中編 白昼夢 (観音坂独歩)
おなまえ
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そんな日々を繰り返して1週間、1か月、半年。
俺の最低な罅には、ついぞ叱責が飛ぶこともなく、毎日が淡々と消費されている。仕事、食事、排泄、生活、うまくできない。浮き出た肋骨が心の卑しさすら表している。あなたにキスされたはずの唇を触る。いま、自分がどこまで落ちているのかもわからない。偶にうまく眠れて、奇跡的にあなたさんの夢をみても、その声はもう、ノイズで聞こえない。その身体に、手で触れもしない。俺の手が汚れているからだ。どうしようもない、いくつもの香水の匂いが入り混じって、ぐずぐずに腐っている、包帯を巻いても治らない、どれほど泣いても許されない、俺はあなたさんに殺されてしまいたいと思う。
街を歩けば人間が皆、あなたさんのことを血眼で、探している気がする。誰もかれも、それどころか、あなたさんを俺から隠しているような感じさえするのだ。俺から遠ざけたうえで、俺がどれほど汚い人間であるかを、あなたさんに露呈させようとしている。そして、俺はその思惑通り、あっけなく、死ぬよりも醜い核を、…………
「ああ。もう泣けもしないのか。」
公園に向かっても、涙は在庫を切らし期待のしかたもわからなくなっている。昨日雪が降ったから、公園の遊具やベンチにはうっすらと、冷たい冬の帳が下りていた。土色に汚された地面の雪が、湿りながら乱れる。どこもかしこも真白には戻れないのに、それは律儀に夕焼けの色彩をかたどって反射している。ベンチに座って俯いた。俺はいつも俯いてばかりだ。
目を瞑り、地獄を想像する、止まる風、燃える雪、落ちる空、誰もがあなたさんを探して、曇天を泳いで見回っている、吐き気がする、吐いても吐いても俺の中に存在する一切合切が飛び出ようとしている。目を開けたら、もう夜が俺の眼前に横たわっていた。
身体を動かそうとしても全身ごと悴んで縛られる。しびれが内臓にまで手を伸ばし、俺の背骨を攫んで離そうとしないのだ。仕方がないので息をついたら、空中へ白く残るのすらうざったい。ここで眠ってしまおうか。指先から感覚がなくなってゆくのは、気持ちいい。
「……観音坂さんですよね。」
また目を閉じかけた時、知らない女が目の前に立っていた。あなたさんと同じ、「観音坂さん」という呼び方で、あなたさんの声をひとかけら分だけ、思い出した。夢では聞けなかった声色が戻ってきた。俺はそれだけで、半ば満足してしまいそうな気分に駆られていた。
女は憔悴した風な顔つきで、髪は白髪交じり、しかし懐かしい香りをまとって、俺のひどい顔を見て一瞬面くらったようだったが、おずおずと話しはじめた。
あなたさんが亡くなったということだった。
女は彼女の母だという。
彼女は家で父のいないとき、よく俺とのことを話していたらしい。
俺のことを助けられてよかったと、公園でお話ができて楽しかったと、手をつなげてうれしかったと、一緒にいてくれてよかったと。………………………
彼女は父との子供ができたのを知った。
それで首をくくって死んだ。じぶんの部屋で。
「.................................はあ......そうですか。」
だが俺はあいにくもう涙を涸らしていた。
母が、俺宛にあのひとから手紙だと言って小さい封筒を渡す。かわいらしくて上品なデザインで、彼女の笑顔が今にも思い浮かぶようだ。観音坂さんへ、と、丁寧に宛名まで書いてある。
ざわざわ揺れる木々が俺を急かしている。
そんなに強請られちゃたまらない。
そしてあのひとの母は去った。封筒をなるべく丁寧に開け、便箋に目を通した。ああ、あの朝に置いていてくれたメモにあるのと同じ字だ。俺はベンチに座りなおして、鞄をごそごそと漁った。もう随分くたくたになった俺の鞄に、きまって入れ続けていたものがあったからだ。
汗を浮かべる俺に、
「観音坂さん。」
あのひとが、飲み物を二本持って近づいてきて、
「どっちがいいですか。」
いつもみたいに笑う、笑っていた、笑っていたのに。
「ああ。」
俺は渡せなかったんだ。
少ししわができてしまっているタオルの包み。
「愛しています」
だがそれは「愛していました」の間違いだった。
俺は吐いた。だがそれが何色なのか、なんなのかまったくわからない。
なさけなく、力もなくうずくまった。
冷たい風がやんで、嗚咽と、頭ににぶく痛み、やっと思い出したように、目玉の奥が熱を放ちそれで雪が融けて、燃えて、落ちる空に身体が押されてベンチから崩れ落ちた。
目を開けているはずなのになにも見えない。苦しくてたまらない。俺はどこにもいけない。
どこにもいてはいけないのだと思った。
「観音坂さんへ
あなたがほんとうに好きでした。だから、あなたといっしょにいたかった。
だけどそれは無理でした。
わたしのお腹には命がいました。病院でそれを告げられた時、観音坂さんをもっと好きになってしまわないうちに、死のうと思いました。あんなにやさしくしてくれたのはあなたがはじめてだったのに、言えなくてごめんなさい。
あなたといるとき、わたしは心から幸せでした。いっしょにいてくれて、お話してくれて、好きになってくれて、ありがとうございました。大好きです。」
さようなら。