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図書館ではお静かに
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夏休みが始まる1週間前の火曜日。
期末テストもとうに終わり、皆どこか消化試合めいた空気で夏休みまでの残り数日を過ごしているように思える。
教室内のまばらなざわめきを遠ざけ、御手洗は本を開く。
10歳の頃純与がよく読んでいたミヒャエル・エンデの『モモ』。分類としては児童書なので、活字が頭に入り辛い朝読書には程よい内容だ。
そう考えていたはずだが、縦の文字列を右から左に追う彼の視線は数ページで止まる。
物語をなぞる脳内へ割り込んできたのは、昨晩のマンションでの短い一幕だった。
――――
「あのさ。」
マンションのエントランス、自動ドアを出た先のポーチで、背中越しに投げられた呼びかけに、御手洗はそちらを振り返る。
「分かってないだろうからいうけど。御手洗さん、今結構危ないよ?」
「姉ちゃんに告白して、姉ちゃんがそれを受け入れちゃったんだから。大変なことだよ」
曖昧な台詞ではあるが、彼女との関係についての発言なら、大袈裟だと思った。
事実、純与は世間的な基準に則っても整った容姿をしており、恋人が出来たからといって悪い虫が寄り付かない保証はない。
しかし、仮に汚い手を使って横入りしようとする輩がいても、御手洗が睨みを利かせればいい話で、彼氏としての牽制や庇護を指して大変と評するのは適切ではないし、少々心外だ。
恋人関係を維持するのは簡単でないという主張自体は御手洗と彼女に限ったことでなく、世間一般の誰にでも該当する普遍的な問題をわざわざ人気のない所まで来て忠言するなど、無用の世話でしかない。
御手洗の視点から見れば、天沼の神経質な態度や杞憂のほうがよほど大変と表現するに相応しいだろう。
天沼がマンションの玄関前に来てまで要領を得ない話を始めた動機を、居間での応酬と同じく身内特有のやっかみとして片付けた御手洗は、食傷気味に小さく眉を下げ返す。
「そりゃあ、純ちゃんはすごく良い子だし、可愛いし…付き合ってからも色々と危ないだろうから、ボクがちゃんと防波堤にならなきゃいけないのは分かってるさ」
「あーうん、そこは当然として。大変ってのは恋愛以外の話ね」
軽く聞き流した天沼は、俯きがちに指先でこめかみを押さえるような仕草をする。
ほぼ難癖の話題にまともに応じたにもかかわらず呆れられているらしいのは釈然としないが、反応を見るに、件の発言は純与との関係を指したものではなさそうだ。
「恋愛"以外"って…どういう意味だ?」
返答を促す御手洗を見返し、天沼が重たげに口を開く。
「――姉ちゃん、たまに中身が変わるんだ。」
その一言に、過去の残影がちらつく。
中身が変わるという表現に合致するイメージとして、真っ先に浮かんだのは、"彼"の姿。
オールバックの黒髪に、褐色の肌。
"見ただろう?人間の本質を"
穏やかに、鈍りきった思考を誘導する、厳かな凄みを孕んだ容貌。
かつて唯一の理解者と信じていたはずの記憶の中の存在は、絶対的優位からの哀れみ、あるいは似通った道を辿る愚かしい人間への冷笑を湛えて自分を見下ろしていた。
"くそガキがァァァ"
続けざま、暗色へ白く切り開かれた窓辺と入れ替わり脳裏を埋める、岩肌に囲まれた洞窟。
計画を阻もうとする者達を迎え撃つ際、別人のように豹変した狂気と殺意に満ちた形相。
反射的に浮かんだ想起は、相手の話に傾聴することで途絶し、記憶の海に葬られる。
「人が変わるっていうか…口調も性格も、明確に姉ちゃんじゃない時があってさ」
「実害はないから、もしそうなっても驚かないで、戻るまで待ってあげてくれる?御手洗さんがそこで動揺すると余計ややこしくなるし」
天沼にしては慎重に言葉を選んで並べられた概要に、ようやく話の趣旨が見えて来た。
「客間で言おうとしてたのは、その話か?」
「半分はね。大変なとこは山ほどあるけど、オレから話せるのはこのくらい」
「それを話す為に付いて来たんだろ?山ほどっていうなら、他の話も」
御手洗が言い終える前に、その語尾は遮られる。
「御手洗さんに話せない過去があるように、姉ちゃんにだって、知られたくないことはあるんだよ。」
エントランスの逆光と前髪の影に隠れた目元が、ポーチ脇の植え込みに備わるフットライトの明るみに覗く。
俯きがちにこちらを捉える紫目は、冷えた金属めいて静かだ。
普段の茶化す風な気配を排した台詞は、諭すような意図も威圧感もない故に、味気ない平坦さが、むしろ嫌味や憎まれ口以上の重さと鋭利な気色を纏っていた。
天沼は無意識に語気を強めていたのに自分でも気付いたのか、顔を上げ、普段の調子に戻る。
「姉ちゃん、秘密が多い女の子だからさ」
「そのくせ自分の話したがらないし、待たされたりモヤモヤさせられたりして、天秤は常に姉ちゃんに傾いてる。つまり御手洗さんにとって、姉ちゃんとの交際はアウェイで試合するのと同じで、決してフェアな関係じゃないってこと」
引き上げた唇が曖昧に結ばれ、天沼は横目を逸らす。
「自分に不利な所、面倒な所、そういうの全部ひっくるめて受け入れられる強さがないと、純与姉ちゃんの隣にいるのは難しいと思う。」
「最大限譲歩して、オレがあんたに出来る優しい言い方はここまで」
容易く消えた笑みは、飄々とした雰囲気と共に、容易く彼の口元に再現される。
やがて、茶髪の少年は足先から体を背け、ポーチを横切る姿勢になると、屋外へ逸れた視線を御手洗の目に合わせ、にわかに上下の瞼を狭めて言った。
「『つづける』か『あきらめる』か。
どっち選んでもいいけど、リリースするなら姉ちゃんの傷が浅い内にね」
「生憎だけど、ボクはもう純ちゃんのことで退くつもりはないから」
「頼もしいなァ。純与姉ちゃんを丸ごと知った後も、是非そうあってほしいもんだね」
半ば笑い含みで返される挑発じみた台詞は、小馬鹿にするというより、遠からず起こる不虞に自ら保険をかける為の、微かな諦念を含んでいるようにも聞こえた。
「どこまで続くかはさておき、まぁ攻略頑張ってよ。――以上。」
エントランスの自動ドアをくぐり、天沼はポケットから抜き出したキーホルダーを人差し指に差してくるくると弄び、こなれた仕草で鍵を集合玄関機に差す。
部屋番号を入力してオートロックを解除し、肩越しに御手洗を一瞥すると、少年はエントランス内側にある2枚目の自動ドアを抜け、エレベーターに乗り込んで行った。
(感じ悪いな…ボクが何したってんだ)
純与の彼氏になっただけなのに、とここまで考え、はたとそれが全ての要因であったと思い至る。
そうして、うんざりしながらポーチの階段を降り、帰路へと足を進めた――という所まで記憶を繰った御手洗は、現在の視点に戻り回想を打ち切った。
朝のホームルームまでの余暇を過ごす生徒達の慎ましいガヤを貫通し、彼の意識を近々の過去から現実に呼び戻す声が耳留まった為だ。
「おは御手洗ー」
ばらつく人影の中から御手洗の肩を叩く一人の男子生徒に、御手洗は爽やかな顔を作るでもなく気だるく応じる。
「朝から気が抜ける挨拶だな…」
御手洗がシャツのボタンを全て閉め、ネクタイ付きでしっかり校則を守ったスタイルであるのに対し、男子生徒はボタン1つ開けにノーネクタイ。違反ではないが、校則の文言にある好ましい装いには程遠いラフさは、真面目な生徒も多い海雲学園の中ではやや少数派と言える。
男子生徒の名は山田。
入学初日に御手洗の苗字が珍しいだのなんだのと絡まれ、以来何かと話しかけて来るようになった。
当初は中学時代のことがよぎり警戒したが、話して行く内に単に自分の苗字がシンプル故に御手洗の苗字を羨ましがっているだけの純粋なアホ(良い意味で)であるらしいと分かってからは、授業前や休み時間に繰り出される彼の雑談に適当にツッコんだりあしらったりする程度の関係に落ち着いている。
「なんの用?課題写させろってんなら手伝わないぞ」
「別に用はねーけどさ。朝学校来たらとりあえずダチと駄弁るもんだろ」
「ああ…まあ、そうかもな」
友人と他愛ない話をするという習慣は純与とのそれ以来久しく覚えがない為か、御手洗の反応は一瞬遅れる。
苗字きっかけでなし崩しにつるんでいる相手ではあるが、出会って数年の御手洗にさらっとこう言ってのける所を考えると、悪い奴ではないのは確かだろう。
御手洗の評価をよそに、山田は底抜けに明るく、朝のテンションとしては若干喧しく近況を交え御手洗を冷やかす。
「お、珍しくノリがいいな!これも可愛い彼女のお陰かー?」
「昨日お家デートだったんだろ?どう、もうチューした?」
「してねーよ。デートったって一人暮らしの部屋に呼ばれただけだし、二人きりでもないし」
「女友達か親でもいたのか?」
「従弟。」
「いとこって、性別どっちよ」
「……男。」
「ほほう、デートに割り込みで牽制かァ。運命の再会からの恋のライバル出現で急展開!こりゃいよいよラブコメじみて来たな!」
腕を組み片手で顎を撫でながら某週刊連載少年誌の感想語りでもするかの如く興奮気味の学友Aに、御手洗はまた始まったと苦い顔だ。
「人の人生で楽しみ過ぎだろ。ボクの私生活を勝手にラブコメに変換するな」
御手洗の渋面など意に介さず、山田はノリノリのおじさん口調で話を進める。
「んなことより。例のブツは持ってきてくれたかね、御手洗くん」
「例の?」
「彼女ちゃんの写真だよ!昨日持って来るって約束したろ?」
一方的に頼まれた記憶はあるが、約束はしていない。
ただ、目前の同級生の軽薄な要求はともかくこれも好機と、昨日彼女に頼み込んで写真は貰っていたので、仕方なしに手帳サイズのフォトファイルを鞄から出し渡す。
ファイルを開いた山田は驚いたような表情になり、しばらくポカンと口を開けていたが、数秒後にはまた威勢よく御手洗に捲し立てた。
「うおお!すげー可愛い!!こんな子マジで実在すんのか?!CGじゃなくて!?」
「そんなに疑うなら今度紹介しようか?」
「言ったな!?ぜってー会わせろよ!」
なんてったって大親友だからな、と歴史的な偉業でも成し遂げた風な友人に呆れ混じりに苦笑する御手洗。ノリは軽いが信用の置けない相手でもないし、一度対面させるくらいは問題ないだろう。
「にしても、なんか日本人ぽくないっつーか、ハーフっぽい子だな!クール系ってより妹系?」
「もう十分見たろ。満足したなら返せ」
「なんだよー、勉強一筋かと思ったらこんな可愛い子捕まえてたのか!真面目に羨ましいぞ御手洗!!」
御手洗の差し出した手にファイルを返し、ニマニマと絡む山田が、不意に余所行きの顔で問わず語りを始める。
「しかしだ。お前の青春に羨ましがってばかりもいられんのがこの色男山田様だ」
訝しげな御手洗に、山田はいつの間にか後ろ手に隠していたそれを見せびらかした。
「見ろ!この可愛い栞を!」
熱く主張する学友の手元にはレースじみて四辺を切ったラミネートに挟まれ、上部にリボンの付いた押し花の栞が握られている。
「今朝下駄箱に入ってたんだよ。こりゃあれよ、『いつもあなたのこと見てます』的な、俺に対するアプローチだな」
たっぷり勿体付けておいてそんなことかと胸中で嘆息し、御手洗は冷めた声で返す。
「山田さ。ニュース見てないの?」
「先週テレビでやってたぞ。イタズラだかなんだか知らないけど、蟲寄市と皿屋敷市で手作りの栞が投函されてるって」
それを真似てクラスメートの誰かにからかわれたのでは、と続ける間もなく、山田はニッと破顔し御手洗の言外の意図を察した上で持論を展開した。
「そりゃ家のポストにって話だろ?俺のはガッコだからセーフ!」
「この丁寧な押し花!こんなん作るの可愛い女子に決まってんだろ!」
丁寧に押し花の栞を作ってポスティングする怪事件の犯人が可愛い女子とは限らないだろう。手先が器用なオッサンだったらどうするんだ。
野暮な上ツッコむのも面倒臭いので、御手洗は口には出さず内心に留め、代わりに軽口を叩く。
「お前のムダに前向きな所、たまに羨ましいよ…」
何を食べて育ったらそんなにポジティブになれるのか。揶揄ではなく割と本気で教えてほしい。
自信満々な学友の不透明かつ飛躍的な恋愛フラグチェックは、始業時間のチャイムが鳴るまで白熱していた。
――――
時間は移り放課後。(夏休み前なので正午が放課後である)
御手洗はほのかに鼻をくすぐる甘い香りに、条件反射で汗顔する。
胸の鼓動をわずかに早める桃か何かのような例えようのない微香は、彼女と過ごす際時折感じたもので、とても懐かしい。
「清ちゃん、考え事?」
「うん、ちょっと。…でも、なんで分かったの?」
「清ちゃんの横顔、ずっと見てたから♪」
(!!!!)
御手洗の顔に一気に熱が集まる。
乳白色の頬をほのかに染めて、甘やかに微笑む彼女。
こぼれるようなあどけない笑顔が自分に向けられているという事実に、有り物の言葉では表しがたい満ち足りた感動を覚える。
御手洗の腕を袖越しに捕まえながら、隣り合う肩口にもたれる形で頭を預けて来る様子は、はちきれる程目一杯幸せだと、表情や態度で自分の存在を肯定されているようで、少しくすぐったい。
昔から、一緒に過ごす際はいつも楽しそうにしてくれた。
気後れするくらいに、御手洗のことは幾らでも褒めてくれた。
当時は勘違いだったら彼女に迷惑だろうと何も言わないでいたが、今は確信を持ってその好意を受け止めることが出来る。
「ま、参ったな…ボクの顔なんか見てたってつまんないでしょ」
「つまりまくるよ~!大好きな清ちゃんが真面目な顔してるとこ、一番近くで見てたいの」
(何その可愛い答え!?もしかして、ボクをキュン死させる専用呪文!?)
IQだだ下がりの御手洗はゲーム脳に片足を突っ込み心の中で色ボケる。
「そう言ってくれるのは嬉しいけどっ…前も見ないと危ないよ?」
(どうしよう…!ボクここ数日が人生で一番幸せかも…!!)
今まで金で買えない幸せという言葉はよくある綺麗事だと思っていたが、これがそうか。海雲に合格した時でさえここまでの多幸感はなかったと思う。
彼氏らしい感動の嵐が幾ばくか遠ざかり、御手洗は神妙な目付きで傍らの少女を眺める。
純与との帰り道。思い煩うことなど本来ないはずだが、やはり昨夜のことが気にかかった。
(純ちゃん、普通に見えるけど…天沼の言ってたこと、本当なのかな)
隣り合う彼女の様子に、天沼がいうような深刻な空気は全くない。
人が変わる……とてもそんな風には見えないが。
昨夜の玄関ポーチでの会話に引き出された一瞬の想起。
かつて御手洗を破滅の道へ誘った男――――……
多重人格者である彼は、外的要因や自身の意思で別人のようになっていた。
ともあれ、精神面の問題が外見で判断出来れば苦労はしない。
あの仙水に関してすら別人格を表すまで全く気付けなかったのだから、変容する必要に迫られない平穏な日常を謳歌する真横の少女が至って普通に見えるのは当然か。
「そうだ。最近学校の近くの公園に、よく移動販売のクレープ屋さん来てるの。今度一緒に行こうよ」
純与の親しみのこもった明るい声で、寸時無意識へ滲んだ残影を拭われる。
強張りかけた頬が緩められ、御手洗は自然と笑顔になり返す。
「じゃあ、来週予定空きそうだから、その時行こうか」
「やったぁ!空いてる日分かったら教えてね」
「うん。分かったらすぐ電話する」
楽しみだな~、と御手洗の肩口に頭をもたれる少女にバレない角度で、彼は赤くなった顔を片手で覆いバカップルの片割れらしくファンタジー小説のタイトルめいた惚気を胸中で叫び、所用の動悸に悶える。
(ちくしょう、ボクの彼女が今日も可愛い!!)
(あー…純ちゃんが愛おし過ぎてもう天沼の話とかどうでもよくなって来た……もし仮に本当だったとしても、そうなった時ボクが冷静でいればいいんだし。今は純ちゃんといるんだから、他のこと考えるのは後にしよう)
過去を掠める昨夜の大袈裟な忠言が尾を引き、どうやら重く考え過ぎていたようだ。
脳内に積み重なる懸念を捨て、御手洗は目の前の平穏に遠慮なく浸ることにした。
彼が気を取り直した所で、横合いから純与が呼びかける。
「ねえ清ちゃん、お昼もう食べた?」
「ううん。午前授業だから昼休みないし」
「じゃあ、お弁当は?」
「最近は買って済ませるほうが多いから、弁当は持って来てないな」
「えっと。これからコンビニで何か買うつもりだけど…よかったら、お昼一緒にどうかな」
「本当!?嬉しい!」
「あのね。実は今日、お弁当作ってきたんだけど」
「いっぱい作ったから、清ちゃんの分もと思って…持ってきたの」
「えっ」
両手に支え、彼女の胸元にかかげられる四角い包みに、御手洗は覚えず目を見張る。
鞄とは別に肩に掛けていたトートバッグの中身が気になってはいたが、まさか弁当だったとは。
「でも、外食とか、パンのほうがよかったら全然…」
面映ゆげな声が言い終えない内に、御手洗の両手が小さな両手に重なり、弁当箱の包みを側面からがっしりと挟む。
「ボク、パンより米派なんだよね。」
「弁当毎日作って貰うと母親の負担になるかなって、昼は買ったもので済ませてたし。ちょうど手作りの味に飢えてるというか」
手作りなら誰が作ったものでもいい訳ではない。
彼女の手作り弁当。仮に食事が済んでいようが、死ぬ程体調が悪かろうが、食べないという選択肢は存在しない。
加うるに、この彼氏に対する愛情と真心の総合芸術を、万が一、億が一でも他者の手に渡らせる訳には行かない。
「だからこれは……ありがたく受け取らせて貰うね」
恋人に近付く異性と同性を一掃しかねないマジ顔で弁当箱と純与の手元をさり気なく引き寄せる御手洗に、きょとんとしていた彼女だったが、すぐに花開く笑顔で御手洗の方に弁当箱を差し出した。
「うん!向こうに公園あるから、そこで食べよ」
そして公園。
「いただきます」
主菜の唐揚げを口に運び、御手洗は感じ入った様子で膝に乗せた弁当を見詰める。
「…!…」
「味付けどう?薄かったり濃かったりしない?」
「すごく美味しい!味付けも丁度いいよ。昨日のも美味しかったけど、今日が一番」
「そっか、よかった…」
彼女の方へ向き直る御手洗の反応を受け、目を伏せた純与が胸元に手を添え、短く息をつく。そんなに自信がなかったのだろうか。
「この卵焼きも美味しいね」
「カニカマ入れて作ったの。味付けはね、和風だしと鶏だしを合わせてみたんだ」
「そういえば、昨日の夕飯にも入ってたよね。純ちゃん、カニカマ好きなの?」
ふと昨日の夕飯のメニューが頭に浮かび、それを踏まえ問いかける。
昨日相伴に預かった夕飯のおかずの内、一品がカニカマ入りのクリームコロッケだった。
「ん…好きといえば好きなんだけど…」
御手洗の問いに心なしか浮かない表情で箸を置く純与。
「最近前に買ったのがあるのを忘れて、また同じもの買っちゃうことが多くて…今冷蔵庫がカニカマだらけなの」
「それは消費に困るね…」
「そうでもないよ。サラダとかスープに使ったり、卵に入れて焼いたりも出来るし。そんなにお腹空いてない時は、一本ずつ小分けになってて食べやすいし」
「そっか。色々アレンジしてるんだね」
(…純ちゃん、ちゃんとご飯食べてるのかな?)
小分けになっていて食べやすい、という部分がイコールそのものしか口にしていないという意味にはならないだろうが、彼女の華奢な体型を考えると、少し心配になる。
御手洗が恋人の食生活へと想像を広げるまでもなく、彼の意識は少女の羽毛で撫でられるような柔らかな声と微笑に向いた。
「ねぇねぇ。それより、清ちゃんのこと聞きたいな。清ちゃん、好き嫌いはある?」
甘い卵焼きとだし巻きどちらが好きかに始まり、食材、料理、味付けの好みを色々と聞かれたのち、二人分の空の弁当箱とランチクロスを片付ける純与がおずおずと提言する。
「またお弁当作って来てもいい?」
「それから…夏休みになったら、清ちゃんがボランティアのお手伝い行く前に、お弁当渡したいなって」
「そんな、わざわざ渡しに来てもらうなんて悪いよ!部屋で待っててくれたら、受け取りに行くから」
作らせるのが申し訳ないとはあえて言わない御手洗。
御手洗の弁当作りが決まり、純与はいつもの笑顔を更に明るく輝かせる。
「お弁当、次からは清ちゃんの好きなものばっかりにするね!」
「好物じゃなくても、ボクは、純ちゃんが作ってくれるものならなんでも…っ」
膝に手を置き、緊張も露わに急き込んだ様子で応じる御手洗。
「え~?もう、清ちゃん大好き~!」
「う、うん。ボクも大好きだよ」
(幸せ……っ!!)
嬉しげな彼女に寄りかかられ、御手洗も遅れがちに同じ言葉で返し、恋人との甘い時間を噛み締めていた。
暫し夏空の下、青春を謳歌した二人は、学生鞄を手にベンチから立ち上がり、もう一方の手を繋ぐ。
「純ちゃん、これから帰りだよね?手伝いまで時間あるし、部屋まで送るよ」
「えっと、今日は他に行くとこがあるの」
「図書館か本屋?ここから遠い?」
「皿屋敷市の端っこにある図書館にね。盟王高校の近くだから、ここから一駅分くらいかな」
「本返しに行くの?」
「ううん。待ち合わせ」
「そっか、じゃあ急がなきゃ」
「うん…」
「そのことでね。清ちゃんにもちゃんと話しておきたくて」
わずかに眉を浮かせ次の言葉を待つ御手洗に、彼女が頬にかかる横髪を指で避け、遠慮がちに告げる。
「私、最近勉強会してるんだ」
薄められた瞼と長い睫毛の合間に覗く灰色の瞳に、瑞々しい銀の光が細やかに瞬いている。
夏場の陽光とプリズムに照らされ、笑みを象る艷やかな唇が、ひどく印象に残っていた。
――――
帰宅後適当な部屋着に着替え、家族と夕食を摂り、入浴を終え髪を乾かした御手洗は、そのまま自室に戻っていた。
椅子に腰掛け背を反らし、背もたれに思い切りもたれて天井を仰ぐ。
勢い任せの溜め息を吐ききり姿勢を正した彼は、下ろした前髪を内心鬱陶しがりつつ、引き出しから丁重に取り出したそれを見つめた。
「はぁ……」
ファンシーな柄のプリントされた小袋は、昨日彼女の部屋を出る際貰ったクッキーが納められていたものだ。
御手洗の口端や目元に降りる憂鬱の影。
手伝いの結果が芳しくなかったのでもなく、大きなミスを犯したのでもない。
本日のボランティアは献血ルーム前での呼びかけや案内、美化や事務作業などだ。
やきもきする心境とは裏腹に、活動は実に捗り、不足している血液型の声かけも積極的に行い、事務作業も効率よく出来た。
体調も至って良好。
いつもは入浴後に押し寄せる独特の疲労も感じられず、以前は手伝いのある日は短時間で眠気に負け手がつかなかった受験勉強も、就寝前に数時間使ってもまだ続けられそうな余裕さえある。
問題は、手伝いに行く前の彼女との会話にあった。
昼食後のあらましはこうだ。
ボランティアの手伝いに行く前に、勉強会が頑張れるようにハグして欲しいといわれ、彼女の細い背中に腕を回し、抱擁の内に惜しみつつも彼女と別れた。
抱き合う細腕が優しく離れ、胸の辺りでひらひらと小さく手を振る彼女は、軽やかな足取りで走って行く。
控えめに手を振り返し応える御手洗に、待ち合わせの相手を近い内に紹介すると言い残して。
勉強会とは基本複数人で行うものを指した言葉である。それに加えて、彼女は図書館で待ち合わせをしている。
待ち合わせの相手。それが御手洗の目下の悩みの種だった。
男性との待ち合わせだなんて、心配しない訳がない。
彼女と図書館で待ち合わせ、二人で勉強会に興じる機会を得た幸運の持ち主は、
ひょんなことから知り合い、会社員の傍ら休日に図書館で純与に勉強を教えてくれているらしい。
なんでも、高校に入学してからの彼女は、解離性遁走の原因である解離性健忘、つまり記憶喪失の後遺症により、一時期直近の出来事や今まで出来ていたことを忘れてしまい、授業について行けず成績が著しく下がっていたそうだ。南野秀一は、私生活さえままならなくなり困り果てていた所を色々と助けて貰った大恩人だという。
彼がいなければ、自分の身すら危うい状態で、どうなっていたか分からない。
そんな話を聞いてしまうと、嫉妬するからもう会わないでくれ、などと気持ちに任せていうのは難しい。
いや、これこそが天沼の言っていた弱さ故で、多少無神経だったとしても、ここは遠慮せず彼氏として、会わないでくれとはっきりいえばよかったのかも知れない。
しかし、二人きりでなく不特定多数の居る図書館内での勉強会。そういうものにまで逐一嫉妬して、異性との関わりを一切断てというのは、彼氏の立場を使った束縛になるのではないか。
とは言えど、やはり彼女に近付く男などいないに越したことはないし、公共の場にいて二人きりでなくとも勉強会など同性の友達以外としないで欲しい。
堂々巡りのジレンマの悪循環に、頭が重い。
(勉強を教えるぐらい、ボクにだって出来るのにな…)
ボランティアのこともあって気を遣ってくれたのかも知れないが、学生ボランティアは任意の活動であって、義務でも仕事でもない。少しセーブすれば彼女に勉強を教える時間は取れる。
もちろん、南野秀一という男性には感謝すべき所もある。
南野秀一がいなければ、彼女は再会の日に防火水槽に訪れることなど出来なかっただろう。
思い出の場所で旧友との再会を待つ精神的なゆとりが生まれるまでに、彼女をサポートし立ち直らせた人物。
間接的に彼女を御手洗との再会に導いてくれたようなものだ。
なのに、どうしてだろう。素直に感謝する気になれない。
御手洗はビニールの小袋をそっと引き出しにしまう。
分かっているつもりだ。
どうして、と頭の中で自問する時、一歩先にもう結論は見えている。
今回も答えは目と鼻の先。
間近に掴める答えを迂回するような回りくどい思考は、認めたくない頑なな自意識による逃避。
認めたくない否定の意思を振りほどき、目と鼻の先にある本音を手にとってみる。
至極簡単な表現で胸の内に本音を綴る。
出来るなら、ボクがその役を引き受けたかった。
彼女の生活を、人生を立て直した恩人。その恩人がボク自身でないことが悔しい。
彼女を助けるのは自分でありたかったのに、その役目を他人に取って代わられたようで、嫌なんだ。
彼女を助ける役目なんて約束もしていなければ、自分の中で勝手な使命感を持っているに過ぎず、そもそも彼女をまるっきり忘れて5年間放置していたにもかかわらず、だ。
しかも、その間苦難ばかりが襲い、ダメ押しに降りかかった記憶の欠落にくじけそうになっていた彼女を、何もかも忘れて過ごしていた自分に代わって助けてくれた相手に、あろうことか羨望を通り越して嫉妬心を抱いている。
これを幼稚といわずしてなんという。
短絡的な嫉妬を、それだけではあまりに子供じみているからと、小難しい表現を当てはめて、17歳の学生という立場相応の考えがあるように思いたかっただけだ。
嫉妬を誤魔化して大人ぶってどうなるものでもない。どんなに羨み悔しがろうと、今からその大恩人のポジションが自分のものになる訳でもないのだから。
好きだといわれて、付き合っているのにまだ足りないのか。
恋愛ほどエゴと欲にまみれたものはないとつくづく思う。
恋人として彼女に選ばれた一人になれただけでも奇跡なのに、これより更に特別な存在になりたいだなんて。
進み始めた所へ再三冷や水を浴びせられるような一連の流れに、何もない平坦な道から急に障害物競走のコースに移されたような気分だ。
夕飯時を過ぎ暗くなった窓際の景色にカーテンを引き、28度設定のクーラーの微風に涼しくなった室内で、恋の悩みに惑いつつ、机に向かい英文問題を解こうとシャーペンを握る。
御手洗は、南野秀一の正体が自身の恩人の一人かつ、昔の知人であることにまだ気付いていない。
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