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【中編】君ともう一度恋をする(巽)
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再度の精密検査の結果異常なしということで私は予定通り退院の日がきた。三日間意識が無かったからか疲れやすくなっている体を日常に戻すため、すぐに仕事へ復帰というわけには行かず体力作りやボイストレーニングから再開していくことになった。戻ってきたスマホを開くとユニットメンバーから予定表が送られてきている。ついていけるかは心配だけど、復帰するためにはついていくしかない。
少しだけ憂鬱になりながらメッセージアプリに返信をしていく。休んでいる間に随分色んな人から連絡が来ていた。それに一つ一つ『元気です。ご心配おかけしました』と文字を打っていく。ただ唯一、風早巽という欄だけは触れられずにいた。
その名前を見つけた時、最初に『本当にある』と思った。もちろん他のALKALOIDのメンバーの名前もあるのだから、あっても不思議ではないのだけど。次に、他の人より通知の数が多いことが気になった。よくやり取りをしている藍良くんよりもその数が多くて驚いた。それだけ仲が良かったのだろうか。それとも、自分のせいだと思っているから?開いてみたかったが見ないようにも言われているし、なんだか怖くて見れないままでいる。話してくれるのを待とう、とスマホを閉じた。
「本当にいいの?部屋まで送らなくて」
マンションの駐車場で母が荷物を取り出しながら聞いてくれる。
「いいよー。お母さんだって忙しいでしょ?送ってくれただけありがたい」
検査の結果異常もなく、私自身どこにも不調を感じていないのでこれ以上母を煩わせたくなかった。母には、風早さんのことを言えないままでいる。お医者さんにもそれとなく「誰か特定の人を忘れることってあります?」と聞いてみたら「そういうことがあるの?だったらもっと検査した方がいいかもね」と言われてしまい、詳しくは話せなかった。風早さんには悪いけど、私は早く復帰したかったし、彼を忘れていることで日常に支障があるとも思えなかったからだ。
「戸締まりに気をつけて、あんまり無茶しないでね」
そう言い残し帰って行く母を見送る。入院生活で使った荷物を両手に抱えマンションへと入って行く。部屋の鍵を開け、誰もいない空間に「ただいまー」と声をかける。一週間も経っていないのに久しぶりに帰ってきたような気がする。
母の言っていた通り、想像よりも部屋の中は片づいていて驚いた。洗濯物を畳んだり、乾いている食器を片づけたりとやればすぐに終わることが少しだけ億劫に思ってしまう性分だし、事故に遭う前は忙しくて丁寧な生活をする気になんてなれなかっただろうに。そういう気分だったんだろうか。
「まぁいいや、とりあえず洗濯しようかな」
持ち帰ってきた着替えを洗濯機に放り込む。二回に分けた方が良いかも、と思いつつ手間を考えると一回でもいける、と思うことにした。
「あれ……?」
目に入ったのは洗面台にの棚に置いてあるピンクと緑の歯ブラシ。ピンクの歯ブラシは自分の物だ。じゃあ、緑は……?誰か泊まりに来ていたっけ?記憶が無い。
これも風早さんと同じで忘れていること……?
じっと歯ブラシを見ても思い出せそうにはなかった。まぁいい。もしかしたら自分が二本使っていたのかもしれないし。母が使った物をそのままにしていっただけかもしれない。
でも違和感はそれだけじゃなかった。
タンスの引き出し一つ分に見知らぬ……それも男の服が入っている。取り出して広げてみても自分が着ていたとは到底思えない。
「おとこもの……」
しかもご丁寧に下着やパジャマまで入っていた。一瞬、母が女の一人暮らしは危ないから一緒に洗濯物を干す用に買ってきたのか、と思ったがそれにしては数が多い。
「……私に男装の趣味があった?」
口に出してみたがそれは有り得ないだろう。そんな記憶は無い。……忘れているだけかもしれないけど。
風早さん以外にも忘れてしまっていることがあると思うと身震いをしてしまう。背中が冷えて落ち着かない。自分の家なのに、知らない物があることが怖くてしかたがない。他にもあるかもしれない、と家の中を歩き回る。一人暮らしにしては食器が多い。どうしてペアマグカップなんてあるんだろう。私なら手に取らないであろう作家が本棚に並んでいる。昔読んだけれど、文章が合わなくてそれ以来読んだことはないはずだ。引き出しの中の男物の腕時計。私の腕には馴染まない。
探して出てくる違和感に、心臓が早鐘を打ち出す。私は何を忘れているんだろう。
そこまで察しが悪いつもりはない。この部屋には誰かがいた。いつもではないかもしれないけど、頻繁に出入りをしている人がいる。それも男だ。
ドッドッドッドッと激しく心臓が動き、体中の血液が沸騰しそうだった。震える手でカバンからスマホを取り出す。頭のどこか冷静な部分が止めた方がいいと叫んでいる。それなのに私の指は何かに導かれるようにメッセージアプリを起動させた。まだ未読の印がついている風早巽という文字をタップする。
一番新しい文字は『目が覚めたと聞きました。身体は大丈夫ですか?』と私を気遣う文面だった。スムーズにスクロールができず、何度も引っかかりながら指を動かす。『俺のせいですみません』『毎日祈っています』懺悔と祈りが繰り返される文字も下に追いやっていく。そうすると、私が事故に遭う前の日付が見えてくる。『おやすみなさい』と私が送っている。その上では『仕事なのに、毎日巽さんに会えるのが嬉しいです』と可愛いスタンプを添えている。これは『今日もお疲れさまでした。また明日』と風早さんが送ってきているものへの返事だ。
会えるのが嬉しいと伝えるほど親しい間柄だったんだと愕然とする。上手く息ができなくなってきて、気づけばはぁはぁと荒い息を口から漏らしていた。それでもスクロールする指を止められない。もっと、確信めいたものが欲しかった。
『巽さん、今日はありがとうございました。大好きです』
目当ての文字列を見つけたというのに何一つ嬉しくなかった。それどころか今にも驚倒しそうだった。手から力が抜け、ゴトリとスマホを落としてしまう。さっきまで沸騰しそうなほど熱かった体からスッと血の気が引いていくのが分かった。
私は風早巽と付き合っていた?
だからALKALOIDのみんなは怪訝そうな顔をしていたのか。あの時一彩くんが言い掛けたことはこのことだったのか。風早さんの悲しそうな顔は、恋人に忘れられたから……?事実を知ったのにそれでも私は風早さんを思い出せない。ペアマグカップを使ってた相手を、歯ブラシの持ち主も、タンスに入っている服を着ている人も、何一つ思い出せなかった。
落としたスマホを拾い、再び画面を見る。画面の左上にはまだ風早巽の名前が表示されていた。
『近いうちに話を聞きたいです』
そう打ち込み送信ボタンを押す。返事が来てほしいような、来てほしくないような複雑な気持ちだ。しばらく眺めていたけれど、ALKALOIDも忙しいからな、と画面を閉じた。その後は確認する気になれなくて、寝る前にようやく画面を開いた。そこには簡素に『分かりました。時間を作ります』とだけあった。
私が風早さんを忘れる前の親しげなやり取りが嘘のようだった。
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