中編 白昼夢 (観音坂独歩)
おなまえ
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結局あなたさんを待たせるなんてことはできなくて、とりあえずとリビングに案内する。
重々しく帳を下ろしていた沈黙を破ろうと口を開きかけるが、なんと言えばいいのかわからなくて息をするだけに終わってしまう。俺に芽生え始めたと思っていた度胸は、こんな状況なのに、だから、その芽を土の中へ仕舞い込んでしまったようだ。
「ほんとうに、すみません。ご迷惑をおかけして」
などと思い悩んでいるうちに、あなたさんは謝罪とともに俺に頭を下げた。
涙の作ったあとが痛々しく、しかしそれよりも、明るい室内灯に照らされて初めて発覚した彼女のからだの傷が本当に心配だった。思わず目をそらしてしまうほどの、痣、うつくしかった指先には血がにじんでいる。
「……謝らないでください。大丈夫、なので」
言い出すことはできない。俺は最悪の彼氏だ。
あなたさんがふう、と、息をついた。
「......わたしの家、ちょっと.........変で、おとうさんが。 やさしさをどう返したらいいのかわからないだけで、悪いひとではないんですけど。」
昔から酒を飲んでは暴れるような、いわゆる虐待癖のある父のもとに生まれ、最近になってそれがひどくなっているらしい。
彼女の母は長年続いている父親の暴力に耐えかねて、あなたさんを連れ何度も離れようとしたがその都度見つかり、引き戻されてきたという。
きょうは特に機嫌が悪く、彼女の母を滅茶苦茶に殴った後、震えるあなたさんにのしかかり、無理やり体を暴いて、なんとか途中で逃げてきたが行く当てがなく、ふらふらと歩いていたところあのベンチにたどり着いていた。
ぽつぽつと、ちいさな声で話すあなたさんに言いたいことが多すぎて喉でつかえてしまう。でもどういえばいいのかわからなくて視線が泳ぐ。
そのうち彼女は、申し訳なさそうに笑った。震えているのに。あの暑い暑い夏の白昼の、初めて会った時と同じ笑顔だった。
「どうして笑うんですか。あなたさん、どうして…」
そう言っているうちに体が勝手に動いて、あなたさんを抱きしめてしまった。
気づけば俺も泣いていた。なぜかはわからない。ただ告白の時とは違う胸の熱が、どろどろと痛むほど渦巻いてやまない。あなたさんのほうが痛いはずなのに。
ただ初めてこんなにくっついて、感じたあなたさんの体温が限りなくいとおしいということだけは、はっきりとわかった。
「観音坂さん」
「俺はあなたのおとうさんとやらを殺したい。」
「……」
「…話してくれてありがとうございます。でも俺はあなたさんから絶対に離れません。もう離れられません。あなたさんがきれいとかそんなのはどうでもいい。あなたが好きです。死ぬほど好きです。愛してます。だから離れていかないでください」
俺の、やっとのことで絞り出した声は懇願にも似ていた。
愛の告白というにはあまりにも依存的で、慰めというにはあまりにも支離滅裂。
俺の顔のすぐそばで、あなたさんはまた何も言わないまま泣いてしまったようだった。
いっしょの生き物になるみたいに体をくっつきあって、しばらく何も言わないでとけあっていた。
窓の外の夜がまどろむ。また見たくもない朝日が昇るのだろう。
どうにもならないくらい持て余して、どう表現すればいいかわからない膨大さの愛、依存、信仰のかたまりを、彼女と同時に抱いているようだった。
目を閉じると暗闇と沈黙が絶対なものになるような気がしてならなかった。
「……観音坂さんはやさしいですね。すごく」
あなたさんの声はひどく震えていた。俺は彼女の小さな背を撫ぜて、体を離して向き合う。すぐにいなくなる体温が寂しくてたまらなかったが俺は、今回ばかりはうまく目を合わせられた。
「観音坂さん、目は閉じないんですか」
「えっ?」
彼女は俺の声には答えないまま、涙の残る眦に笑みをたたえた。
そしてそのままの表情で俺に顔を近づけて、くちびる同士の距離がゼロになる。
夜に響き渡るかのような湿った音をたててあなたさんのそれが離れていくのがどうしようもなくせつなく感じた。心底俺は卑しい。ほんのちょっとの酸欠でくらりと眩暈う。
ここへとどまっておいてほしいのに、はじめてのくちづけは秘密のように、その温度をあわく、あまく、消し去ろうとしている。
「…ほんとうの、わたしのはじめてのキスです。」
「…ぁ、あなたさん、……」
もっと、と言いかけて止めた。
確実に、俺はこのひとに狂ってしまっている。
それを自覚しながらとめることができないのだ。くちびるを中心にしてぬくもりが伝播し、恋は病気のように広がっていく。
体内も心すらもむしばんでいくこと。夢と現実の区別はつくのに、それがどうでもよくなっていくこと。
そしてそれはなによりもきもちのいいことと知ってしまった。