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普通になれない僕たちは

 好きな音楽を聴いて、好きな格好でスケッチブックと向き合う。自分の好きなものにすればいい、その言葉が背中を押してくれたので前より気を楽に保ったまま進めることができた。これなら使えるかもしれないというラフ案がいくつかでき、そこそこ満足もしていた。だが、やはりもう一枚欲しい。
 ふっと目線を上げた時に、先ほど秋一から渡されたリングケースがある。黒のヴェルヴェットのような手触りのそれを取り上げて開くと、綺麗に磨き上げられたシルバーの指輪が光を受けて反射した。何かに縋るような意味合いも少しだけ込めて、その指輪に薬指を通す。大きすぎず、小さすぎず丁度良いサイズ。妙にしっくり嵌って、もともとそこにあったのではないかという違和感すら抱かせる。
 それをしながらさらさらと描き出していく。雑踏の中、カバンを持つ手に光る指輪、かき上げた髪から覗くピアスに嬉しそうに交差点の先で待つ相手に軽く手を上げて歩いている一場面。一度反対側に男を描いた後にふと思いついて消した。相手はわざと描かない。男か女か、どんな相手かも分からない。けど彼女は今日の待ち合わせに満足して楽しみにしていた。それだけで十分ではないか。

「これでいこう」

 ぐうっと伸びをして首を回しているときに、指輪の光に気が付いてそれをそっと外す。ありがとう、と言いながら。ソファによじ登ると、誘われる様に眠りに落ちる。完成ではないけれど達成感と安堵感。もし気に入らなかったとしてもきっと秋一が撮っているうちにいいものになるだろうという信頼もあり、午睡に誘われる。

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 春樹がカンプを出した翌日から、周囲は慌ただしく動き始めた。土日の間に提出していた案のいくつかの内からやはり都会の雑踏を歩く姿へのアプローチが決まり、ロケ取りに撮影許可の取得にと春樹も慌ただしく過ごし始めた。
 他社向けに手掛けた広告は既にだいぶ話題になるものであったため、相手側の大手企業からのリテイクは意外なことに返ってこずに、サクサクと話が進む。誰もが川上秋一の名を信じて、その貴重な機会を手に入れられたことに勇み足であった。

「よし、これでいきます」

 ファインダーを覗き込む秋一がふっと体制を緩めて声をかけると、現場からは拍手が上がった。お疲れさまでした、という口々に上がる声に、自分の事のように息を詰めていた春樹はほっと胸を撫でおろす。

「お疲れ様!すごいじゃない、草間もなかなかやるわね。本当は川上さんになんで草間を起用したのか、こっそりきちゃおうと思ってたんだけど、任せて正解だったなあ」
「つかれました……大丈夫、だったでしょうか?正直ちょっと安請け合いし過ぎたとは反省していましたが、皆さんに褒めていただいているので及第点だったのかと」
「及第点も何も。とにかくあの人が撮ったものっていうのも大きいでしょ、それにパノラマのこの広告はすごくいいと思う」
「部長からべた褒めされるとちょっと不安になるんですが」
「素直に受け止めなさいよ」

 くすくすと笑って藤田が手を振って去っていく。お疲れ様です、と頭を下げてその姿を見送る。川上と大手ジュエリーメーカーの広告をまとめ上げたのだ、彼女が酷く笑顔なのも頷けるといったところか。

「おつかれ」
「ああ、秋一こそお疲れ」

 先ほどまでポニーテールにしていた髪を下ろして、秋一が笑った。そして唐突に気付いた、この心地の良かった数か月も、今日で終わりだということを。

「秋?」
「春樹、ここで仕事もひと段落ついたし、俺また撮影に出る。日本は少し、人が多くて」
「そう、なのか……」
「一緒に来る?普通に生きていたら絶対に見られない世界に連れて行くって、約束するよ」

 行きたい、と心の底から思った。何のしがらみにも囚われず、好きな男と好きなだけ暮らす。困難があっても、一緒であれば乗り越えられる自信すらある。両親、仕事、周囲、友人、世間体。そこまでぱっと思考を巡らせる時点できっとだめだ。ぐっと拳を握って、疲れたように笑った。

「俺は、お前に憧れているけど普通を捨てられない。どれだけ一緒に行きたいか、きっと想像もつかないだろ」
「できない、けどなんとなくわかるよ」

 するりと頬を撫でられて、頬に当たる金属を感じる。体温を孕んで少し暖かい金属。今は春樹の指にはない。

「俺だって、一応野心はあって一つだけ取りたい賞がある。まあ、俺の生き方をあまり快く思っていない人たちにも、俺の写真が届いたらいいなと思っていて」

 二人で撮影現場からするりと抜け出して、冬が近づき始めた商店街が温かい装いを打ち出している通りを歩く。

「俺の願いが叶って、もし春樹がまだ……俺のことを、思っていてくれるなら。その時は、ロンドンまで来てくれないか、表彰式の日に」
「……うん」
「ありがとう、その時は、覚悟しておいてね」
「まるで俺が抱かれるみたいじゃん」
「たまにはどう?」
「たまにはって……俺、男に興味ないから……」

 春樹のポケットに手を突っ込んで二人並んで歩く。暫く会えない予感のする男の体温が、じわじわと春樹を指の先から溶かしていく。

「ああ、ちょっと寂しいな」
「俺も、かな」
「約束してた春の絵、帰ったら貰ってもいい?」

 ああ、と呟いて、白い息が空に溶けていくのを見守った。
 いつになるか分からない約束なのに、きっと秋一なら叶えてしまう気がして。
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