中編 白昼夢 (観音坂独歩)
おなまえ
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それから何日かが経った。
彼女のタオルをネットに入れて洗濯し、Twitterで見た、一番布に負担がかからないという干し方をして、俺が持っている中でとびきり高級そうな袋に入れている。
恋人への高価なプレゼントのようで、それを見るのも少し緊張するほど気を遣っているが、如何せん彼女への連絡手段がないし、口約束といっても社交辞令のようなものだったので、俺が彼女に再会できる確率はまあ、ほぼゼロといったところだろうか。
それでも期待をしていないわけではない。俺は仕事用の鞄に毎日、それを入れていた。もちろん、折れ曲がったりしないようにいつだって鞄内の特等席についていただいている。スーパーへ買い物に行く時にも、きまってタオルの入った袋もいっしょに持っていく。
あなたさんと話していた瞬間、俺は生きる希望を見出したような気がするからだ。大げさに聞こえるかもしれないが、あの時確かに、腹の底から湧いてくる気力にも似たあたたかいものが俺は、忘れられずにいた。
何の成果も残せないことがわかりきっている外回りがつらくて、俺はなんとなくあの公園へ立ち寄った。今日はホワイトボードに直帰と書き込んだから、会社の連中にも何も言われないだろう。
そこへ行けばまたあなたさんに会えるような気がしていた。と、まあ、俺の腐りきった第六感は、どこへ行く時だってそう感じていたわけだが。
夢のような時間が、彼女にとっては何でもなかったであろう時間が、いつのまにか大切な思い出に化けていた。
その潜在的な神格化は、仕事中だろうが何だろうが、いつでも彼女を思い出してしまうことに気づいたとき発覚した。
恋をした。28の気が狂いそうな夏だ。
あの日座ったベンチの同じ位置に腰かけた。ため息をついた。
こうして待っていたら、彼女がまた「観音坂さん」と、ペットボトルを二本持ってきてくれやしないだろうかと、馬鹿な空想で無理やり心を満たす。目をつむる。
またため息が口をついた。空虚な恋。だって彼女ともう会えないかもしれない。
アスファルトが燃えている。またぼやぼやと向こう側へ陽炎。
かろうじて、木陰のすこし湿った風をあびて正気を保っている。
「観音坂さん?」
奇跡のような、声だ。
福音にも聞こえるそのひとことで俺は勢いよく視線を上げる。
「あなたさん……!」
会いたかった、とは言えないが、勝手に口角が上がってしまう。
「また会えましたね。しかも意外と早くに」
「す、座りますか」
「はい。ありがとうございます」
つい高鳴る鼓動を隠しながら隣をぽんぽんと示すと、彼女は眉を下げて笑った。
まただ。謎の寂寞を残すその笑顔。いなくなってしまいそうなはかなさがある。もういなくならないでほしいのに。また会えないのは嫌だと、子供のように思いながらも、それにどこか納得してしまう裏腹な自分が憎らしかった。
しばらく、ぽつぽつと最近の話をしたり、飛んできたボールを子供に投げ返してやったり、また、話をはじめたり、笑ったり。あなたさんがそばにいてくれるだけで、こんなに俺は安定できるんだなあ。と、出会った猛暑日を思い出して、それがやけに遠く感じて、彼女とはさも長い付き合いだったような思い違いをした。
「どうしてあなたさんは、俺みたいなのにも優しくしてくれるんですか?」
「……観音坂さんは、自分に自信がないんですか?」
ふと、あなたさんに気になっていたことをぶつけてしまった。あまり突っ込んであなたさんの話をするには、まだ早かったか、ああ申し訳ない、時よ巻き戻れなどと考え込んでいると、言いにくそうに質問を質問で返す彼女に俺は一瞬面くらいながら、あいまいに肯定する。
「わたしは、ひとに優しくすれば優しくしてくれるって信じて生きているんです。」
あなたさんは、続けて、「自分のためなんです」と自らをあざけるように少し、口角をあげてみせる。俺はその笑みに、「あ、」と、声にならないほどの吐息でしか返すことができなかった。
「ほら、現に、観音坂さんもわたしとおしゃべりしてくれるくらい優しいですし、」
「お、俺は、優しくなんてありません。」
ここ数年、俺には人にやさしくした記憶なんてない。
会社だけではなく、俺は社会全体が憎いのだ。ストレスや胃痛や、その他もろもろの体調不良、精神疾患、人生への諦念。昔から明るい人間だとは言えないタイプだったが、俺は社会人になってからますます人とのかかわりが限定され始めて、その分、優しくする、されることにも鈍感になっているんだと思う。
人から向けられる悪意におびえている。毎日のように、睡眠薬を飲んで。
そんな俺が誰かにやさしくできるわけがない。
「ううん。なんというか……いくら優しくしても、ああ、これは無駄な気遣いだったんだなって、思うようなお返しをくれるひともいるんですよね。ああ、わたしの経験上ですけど…」
ただ柔和で、穏やかなひとだと思っていた彼女の口から、皮肉めいた言葉が飛び出してきたのが意外で、俺は思わず黙ってうなずいた。脳裏には、営業先の気まぐれな中年男やハゲ課長や、くしゃくしゃに丸めて捨てられる自分の名刺が次々に映し出された。
「だから、観音坂さんはやさしさに気付けるやさしさを持っているんだと思います」
俺はあのとき、車にひかれかけた時、このまま死んだって何の未練もないと思って目をつむっていた。人間に生まれても意味がないと思って。
ああ。俺は、あなたさんに肯定されるために生まれてきたのか。人の形をとっていただけで、あなたさんに会うまでの俺は肉塊だったんだ。
(生きてる。俺は今生まれたんだ)