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普通になれない僕たちは

 未納の広告はあとこの一本だけ。上司からも手を回して断ってもらおうと必死だったそれを、条件付きで引き受けてもらえたと伝えれば、藤田が安心した様子が手に取るようにわかった。

 そして、彼が必要とするサポートは全てすることとその間の仕事は気にしなくていいというお許しも出た。

「どんな作品になっても、先方に送っていただけますか?」
「うん。彼に自社モデルとモノを撮ってもらえるならなんでもいいと言ってたからね。気にせず、二人で好きなものを作り上げればいいよ。あ、そうそう。草間の写真もいくつか混じってたけどあれはあれですごくいいな。顔が写ってないから採用されたら譲ってもいいでしょ?」
「え?!あいつの写真全部俺を通しているとばかり……」
「bccに全部わたしが入ってたよ、多分草間に消されるのわかってたんじゃない?」
「あ、あいつ……」
「どれもすごいよかったけど、撮られてること気づいてないよね?」
「はい。気付いた時にはだいたいシャッター下りてるんですよね、あいつのポートレートは」
「写真の事、あんまりわからないけどすごいいいよ。一枚ぐらい先方に送ってみたら?」
「嫌ですよ、俺がモデルになってから売り上げ落ちたって責められたら立ち直れません」 

 肩を軽く竦めて笑う。

「その分、最後の一本は全力で取り組ませていただくので」

 うん、と言って笑いながらも藤田は不思議に思っていた。誰よりもずば抜けたセンスを持つあの川上秋一がなぜ草間春樹という、何の変哲もない男を取り上げたのか。大学時代は親友だったと聞いたが、それだけの理由で取り上げられたのであれば、上司としても少々気になるものだ。快く可と言って送り出したものの、後ほどこっそり電話でそれとなく確認しようと心に決めた。
 
 一方、春樹の方でも引き受けたはいいもののどのようにして乗り越えようかという途方もなく大きな悩みに頭を抱えていた。描きたいもののラフを描くイメージでいいから、というざっくりとした依頼を真に受けて引き受けたことを早速後悔していた。
 うちのスタジオを作業場にしていいよという申し出をありがたく受け、スケッチブックに資料、数日分の着替えを持ち込んで、まるで学生時代のようだ。久しぶりに握った鉛筆は、思ったよりだいぶ細くて軽い。 ソファにごろりと転がり込んで眠っているのか起きているのか分からない秋一のスケッチを始める。大きな身体かと思えば、手足が長い。すらりと長い脚にぶかぶかでところどころペンキが飛び散った作業用のジーンズを辛うじて支えているのは安そうな布製のベルト。素足のつま先は寒くはないのだろうか。重ね合わせるようにしているのを見る限り、本当はすごく冷たいのかもしれない。少しだけずれ上がって見える背中を経て、上半身に戻る。昨日春樹がなくしたと思っていたTシャツを着こんで、手がぶらぶらと揺れている。大した手入れはしていないくせにゆったりとウェーブを打って広がる髪はつややかに光りを放ち、もう片方の手は、顔に覆いかぶせた本を辛うじて抑え込んでいる。
 今はすっかり治っているようだが、噛み痕のある爪の先にキスしたっけ。もう噛むなと諫めると、不安で堪らないと笑っていた。『世界で一人ぼっちになってしまう気がする』と。

 誰からも愛されていたように見えていたのに、自分以外には奥底を見せない。そのくせ寂しがる。その癖はきっと今も変わっていなくて。
 ずるりと本がまるで生き物のように秋一の手から滑り落ちる。それに驚いた秋一が目を瞬くと、ゆっくりと目があう。寝起きの、あまい吸い込まれるような雰囲気に、思わずゆっくりとつばを飲み込む。

「おはよ」

 春樹を見つけて、まるでほっとしたかのような表情をされると心臓の音がうるさい。

「起きて誰かがいると、やっぱり安心する。何描いていたの」
「勘を取り戻すために、お前」
「見せて」
「嫌だ」

 あっそ、という興味がないような声に些か拍子抜けして、スケッチに戻る。カメラを弄る姿、トーストを食べる姿(耳は昔と同じように残している)、キラキラと光る甘い目でじっと春樹を見据える姿に、ファインダー越しにこちらを覗き込む姿。人間臭くて、でもどこか浮世離れしていて、人馴れしているようで人を遠ざける。どんどんスケッチブックが秋一で埋まっていく。勘を取り戻すため、というのは半ば本気で半ば嘘。一時の夢でも、まるで昔のように過ごしたかった。

「今日は鍋にしよう、昨日の白菜がやたらと残っている」
「なんでもいい」

 夢中で鉛筆を滑らせていた。秋一が寝食を忘れる時期に来れば春樹が世話をし、その逆もしかりであった。楽しい、ひたすら目に映るものを手元に吐き出し、見えないものまで描き出していく。何も考えることなく、手元にある画材を繰っては真っ白な画面にぶつけていく。社会人になって何かにこんなに熱中したことはあったであろうか。周りには自分との比較対象は一人もおらず、周りの評価もない。

「俺、先に寝るね」
「ん」 

 ふわ、と欠伸を大きく一つして秋一が寝室に消えて行ってから二時間後ぐらいに、急に息切れがしたかのように描く気力がぱたりと尽きた。白いスタジオ一杯に広がる自分の描いたもの。と、同時に、目の前のスクリーンには自分が一心不乱に絵を描いている写真が永遠と映し出されている。気付きもしなかったが、相当な枚数を撮られている。顔が見えるものも見えないいものも、どれもひどく自分が嬉しそうであることは分かる。

「やっぱポートレート、上手いんだよなあ」

 被写体がたとえ自分でも、彼のうまさはよくわかる。少しデジタルで弄っている色味だけでもその底知れぬセンスが羨ましい。それに引き換え、自分はと思いながら床に散らばった画用紙に目線を落とす。平凡だ、余りにも。決して下手なわけではないが、取り立てて何処かをほめるような尖った絵でもない。だが、もう限界だ。明日になればもう少しエッジの利いた絵が描けるようになるかもしれない。そう考えながらそのまま秋一のお気に入りのソファに縺れ込む。きっと、明日は。
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