで溺れさせられているようだった。重石をのせられたように心が沈みこむ。
瞳孔がひらく瞬間を見せつけるようにして、じっと、じっとりと、目が合う。
黒い眼と目が合う。
「んーーー」
「うそつくなよ………」
犯行声明のような音をもつことばだった。
あなたの喉に刻まれ馴染んでしまった痕が、息を難しくさせる。
これほど身近に死を感じたことは今までなかった。
なにか、指先を数ミリでも間違った方向へ動かすだけで、出所不明のその怒りが暴力をともなって飛んでくる仕組みの上に今いるのだと、心から思えた。
「、……………、………っ………う、……そ……じゃなく……て、なにも………ほんと、に、なにも………」
そして弁解とよぶにはあまりにも弱々しい、震えに震えた声擬きのかたまりが、ふたりの密着を拒もうと恐怖の沈黙を切り裂いた。
その間にも餌をほしがって信じている瞳で、杉元はあなたの言葉のつづきをじっと、ひたむきなほどじっと待っていた。
「……そっっっ、………か。」
しかし、あなたがこれ以上なにも話さないと判断すると、杉元は身体を少しだけ離し、観念したように何度もうなずく。
「そうだよね。うん。俺ごめん、俺なんか間違えちゃったみたい、なんか、あードラマの見すぎ?かな?あはっ。ごめんね。あーーーー……そうだよね、あー、……うん………うん」
杉元はあなたが思ったよりあっさりと、そして何度も何度もうなずく。
矢継ぎ早に言葉を発する間、独り言をただ自分にしみ込ませて納得させる作業に没頭しているかのように、その黒い眼はどこも見ていなかった。
声をずっと発して恥ずかしいほどの沈黙を埋めつづけなければ、杉元は永久の病を少しも寛解させられない。そのことを本人は無意識に理解していた。
(……あああ……うるせえ………そんなわけねえだろ………あなたさんと俺は愛しあってる…………いつも愛しあってる………心から大好きなんだから………)
その治療作業途中の空虚な笑いがあまりに冷たく、あなたは背中をふたたび粟立たせた。
窮地を脱したはずなのに、どこか、喉の奥にまだ爆発力をもった殺意を飼っているように見えた。
繰り返し謝っているはずなのに、どこか、瞳の奥にまだ疑いの残像が存在しているように見えたのだ。
「ごめんね。ごめんなさい。ほんとに……ごめんっ。」
殺すなら首を絞めるのがいいと思っていた。
だから彼女を待っている間、杉元はずっと手を結んで開いて、うまく力をこめられるようにと練習をしていた。
太い血管のあとをたどって、いっそ骨の感触を確かめるくらいに激しく、しかしなるべく苦しくないように殺してあげようと、それは紛れもない慈愛の怒りだった。
でもその成果を披露する必要がなくなったことに、ひどく安堵し、同時に落胆した。
ひどい勘違いによって無駄に産み落とされたうらみという強い強い生命を殺害するため、口の中をぎゅっと噛んだ。
裂けた血のにおいとともに手を結び合わせ、弔いの言葉をあなたに告げる。
「許してくれる?」
あなたと杉元佐一は今まで会ったことがないが、そんなことはふたりに関係ない。
杉元にとって、ふたりの面識程度の問題はあまりにも些事で、野暮で、杉元が力づくで捥いだ運命の糸の前では、無関係な有象無象のひとつにすぎなかった。
あなたの顔を見上げ、償うより簡単な誓いを約束してほしいと願う瞳は、だれより真っ黒に純粋だった。
だからその瞳にあなたの肯定をうつしたときには、だれよりもかわいく微笑んだ。
精神に唯一患う恋の病がいっそう進行する音で、胸の中をいっぱいにして。
杉元佐一は人間のように、ふたりきりの世界の訪れを感じながらようやく正しく息をはじめる。
手をひとりで結ぶのをやめて、あなたを強く抱きしめた。
腕の中で震える小さな身体を守るためならなんでもできると思った。
男は幸せだった。
蛇足:以下サイトより抜粋
『Q:
俺はあの子を殺したくなるほどほんとに本とに愛しているのにあの子は俺以外のひとに浮気しているみたいなんです。
ずっと一緒にいようねって約束したのに浮気しているんです。
だから殺したくなるんです。当然だと思う。もしかして俺を嫉妬させようとしてるのか?そんなことをしなくても俺はあの子のまわりすべてに焼きもちやいてばかりなのに
だからだけど俺のことが大好きすぎてやったことだとしても、あまり許そうという気になれなくて、それなのに平気で笑って生活してるところを見ているとすごく殺したくなって というか痛めつけてあげたいって、俺がどれだけ苦しいかわかってほしい気持ちでいっぱいになって、気が付くといつもあの子の家の前で拳を握り締めて立ってるんです。でもしょうがないことだと思うし、だけdどあなたさんを殺したらあなたさんがいなくなるってことだから、それは悲しいことだからだめだというのもわかるし、苦しくておかしくなりそうだおかしくなりそうなんです、もう。俺は明日あの子を殺すかもしれないから。、どうにかなりそうなので、助けてくれませんか』
『A:
まさかとは思いますが、「あの子」とのご関係はあなたの想像に過ぎないのではないでしょうか。』