短編
おなまえ
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夕焼けなら桃色のがいい。桜なら散ったのがいい。窒息なら死ぬほどのがいい。
そういうわがままを思いながら俺は適当な体勢で寝ていた。夢を見ていたのかもしれない。そう思うと同時にどんな夢を見たかなど忘れてしまった。
小指のささくれを剥くと、小さく血が出た。ぼうっとする頭のままつまらなさを感じ、皮膚の奥のほうから滲む指先を見つめている。その間、世界一規則的な秒針が鳴っていて、つまらなさに拍車をかける。そのせいで少しの間だけ二度寝した。
10分ほどしてまた起きてから、そばにいるあなたの身体を抱き寄せると、自分が鼓動や呼吸をしていることに俺はやっと気付けた。なぜだかそれが面白かった。赤ん坊が自我を手に入れるまでの過程がはっきりと分かるように。血が出たときよりも生きているという感じがする。人の形をした肉なんぞじゃなく。すべてを許すことができるし、許さないこともできる。俺は生きているから。
なみなみ模様を走る電線の影がまだらにカーテンにうつって、そこを通ってきたオレンジ色の光が眼球すら貫通する。
今日は寝すぎた、朝なんかもうとっくに過ぎている。だが昼過ぎに嗅ぐあなたの寝息は悪くない。たぶん、体温も鼓動も何もかも俺と一緒になっているからだろう。そう思うとますます悪くなくなって、俺はこっそりと擦り寄るようにして足を絡めた。
「……あなた………」
まだ寝ているらしい彼女の瞼にくちづけて、名前を呼んだ。自分の声が存外かすれている。囁くよりも烈しく、嘯くよりは真実味にあふれている自分の声。喉が痒くなるほど甘い。
その誰にも放ったことのない色が、あなたの頬をわずかに染めた。ほどなくして、御簾をあげるようにして瞼がひらく。この心が鼓動している。
「………おはよう…………」
「ああ」
その瞳が俺だけを映しているのを見て、ひどく安心した息が漏れる。昨夜さんざ交わし合ったくちびるから、こらえきれずに欲望が漏れる。またキスがしたくなっている。いろんな人の好きな色に変化するあなたの瞳の玉虫色が、今はつやつやと俺だけを閉じ込めて離さないから。俺がそうしているみたいに。俺たちは世界を閉じ込め合っていて、どこにも行けないし、どこにも行きたいと思わない。
ぼんやりとした視線を浴びながら、俺はあなたに口づけた。
「どう思う?」
「……」
「俺を」
「……好きだよ」
心臓が止まって、また動き出した。
壊した時計の秒針のような俺の心拍がたまらなく笑える。興奮のいかづちが気管を焼く。そうしたら胸の最奥から、全能感のような色をした体温ある液体が抽出された。それはあたたかい。それはやわらかい。それは毒みたいなにおいをしている。確かにそうだとわかる。
夕焼けに沈む日より早い鼓動の現実味に、俺は間違いなく歓喜していた。
「………はは……よかった……」
瞬きのたび目の前のすべてがとろんと融けて、また象られる。その繰り返しがつづられる視界は、心なしか色鮮やかだ。
あなたの身体を強く抱き締めた。
命のあるものに初めて触れたときみたいに、そしてそれがさも悪いことかのように、俺の胸は緊張してやまない。心臓が笑う。やっとそれを手に入れる。ずっと抱いていた悪心がもはや蜜の色をしてきらめいている。
俺は恋を見ていて、いまさわっているのは愛で、とてもいいにおいがするそれは温かく、俺をやさしく祝福し迎え入れてくれた。
すき間の生まれないふたりの感情すらぴったり一緒になる。そう感じられる。
「大げさだよ」
彼女が笑うのが振動で伝わる。その揺らめきとか心臓の正しい鼓動すら、今はいとおしい。ああ俺は人間に生まれ変わった。すごく、すばらしく、人間だ。この幸福を誰にも奪わせない。そのために生きるのだ人は。俺はようやく仲間入りを果たした。
「いや……なにも大げさじゃねえ」
この幸福のために生きたり、死んだりする人間に。
全能感に似た液体は俺のよろこびだ。そして、これまでの虚ろを満たすためのたったひとつの方法だ。
この幸福のためになにもかも殺したい気分だ。俺は人間なのだから。
「あなたに似た女と寝ても全然だったからな」
「え?」
「あいつらは何もあなたとは似ちゃいなかった。ガワが似てようが声が似てようが身体が似てようが、なにも」
「え」
「ああ、もうとっくに別れてる。ほら」
俺は携帯を操作し、あなた以外の名前はひとつもない綺麗な連絡先を見せてやる。この画面の中に世界があって神がいたとしたら、俺たちふたりだけが幸せに存在するのを見て、人間はなんと美しい生き物なんだと嫉妬するだろうな。
「あなたみたいな人間はほかにいないって分かった」
「みんな俺の顔や能力や……愛の言葉に期待してる」
あなたが驚いたように目を開く。
「そしてみんないなくなった」
「俺が何も持っていないとわかったから」
「俺に何も与えられないと」
「わかったから」
「でももう違う」
これからは違う。心房の中に。画面の中に。人間の中に。おまえは俺の中になにもかもを芽生えさせる。母のように。神のように。
だが俺はあなたに対し性愛を抱いていた。おおよそ神には向けるべきではない感傷を抱いていた。悶えていた。だから報われてよかったと。当然の解脱。
「そいつらはもうどこにもいないんだから」
「あなたは俺のことが好きなんだから」
「な、」
「これからはあなたがそばにいる。ずっと」
どれほど離れても。どれほど経っても。どれほど隔たれても。どれほど邪魔が入っても。どれほどあなたが拒んでも。どれほどあなたが俺のことを嫌いだと言っても。離れたいと言っても。
あなたは俺のことが好きなんだから。
「………」
だがあなたは顔をしかめる。その目は俺を映していない。
夢を見ていたみたいに俺の色が消え失せて、もとの玉虫色へ戻っている。だれもを誘惑して堕落させる悪い色へ。だれの好きな色にもなれる鏡の色へ。
さっきあなたのくちびるを食んだ口内に血の味。息を吐くたびに胸が過剰にどきどきして、こめかみがずきずき痛んだ。細胞からあなたを呼ぶ声がする。まるでなにかの病気のようだ。
しかし俺は決して自分がおかしくなどないことを知っている。だって俺以外の人間はみんなこういうふうに愛することをしてきたはずだ。俺はそれをなぞっているにすぎない。
ありふれた恋が手に触れる。ありあまる愛を手に入れる。
手に入れる。
「俺の名前を呼べ」
「………尾形くん」
「どう思う」
「…………」
「俺のことをどう思う」
「……………」
「ははあ。」
俺があなたにキスをしてやろうと近づくと、彼女は褪せた熱を取り上げるようにして身体を離した。それから、腕を顔の前にやって防御のような姿勢をとる。その程度で俺が離してくれるとは思っていないのか、無垢な恐怖で震えを訴えて、俺を一生懸命に殺そうとしている。俺に殺されないようにと。
やはりあなたはなによりも人間だった。きっと、俺もそれになりたい。
腕をつかんで退けて、呑み込むようにして口づける。鼓動が、呼吸が、体温がまた均一になりたがっている。あなたの抵抗する声と、唾液がまじりあう。昨日のよりもっとおかしくなれるやつだ。その勢いのまま壁際まで追い込んだ。
もとよりここから逃げられるはずはない。逃げようと思うはずがない。だってあなたは俺のことが好きなのだから。
思ったとおり、次第に抵抗するようなそぶりは薄まり、酸欠からか隠し切れない好意からか、俺にすがるような目を見せはじめた。その涙の膜が、緞帳を下ろすようにして閉じられたまぶたのすき間からこぼれる。くちづけあうたびにひどく満たされる気がする。味蕾がぜんぶあなたに押しつぶされる感覚。これだけで生きていける。
愛をするならこういうのがいい。愛しあうならあなたとがいい。夢を見るならきもちいいのがいい。これが夢なら最高の悪夢だな。
ひと筋流れだした涙で、嗄れた喉の嬌声で、過剰発生していた俺の脳細胞を殺戮してほしい。さも求めあっているかのような唇の交わりはこの部屋の白い壁紙を真っ青に染め、また真っ赤に塗り、やがて極彩色に安定する。
ふれあっている部分が燃えて、口の中は今まで食べたこともないような味でいっぱいで、額から汗がにじむ感覚がする。
あなたの肌の体温が純度を増している。俺はいま、この灼熱に命を捧げている。そのための儀式をしている。
五感に届くのがだんだんと俺の息や洩れる声だけに狭まっていって、あなたじゃなく俺の自我にくちづけているような気すらしてきた。俺はもうぐちゃぐちゃになって頭がおかしくなりたくなっていた。
つかんでいた腕に力がこもると、あなたが痛みに息をあげる。
「………はは」
どうにもならないほど、あふれた唾液で、お互いの口が獣みたいに濡れそぼっている。息は荒い。それに、いつの間にか切れたのか、あなたの口の端がわずかに血で滲んでいる。それを掬って舐めると、彼女はまた玉虫色の眼を俺から逸らした。
俺が他人の肌でしか空虚を埋められないカワイソウな人間だとでも、言いたげな顔だ。
だが俺の虚ろな器にどれほど大きな穴が開いていたとしても。こぼれた分だけあふれるほどあなたが注いでくれればいい。
俺の命を無限に満たすあなたの手のひらが骨になって動かなくなるまで、つなぎつづければいい。ふたりの亡骸は重なり合ってまた運命になることだろうから。
それだけで俺はすべてが平気になる。あなたのことを信じているだけで頭がぼんやりして安心できる。壊された脳みそですべてを受け容れられる。
だって俺は人間なのだから。
だってあなたは俺が好きなのだから。
それしか正しくないと思えることに、心から安堵する。人を信じるという行為は頭のおかしくない人間にしかできないことだ。
「………こわいよ」
「なにが」
「尾形くん、おかしい」
あなたの息は馬鹿に甘い。涙が含まれたその声が俺をいつでも安定させる。
「……どうしてそう思う」
「………全部、おかしい」
俺はそう思わないので、もう一度キスをした。
他のやつらにはけして与えてこなかった愛の言葉とともに、生の儀式が進行していく。信仰している。昼下がりが終わる。俺たちが終わってはじまるみたいに当然に。
夕焼けの差す赤い赤い部屋の中でさようならを言えば、もうそこはどこでもない、夢に思い描いた通り、ふたりきりの幸せな場所だった。