普通になれない僕たちは
「で、なんで急に俺の事思い出したわけ?春樹」
「え、っと……」
別に責めるような口調ではないのに、ひどく胸を抉る一言を放たれ、言葉に詰まる。いつから気付いていたんだ、久しぶりだな、などといった月並みの言葉は余りに場違いな気がして舌の裏に張り付いて出て行かない。
「春だ、って思って、でも春は俺の事嫌いになったと思っていたからさあ」
また嫌われたら悲しいじゃん?と言いながら勝手にどら焼きの箱を開けて食べている。
「こしあんのどら焼きだ、嬉しい。覚えていてくれたんだな」
「久しぶりにどら焼きなんか探したよ、こしあんのどら焼きってやっぱり珍しいんだな、全然売ってなかった」
「兎屋まで行ってくれたわけ?」
「会社の子に買いに行かせた」
「春の部下、ありがとう。春も部下がいるんだ」
「一応ね。だってもう、働いて十年近く経つから」
そっか、と笑った笑顔に時が止まってしまったような気すらした。だいぶ年老いて、髪も伸びて、髭すら生えているのにあの頃の笑顔のままだ。この世のいいところをたくさん知っているかのような、本当に無邪気な笑顔だ。
「十年か。久しぶりだね、春」
「うん」
まるで時が巻き戻ってしまったかのようにぐるぐると感情が渦巻く。濁流のように押し流されて、思わず胸を抑える。
「春は、今何してんの?」
「俺?俺はまだ広告業界で働いてる。まあ、今日来た理由が分かっちゃうか……」
「ああ、さっき仕事の話だって言ってたもんね」
「秋の写真、見たよ。この前受賞してたやつ。あれ本当にすごかった。お前の世界と、自然がうまく組み合わさっていて一瞬が切り取られている、本当に奇跡のようなショットだった。秋、本当に写真家になったんだな」
「たまに飯のために賞に出してる、そんな感じの写真に傾倒しちゃっている自覚はあるけどね」
すうっと表情が消えるのが分かる。どうでもいい相手にするそれをいざ向けられると少しきつい。
「春が来てくれたって思った瞬間、どうしようもないくらいに嬉しくなった自分と、どうしようもないくらいにつらくなった俺がいる」
二つ目のどら焼きを頬張りながら滔々と続ける。
「兎屋のどら焼きって聞いて、どら焼きに惹かれたのがこのカステラの部分だとしたら、春が俺の好みを覚えててくれたっていう嬉しさが餡子の部分くらい」
「何それ」
「で、いつも仕事の人には開けないドアを開けてしまったわけ」
「理解してくれるのが早くて本当にうれしいんだけど、秋、うちの打ち出す広告写真撮ってくれないか」
意外と乗り気ではないか、と秋一をみながら春樹はほくそ笑んでいた。この分であれば、割とすんなり契約が結べそうだ。冬のボーナスが大きく上がる可能性も視野に入れられるし、この上ないラッキーなチャンスである。秋一の出方を伺っていたが、これは結構いけるとばかりに更に追い打ちをかける。秋一は過去のことを持ち出すつもりがないようで、少し安心しながら話を振ることにする。
「今回の受賞で、お前を使いたいっていう企業は本当に星の数ほど増える。どこと契約を結ぶか、俺に間に立たせてほしいんだ」
「やだ」
「よかった!で、契約なんだが……?いやだ?何が?」
答えは可以外に返ってくるとは思っていなかったため、話を進めようとしてびっくりして踏みとどまる。なぜだ?と聞いても、顔を背けたまま水を飲む。
「どっかの会社と契約なんか結ばない。春の会社とも結びたくない。俺は贅沢もしないし何も要らないから」
「頼むよ、春。お前と一緒に仕事できるの、本当に俺だって楽しみにしているのに」
うーん、と唸りながら秋一が腕を組む。どのように説明していいのか分からないという顔つきで、神妙に悩んでいる。
「俺は好きなものしか撮りたくないんだ。春も分かるだろ?誰かが必要としているからではなく、自分が撮ってて楽しいか楽しくないかだろ?」
正論の刃は何時だって鋭い。そんなことは、世間を知らないお前だから言えるんだというのをぐっとこらえてもう一つ続ける。
「枚数限定でもなんだっていい。少しでもお前の写真の凄さを多くの人に知ってほしいんだ」
「春、この契約取れたらいいことあるの?」
必死で食い下がる春樹に、身もふたもない問いかけをする。苦笑いして頷くと秋一は腕を組んですこし逡巡するとにこりと笑った。最も了承という返事が返ってこなさそうな条件を付けて。
「春ちゃんをアシにしたい、それから人は撮らない。ただ一人、草間春樹を除いては」
「は?いや……無理があるでしょ、そうじゃなくて、俺は」
「俺、好きなものしか撮りたくないって言ったよね。そうじゃなきゃこの仕事は引き受けない。春が来なかったらきっとドアも開けなかった」
俺なんて撮って何が楽しいんだ?と言い募っても、もっと撮るべきものがあるだろう、といっても特に反応を返さない。じっと春樹を見つめた後に立ち上がってすっかり食べ終わったごみを纏め始める。秋一が一度言い出したら曲げないことを誰より知っているつもりだ。まさか、自分がモデルになる写真など必要とする企業などないだろう。でも、上司には"契約を取り付けてこい"とのみ言われた。つまり、どうであれ……というずるい言い訳を必死で組み立てる。自分が被写体になる広告など、どこの企業も必要としないはずであるし、アシスタントであれば今の仕事とさして変わらないであろう。自分を納得させるためにもそう言い聞かせて立ち上がりかけた秋一のシャツの裾を掴む。
「ま、待って。本当に俺でいいなら……いいけど。ただし、ちゃんと広告用の素材撮ってくれるなら」
無精髭が生えているのに、笑った顔は本当に可愛い。乗ると分かっていたと言わんばかりの笑みを見て、悔しいと思いながらも春樹は少しだけ嬉しいと思っている自分に気付いた。でも、自分はもう。
「それでは、よろしくお願いします。川上先生」
にっこりと笑って、彼の気が変わらぬうちに契約書を取り出した。自分はもう、川上と同じ目線では物事を見られないのだ。作品は金につながるかどうかで判断するしかなく、作者の意図より大衆受けの方を気にする。人の感性を金に換えてしまう立場にあるのだ。
「え、っと……」
別に責めるような口調ではないのに、ひどく胸を抉る一言を放たれ、言葉に詰まる。いつから気付いていたんだ、久しぶりだな、などといった月並みの言葉は余りに場違いな気がして舌の裏に張り付いて出て行かない。
「春だ、って思って、でも春は俺の事嫌いになったと思っていたからさあ」
また嫌われたら悲しいじゃん?と言いながら勝手にどら焼きの箱を開けて食べている。
「こしあんのどら焼きだ、嬉しい。覚えていてくれたんだな」
「久しぶりにどら焼きなんか探したよ、こしあんのどら焼きってやっぱり珍しいんだな、全然売ってなかった」
「兎屋まで行ってくれたわけ?」
「会社の子に買いに行かせた」
「春の部下、ありがとう。春も部下がいるんだ」
「一応ね。だってもう、働いて十年近く経つから」
そっか、と笑った笑顔に時が止まってしまったような気すらした。だいぶ年老いて、髪も伸びて、髭すら生えているのにあの頃の笑顔のままだ。この世のいいところをたくさん知っているかのような、本当に無邪気な笑顔だ。
「十年か。久しぶりだね、春」
「うん」
まるで時が巻き戻ってしまったかのようにぐるぐると感情が渦巻く。濁流のように押し流されて、思わず胸を抑える。
「春は、今何してんの?」
「俺?俺はまだ広告業界で働いてる。まあ、今日来た理由が分かっちゃうか……」
「ああ、さっき仕事の話だって言ってたもんね」
「秋の写真、見たよ。この前受賞してたやつ。あれ本当にすごかった。お前の世界と、自然がうまく組み合わさっていて一瞬が切り取られている、本当に奇跡のようなショットだった。秋、本当に写真家になったんだな」
「たまに飯のために賞に出してる、そんな感じの写真に傾倒しちゃっている自覚はあるけどね」
すうっと表情が消えるのが分かる。どうでもいい相手にするそれをいざ向けられると少しきつい。
「春が来てくれたって思った瞬間、どうしようもないくらいに嬉しくなった自分と、どうしようもないくらいにつらくなった俺がいる」
二つ目のどら焼きを頬張りながら滔々と続ける。
「兎屋のどら焼きって聞いて、どら焼きに惹かれたのがこのカステラの部分だとしたら、春が俺の好みを覚えててくれたっていう嬉しさが餡子の部分くらい」
「何それ」
「で、いつも仕事の人には開けないドアを開けてしまったわけ」
「理解してくれるのが早くて本当にうれしいんだけど、秋、うちの打ち出す広告写真撮ってくれないか」
意外と乗り気ではないか、と秋一をみながら春樹はほくそ笑んでいた。この分であれば、割とすんなり契約が結べそうだ。冬のボーナスが大きく上がる可能性も視野に入れられるし、この上ないラッキーなチャンスである。秋一の出方を伺っていたが、これは結構いけるとばかりに更に追い打ちをかける。秋一は過去のことを持ち出すつもりがないようで、少し安心しながら話を振ることにする。
「今回の受賞で、お前を使いたいっていう企業は本当に星の数ほど増える。どこと契約を結ぶか、俺に間に立たせてほしいんだ」
「やだ」
「よかった!で、契約なんだが……?いやだ?何が?」
答えは可以外に返ってくるとは思っていなかったため、話を進めようとしてびっくりして踏みとどまる。なぜだ?と聞いても、顔を背けたまま水を飲む。
「どっかの会社と契約なんか結ばない。春の会社とも結びたくない。俺は贅沢もしないし何も要らないから」
「頼むよ、春。お前と一緒に仕事できるの、本当に俺だって楽しみにしているのに」
うーん、と唸りながら秋一が腕を組む。どのように説明していいのか分からないという顔つきで、神妙に悩んでいる。
「俺は好きなものしか撮りたくないんだ。春も分かるだろ?誰かが必要としているからではなく、自分が撮ってて楽しいか楽しくないかだろ?」
正論の刃は何時だって鋭い。そんなことは、世間を知らないお前だから言えるんだというのをぐっとこらえてもう一つ続ける。
「枚数限定でもなんだっていい。少しでもお前の写真の凄さを多くの人に知ってほしいんだ」
「春、この契約取れたらいいことあるの?」
必死で食い下がる春樹に、身もふたもない問いかけをする。苦笑いして頷くと秋一は腕を組んですこし逡巡するとにこりと笑った。最も了承という返事が返ってこなさそうな条件を付けて。
「春ちゃんをアシにしたい、それから人は撮らない。ただ一人、草間春樹を除いては」
「は?いや……無理があるでしょ、そうじゃなくて、俺は」
「俺、好きなものしか撮りたくないって言ったよね。そうじゃなきゃこの仕事は引き受けない。春が来なかったらきっとドアも開けなかった」
俺なんて撮って何が楽しいんだ?と言い募っても、もっと撮るべきものがあるだろう、といっても特に反応を返さない。じっと春樹を見つめた後に立ち上がってすっかり食べ終わったごみを纏め始める。秋一が一度言い出したら曲げないことを誰より知っているつもりだ。まさか、自分がモデルになる写真など必要とする企業などないだろう。でも、上司には"契約を取り付けてこい"とのみ言われた。つまり、どうであれ……というずるい言い訳を必死で組み立てる。自分が被写体になる広告など、どこの企業も必要としないはずであるし、アシスタントであれば今の仕事とさして変わらないであろう。自分を納得させるためにもそう言い聞かせて立ち上がりかけた秋一のシャツの裾を掴む。
「ま、待って。本当に俺でいいなら……いいけど。ただし、ちゃんと広告用の素材撮ってくれるなら」
無精髭が生えているのに、笑った顔は本当に可愛い。乗ると分かっていたと言わんばかりの笑みを見て、悔しいと思いながらも春樹は少しだけ嬉しいと思っている自分に気付いた。でも、自分はもう。
「それでは、よろしくお願いします。川上先生」
にっこりと笑って、彼の気が変わらぬうちに契約書を取り出した。自分はもう、川上と同じ目線では物事を見られないのだ。作品は金につながるかどうかで判断するしかなく、作者の意図より大衆受けの方を気にする。人の感性を金に換えてしまう立場にあるのだ。