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短編
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「ふぅ……ここまで来たらもう大丈夫かな」
走って乱れた息を整えながら後ろの少女へ振り返る。安心させるように微笑んだのに、彼女の顔は青白かった。
「タヌキちゃん?」
名を呼べば、タヌキは震える右手を差し出してくる。
「ごめんなさい英智さん……私、噛まれたみたい……」
その指先には、誰のものか分からない歯形がくっきりと残っていた。
「……ごめんなさい」
今にも泣きだしそうな声でタヌキが謝る。ゾンビ化した者を直す手立ては今の所、存在しない。噛まれた時点で運命は決まる。
英智はタヌキの手を取り、それが紛れもなくゾンビの歯形だということを確認した。自分の中に憤りが生まれるのを感じる。ゾンビに噛まれたことよりも、得体の知れない誰かに彼女を触れさせたことが許せなかった。
「守ってあげられなくて、ごめんね」
「そんなっ!私が、不注意だったから……」
久しぶりに英智と会えたことが嬉しく、完全に無防備になっていた。安全地帯だと言われている場所へのお出かけで更に気も緩んでいたんだろう。顔色悪くベンチに座っている人を心配し、声をかけ、手を差し伸ばしたそれを噛まれた。一帯は瞬く間にパニックとなり、タヌキが噛まれた事を知る人が英智以外知らないのは不幸中の幸いか。
「私、死んじゃう……んですね」
ゾンビに噛まれた者は緩やかに死ぬ。そして次に目覚めた時には自我を失い人を襲う存在となる。人と一緒にいることはできない。
「英智さん、今まで……ありがとう、ございました。私英智さんと会えて……一緒にいられて、幸せでした……。英智さんのこと、忘れちゃっても、絶対、忘れないと思う」
自我を失っても、脳が腐敗しても、自分のどこかで英智とのことを覚えておきたいと思った。これから死ぬことが確定していても、英智との思い出があれば怖くない。誰かを襲うようなゾンビになる前に、一人どこかでゾンビになることを受け入れようとタヌキは英智に背を向け歩き出した。
「待ってタヌキちゃん。僕を置いて行くのかい?」
「だって!私、噛まれて……ゾンビになったら、英智さんとは一緒にいられない!」
捕まれた腕を思いっきり振り払った。触れられた瞬間、そこから英智もゾンビになってしまうんじゃないかと思った。パシッと大きな音がしたのに、英智は気にした様子がなく飄々と言う。
「うん、人は誰しも、いつかは死ぬね」
「それは……そう、だけど、そうじゃない、ですよ。私、ゾンビになるんですよ」
「うん」
「死んでるのに動き続けるし」
「うん」
「人を襲うし」
「うん」
「自分が腐っても……分かんないんですよ」
「うん、それでも僕は、君のことを好きだと、可愛いと思い続けるよ」
「っ……!ば、ばかじゃないですかぁ……」
英智の言葉に、我慢していた涙が溢れ出した。一瞬、ゾンビになってしまっても自我を保っている自分が英智の隣にいることを想像してしまった。そんな事例は聞いたこともなく、ただの都合の良い願望なのだとすぐに思い直す。奇跡は起きない。
「それでもやっぱり、一緒にはいられないです」
「うん、でも今すぐ行かなくても良いだろう?君はまだ自我を保っている」
「それは、そう、です、けど」
「人がいきなりゾンビになったという話は聞いたことがないしね。噛まれた人は必ず死んでからゾンビになっている。死んだからといってすぐにゾンビとして目覚めるわけでもない。つまり君にはまだ猶予がある、ということだ」
タヌキは英智が言わんとしていることがよく分からず首を傾げる。
「ふふ、僕が何を言いたいか分からないといった顔をしているね。そんな君に問題を出そう。さて、僕は一体誰でしょうか」
「英智さん?……えっ天祥院英智さん、じゃないんですか?」
「そう、僕は天祥院英智。かの天祥院家を統べる者だよ」
やはり英智が言いたいことは分からない。困惑するタヌキを見て英智はにっこり微笑んだ。
「実は天祥院家では独自にゾンビの研究をしていてね。もちろん、ゾンビを治すためのワクチンなんかもね。さすがに完全に死んでしまわれると困るようなんだけど」
「え……英智さん、まさか、それって……」
「うん、僕は君を救う方法を知っているんだよ、タヌキちゃん」
「うそ……英智さんっ!」
タヌキは嬉しさのあまり英智に飛びついた。暗闇に一筋の光が差した気がした。触れることすらもう叶わないと思った。ここで一生のさよならだと思った。全てを忘れてしまうんだと思った。でもそうじゃないんだと、今度は喜びで目頭が熱くなる。
「さぁそうと決まればこんな所に長居は無用だ。行こうか」
「はい。あ、でも……」
「うん?まだ何か心配事?」
「あの、その、ワクチン接種までに私が死んじゃったら、結局ゾンビになっちゃうのかなって……」
「あぁ……ふふ、それは心配ないんじゃないかな。噛まれて死ぬまでの時間は人によるけれど、短くて一週間、長いと数ヶ月ほどかかるようだから」
「一週間……それだけあれば、私、治りますか?」
「そうだね、一週間もあれば治りはしなくてもゾンビ化を遅らせることはできるだろうし、ゆくゆくは治るだろう。その間は少し不便をかけるかもしれないけど、いいかな?」
「もちろん!死ぬことに比べたら、不便なんて……ありがとうございます、英智さん」
「いいんだ、君には幸せに生きていてほしいからね。さぁ行こうかタヌキちゃん」
「はいっ」
英智に差し出された手に迷うことなく自分の手を重ねる。さっきまでの絶望感が嘘のようにタヌキの胸は幸福感で満たされていた。まだずっと英智と生きていける。嬉しくて幸せで、その温もりを感じるようにタヌキは握る手に力を込めた。
それからは英智所有の人里離れた別荘で過ごした。日用品や注射器等は天祥院家の使用人が定期的に届けてくれる。
「まだ世間には発表もされていないものだし、君がゾンビに噛まれたと知られるわけにもいかないしね」
誰にも気づかれないようにゾンビ化を治すのだと英智に説明をされた。朝と晩にタヌキは英智から注射を受ける。薄く黄色に色づいた液体を体内に取り込むだけでゾンビにならなくてよいのだと思うと痛みを感じることもなかった。
「ありがとうございます、英智さん。でも、ごめんなさい、私のせいで英智さんまで不便ですよね……」
「タヌキちゃんは何も気にする必要はないよ。それにこうやって君とずっと一緒にいられるなんて、僕には願ったり叶ったりさ」
英智に愛おしそうに頬を撫でられ、タヌキも応えるように擦り寄る。念のため、触れる以上の接触は止めておこうと深く愛し合うことはなかったが、普段は忙しく会う時間もそう取れない英智と同じベッドで眠り、共に目覚めるとまるで同棲しているようで、タヌキも嬉しく思っていた。
(噛まれて良かったかも、なんて不謹慎かな……)
ただ困ったこともある。日に日に眠る時間が増え、食欲が無くなっていくのだ。タヌキは自分の活動時間が短くなるのを感じる。もしかしてワクチンが効いていないのでは、と心配にもなる。その度英智が「君は天祥院の力を、僕を信用していないのかい?」と笑顔を向けてくれるので安心することができた。
(生死がかかっているのに英智さんが嘘をつくわけないもの)
タヌキは心の底から英智を信じていた。
「抗体が作られている過程の一つにすぎないよ。君は気にせず食べられるものを食べ、心行くまで寝なさい。いいね?」
「はぁい……おやすみなさい、英智さん」
「うん、おやすみタヌキちゃん。良い夢を」
そうして一週間、十日、二週間……と日々は過ぎていった。タヌキはまだゾンビ化していない。
「ワクチン……効いてるんですね……でも、なんだか、今日は……起きれそうになくて」
今朝の分の注射を打ってもタヌキはベッドに力なく横たわったままだった。
「大丈夫、もうすぐ良くなる前兆さ」
「そっかぁ……でも、治ったら……この生活も、終わっちゃうんですよね……」
「うん、日常に戻れるよ」
「ちょっと、残念だなぁ……英智さんを独り占めして、ずっと一緒で……嬉しかったから」
「そう、だね……うん、僕も楽しかったよ」
英智はベッドの傍らの椅子に座り、微睡むタヌキの頭を撫でる。物語を紡ぐように穏やかな時間が流れていた。
「ねぇ、タヌキちゃん」
「……はい?」
「君は、幸せだった?」
一瞬、タヌキの目が大きく見開かれたがすぐにそれは弧を描いた。
「もちろん……だって、こんなに、英智さんと一緒なんですよ?」
それに、と青白い手が英智に差し出される。弱々しく伸びてきた手を取れば、体温が低いと自負している自分のものよりも冷たく感じた。
「もう、触れられないと、思いました……」
微笑むタヌキから偽りは感じられず、英智は胸の奥が締め付けられるようだった。目頭が熱くなり、気を抜けば涙が流れそうだった。
「……うん、そうだね。僕も、同じ気持ちだよ」
このまま時間が止まれば良いのに、と願わずにはいられない。そんな事あるわけがないとでもいうように、見つめ合う二人の間にカチコチと時計の音が響いていた。
「ふふ、少し話しすぎてしまったかな。さぁもう一眠りすると良い」
「なんだか、勿体ないです。もっと……話してたい」
「可愛いことを言ってくれるね。早く寝なさい、と言いたいところだけど、今日は付き合ってあげよう。僕と何を話したいんだい?」
「え……ふふ、改まられると……困っちゃうなぁ。そうですね……治ったら、行きたい所の話、とか」
ここに来てからずっとお家デートだから、と嬉しそうにタヌキは笑う。それはそれで楽しかったと思い出話に花が咲く。二人しかいないため、必要なことは全て自分たちで行った。
「英智さんが切ったきゅうり、全部、繋がってましたね」
「そんなこともあったね。今ではリンゴの皮も剥けると言ったらみんな驚くだろうね」
「テレビで、披露しちゃいますか?」
「あぁ、それも良いね」
「お米、洗剤で洗おうと、したことも、ありますね……」
「あれは最初の一度だけだよ」
「ふふ……今の英智さん、なら……グランピングでも、頼りになりそう」
「いいね。今度はそういう所にも出かけようか」
楽しみだと言うタヌキの目がうとうとと閉じられていく。本格的に起きていられなくなってきたんだろう。
「そろそろ眠るかい?」
「……すみません、もっと……話してたいのに」
「構わないよ。起きても僕はここにいるからね」
「ふふ、嬉しいなぁ……ねぇ英智さん……大好き」
「僕もだよ、タヌキちゃん……おやすみ、良い夢を」
それが二人の最期の会話だった。
「やぁタヌキちゃん、気分はどうかな。ふふ今日は一段と顔色が悪いね。なんてね」
話しかけても反応が無いことを理解しながら英智は話しかける。最期の会話をした後、タヌキは目を覚ますことなく眠り続け、そのまま呼吸を止めた。穏やかにまるで眠っているだけのようにも見えた顔も時間が経つ内に土色を帯びていく。
「君が次に目覚めるのはいつだろうね」
それでも英智は話かけ続ける。
「今日は君に謝ろうと思っているんだ」
いつものようにベッドの傍らの椅子へと腰掛け物語を聞かせるように言葉を繋ぐ。
「実はね……」
タヌキに投与していたのはただの栄養剤だ。ゾンビ化を抑えたり治したりするような成分は入っていない。天祥院所有の医療機関でそういった研究をしているのは本当だが、これといった成果は上がっていない。『どうしてそんな嘘をついたんですか?』と泣きそうなタヌキの声が聞こえてきそうだ。
「君には最期まで幸せでいてほしかったんだ」
一人でゾンビになんてさせない。寂しい時を一瞬でも過ごさせない。そう思ってここにタヌキを連れてきた。世間から隔離され二人っきりの時間を過ごした。外に出られない以外は何不自由無く、ただただ二人の時間を楽しんだ。
「僕は、君と過ごせて幸せだったよ」
『私もです』とまたタヌキの声が聞こえてくるようだった。もちろんそれは気のせいで、土人形のように横たわるタヌキはピクリとも動かない。
「でもそろそろ寂しくなって来たみたいなんだ。だから、ねぇタヌキちゃん。そろそろ起きてくれないかな」
いつ“そう”なっても良いように家や仕事のことは準備をしてきた。後はタヌキが再び目覚めるだけだ。
「早く会いたいな……」
目覚めたタヌキにかける言葉は決まっている。
「やぁおはようタヌキちゃん。今日も可愛いね。そんな君が大好きだよ」
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