短編
おなまえ
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深夜の深呼吸はなるべく浅く。人々が星に願う平和な愛が肺に突き刺さってしまうから。
開け放した窓から、俺を見つけたかのような月の光がふってくる。ほどなくして、あわれすぎて見るに堪えなかったのか、月の球を雲が覆い隠した。この部屋で浴びる影は、やけに埃くさい。
完全な陰の落ちた狭い自室で、袖をまくる。
きょうも仕事で人を殺した。そのために自分の心を殺す必要すらない。名前はわかっても顔は思い出せない、その程度の人間を殺した。だが、誰かにとっては、俺もその程度の人間。その誰かが、俺にとっての運命の相手でないことを祈る。星と神のいないこの部屋で、自分自身にただ祈る。
そして捧げる。
「ん。すうーーーーっ……んん………んう……」
手首にカミソリが入って、すうっと泳ぎだす。
息継ぎもなしに、もともと肌と一体だったかのように。なんの違和感もないまま、浮き沈みなく俺は切り裂かれていく。
血管と垂直になって描かれた線から、思い出したみたいにぷつぷつと血の珠が生まれてくる。生産性のかけらもないこの時間に、ただ、痛みと血というあわれな双子だけが、俺の中から湧き出て産声をあげる。
おそろしいほどあけすけに、壁の薄いこのアパートの一室で、誰にも聞かれぬよう息を殺しながら。自分以外の誰かを殺しながら。
きっとこの血が固まれば、新しく痕になってしまえば、この傷は俺の卑しい中身をあいつに告げ口してしまうだろう。バレてしまうだろう。
この胸にあるのが、どれほどの湿度をはらんだ感情なのか。毎夜のように恋しいと叫ぶこの胸に、誰の横顔が焼き付いているのか。おまえになら知られても構わないから、どうか、心を暴ききったあとはどうか、この俺を憐れんでほしい。
だから俺はスタンドを使わない。
手首までほとばしる運命線なら、俺たちを引き裂く未来など訪れ得ない。だから治さない。できるだけ治らないよう、痛めつけさえするのだ。
「うぁ……んん………ん。」
まだ薄くて、生まれたてで震える傷口を、もう一度なぞる。完全にはなぞりきれなくて、あわれに枝分かれをした線は、生命賛美の温度をたたえている。
手首をずきずきと走り抜けて、どこまでも。あなたのいる方向へ、どこまでもゆこうとする傷が、愚直でおかしい。
片想いのかなうおまじない、曇天の星に願うよりも確実で必死で、痛い。どうしても、かなってもらわなければ困るから、たくさんつけておきたい。
「ふっ……ふ………んん……はっ……う。……」
刃はずいぶんと血を舐めることができて楽しそうだ。その銀色を喰うようにして、俺の赤がまとわりついている。
手首は自由を謳うように、ただ愛情論を語る壁の落書きと化していく。まっすぐに赤黒い糸で編まれた俺の肌は、単純でねじまがっていて、ただ、刃をすべらせている間には、愛しているとたくさん思った。
気づけば左は、もういっぱいだ。次は右。
刃を持ちかえて、新しい痛みに眉間を震わせる。深呼吸の声がちょっとのゆらぎになびく程度の、ざらついた痛覚の裂け目を、あなたはゆっくち撫でてくれる。そう思うと、いくらか楽になる。
肌をぶつりと刺して、その色をふたつに分けながら、もうひとつの色を滲ませていく作業。
ああ、ああ、この真新しい傷口をあなたの舌でえぐってくれれば。その唾液で治癒をほどこしてくれれば。もしくは、もっともっと深い傷になるようにと、痛めつけてくれてもいい。そうして俺の赤血球も体温も菌も、痛みごとのみこんでくれれば。
そんなことを考えながら切っていると頭がうっとりとしてきて、つい思ったより深くまで裂いてしまった。
腕の筋に沿って、細い血液の濁流が落ちてくる。流星というには色のついた欲望にまみれて、灰色の晴天にかかった血の帳。
気づけば、どろどろになった俺の腕からそれがぽたぽた落ちて、床にシミができていた。
「あ、っ……ふうう………ん………。ふう。」
今夜は、これくらいにしておこう。
服を脱いで、俺はベッドへ横たわる。
いつもは休まらない自室のベッドが、やけに俺を歓迎しているように感じた。
きっとこれから、俺はひどい恋心にうなされて、この痛みをかきむしり、あなたに会って、傷を指摘されたいがために袖をすこしだけまくってしまうだろう。
敵につけられた傷かと思って心配してくれるだろうか。くだらないと笑われるならそれでも。どうだっていい。
やけに眠い。でも朝日を見たくないので、目はつぶらない。
それからはなんとなく、両手首の傷を舐めたり、文字通り自分をなぐさめたり。
あなたに、これ以上は死ぬというくらいに、痕をつけられてみたい。それでも俺は治さないと約束するから。
この胸の奥にあるのと同じ、消えない傷で、俺に名前をつけてほしい。この痛みにただ、すがっても許される救済がほしい。
ああ、俺はなんと、欲深い男だ……無星の夜空に、朝が来ないことをすら、腹を見せてねだっている。
そうしたら、とたんに夜がどんどん終わっていって、俺はまた仕事へ行って人を殺す。その程度の人生。だからせめて、どうか、夜よりもやさしく、想像よりも強く、どうか、その痛みを。