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短編
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「無精子症……?」
医師から告げられた言葉が上手く処理出来ず何度も脳内を巡る。
その言葉に聞き覚えは無いが語感からどうやら自分には精子が無いと宣告されたようだ。
それ以上の言葉は聞きたくないと、勝手に耳が医師の言葉を拒否する。
どこを見て良いかも分からなくなりあちこちへと忙しなく目が動く。視界の隅で隣に座る女性を捕らえ、そこでようやく、あぁ1人じゃなかったと気づいた。
震える手を縋るように彼女に伸ばせばすぐにそれは暖かく包み込まれる。
言葉は無くても、大丈夫だよと言われているみたいで僕は安心してそこで思考を遮断した。
それからは、どうやって家に帰ったかも覚えていない。気づけば家のリビングでソファに座っていて隣には変わらずタヌキちゃんが寄り添ってくれていた。
どれぐらいそうしていただろう。部屋に差し込んでいたオレンジの光が無くなりかけた時、縫いつけられていたんじゃないかと思うほど動かなかった唇が動いた。
「ごめん……ごめん、ね」
付き合っている頃から周り、主に天祥院の方からの反対もあり、半ば無理矢理自分の意志を通して彼女と結婚をした。そしたら、今度は跡継ぎはまだかと暗に期待されるようになった。
いつかできたらいいね、君に似ていたらいいな、なんて言っていて、それでも出来る気配が無くて、彼女に問題があるんじゃないかと疑われだした。
彼女にだけ負担をかけたくなくて、「お互い身の潔白を証明しよう」なんて格好をつけて検査をした結果がこれだ。
タヌキちゃんを見る勇気は無かった。このまま消えてしまいたい。
僕に寄り添っていた暖かみが消え、変わりに大きな瞳が僕の顔を覗き込んでくる。その目はいつもと変わらない、僕のことを包んでくれる暖かさを持っていた。
「大丈夫ですよ」
外はもう暗くなりかけていたのに、その声は朝日のように眩しく穏やかだった。
泣いて責められてもしょうがないと思っていた僕は柔らかな物で頭を殴られたようだった。
今、彼女は大丈夫だと言った?
繋がれたままの手が少しだけ強くなり、今の言葉を反芻していた僕に再びタヌキちゃんは言ってくれる。
「大丈夫……大丈夫ですよ、英智さん」
「タヌキちゃん……」
泣きたくなるような、叫びたくなるような衝動をその言葉が抑えてくれる。彼女の手を握り返すとその体温から自分がここにいるんだと実感が出来た。
僕はここに居ていいんだ。
それから数ヶ月、幾つかの病院をあたってみたり、より詳しい検査をしてみたりしたけれど結果はどれも同じだった。
医師から告げられた言葉は、非閉塞性無精子症。そもそも僕には生殖能力が無かったようだ。
「ごめん……タヌキちゃん……ごめんね……」
結果を聞く度、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返す僕をタヌキちゃんは「大丈夫ですよ」と抱き締めてくれた。
このことは僕ら以外はまだ知らない。言えない。知られたくない。
天祥院としての責任か、男としてのプライドか、両親にすら伝えられなかった。僕のせいで子どもが出来ないなんて。
僕のエゴにタヌキちゃんを巻き込んで、風当たりだって強いだろうにそんな素振りは見せなくて、ただただ「大丈夫」と僕を包んでくれるタヌキちゃん。
君を離したくない。
「……捨てないで」
乾いた唇から奥底に沈んでいた言葉が漏れる。
「別れたくないんだ。お願いだから僕から離れていかないで。子どもが望めないのにっ、君まで失ったらっ……僕は……」
堰を切ったように、溢れ出した言葉が止まらない。捨てないでと、お願いだとそれ以外の言葉を知らない我が儘な子どものように繰り返す。
でも本当は分かっている。彼女は僕と別れた方が良い。
僕がこの先、誰かにこの事を公表するつもりはない。そうなれば、悪く言われるのはタヌキちゃんだろうということは容易に想像がつく。それなのに僕は自分の保身のことしか考えていない。
こんなに君のことが好きで、大事なのに。こんな身勝手で未来も望めない男と一緒にいても仕方がないだけだ。
「大丈夫ですよ、英智さん」
僕を抱いていた腕に僅かに力がこもる。
「私は英智さんのことが大好きだから、頼まれても別れてあげません。絶対に、ずぅっと傍にいます」
春の日差しのように暖かな声が僕を包み込む。タヌキちゃんが大丈夫だと言ってくれるだけで本当に大丈夫な気分になってくるから不思議だ。
「ありがとう、タヌキちゃん……」
君を母親にしてあげたかった。
叶わない夢を見る。僕とタヌキちゃん、その間には小さな子ども。男の子だろうか、女の子だろうか。僕らを見上げて笑ってくれる。その笑顔が、出会った頃のタヌキちゃんに似ていてとても愛らしい。
その子がタヌキちゃんをママと呼ぶ。タヌキちゃんは優しく返事をして、僕がそれを眺めている……どこにでもある、でも手に入れることのできない夢だった。
「……君を、母親にしてあげたかった」
口をついて出た言葉は思いの外大きくて、あっと思い顔を上げれば目を丸くしたタヌキちゃんと視線がぶつかった。
ごめん、と咄嗟に謝ろうと再び口を開くより早く、首を傾げたタヌキちゃんが言葉を紡ぐ。
「なりましょうか?」
今度は僕が目を丸くする番だった。
「え、でも、僕は……」
それ以上言葉を続けられなかった僕をあやすようにタヌキちゃんが僕の頭を撫でる。僕では君を母親にしてあげることが出来ないと、告げなくても分かっていると言われているようだった。
「大丈夫ですよ、英智さん」
「でも、僕は……」
「なろうと思えばなれますよ」
「でも、どうやって」
「ふふ、無いならある所から貰えば良いんです」
タヌキちゃんからの提案は思いもよらないものだった。“第三者の精子を使う”。
それにより妊娠したタヌキちゃんは自然と自分の中で子どもを育てることになる。秘密裏に養子を貰うよりも遥かに、周囲に僕らの子であると印象づけられる。
どうして気づかなかったんだろう。
その提案を聞いた瞬間、それしかない、これでタヌキちゃんを母親にしてあげることができる、と思った。
「でも」
それにはまだ問題がある。
第一に、タヌキちゃんが産むのなら僕の子、つまり天祥院の後を継げる器でないといけない。必然的にその第三者は能力の高い男でないといけない。
そして易々と秘密を話されては困る。子どもが生まれた後に、その子の父親は僕です、なんて名乗らない男が良い。
僕程の能力を備え、生まれてくる子どもに興味も執着も持たない男。そんな都合の良い人間なんているだろうか。
こんな提案をしてくるぐらいだ。タヌキちゃんの方には当てがあるのだろうか。
逡巡していた目をタヌキちゃんに向けると、何か良い案があるようで穏やかに笑った。
「例えばーーーはどうですか?」
その名前を聞いて一筋の光が差したような気がした。彼ならそう易々と秘密を他人に漏らしたりはしないだろうし、天祥院の名を継げる器を持った子が生まれそうだ。
「あぁ……それは良いね」
思い描いた夢が現実になりそうだと、僕はタヌキちゃんにつられて笑う。
「楽しみですね」
そう言って僕を再び包んでくれたタヌキちゃんはまるで聖母のようだった。
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