中編 白昼夢 (観音坂独歩)
おなまえ
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朝起きて顔を洗い歯を磨きひげを剃る。死体のようだった顔色は、日に日に一般人並みに戻ってきている。隈だってひどくないし、営業スマイルも完璧といっていいほどだった。一二三に最近どうしたのかと問い詰められる程度には、俺は変わっていた。
しかしその日は、近頃の俺にしては珍しく、残業が重なって退勤が終電ぎりぎりになった。あなたさんと付き合ってからというもの、約束をしていなくてもあの公園に勝手に足が向かってしまう。昼間よりは断然少なくなった人通りの中、公園が人気スポットなわけがないので、人目を気にせずに俺はきょうもそのベンチに向かっていた。
「…………あなたさん?」
驚くべきことに、あなたさんがベンチに座って、どこを見るでもなく項垂れている。
夜なのに、熱い風がびゅう、と、吹いた。
夜だから、その影はやけに重苦しく、黒猫のように、闇に溶けて消えてしまいそうなほどだった。
「……だいじょうぶですか、こんな時間にどうして」
そう言いかけて俺の息は詰まった。
彼女はいつものように俺に笑いかけては来ず、地面のただ一点を見つめて泣いていた。
声の一つも上げない姿は人形のように空虚でならない。俺の存在には気づいているだろうが、動かない彼女は昼間とは別人のようで、公園のさもしい街灯だけじゃあ、その表情すら深くは読み取れなかった。
「あなたさん。女性がこんな時間に外にいたら危ないです。送っていきます」
「わたしの家にですか」と彼女は、震えたささやき声で答えた。いつものやさしい声音が、壊れそうに空中に溶ける。
「そうです。どこか教えてくれますか」
「…きょうは帰りたくないんです。観音坂さんのお家へ行っちゃだめですか」
俺は驚愕した。その次の瞬間にはもう心臓をどきどきさせてしまっているのがまた情けない。
お家で何かあったのだろうか。親と喧嘩をしたとか、いずれにしても、彼女が涙を流すだなんて、これはただ事ではない。
「………わかりました」
訳は深く聞かないことに決めた。俺は了承したがその実、気が気ではなかった。
一二三はもう出勤しているだろうが、比較的きれいに片付けられているリビングはさておき、俺の自室なんかは脱ぎ散らかした服や書類やごみがちらかっている。そんなのを見て引いたり、別れましょうなんて言い出すような人ではないとわかってはいるが、可能性は絶対ではない。
とりあえずリビングで待ってもらって、その間に自室を片付けるか、いいや、それじゃ時間が……ああ、こんなことならふだんから整理整頓をきっちりやっておけばよかった。
「まあ、…行きましょう」
「…ありがとうございます。」
立ち上がったあなたさんと、今度は俺から手をつないだ。
熱帯夜ながら、できるだけぎゅうと、力強く握りしめた。そうしないといなくなってしまいそうだったからだ。
離れたくなかった。離したくなかった。離してほしくなかった。
永遠とも思えるながい沈黙と帰宅の道のりで、ずっと俺はそう思っていた。