普通になれない僕たちは
そして、一件目のロケを終えた翌日から、休む暇なく怒涛の撮影と段取りのミーティングが始まった。断られた仕事はフォローしなくてはならないが、中々引き下がってくれる会社はない。どんなものでもいいから任せるとすら言ってくる場所もあり、それはそれでありがたく被写体をモデルから商品・風景に変えて対応していった。
春樹が苦戦する一方では、体内時計が滅茶苦茶になるほど秋一が仕事に熱中していた。熱中しすぎて食事を忘れることのある秋一に食事の時間を思い出させ、時折は無理矢理カメラから引き剥がして食事を摂らせる。夜中急にいい構図を思いついたと飛び上がるのに付き合って、空が明るくなる頃に寝る。
「春、ありがとう」
「いいよ、俺が仕事を持ってきたんだし。それに付き合うくらい当然だろ」
「なんか昔みたいじゃない?」
柔らかく笑う。コーヒーの温かい香り、少しずつ寒くなり始めた空気がほんのりと暖まる。
「こっち向いて」
「やだ」
「なんで?」
「だってお前、写真撮るから」
「いいじゃん別に」
「よかない。お前その写真会社に送るのに混ぜてるだろ」
「え、知ってるの」
ふにゃりと笑う顔が余りにも昔と変わらなくて、ぎゅうっと胸が絞られるような感覚に押しつぶされそうになる。
「春の写真、使ってくれるって言ってた?」
「いや、送ってないから。俺が全部止めてるし」
なんで?と聞いてくるのに僅かばかり呆れたふりをしながら肩を竦める。ジュエリーメーカーに送るようにと言われた写真には、物品を手に取って真剣に眺めている春樹が写っている。そんなもの送られたところで、そこだけはどうしても説得できずに女性モデルの起用を再三依頼されていた。
「なんでって、誰も俺の写真なんて使わないだろ。普通に考えてくれ、頼むから……」
「普通って何、無理だよ。いいじゃん、女性向けジュエリーのイメージに男性起用したって」
「頼むよ、そこは本当に大手なんだ。獲得出来たら、俺なんだってするから」
「それはさ、すごい我儘だと思わないわけ?俺は最初に言ったって何回も言ったよね」
極めて冷静なテンションで返されると思わず口を噤んでしまう。その通りだ、多少なれば我儘は昔のよしみで聞いてもらえると思ってしまった自分がいる。
「あんな別れ方したのに、ひどいと思わない?」
「……」
その通りだ。言われている通りだ。あまりにも甘えすぎていて、愚かで、秋一の気持ちを微塵も考えていない。自分が『普通』を追い求めたせいで、ずたずたにしてしまった大切な相手だったのに。
「春は普通になりたいっていう理由だけで俺を捨てたよね。俺の事、大好きでいてくれたのに」
ソファに座ったままの春樹の膝を跨いで座りながら、ゆっくりと話し続ける。
「俺はさ、何したんだろうってずっとずっと悩んでた。けど、ただ単に俺が男だからっていう理由だけなんだって途中で分かって」
キスをされそうになって思わず交わすと、顎を掴まれて唇が重なる。懐かしい、厚ぼったい柔らかい唇。甘く下唇を噛んで離れていく。
「でもさ、全然整理つけられないんだ。世間に出て、普通という重圧のこともきちんと理解できた。春樹が周りからの圧力や自分自身との折り合いで苦しんでたこともようやくわかった。でも」
指を絡めて、もう一度キスをする。もう春樹も逃げることは無い。
「ただ、好きなんだ。それだけで一緒に居られたらよかったのに」
秋一を忘れたことなど一度もなかった。自分とは違う感覚を持っていて、同じものを見ていても違う世界を見ている。奔放に過ごしても、最後は必ず春樹のベッドに潜り込んで悪戯そうに笑う、そんな男を心の底から愛していた。
「ごめ……」
「謝らないで。お互い若かったし、あれがあったから俺も海外に飛び出せたんだ」
ずっとちゃんと好きなのだと今伝えても、きっと仕事のために言っているとしか受け取ってもらえそうもなくて、怖気づいて口を噤んでしまう。もしまた、言って自分が怖気づいて相手をさらに傷つけることになったら?どうしよう、と逡巡する間に秋一は春樹の膝の上から降りて、床のラグに座り直してプレゼンの資料を見返す。
「贅沢はしないといったけど、新しいレンズも欲しいしスタジオの改築もしたいから依頼を受けてもいい。でも、一つだけ条件がある。これを破るんだったら絶対撮らない」
先ほどまでのやり取りが一切なかったかのような顔をして、最後の条件だよ、そう言って笑っているのに目の奥はひどく真っ直ぐに春樹を見据えている。だが、春樹の返事を待つでもなく滔々と条件を告げ始める。
「春樹が構想を練って。この会社のイメージに合うように、エレガンスで独立していて、でも少しだけ普通とは違う自分を引き立てる。俺はそれに少しだけ手を加えるかもしれないし、しないかもしれない。それが一つ目」
二本の指を突き立てて、二つ目の条件を言う前に警告するかのように振ってみせる。
「描いて、春樹。なんだっていい。春樹の好きなものを描いてほしい。そして俺に頂戴。なんだっていい、春樹の描きたいものを見せてほしい」
そうしたら俺は、ふと言いかけて秋一が口を噤んだ。
「そうしたら俺は、きちんと仕事をこなすよ」
肩につくくらいの癖っ毛を一つにゆるく括ると、ファインダーを覗いて八重歯を覗かせて笑う。
「最高の思い出にさせてほしいんだ」
「……期待に沿えるかどうか分からないけど、全力を尽くす。今回こそ約束だ」
返事をするかのように、秋一のシャッターがパシャリと落ちる音がする。春樹の不安そうに揺れる瞳がファインダーに焼き付く。
「ありがとう」
なにも読み取れない完璧な笑顔が少しだけ、怖い。
春樹が苦戦する一方では、体内時計が滅茶苦茶になるほど秋一が仕事に熱中していた。熱中しすぎて食事を忘れることのある秋一に食事の時間を思い出させ、時折は無理矢理カメラから引き剥がして食事を摂らせる。夜中急にいい構図を思いついたと飛び上がるのに付き合って、空が明るくなる頃に寝る。
「春、ありがとう」
「いいよ、俺が仕事を持ってきたんだし。それに付き合うくらい当然だろ」
「なんか昔みたいじゃない?」
柔らかく笑う。コーヒーの温かい香り、少しずつ寒くなり始めた空気がほんのりと暖まる。
「こっち向いて」
「やだ」
「なんで?」
「だってお前、写真撮るから」
「いいじゃん別に」
「よかない。お前その写真会社に送るのに混ぜてるだろ」
「え、知ってるの」
ふにゃりと笑う顔が余りにも昔と変わらなくて、ぎゅうっと胸が絞られるような感覚に押しつぶされそうになる。
「春の写真、使ってくれるって言ってた?」
「いや、送ってないから。俺が全部止めてるし」
なんで?と聞いてくるのに僅かばかり呆れたふりをしながら肩を竦める。ジュエリーメーカーに送るようにと言われた写真には、物品を手に取って真剣に眺めている春樹が写っている。そんなもの送られたところで、そこだけはどうしても説得できずに女性モデルの起用を再三依頼されていた。
「なんでって、誰も俺の写真なんて使わないだろ。普通に考えてくれ、頼むから……」
「普通って何、無理だよ。いいじゃん、女性向けジュエリーのイメージに男性起用したって」
「頼むよ、そこは本当に大手なんだ。獲得出来たら、俺なんだってするから」
「それはさ、すごい我儘だと思わないわけ?俺は最初に言ったって何回も言ったよね」
極めて冷静なテンションで返されると思わず口を噤んでしまう。その通りだ、多少なれば我儘は昔のよしみで聞いてもらえると思ってしまった自分がいる。
「あんな別れ方したのに、ひどいと思わない?」
「……」
その通りだ。言われている通りだ。あまりにも甘えすぎていて、愚かで、秋一の気持ちを微塵も考えていない。自分が『普通』を追い求めたせいで、ずたずたにしてしまった大切な相手だったのに。
「春は普通になりたいっていう理由だけで俺を捨てたよね。俺の事、大好きでいてくれたのに」
ソファに座ったままの春樹の膝を跨いで座りながら、ゆっくりと話し続ける。
「俺はさ、何したんだろうってずっとずっと悩んでた。けど、ただ単に俺が男だからっていう理由だけなんだって途中で分かって」
キスをされそうになって思わず交わすと、顎を掴まれて唇が重なる。懐かしい、厚ぼったい柔らかい唇。甘く下唇を噛んで離れていく。
「でもさ、全然整理つけられないんだ。世間に出て、普通という重圧のこともきちんと理解できた。春樹が周りからの圧力や自分自身との折り合いで苦しんでたこともようやくわかった。でも」
指を絡めて、もう一度キスをする。もう春樹も逃げることは無い。
「ただ、好きなんだ。それだけで一緒に居られたらよかったのに」
秋一を忘れたことなど一度もなかった。自分とは違う感覚を持っていて、同じものを見ていても違う世界を見ている。奔放に過ごしても、最後は必ず春樹のベッドに潜り込んで悪戯そうに笑う、そんな男を心の底から愛していた。
「ごめ……」
「謝らないで。お互い若かったし、あれがあったから俺も海外に飛び出せたんだ」
ずっとちゃんと好きなのだと今伝えても、きっと仕事のために言っているとしか受け取ってもらえそうもなくて、怖気づいて口を噤んでしまう。もしまた、言って自分が怖気づいて相手をさらに傷つけることになったら?どうしよう、と逡巡する間に秋一は春樹の膝の上から降りて、床のラグに座り直してプレゼンの資料を見返す。
「贅沢はしないといったけど、新しいレンズも欲しいしスタジオの改築もしたいから依頼を受けてもいい。でも、一つだけ条件がある。これを破るんだったら絶対撮らない」
先ほどまでのやり取りが一切なかったかのような顔をして、最後の条件だよ、そう言って笑っているのに目の奥はひどく真っ直ぐに春樹を見据えている。だが、春樹の返事を待つでもなく滔々と条件を告げ始める。
「春樹が構想を練って。この会社のイメージに合うように、エレガンスで独立していて、でも少しだけ普通とは違う自分を引き立てる。俺はそれに少しだけ手を加えるかもしれないし、しないかもしれない。それが一つ目」
二本の指を突き立てて、二つ目の条件を言う前に警告するかのように振ってみせる。
「描いて、春樹。なんだっていい。春樹の好きなものを描いてほしい。そして俺に頂戴。なんだっていい、春樹の描きたいものを見せてほしい」
そうしたら俺は、ふと言いかけて秋一が口を噤んだ。
「そうしたら俺は、きちんと仕事をこなすよ」
肩につくくらいの癖っ毛を一つにゆるく括ると、ファインダーを覗いて八重歯を覗かせて笑う。
「最高の思い出にさせてほしいんだ」
「……期待に沿えるかどうか分からないけど、全力を尽くす。今回こそ約束だ」
返事をするかのように、秋一のシャッターがパシャリと落ちる音がする。春樹の不安そうに揺れる瞳がファインダーに焼き付く。
「ありがとう」
なにも読み取れない完璧な笑顔が少しだけ、怖い。