中編 白昼夢 (観音坂独歩)
おなまえ
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いろんな欲望が渦巻きながらも、俺はあなたさんとの入浴を済ませた。
何度も深呼吸して身体の火照りを鎮めようと努めるが、むしろあなたさんから漂うウチのシャンプーの香りにグッと来てしまって駄目だった。お互い寝巻に着替えるのだが、当然あなたさんにはそんな準備はないので、……俺のやつを貸すということになる。
「ちょっと大きいですね。」
「は、はい……」
なんでもないような顔をして袖口のにおいを嗅いだりしているあなたさんの、俺のスウェットを着ている姿が苦しいぐらい愛らしい。彼女が動くたび俺を救ってくれているという気さえする。だんだん身体に熱が戻ってくるのを抑え、ふたりきりの空間で小さく息をする。それが続いているのが幸せだ。
いまさらになるが、彼女の傷を見様見真似で手当てする。本当は寂雷先生に診ていただくのが一番だろうけど、如何せん夜が遅いのでそうもいかない。それに、病院へと言いかけた時あなたさんは、やんわりとそれを拒否した。きっと医者に何があったのかと聞かれてしまうからだろう。いくら最低なことが家庭内で起きているからって、彼女の意思は尊重してしかるべきだと、俺は焦燥と怒りをひっそりと押し込めた。
家にある救急箱ではやはり心許ないが、仕方ないので家じゅうを漁ってなんとか探し当てる。ネットで正しいやり方を検索しながら、包帯を巻いたり絆創膏を張ったりした。幸いもう血は止まっていたけれど、女性の身体に傷が残ってはいけないと思うので慎重になる。
あなたさんが少しでも顔をしかめると大丈夫ですかと訊き(彼女は必ず大丈夫ですと答えるが)、手をしばらく繋いでジッとする。
俺の本心としては、あなたさんがたとえどんなに傷だらけだったとしても愛していける自信があるし、あなたさんのためなら彼女の父を殺してブタ箱に入れられてもかまわない。ああ、でも、そんなことであなたさんに会えなくなるのは辛いな。
でも内心は伏せておく。あなたさんが望まないことはしない。彼女はやわらかな、絶対の信仰対象だった。
「観音坂さん、ありがとうございます」
「い、いえ。全然、下手ですけど」
あなたさんがお礼を言ってくれると、心があるだろう胸のところがぽかぽかして堪らなく気持ちよくなる。その温度を中から感じるたびに、俺は恋を自覚しなおすのだ。
……そして、俺たちは驚くべきことに同じベッドで夜を明かそうとしている。
俺の部屋の俺のベッドだ。そこに大好きでたまらない人がいるのかと思うと狂いそうになる。
いざ部屋を見せても、彼女はなにも言わなかった。
床に散らばる書類くらいはと回収し、気を使ってくれたのかと思い聞くと、「だいじょうぶですよ。ぜんぜん気になりませんから」といってくれた。あなたさんは誰よりも優しい。男の部屋で一晩を明かすなんて経験は、俺が最初で、最後も俺であってほしいなと思った。
どうにもそわそわしてしまう俺と、いつも通り冷静なあなたさんで、二人で寝るにしては狭いベッドに寝転がる。向かい合うと、興奮で呼吸が少し浅くなるのが自分でもわかった。
「観音坂さんのにおいです」
「えっ……すみません、変なにおいしますよね俺」
あなたさんのつぶやく言葉に、俺は全毛穴から汗が出てくるような心地がした。ああ、これ、このせいだ。将来のこととか考えて冷や汗をかいて寝ているから、そんなにおいがするんだ。
「ううん。…落ち着きます」
クーラーがごうごうと冷風を吐き出す部屋で、ただイレギュラーに汗ばむ俺の手を、あなたさんはきゅっと握る。その感触でまた体温が上がる。馬鹿正直に、俺の身体は順応を知らない。
落ち着かない俺がもぞもぞ動くたびに、あなたさんは俺にくっつく。
寒いのだろうか。確かにこの部屋は冷房が効きすぎなくらい効いているから、こんな薄い掛布団じゃあ女性には心もとないだろう。
しくじった、と、そう思って何かタオルケットでもないかとベッドから降りようと名残惜しくも彼女から離れると、あなたさんはなんと俺の腹に手をまわし引き止めてきた。冷房でいくらか冷えた体に、互いの体温が伝播して心地いい。
俺はあの車がたてた熱風を思い出すとともに、急な心拍数上昇に耐えられないでいた。
「あなたさん、さ、寒くないですか」
「だいじょうぶです」
「あ、ぁは、それなら、よかったです」
さぞや自分は気持ちの悪い笑いを浮かべていることだろう。
結局のところ、俺は彼女に、わかりやすく欲を抱いていたのだった。
それはいたって人間的な、だがあなたさんの前には似つかわしくない。
俺は神にそうするようにあなたさんを愛していたいのに、あなたさんの奴隷であって、こんな欲の奴隷にはなりたくないのに、どうして。
軽く深呼吸をしてから彼女を抱き返し、腹筋に力を入れた。このままでは、俺は彼女のいう『おとうさん』と同じ存在になりさがってしまうだろうと思ったからだ。あなたさんの薄い身体をなぞってしまいそうなのを我慢して、そしてそれを我慢しなければこの関係は瓦解するという事実はさらに俺を蝕んだ。
我慢しなければいけないほど欲が膨張してしまったのも俺のせいなのに。
最悪だ。俺は最低の男なんだ。そう思って目を伏せてもまとわりつく、性欲という鎖が吐きそうになるほど嫌だった。
俺のほうがよっぽど、汚れているのだ。あなたさんの手で去勢してくれたなら、あなたさんが、「ああ、きたない、そんなものは切ってしまいましょうか」と、やさしく言ってくれたなら、俺は喜んでこれを差し出すのに。とか、夢想して、その肢体を離した。
「観音坂さん」
「…はい。」
彼女の、すべてを愛しているような、しかし弄んでいるだけのような、博愛的な声で俺の名前を呼ばれるたびに、鼓膜から歓喜が全身にひろがる。
それと同時に、さっきまで享受していたあなたさんの体温が、じわじわと俺の身体からいなくなる。それが切ないだなんて、俺のほうから離したのに都合のいい話だ。だがもう一度抱きしめられたなら。狂ってしまいそうな逡巡が渦巻いて、俺をその中に取り込もうとするのだ、気持ちが悪い。
こんなこと、考えたこともなかったのに。性欲が男を支配しているなんて、よくある話じゃないか。少しショックを受けているらしい俺の心内環境に俺自身が驚いている。あなたさんが神ならば、俺はその周りにいる天使にでもなれるつもりだったのだろうか。
あなたさんは彼女にそっぽを向いて横になる俺の肩をつつく。また胸がきゅんと熱くなる。
「ど、どうしましたか」
「………………なんでもありません。おやすみなさい」
「ぁ、は、はい。おやすみなさい」
平静を装いきれない俺の声を最後に、この部屋において呼吸音以外の存在は許されることはなかった。
おそるおそるゆっくりと振り返ると、彼女は俺の服の背中側を握ったまま眠ったようだった。
すうすうと寝息をたてて、それは、なによりも安らかでかわいらしい寝顔だった。くちびるの端が切れて、薄らと血が固まっているのに今気づいた。これじゃ、笑うのも痛かっただろう。あなたさんはそれでも俺に笑ってくれた。
俺は嗚咽がせぐりあげてくるのをこらえながら、滲む視界を拭った。喉が焼けるように熱く、どんなに我慢してもあとからあとから涙があふれてしまう。このひとは、どうしてそんなに俺なんかにやさしいのだろう。その質問には前答えてもらったはずなのに、どうしてもわからない。
催眠にかかったようにじっと御顔を見つめてしまう。
好きです。あなたが世界一大好きです。
(だから、だれにもそんな顔をみせないで。)
心中で妄言を吐きながら、そっとあなたさんの手を外して俺は彼女に向き直る。
夜が終わらなければいいと思った。朝日は、ただ俺たちを焼いてしまう悪でしかないのだと。
永劫の愛玩が欲しい。無意識に、眠る彼女の頬を指でなぞり、輪郭をたしかめるように触れる。
禁忌を破る俺は須臾の永遠を生きている。
彼女はひたすらに静かで死人のようだ。それに胸がざわつくのに、どこか安堵も覚える。
しろくうすいまぶたから生えそろった睫毛が月の光をさけて影を作っている。
夢のようにはかない彼女ともうずっと狂っていたいと願った夜の闇、俺はあなたさんの胸もとに頬を寄せ、母の庇護をうけるようにして目をつむった。
___
目を覚ますともう出勤時間で、そばに彼女はいなかった。
つながっていたはずの体温すらかき消す冷房が今はにくらしく思えた。
体を起こすと、そばのテーブルにメモが置いてあった。
「本当にありがとうございました 大好きです。さようなら あなた」と、俺は、恒例の別れの五文字に寂寞を感じながら、大好きと、文字に書き起こしてくれたということに寝起きながら有頂天の気分であった。
「俺もだいすきです」とつぶやいて、夢遊病者がするような動作でそのメモにキスをしてしまってから、俺は一人で何をやっているんだという自分勝手な恥に襲われる。
ああ、どうにもうまくいかない。なにもかも。
今現在の時刻がもう、いつもなら会社についていなければならない時間だということも!