短編
おなまえ
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なんだか安心するような不安な温かさでだまくらかしてくる電車内、停車してドアが開くたび流れ込む不具合的な寒気と、出来るだけ環境音を消そうと鼓膜を痛めつけるイヤホンの音量に、ぼくは顔をしかめる以外の表情を失っていた。
徐々に人が増えたかと思えば、大きな駅で一斉に降りる。さっき降りたのがぜんぶあなたの顔をしていたらどうしよう。そしたらなんか、どれにキスしたらいいのかわからなくなっちゃうかも。
……そういうところを俯瞰で見ていると、人間って虫みたいで気持ち悪いなと思えてくる。虫は花粉を運ぶためとか、自分の種を残すためとか、なんだか崇高な目的を持っているけれど、人間はなんのために生きてなんのためにがんばっているのかってことを焦って探しているうちに死んでいる。可哀想な気もするし、滑稽な気もする。人類が積み上げた死生論はぼくのわがままな自意識で蹴散らされる。
……電車が動き出して、加速する。その加速と一緒に、くだらない思考はあの大きな駅に置いていく。生と死について考えるなんて無駄なことは、今ある娯楽が全部なくなってからすることだから。
ついさっきまで席に人が座っていた裏付けになる温度が大嫌いなので、たくさんの人が降りてもぼくは変わらずそのまま立っていた。大きな川をわたるときに、きらきらと街灯のうつる水面にイライラする。
月がいっぱいあるみたいないくつもの信号のあかりの群れ、その中で一番くすんでいたのが本物の月だった。
「ただいま」
「おかえり。お疲れさま」
「うん」
同棲をはじめてまだ2ヶ月ほどだが、ぼくたちはすごくうまくいっているように思う。あなたはいつだって笑顔で出迎えてくれるし、毎日何度もキスをして愛を確かめ合ってる。
もちろん、こんな狭いマンションの一室に監禁してるわけでもないし。彼女はとてもやさしくて、束縛なんてしない。嫉妬もしない。実に健康的でつまらなくて、最高だ。
ご飯を食べてお風呂に入って、ふたりの部屋で映画を観る。あなたはまだ大学生だけれど、課題はぼくが帰る前にきちんと終わらせているらしく、こうしてふたりの時間を毎日確保することができる。
「あなたはさ、えらいね」
よしよしって頭をなでると、あなたは恥ずかしそうに笑った。その顔がかわいくて、頬に何度もキスをする。それから、ぼくらの平熱がいっしょになるまでふれあった。
ときおり彼女がテレビのほうを見て映画を気にするけど、そのたびにいちいちぼくは手で目隠ししてあげながら「こっち向いて」と言う。
あなたの口のなかは生ぬるくて、眠たくなるような心地よさでぼくをいつでも誘う。そこからぼく以外のだれかを誘う言葉がこぼれないようにと、ぬかるみを舌ごと丁寧にぴったり塞いだ。
しばらくそうしたあとにやっとのことで離れると、くちびる同士が離れるのを惜しんで唾液でからまる。
「愛してるよ。」
・・・・・・・
ぼくは、彼女の机のうえに置かれた見慣れない箱をみつけた。たぶんチョコレートが、かわいく入ってる箱。
視界に急激な渦巻が迸っている。とたんに理性が本能と渾融しようとする。
「あはっ。あああ。あなた?これ、だれかにもらったの」
「うん。□□さんっていう人」
「それ 誰」
「同じ学部らしいけど、しらない人」
「男だよね?」
「うん」
「そうなんだ」
ぼくは少し考える。あんまりちゃんとした用意してない。ゴミの日まであと三日もあるな。部屋だって片付けてない。まだだめだな。
(すてきだね。いいなあ。小さなおうちをどっかに買って、小さなわんちゃんも飼って、いずれは子供ができて、そしたらがんばって育てて、いっぱい思い出つくって、いろんなとこに行って、記念写真とってさ、ぼくのいない人生ってたのしそう。………)
「つぎにぼく以外の男と楽しくおしゃべりなんてしたら、本当に……」
言いたいことを我慢して体温だけが上がっている。でも頭はこんなに冷えている。
「…………許せないかも」
「……うん。気を付けるね」
デフォルメされたかわいい恋が首を容赦なく締めつける。デフォルメされたかわいい恋は義務教育など受けたことがないからだ。
たぶんぼくという人間は、あなたを殺すために生きている。それは憎いからじゃなく、心の底から大好きだから。そのためにも、あなたがくれた生の大義名分をつぶしてしまわないように、ぼくは慎重に生きて生きて、人生において犯す罪はそれっきりにとどめておかないといけない。
ぼくだって他の女に愛してるって告げるくらい、ハムスターを握りつぶすより簡単なことだと思っているけれど。そうしないのは、ぼくは思ったことしかしたくないから。あなたにからまる蔦がもっと強く育ちますようにとお願い事をするのは罪じゃないはずだからだ。
でも世間にいる馬鹿どもは、ぺろぺろ傷を舐めあって、その味をおいしいって嘘ついて、あなたのかたちの幻覚見て、それをかわいいねって撫でようとした手がスカって、いっしょにお風呂入って、好きな香りの入浴剤まで選んじゃって、最後には気が狂うんだ。
なんかさ、それって終わってる。
ぼくには狂ってなんかいないという自覚があるし、花や星を「きれい」って言う感性にだって体温がある。間違いなく、この世界のだれよりも生きている。ふだん手の届かないはずの猟奇。領域。それが心の中のどこにあるか、ぼくはちゃんとわかっているんだから。
だれよりも清潔にとはいわないけど、だれよりも生を輝かしく思っているにちがいない。したいことをして、好きだと思ったものを好きになって、嫌いなものは消してもいい。
「それがほんとうの人生なんだから……ね………ね。」
となりであなたがねむっている。うんうんって頷いている。
朝。
ぼく以外あなたに話しかけるような人間は世界にいなくってもいいので、善良な市民としての自覚をしっかりともってぼくは清掃活動をする。
如何せん汚れる作業だからお風呂が恋しくもなるけど、あなたのためだと思って頑張ってしっかり殺す。もちろんあなたにさわっただとか目を合わせただとか、それだけでも吐きたくなるほど腹が立つけど、ちょっと太った奴なんかだと面倒だから特にいらいらする。
ぼくが彼女を殺すとき、きっとその理由は嫉妬に狂ったからじゃない。その瞬間が幸せの頂上になるってわかったからだ。そこから下りっぱなしで生きるのは、頭を撃たれて死ぬよりやだな。
ああきもちいい朝。
「あはは!」
意味の分からない現実をぶち壊すきもちよさ。
キスするときとはちがうそれの虜だ。ごみ袋につめた夢いっぱいに、ぼくはきょうも生きる。
なんだか暗い道を、笑って通るみたいにね。