中編 白昼夢 (観音坂独歩)
おなまえ
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視界の遠いところで車が走ったり、俺と同じようにサラリーマンがしみったれた表情で歩いていくのを見たりして、しばらく沈黙が続く。少しぬるくなったお茶を飲み干すと、ふと買ってもらったお茶だということを思い出し、財布から100円硬貨を二枚取り出して渡そうとするが、彼女はいいですよ、と首を振った。
あんまり遠慮するので、俺は頭を首が座っていない赤ちゃんみたいにぐらつかせながら、まだ名前も知らない彼女の手に握らせた。
俺の手は少々汗で湿っていたが、それに引くそぶりも見せない彼女は観念したように眉を下げて、ありがとうございます、と丁寧にお礼を述べた。それは俺のセリフだ。
そこから少し話すと、彼女は本当にいいひとなんだと分かった。
彼女の柔和な話し口調は、子供でもいるのかと疑うほど易しく優しい。涼しげに切りそろえられた黒髪が夏風になびくのを見ると、なぜだかすこしずつ心が安定してくるほどだ。
彼女のお名前はあなたさんというらしい。
聞くとこのあたりの大学生で、ラップバトルのことも、もちろん俺のことも知らなかったという。
彼女は8月にもかかわらず長袖の服を着ていたが、汗の一つもかいていないようだった。
それに対し汗を額ににじませている俺の顔に、ほんの少ししゃべっただけの俺に小さめのタオルを押し当てて拭いてくれるあなたさんは、どうしてそんなに優しいのだろうか。
「あ、汚いですから、大丈夫です」
「いえいえ。暑いですからね」
俺が洗って返します、とあわてると、あなたさんは慈愛の笑みを浮かべながら「では、お願いしてしまいましょうか」といたずらっぽく笑う。
彼女は笑うと眦が下がって、少し幼くなる。タオルを受け取ると、冗談だと思っていたのか、少し驚いたような顔も見せた。
夏の夕暮れのような妙な寂しさを含ませて、微笑むひと。
俺は人と目を合わせるのが苦手なのに、彼女の表情のうつりかわりを観察するようにすっかり見入っていることに気づいた。
不思議なひとだと思った。
「観音坂さんは、このあたりで勤務なさっているんですか」
「ああ、はい。ブラック企業の、しがない営業担当です」
はは、と、もうお茶の潤いも失いつつ、文字通り渇いた笑いを張り付ける。
きちんと笑えていただろうか。
課長に「おまえは営業スマイルをきちんと使え」と毎日叱られていた俺のことだから、これは笑顔と呼ぶにはふさわしい代物ではないと思う、が、彼女は気にする様子もなく「それは大変ですね」と返してくれた。
最近暑いですね、からはじまり、俺の仕事の愚痴(一部に過ぎない)や、ラップをしていること、その他、俺に関する話題が続いた。
そんな中でも彼女は自ら自分のことを話したがらないようだったので、まあ、いろいろ事情があるよな、と割り切って、引かれないかちらちらと顔色をうかがいながら少しずつ話していく。
ふいに盛り上がってしまって自分の声のボリュームが上がると、「あ、やってしまった」と思うよりも先に#(名前)#さんも少し笑うので安心する。彼女は俺のような見るからにさえない男にも、とても、とてもやさしかった。
そういうたわいもない他人との会話が久しぶりな気がして、なんでもない白昼の公園で俺は、このひとにずっと甘えていたくなってしまう。そんなこと許されるはずもないが。
彼女は俺よりも年下だというのに、やわらかい包容力がある。
すでに俺は恋に落ちてしまっていたのかもしれない。と後から考える。
「もう体は大丈夫ですか」
「ぁ、もう、だいぶ」
話がもう終わってしまいそうだ。俺は言葉に一瞬詰まる。
「よかったです。それじゃあ、わたしはもう行かなきゃ」
「そ、あ、連絡先を、交換しませんか」
相変わらずどもりながら恥を忍び、立ち上がった彼女の背中に言った。
「ごめんなさい。わたし、携帯を持ってなくって」
「あぇ、え、そ、そうでしたか、すみません」
俺の手汗に反して彼女はあっさりとそれを断る。無理やり連れて行かされた合コンなんかで、俺は「携帯ない」「親が厳しい」など見え透いた嘘をよくつかれたもんだ、と一瞬のうちにフラッシュバックする。
「いえ、こちらこそ、すみません。でも、また会えたらいいですね。」
だがあなたさんが本当に申し訳なさそうに眉を下げるものだから、俺は疑うなんて無粋なんじゃないか、と、見知ってすぐながら彼女のことを信じてしまう。
「は、はい。もちろん…」
「では、さようなら」
俺が車にひかれそうになることなんかよりずっと重い恥のような気持を味わっているうちに、あなたさんはもう歩き出してしまっている。
俺は情けないことにその後ろ姿に何の声もかけられないまま、じっと見送った。顔どころか喉まで熱い。さっきの熱中症よりひどい病状だ。
「ああ。番号を書くなり名刺を渡すなりできただろ。俺。」
こんなことならあのとき助けられなかった方がよかった。でも、助けられなければ彼女には会えなかったし…などと、無意味な逡巡をくりかえしているうち、彼女の背はもう、人ごみに紛れて消えてしまっていて、俺の心には消費し尽くされそうなぎりぎりの充足感とそのあと植え付けられた空しさが残ったのだった。
「あっ。タオル。返さないと」