短編
おなまえ
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気づけばもう年末で、冬休み……すなわちクリスマスも近く、廊下を歩いているだけで即席カップルが笑い合っていてムカつくという話だ。
それに俺の学期末テストの結果はといえば、まあ赤点ギリ上でパラシュートを開いて急停止といった感じで、相も変わらず低空飛行であった。
俺にとってこれほど鬱々とした季節はない。夏休み明けも五月病も目じゃない。ヘッドホンでもつけて過ごしたいほどだが、校則で禁止されているので偉い俺は我慢している。だらだらと午前授業を受けた身体で、のろのろと帰り道をたどる。
マフラーを巻いてコートを着てはいるが、寒さはまったくマシにならない。
歩く途中でなにかあたたかいものを食べたくなり、校則を無視してコンビニに入ると、あなたがいた。
「ぁっ。」と声に出て、それに気づいた彼女が俺のほうを見た。
「こっ。こんにちは」
「こんにちは。間田くんも買い食い?」
「っ、うん、そう」
「肉まん?最後のやつ今買っちゃったから半分こする?」
肉まんを目当てに来たわけじゃあなかったが、この流れでいくと彼女と帰る感じになるだろう。
……あなたとはずっと曖昧な関係でいる。付き合っているのかいないのか、当事者の自分でもわからない。ただ言えるのは、クリスマスのための即席カップルなどでは断じて決してないということだ。だってこんなに寒いのに手汗が止まらない。
「ああ、うん……よければ」
「いいよ。じゃあ行こう」
彼女が俺に向かって声をかけてくれるたび、心臓の一番奥の核のところがふるえる。一緒にいるだけでなにかがおかしくなりそうなのに、絶対に離れたくないとも思う。
・・・
人気もない公園のベンチにふたりで並んで座る。本当は肉まんとかもうどうでもよかった。妄想じゃないあなたが質量を伴って俺の隣にいることがまだ不思議な感じだった。
彼女は肉まんを上手に半分こにしてくれた。
ふんわり立った湯気が何ともいえないほど魅力的だ。手で持つとあたたかさが直にきてくれて、命が助かった感じがする。
ふたりともしばし無言で、たまに通る車の排気音に耳を澄ませながら食べた。
ひと口目から最後までそれはもう、涙が出るほどおいしかったが、感嘆のリアクションや食レポをする余裕は相変わらずなかった。
ただただ、あなたがすぐ横にいてくれて同じものを食べているこの状況が走馬灯に出てくる可能性は非常に高いだろうということだけを思った。
食べ終わってもふたりは静かで(なんというか俺としては話すことが見当たらないで、遊具や周りの風景を見回してはみたものの、俺たちが幼少だったころにあった遊具は危険だからかほとんど撤去されているし、空は落ちてきそうな寒さで俺たちをいたぶってくるし、公園には小学生のひとりも遊んでいない寂寞ばっかりが満ち満ちていて、だから何も話しかけられずに)、確かに俺の目は泳いでいた。
だけどそれでも、触れそうで触れない彼女との距離は心地よかった。
離れたくない。近づいてみたい。近づいてほしい。離れてほしくない。もっと近づきたい。
もっと……自己嫌悪必至な欲望の奔流に俺は呑まれて、それが心地よかった。きょうの気温よりは生ぬるい色々な願望に頭をひたしていると、何もかも忘れて、世界があなたのことだけになるから。どんなにひどい場所ででも、となりにあなたが居てくれるなら俺は最高になれるだろう。
どきどきする胸を落ち着かせようと静かに息を深く吸い込むと、泣いたあとのように鼻の奥がじーーーんと痛くなって、むずむずする。
「う……えっくしゅんっ!」
沈黙を切り裂いたくしゃみが耳の中をわんわんと唸らした。
心配してくれるあなたに笑いかけると、唇が切れて血が出て痛かった。
「あ、痛そう」
あなたはそう言って、こんなに痛々しい俺にキスをした。
してくれた。
なんでもないみたいに。
頭が状況を理解したとたん、きんきんに冷えていた唇の表面が急に温かくなって、その次に熱くなる。
身体じゅうがいけない黒魔術にかけられたみたいに、熱い。ちょっと上着を脱ぎたいくらいだ。あー今、サーモグラフィに映されたくない。きっと俺だけが真っ赤っかになっている。
それに、やわらかすぎる。
俺の荒れたくちびるを癒すみたいに包み込んでくれるそのピンク色にリップが薄く塗られていたことに、ようやく気付いた。それが俺にもいま付着しているという事実がやばくて、我慢しきれずに「ん」と息混じりの声を漏らした。
だが心臓が発火してからわずか2秒で、早々に彼女は唇を離した。
俺が思考をあっちやこっちへと忙しくしている間に、その時間は終わってしまったのだ。
引きあっているはずの皮膚が離れるのがあんまりにもあっけなくて、喉の奥から縋るような息が鳴った気がする。
だけどそれを声にはしなかった。できなかった。意気地がなかったんじゃなく、俺にはその資格がないように思ったから。
再び空く距離を引き留めることもできず、手が変てこな形に固定されたまま空中にとどまる。
彼女はどうしてキスをしてくれるのだろう。
俺のしてほしいことを、頭の中を読むことができるのだろうか。それとも俺みたいないかにも都合のいい男がほしいんだろうか。キスのひとつぽっちでなんでも言うことを聞いてくれそうな童貞男が。
(もうなんか、なんでもいいから、そうゆうのでもいいから、あなた……)
俺はあわれに、わずかに残った湿り気の残滓をこっそりと舐めた。肉まんなんかより芯から熱くて禁断感のあふれる甘い味。
「ブランコ乗ろうよ」
彼女はまた、まだ、俺を勘違いさせつづけてくれるのだ。
隅で縮こまっていても凍えるような風に、手にふれる鎖の冷たさが合わさってもはや殺人的だ。
悴みすぎて感覚のない指先で、今しがた体温を分けてもらった唇を思う。もうそこに、冬のにおいが移った気配がしてさびしかったから。
「鼻が寒いね」
「ぜんぶ寒い……」
ゆるゆるとブランコを漕ぐと、鼻の頭にぶつかる低温と奪われるばかりの体温が苦しい。爪の先から割れて雪になって消えてしまいそうだ。となりに座るあなたとの距離が遠い。
もしも俺がいなくなったら彼女は何か言ってくれるだろうか。なんとなくの夢想は、かなり空しい。もし俺がいなくなった後に雪に生まれ変わったら、彼女の身体に降り積もることは許されるのだろうか。こんなのもっと空しい。
ぐるぐると余計なことばかり考えていたおかげか、これしきの揺れで、俺はちょっと酔いそうだった。
ブランコが揺れるのをとめて、ふいの風花を地面まで見送る。あなたは雲の切れ目に青い空を見ている。俺は満点の灰くずの下で、雲の上みたいだ、天国にいるみたいだと思った。
「……好きだよ……」
死にそうなほど。と、思ってはいたが言わなかった。
「あはは。……さむっ。」
その言葉が俺か冬か、どちらを言ったものだったかはわからない。まあ十中八九俺だろう。
淡いけれどたしかにそこに積もっていく雪を、興味もないのにじっと見る。
その隙に、あなたが俺の背後に回った。
「ひっっ!」
「あは……」
あなたのキンキンに冷たい手が俺の首をさわって、いじわるをしてきた。俗世にいちばん近い天国が俺のそばにいる。
俺の反応を見ると彼女はすぐに手をひっこめた。それでも、離れても残留し続けるあたたかな低温が、マフラーの内側でずっとくすぐってくる。
「あはは」
俺をいじめるときにそれとなく目を細めるあなたの顔、たぶん彼女の友だちは知らない表情と笑い方、そのちょっぴりのサディズムのせいで、俺はいつまでもどうしようもない催眠にかかって抜けられない。
「……やめろって」
あなたは優しくて意地悪で、冬風のようにつかめなくて、冷たいようで何よりもあたたかくて、何回も、どこまでも俺を恋に落としてくる。
奈落みたいな女だ。最初はこんなつもりじゃなかった。俺はマゾ野郎ではないし、振り回されるのが好きなタイプでもないはずだった。すべてが計算違いで、あなたの計算通りな気がする。
「ごめんごめん」
とにかく脳裏に棲みついて離れない存在になってしまった。どうすればいいんだよ。どうすれば俺は、きちんと彼女に隷属できるんだ。俺からあなたのつま先に誓いのキスをするには、どうすればいいんだよ。
どうすれば勝てるのかについては、随分前に考えるのをやめた。
もうまたぐるぐるぐるぐる、俺はいよいよ酔っている。このままの頭じゃあ風邪を引いてしまいそうだ。インフルにでもかかってしまいそうだ。せっかく明日から冬休みなのに。彼女にすっかり潰されちまう。……
そばの道を救急車が通る。けたたましいサイレンでふたりだけの世界がこわれていくのを感じて、俺は少しだけ安心した。たっぷりのドップラー効果を全身に浴びながら、白い息をつく。
休みを潰されるのも、どっかに急に連れ出されるのも、考えてみると悪くない。彼女のすることを俺は、もしかしたらなんでも許してしまえるのかもしれない。ああやばい。病気だ。
ふと、あなたが急に立ち上がった。
かしゃん、と鳴る鎖の音がやけに物悲しい。俺はあなたを見上げる。(今気づいたが、俺は彼女に対してはいつも上目遣いになってしまっているかもしれない)
「そろそろ帰ろうか」
「、そうだな」
言葉尻に「寒いから」と言いたげな両手をこすり合わせるジェスチャーを付け足したあなたは、余韻で揺れるブランコを一瞬見やった。それから、俺を見た。
俺は急いで立ち上がって、そのへんに置きっぱなしにしていた自分の荷物を持つ。
「じゃあね。よいお年をー」
「ん。よいお年を……」
送ろうかという提案が唇の内側までせり上げたが、そんなことを言いだすのは彼女にとってお門違いな気がして飲みこんだ。もちろん少しでも一緒にいる時間を延ばすための口実だが、そんな不純な申し出を彼女が感じ取らないわけがないから。
あっさりとしたあいさつを交わし、大きな通りで別れる。二、三歩あるいたところで足が急に重くなって止まる。そして振り返って、ただ、ただ寂しい気持ちだけを送って見つめてしまう。
悠々と歩を進めていたあなたの背を見送っていると、彼女が急に足を止めて振り返った。
俺は思いっきりどきりとして、「え」と声をあげた。近づいてくる視線がどこかくすぐったくて、完全に無駄だと思うが気づいていない風な演技をする。
本当に、俺の頭を読んでいるのかもしれない。離れたくないって脳みそからの強い電波が受信されてしまったのかもしれない。それよりも、俺がただわかりやすすぎるってだけなのかも。
どうして帰ってきてくれたのだろう。バイバイしたあとに帰ってきて伝えなくてはいけない内容なんて、大事なことに決まっている。
彼女がこしょこしょ話をするような距離まで近づいてきて、声をひそめた。いま、俺には彼女の声を聞き洩らさないようにと、心臓の鼓動音をなるだけ意識しないようにつとめることしかできない。
「間田くん」
思ったよりも小さな声だ。それに、近い。
お別れのキスをされたらどうしよう。俺はまた……あの感触の奴隷への道を一歩進める。こんな往来でされてしまったら、学校で噂になるかも、そんなことになったら嬉しすぎる……
彼女がその気になったら押し倒されて、組み敷かれてしまいそうな近さだ。雪の上に寝転ぶのは非常に冷たいだろうが、俺の体温の高さでたぶん全然気にならなくなるだろう。そんなことは絶対にないと確信しながらも、俺は妙な覚悟を決める。
「う、ん」
そして次の言葉を待つ。
「あれ、全然最後じゃなかったんだよね、肉まん。ごめん!バイバイ」
「え、あ、ばいばい……」
「いや、え?」
思いっきり拍子抜けした。
それってなんでそんな嘘を?俺と一緒に食べたかったから?一緒にいたかったから?と解釈してもいいのか?
俺は肉まんなんていうくだらん餌がなくてもあなたがいるところになら喜んでついていくのに。
ずるい。言い逃げだ。マフラーの中で浅い息を何度も生あたたかく繰り返す。今度こそ死にそうだ。こんなことならさっき死ぬほど好きだって言っておけばよかった。だって事実なんだから。
「はあああっ………!!」
俺はふらふらと数歩歩いて、公園に戻る。そしてベンチに座れもせず手前でしゃがみこむ。大きく大きく息を吐いた、家に帰ってからすることが決まってしまった。
自分の発言への後悔、反省会、自戒、そして、盲目的な息遣い。今日の帰り道というごく短い時間に激しく荒げてしまったいろんな心の波を、どう乗りこなせばいいんだ。
おそらくは年をまたいでまた会ってしまうだろう悪魔的天使に、俺はどんな手を使ってでも破滅させられたかった。そのときが楽しみでもあり怖くもある。
誤った青春だとわかっていながら片足を突っこむ毒沼を眺めつつ、しばらく降りつづける純白をじっと受け止めていた。次の日、俺はまんまと風邪をひいた。