短編
おなまえ
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願うべき星も見当たらない真昼間。白昼夢のような潔さで現世と隔たれた小部屋。老朽化の進まない真空間。癲狂院じみたこの部屋。
恋人を閉じ込めてからもう2年が経とうとしている。
ここはいつでもあなたのにおいでいっぱいだ。部屋に這入りこんで呼吸をするだけで、わたしの全身から愛おしさを感知する神経があふれ出す。その器官以外は不必要だと思えるほど、自分でもうんざりするほどに目に映るもの感じるもの全てが、あなたなのだ。
この2年は流星群のような思い出でいっぱいだ。きらきらした愛だとか、それが過ぎ去って次のきらきらを待っている愛みたいな余白だとかで満員になって、とても非科学的で甘ったるい水銀色の幸福が確かにわたしたちを包んでいた。
あなたは笑っていたし、わたしもそうだった。九九をとなえるよりも簡単に愛してると言い合っていた。あなたはその意味を知らないようだったが、その程度の無知は些細なことだった。
恋人と恋人のこどもを閉じ込めてからは10か月ほどが経とうとしていた。
「あなた」
わたしとあなたの間に穿たれる弊害がどのようなものでも越えられる。そのために運命を壊したとしても、それよりももっと強い運命を作り出すことができる。わたしはそういう信念のもとに、この場所に愛を充満させるのだ。
実際、あなたはこの部屋で幾度も幾度もあきらめず自殺を試みているが、わたしは全てそれらを食い止めてきた。
もちろんわたしはあなたが望むことならなんでもかなえてやりたいと思っている。ただ死ぬときは一緒にと誓い合った事実があるのに、一人きりの時に死のうとするので止めざるを得なくなるのだ。
「ただいま」
この部屋は生を謳歌するための場所であり、生を享けてつないでいく場所にもなるのだ。世界にひとつしかない宝物のような我々の肉体がなくなるまで、宝箱のように秘匿された無季空間を守っていかなくてはならない。
「うううっ、うう」
部屋へ入るとあなたが泣いていたので、慰めてやろうと近づいた。
「どうした」
すると床におかしなものが転がっているのを目にした。あなたが振り向く。
窓のない部屋の無遠慮なLEDが照らす恋人の姿はひどく小さく、ここへ来たばかりのころを思い出させる。血が足りないのか、咎められると思ってか、震えていて顔色も悪い。
「いらなかったか?」
わたしはなんとなく、明日の天気を訊くくらいの気持ちで問うた。
彼女は自身のこどもを手にかけたのだ。おそらくついさっき行ったのだろう。
昔から比べるとずいぶんとわたしたちは、
「しっ、し死ぬっことが………ゅう、ゆ、許されッないなら、こ、こ、殺し、殺すくらい、」
しゃくりあげながら、あなたは言葉を放つ。その手はぎちぎち鳴るくらいに強く握られている。
ひどく苦しそうに。呑んだ毒針を吐き出そうとするみたいに。
そうすることは叶わないのに喉を震わせるばかりのあなたが愛おしくて、一度息を吐く。
そのわずかな仕草にも怯えたような様子を見せる彼女に、わたしは一種の優越感……というか、愛玩心なのか、似非母性というべきか……そのようなものを抱きながら、ここちよい凋落の風切り音を耳に聞いていた。
「わかった」
わたしはもう愛以外の感情を認識できないのだ。する必要もないと心から感じる。
「ご、ごっ、ごめ」
「いや、いい」
フローリングに頭をこすりつけるようにして謝るあなたの顔をあげさせて、そのまま手で頬を挟んでやる。そうするとちょうど口が突き出されて間抜けな表情になった。
ちゅっとくちびるを吸うと、フィクションのような美しさでひと粒、あなたが涙を流した。
わたしはきわめて僅かに、笑った。
たぶん、わたしたちの間には何もいらなかったのだ。最初からそう決まっていた。これが産まれる日も産まれそこなう日も決定されていたのだと納得できた。
視界の端で死んでいる旧生物のかたどりがだんだんと矮小になる。
「これはわたしが埋めてくる」
「…………」
なるだけ遠くへ。
わたしがその肉を手にすると、座り込んだままあなたはばつの悪そうな表情を浮かべた。彼女がこんなに感情的な顔をするのは久しぶりだ。しゃがんで、いきなり唇を奪ってやる。幼児の遊びのような軽い音が、どうにもこの空間にそぐわない。
驚いたような絶望したような両の眼が愛らしい。白黒分かれた目玉の彩度に眩暈がする、退廃的なにおいがする。
しばらくそうして観察しているとたまらなくなり、もう一度唇を交わした。
(ちゅ。くちゅ。ぬるっ。ぐちゃ。)
至近距離でながめるあなたの顔は苦しそうで、悲しそうで、どこか気持ちよさそうだ。後頭部を押さえて舌を侵入させると、地獄みたいにあたたかな液の巣穴に浸かる。
とろけた唾液を焦がれる喉で受けとめて飲みこむ。すると異なる細胞同士が強く抱きしめあって境目をなくしていった。そういうふたりの粘性が唇をはみ出して、あふれる。
宝箱のなかで宝物が腐ってうめき声をあげている。愛。
かわいらしい桃色の膿が飛び出してごぽごぽいっている。愛。
所有者のわからなくなった唾液がふたりの間でかたちをグニャグニャ変えていく。愛。
手の中のものの存在さえも忘れて、わたしは夢の中に閉じ込められた時の幸福な心持で、恍惚をやさしく蹂躙していた。
口が離れると、どうしようもない風がわたしたちの隙間に吹いたような気がした。湿った風。誰かの涙を含んだ風。
「死にたい顔だ」
「…………」
「わたしの好きな顔」
彼女の手をとって、その甲へキスを落とした。わたしのことを正してしまいそうな目つきでどこかを見ているあなた。
わたしは立って、再び扉を開けた。
「行ってくる」
あなたが泣き始めるのが背中で分かる。
愛は神なりと。吐いた息が今も。垣間見た視界はきらきらと。
羨望のような失望のような願望のような欲望のようなかたちをした児が死んだ。わたしはどこか空しくもあり、嬉しくもある。
暗闇の中をふらふらと歩いて見つけた灯りのような安心感とともに、命のトンネルを抜けた先にはわたしたち二人だけがゆく道がずうっと、向こうのほうへ走っている。そこには誰も立ち入ることのないようにと、わたしはいつでも、心の沼の底で祈っていたのだ。
命をつないでいくのは難しいことだ。扉を閉める。首を絞めるよりもたおやかに静かに。明るい歌でも口ずさみたい気分だ。命を奪うのは易しいことだ。やさしい。あなたはきっと誰よりもやさしい。わたしのことをずっと愛してくれているし、死にたがることはあってもわたしを殺そうとしたことはしなかったから。
それが偶々、すこしだけ、暴れてしまっただけ。手がすべってしまっただけ。
だからこれからは、もっと彼女のそばにいてやらなければならない。より近くで、あなたの一部みたいにして、そばにいることだ。わたしがしなくっちゃあいけない事柄は、それだけだ。
運命の紐が絡みついてわたしたちは隣り合った。触れ合った。その紐はわたしたちをいつでも雁字搦めに縛り付ける。死ぬこと以外のすべてを許す弱い力で首に纏わりつく。
恋人を閉じ込めて2年。恋人を閉じ込めて3年。4年。5年。1000000000000000000000000000000年。
手をつないで歩いていくやさしい影。やわらかい蜃気楼。無視された無音の雪月花。彼女が手折った首。ざくざくと土を掘り返す音が無限に響いている。……………………
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