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【中編】君ともう一度恋をする(巽)
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「俺のことは、どこまで分かりますか?」
机を挟み正面から見つめてくる風早さんに首を振る。
「ごめんなさい、何も……」
顔と声と名前を知り、ALKALOIDのメンバーであることも知ったけれど私は何も思い出すことなく風早さんと対面していた。
忙しい合間を縫って風早さんは約束通り時間を作ってくれた。それは私も出演する予定だった舞台が始まる二日前で、私なんかに時間を割いていて良いのだろうかと思ってしまう。それでもこの関係に早く決着をつけたかった私は風早さんと話すことに決めた。仕事の合間の二時間だけ。場所はスタプロが所有する会議室の一室。二人っきりになることに不安が無いと言えば嘘になるけれど、ES内というよく知った場所で話ができることに安堵していた。
「俺たちは、付き合って……いました」
風早さんが目を伏せやるせなさそうに言葉を紡ぐ。付き合い始めてもうすぐ一年であるということ。告白をしたのは風早さんだということ。ALKALOIDがクビになるかどうかの時私が手助けをしたこと。それがきっかけでよく話をするようになったこと……。
そう、たしか私達のユニットと幾つかのユニット達との合同ライブにALKALOIDを招いた。それから彼らを見つけるとよく話かけるようになったはずだ。
「でも、あの……ごめんなさい。あんまり、よく覚えていなくて」
どういう経緯で彼らを招いたのか。誰とどうやって連絡を取ったのか。その時の合同ライブの主催は私達だったから、ライブで歌った曲、MC、他のユニットの子たちまでよく覚えているのに、ALKALOIDの所は靄がかかったかのように断片的にしか思い出せない。
「あの頃が俺が交渉など担当していた部分も多くありますので……そのせいかもしれませんな」
風早さんが関わっていたから忘れているというのだろうか。そんなことが有り得るのかと信じられないが、実際に私の記憶に彼はいないのだから受け入れるしかない。
「私……本当に何も覚えていなくて」
よく行ったというデート先も、時間を合わせて摂っていたという昼食も、ALKALOIDのみんなにバレた経緯も。こうして言葉にしてもらってもそれは違う誰かのことを言われているようでしかなかった。
「俺のこと意外は覚えているんですよね」
「はい、多分……」
「そう、ですか。少し安心しました。俺のことを忘れられてしまったことは少し寂しく思いますが……タヌキさんが日常に戻られて良かったと思っています」
「はぁ……」
真っ直ぐに見つめてくる目の居心地が悪い。私はこの目を正面から見つめ返していたんだろうか。
「本当に……心配しました。貴女とこうしてまた話せるだけで、俺は嬉しいです」
その眼差しから、心底私を案じてくれていることが分かる。仮にも恋人である自分だけを忘れたと言っている相手にこんな慈愛に満ちた目を向けられるだろうか。まだ「どうして忘れているのか」と怒り、罵られる方が分かる気がする。私は風早さんのことは何も分からないけど、少しだけ風早巽という人を知れたような気がする。
「それと、これはお返ししますね」
コト、と机の上に鍵が置かれた。
「これって」
「タヌキさんのお部屋の鍵です。……今の俺が持っているわけにはいかないので」
合い鍵を渡す中だったのかと驚いてしまった。家の至る所にもよく来ている様子はあったからおかしくはないのかもしれないけど、私にそんな相手がいる、いた、ということが不思議でならない。すごい本当に恋人だったんだ……。なぜだかこの時にそう実感をしてしまった。
「俺の荷物は……寮に送ってください」
「え、いいんですか?」
「はい。すみませんが舞台が始まるので取りに行く時間がありませんし……今のタヌキさんには……あっても困るだけでしょう?」
「……はい」
正直、どう切り出そうかと迷っていたので風早さんから提案してもらってこっそりほっとする。取りに行くと言われたらどうしようかと思っていた。
その後は、私の記憶ーー主にALKALOIDとの記憶に齟齬が無いかを確かめていった。それらは概ね合っていたけれど、風早さんが深く関わっていた部分は曖昧で、今の私の中に風早さんがいないのだという結果を示すものとなった。
「……ごめんなさい」
何度目か分からない謝罪の言葉を口にする。
「謝らないでください。元はといえば俺を庇ってくれたせいなのですから」
私が謝るたび、風早さんは困ったように眉を下げる。事故の時のことは覚えていない。どうして私は風早さんを庇ったんだろう。
言葉が返せず会議室に静かな沈黙が流れる。今まで気にもとめなかった秒針がカチコチといやに大きく耳に入ってきた。約束の二時間はまだ来ない。
「俺のことを恨んではいませんか……?」
「え?」
沈黙を破ったのは風早さんだった。恨む、という思いもよらない単語に顔を上げると、あれだけ真っ直ぐ私を見つめていた風早さんが沈痛な面持ちで俯いていた。
「俺のせいでタヌキさんは舞台を降板することになってしまいました。オーディションの時から貴女は楽しみにしていて……出演が決まった時の喜びようはよく覚えています。俺も共演できることが嬉しくて……タヌキさんの家で何度も台詞を読み合わせていたのに……俺の、せいで」
舞台に立ちたかった。尊敬する脚本家が書いた舞台に立ちたくてオーディションの話をもらった時から熱意に溢れていた。出演できることになった時には、ユニットメンバーはもちろん、色んな人に喜びを報告した。風早さんもその内の一人だったんだろうか。
もうその舞台に立つことはないけれど、悔しいと思うことはあれ恨むだなんて考えたこともなかった。むしろ風早さんが自分自身を恨んでいるようだ。
「舞台に立てなくなったこと、正直、悔しいです。でもだからといって、風早さんを恨んだことなんてありません。庇ったことも、後悔してない、と思います。どうして庇ったかは今の私には分からないけど、でもきっと、記憶があっても、風早さんを庇ったことは、後悔してないんじゃないかなって……思います」
少しでも気休めになれば良いと言葉を選ぶ。私には風早さんの記憶が無いのだから風早さんだってそんなに気に病む必要は無いのに、と思ってしまう。
「だからあの、気にしないで下さい……って言ったら変かもしれないですけど。私は気にしてませんから」
「……そうですか。ありがとうございます、タヌキさん」
私を見ている風早さんの微笑みはどこか悲しそうだった。恋人だった人に忘れられてしまったら悲しいのは当たり前かもしれないけど、それでもやっぱり私はどこか他人事のように感じていた。
話が雑談に切り替わり、風早さんが私の近況を聞いてくる。ユニットの練習に参加をしていること。冬頃にはテレビや握手会と仕事にも本格的に復帰する予定であること。日常生活には何も困っていないこと……それらを話すと風早さんは安心しているようだった。
優しい人なんだろうな、と思う。だからこれを伝えるのは少し憚られた。だけど私は今日はこれを伝えに来たのだと拳に力を入れて口を開いた。
「あの、それで風早さん。お願い……が、あるんですけど」
「はい?俺にできることでしたらなんでもおっしゃってください」
「私たち、付き合って、る、んです、よね」
私がそう言葉にするのは初めてだった。自分の口から出てるとは思えない不思議な感覚だった。
「でも、あの、私、風早さんのこと、分からなくて……。だから、こう言うのはおかしいとも思うんですけど……その……別れて、もらえませんか?」
合い鍵を返してもらい、荷物も送り返すことになったけど肝心な関係の清算が出来ていないことが気がかりだった。何も分からない相手を恋人だとは思えなくて、どうしても言葉で今の関係を確かめておきたかった。
「…………そう、ですな」
長い沈黙の後、風早さんが口を開く。
「俺の記憶が無いのに、俺が恋人だと言われても困るでしょう。俺達の関係は……白紙に戻しましょう」
風早さんの言葉にほっと胸のつかえが取れていくのが分かる。風早さんと付き合っていたと確信を持った時から私の知らない私がいる感覚があったけれど、これでようやく私は私に戻れたような気がする。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ……仕方ありません。タヌキさんは俺を忘れているのですから。……ご迷惑でなければこれからは友人として接しても?」
「友人……」
「ALKALOIDの他の子たちと同じように接してほしいだけです。難しいかもしれませんが、少しずつ俺を知ってください」
「……はい」
真摯な目を向けられ頷くしかなかった。真っ直ぐ見つめてくるその目が苦手だ、と思った。自分を知らないと言う相手にどうしてそんなに慈愛の目を向けられるんだろう。それが風早巽という人なんだろうか。
居心地の悪さを感じ始めた頃、ピピピピピと風早さんのスマホが時間が経ったことを知らせてくれた。このままここに居たら逃げ出していただろうから内心助かったと安堵した。
聞きたいことも聞いたし、言いたいことも言ったので礼を言い席を立つ。この扉を出ればもっと心が軽くなりそうだと扉に手をかけた時
「タヌキさん」
名を呼ばれ、手首を捕まれてしまった。風早さんの体温が手首から全身へ流れるような気がした。
「本当に、何も……覚えていないのですか?」
今までと打って変わって懇願するように絞り出したような声だった。泣いているのだろうか……。
「……ごめんなさい」
それでも何も思い出せない私は謝ることしかできない。
「いえ、俺の方こそ……すみません」
顔を上げた風早さんは、相変わらず私を慈しむような目で見てくる。泣いていたと思ったのはやはり気のせいか。
「俺は後で行きます」という風早さんを残して会議室を出る。捕まれた手首が妙に熱かった。ドキドキと心臓が忙しなく動いている。
風早さんは本当に“私”のことが好きだったんだな。
そう思うとなんだかとても申し訳なく思えてきて、私はこの時初めて記憶が無いことに喪失感を覚えた。
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