中編 白昼夢 (観音坂独歩)
おなまえ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
それから、俺は彼女のために仕事に精一杯力を注ぐようになった。
いや、彼女のためというのはエゴで、実際は「観音坂さんも、お仕事頑張ってくださいね。あ、無理はいけませんよ」というあいまいな応援の言葉をもらったからである。
実に現金な話だと自分でも思うが、これをがんばれば彼女がほめてくれる、ここを乗り切れば彼女が頭をなでてくれる、などと勝手に妄想するだけで、不思議と力が湧いてくるのだ。
「あたま、なでなで…これが終われば……」ぶつぶつと脳内妄想が口から漏れ出ていることに気付き、俺はハッとして、咳払いをしてからモニターに向き直した。そこで周りの目などをキョロキョロ窺わなかったのは、もうあなたさんがほめてくれさえすれば他人なんかどうでもよくなっていたからかもしれない。
「観音坂、最近成績が好調じゃないか」と、ハゲがほめてくるのを、幾分かはましになったであろう愛想笑いで受け流す。おまえなんかに褒められたってなにもうれしくなんかねえよ、と悪態を添え、俺は夢にまで見た定時退勤を果たすのだった。
「観音坂さん、最近明るいですね」 笑顔を浮かべたあなたさんが俺の顔を見て言う。
俺はどきっとして、思わず視線をそらして返す。
「そうでしょうか」 「はい。とてもいいと思います」
彼女がにっこり笑って、俺の手を取った。夢のようだとまた思う。どうしていつも、あなたさんは俺の欲しい言葉をくれるのだろうか。
夏の夕焼けの光たちを浴び、恋人つなぎをしてくれるあなたさんは俺のたいせつな恋人であり、聖母のような存在でもあった。神のようにあなたのことを愛している。心から。
公園のベンチで指を絡めて手をつなぐという、以前の俺が見れば反吐を吐きそうな光景が、どうしようもなくたまらなく、俺を幸福にする。
俺は彼女のほうを見たくて、心のどこかで、彼女も俺と同じ感情に、表情になってくれているか確認したくて、首をギギギと動かすが、なぜだか恋人を見ることすら不躾に思えて、視線だけが背景にそれてしまう。
どうして俺はこうも意気地なしなのだろうか。泣きたくなる。
「でも、無理はしないでくださいね。……たとえば、いまとか」
「ぁえ、も、もう、あなたさん、気づいて、……!」
「うふふ。無理に目を合わせなくっても大丈夫ですから。」
確信はないが、たぶん俺にだけ少し意地悪なあなたさんの笑い声で、胸がぎゅうとあまく疼く。恋の疼きは即座に俺の全身を駆け巡って麻痺させる。俺はどうしようもないほど情けない男だが、それを直そうとは思わないで、これからもあなたさんに笑われたいと思う。
俺はマゾヒストなのかもしれない。なおさらどうしようもないなあ、と脳内でつぶやいて地面を見ている俺に、彼女は優しく言う。
「観音坂さんは観音坂さんのままでいいですからね。わたしはそう思います」
ときおり、彼女が年下であることを忘れそうになる。
またもあまく浸透していくその声色に、洗脳や調教にも似たものを感じた。彼女が聖女だといわれても納得してしまうほどの説得力がある。そして俺はそれがだいすきでたまらなくなっている。今の俺が好きだというなら、時さえ止めて永遠に、俺のことだけを好きでいてくれたらいいと願った。
彼女は不意に、俺のぼさぼさ頭を撫でる。あああ今日思い浮かべていた妄想が全部かなった、と思うより先に、脳みそが深い思考を許さない。彼女のほのかにあまい香りが髪をかき混ぜるように、妄想よりもすこし乱雑に触れられたがそれがきもちよくて、このほうがいいなと思った。
そしてその白魚のような手がするりと頬におりてきて、正面から見つめられる。すり、と、俺が無意識にすり寄ると、あなたさんが目を細めた、ああ、このひとに、たべられてしまいたい。
全身で血がどくどくと、全速力で駆け巡っているのを感じる。体温が上昇する。ここでとけてしまえば、ベンチの消えない染みとなって、あなたさんの心にもしみ込んでしまえるだろうか。俺はなんでもないように、飼われているようだ、と、思った。