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図書館ではお静かに
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日曜日の午前10時。
適当に身繕いを済ませ、朝食を終え食器を下げたのち、遅れて降りて来た姉が母の作った朝食をもそもそ食べ始めるのに背を向ける形で、ダイニングテーブルの椅子の背もたれ上部に片肘を乗せた御手洗は、うっすら残る眠気に抗いつつ、テレビのワイドショーを眺めていた。
32インチのプラズマ画面の中では、売り出し中の自称妖怪アイドルがコメンテーターのフリに無難な返答をしている所だ。気配というのか、実際に見たケースとして妖怪には意外と人間体が多いという経験からか、彼女らはなんとなく本物っぽい気がする。
流れる思考に任せていた御手洗の視界に、太字のテロップが飛び込んで来る。妖怪がテレビに出演しているらしいのもそうだが、取り扱っているニュースの内容が、これまた奇妙だった。
なんでも、皿屋敷市と蟲寄市の住宅街で、送り主不明のラミネート加工されたリボン付きの栞が、知らぬ間に投函されているらしい。
こんなことで騒いでいるなんて世間は今日も平和だと思う反面、直接的な害はなくとも、得体の知れない者から贈られる物品というのは、一般人にしてみれば充分不気味ではある。
流し見している間にも、コメンテーターがふざけて妖怪のせいじゃないのかとアイドルをイジり、違いますよ〜とかなんとか抗議されている。
確かに、その場のノリや台本があるとはいえ、あれもこれもと妖怪のせいにするのはよくない。
ワイドショーに気を取られていると、後ろで冷蔵庫の扉が開く音がして、御手洗は嫌な予感にそちらを振り返る。
見ると、まさに姉がドアポケットから缶ジュースを手に取ろうとしていたので、慌てて缶をひったくり、自分のものだと伝えた。
姉はむくれていたが、母に清志のものなんだから云々とたしなめられ、渋々諦めた様子だ。
ベタな家族あるあるだが、冷蔵庫に飲食物を入れておく時は、名前を書いた紙でも貼っておかないと、こういうことが頻発する。姉の分を勝手に取ると怒るくせに、姉弟間のヒエラルキーとはかくも理不尽なものかと、御手洗は小さく嘆息した。
姉から保護したレモンスカッシュを手に、部屋へ戻ると言い残し、御手洗はリビングを後にする。
日曜日はボランティアがなければ勉強に使っている。今日の予定も学校で出された課題の残りと過去問を読んだり解いたりだ。受験勉強に早いということはないし、大学受験の前準備に限っては石橋は叩き過ぎるくらいが丁度いい。
昨日のこともあり身が入らないかと思ったが、むしろ早く済ませたい心理が働いたのか、課題も過去問のノルマも1時間半程度で片付いた。
筆記用具やノート類をしまい、御手洗は机の縁を押さえ、キャスター付きの椅子を少し動かし、机の左端に目をやる。
黒地に白い水玉の印刷された缶は、ぬるい室内との気温差で汗をかいている。
机に染みないよう底に敷いた4つ折りのハンカチが、缶から滑り落ちる水気を吸って濡れていた。
この缶は、昨日桑原に手渡されたのと同じものだ。持って帰って後で飲もうと思い、長らく冷蔵庫にしまったままだった。
つい先日の桑原とのやり取りを思い返す。
桑原に背中を押され、強くなれという彼の真剣な言葉で、腹をくくったつもりだった。
視野の斜め左に収まる缶に手を伸ばすも、指先が触れる前にその動作は止まる。
なぜかは分からないが、これを開けて飲むだけで、自分では予期しきれない何かの呼び水になるように思えて、どうしても飲む気にならなかったのだ。
忌まわしい過去を払拭するリハビリじみた人生に、突如後ろを省みる余地を与えた、12歳の頃の数ヵ月。
御手洗にとっても辛い別れではあったが、決して彼女に会いたくない訳ではない。
むしろ、今すぐ探しに行きたいとさえ考えている。
手つかずのレモンスカッシュ。
水玉模様の中央に印刷された黄色い背景の青字が、幾つもの結露の粒に溺れている。
未だ尻込みしてしまうのは、彼女が自分との再会を望んでいない可能性が拭えないでいるからだ。
こんな風に思い入れ深く考えているのは、自分一人なのではないか。
彼女はもうとっくに忘れていて、新しい場所で、違う相手を見つけているのかも知れない。
彼女は元々誰にでも思いやりを持って接する子だった。
自分だけが特別だったと考えるのは、思い上がりだ。
あの頃仲が良かったのは単なる偶然の巡り合わせ。
同じスイミングスクールに通っているから、なんとなく一緒にいる相手が自分だっただけで、自分が彼女に向けるほどの感情など、彼女には何もなかったのだとしたら。
もし、同じ集団に属していただけで保たれていた関係なら、こちらが勝手に盛り上がって気持ちを伝えた所で、その時だけの友人で、そんなつもりは全然なかったといわれて終わりなんじゃないだろうか。
彼女との関係は双方の繋がりでなく、過剰に感情移入した自分からのみの一方通行だったのではないかという懸念。
自分が彼女を思うほどには彼女から関心も興味も向けられていない。そんな可能性に怯えている。
つまりこのためらいは……自分が傷付きたくないという保身。
御手洗は腕を組むような形で机に突っ伏し、少し身を起こすと、前髪の垂れた所を巻き込んで、ぞんざいな仕草で額に手を押し当てる。
変わろうとここまで行動して来たはずなのに、未だ胸に居座る性根の甘さに呆れてしまう。
相変わらず椅子が左を向いているので、視線は缶に注がれたままだ。
額から離した手がそちらへ向かい、水滴を走らせる缶の表面にようやく触れる。
ひやりとした水気に生じる不快の念を無視して、手で缶の結露を伸ばすように拭いた。
(ボク……少しずつだけど、ちゃんと変われてると思ってた)
(それって、ボクだけの思い込みだったのかな。せっかく思い出せた大事な人に、会いに行くことすら、臆病になって……)
(これじゃあ、昔よりもひどいじゃないか)
「……純ちゃん……」
親しげな呼び名を呟いて、頭の隅に束ねられた彼女との軌跡を辿る。
学校に行きたくないと口をこぼしたら、学校なんてなくなればいいと、ボクを思って泣いてくれた。
ボクなんて、と弱音を吐いた時も、例えそんな素振りを見せなくても、いつでも『大好き』だと言って抱きしめてくれた。
今にして思えば、親友といい張っていただけで、ほとんど恋人のようなものだったのかも知れない。
あの頃は、親友として過ごす時間が心地よくて、それ以上の関係を想像することもなかった。
「純ちゃんは、いつもボクに優しくしてくれた……ボクのことを思ってくれた」
(ボクのこと、ちゃんと見てくれてた人……助けようとしてくれた人は、すぐ側にいたはずなのに……どうしてそんな大切な人に、あんなこと言っちゃったんだろう……)
いつからここまで臆病で卑怯な人間になってしまったのだろう。
彼女にあんなことを言っておいて、自分がいざ同じことをいわれるんじゃないかと思っただけで、傷つくことを恐れて何もしないでいるなんて。
本当に謝りたいほど申し訳ないなら、あんなことを言ってしまったからこそ、彼女に会って、正直な気持ちを伝えるべきなんじゃないのか。
例え一方的な恥ずかしい思い込みだったとしても、お前なんて覚えていないといわれたとしても。
彼女を傷つけたままで終わるより、新しい道を歩く彼女を見届けられるなら、そのほうがずっといいじゃないか。
彼女の気持ちを確かめもせず、こんな風に卑屈な気持ちで彼女の心を決めつけるのは、自分がこうだと思って安心したいが為に、彼女を貶めているのと変わらない。
自分の過去の過ちと、確かに残る傷から目を逸らそうとすればする程、爪の先を突き立て思い切り引き裂くように、染み入る痛みは大きくなり、無視することも叶わなくなる。
彼女は、本当に優しい子だった。
彼女があの頃のままなら、素直にボクの言葉を受け止めて、自分が何か悪いことをしたとさえ考えて、とても悲しんだのだと思う。
もしかしたら、今も、当時のことを思い出して、心のどこかで引きずっているかも知れない。
かも知れない、なんて、実際の所は嘘くさくて仕方ない。
自分の心は、過去としてあの日を割り切っている彼女と、あの日の別れを消えない傷として心にしまって過ごしている彼女、――そのどちらがより真実に近いかを、"知っている"のに。
知っているから、いつまでもぐだぐだと足踏みをして、自らの認識とかけ離れた温かみのない彼女を想像して、忘れられているほうが気が楽だからと、後ろ向きな期待を押し付けているだけなんだ。
あの日、自分の言葉を聞かされた時の彼女の表情。昨日まで忘れていたのが疑わしいくらいに、はっきりと脳裏に描き出せる。
もういい加減、自分が本当にしたいことがなんなのか、答えを決めるべきだろう。
桑原との話の間も、彼女のことを思い起こすたび、何かに急かされるような気がしていた。
けれど、居ても立ってもいられない気持ちになるそばから、常識的な固定観念や罪悪感が蓋をして、傷つきたくない臆病な心を決断から遠ざけていた。
昨日、ずっと忘れていた大切な記憶を思い出して、一番最初に思ったことがある。
真っ先に思い違いだと否定して、瞬時にかき消した、湧き上がる後悔すら差し置いて心の奥に浮かんだ一節。
彼女は――――きっと、ボクを待っている。
頭の中で文字に起こしてみても、思い込みの激しい勘違い男そのもので、痛々しくて恥ずかしい。
これが本心から出たのなら、笑えるくらいに都合がいい。
なんて身勝手な独りよがりだ。
そう。
だから、これがボクの本心から出た思いの丈だというなら。
先に立たない後悔を見越しても、選びたい道はたった一つだ。
もしも彼女の中に、自分との別れを今も残る傷として刻んでしまった可能性があるなら、――……自分がこの先何十年分傷付いたとしても、もう一度、彼女に会って話したい。
彼女の為に、弱いままの自分ではいられない。
彼女に会う。
もう一度と思ったそれが、最後の別れになってもいい。
最後に、自分の気持ちを全て伝えたい。
彼女の為に…………もう一度、強くなりたい。
缶を掴み、タブを開けてそのまま口に運ぶ。
(ちょっとぬるい)
わずかにほろ苦さを残すレモン風味のサイダーは、思い出の中で親しんだ味より、どこか緩んだ甘さを感じる。
「やっぱり……独りで飲んでも、美味しくないや」
勢いだけで飲み干して、缶をゴミ箱に放る。
気合を入れようと思い、両手で頬を叩く。
ドラマやアニメなんかでよく見た動作だが、自分でやると不格好だ。
しかし、今は自分で自分を後押ししなければ始まらない。
御手洗は雑念を振り切り、自分に言い聞かせるように短い語句を放つ。
「よし!」
この場に鏡があったなら、きっと昔のように陰気な自分が映っていただろう。
けれど、それでも構わない。
大切な人に会いに行くのに、嘘で取り繕った笑顔など、初めから必要ないのだから。
――――
(思い当たる所は全滅か…)
彼女のいそうな場所へ片っ端から出向いて早数時間。
ガラス戸の向こうを振り返ることなく、御手洗は肩を落とす。
駅前の本屋。昔住んでいた住宅地近くの古本屋。
彼女が図書カードを持っていた図書館全部。
蟲寄市の中央図書館、住宅地から車で30分のショッピングモール内の図書館、そして、スイミングスクールのあった市民プールの受付から分岐する、こじんまりした付属図書館。
付属図書館に赴くついでに、昔からいる司書の女性や、スイミングスクールのコーチにもダメ元で彼女のことを訊ねてみたりもしたが、もちろん彼女の10歳以降を知る手がかりは掴めず。
一度探し始めると、家を出る前の躊躇も忘れ、代わりに会いたい気持ちがとめどなく湧いてくる。
そんな前のめりな再会の期待に反して、収穫は皆無と来ている。
午前中から昼過ぎまで電車と足を頼りにあちこち飛び回ったせいか、どっと疲れてしまった。
ガラスの自動ドアを背に市民プールを出た御手洗は、小休止も兼ね、昔住んでいた辺りを歩いてみる。
アイスを買ったコンビニ。お揃いのおまけを貰った駄菓子屋。彼女とよく遊んでいた公園。レモンスカッシュが置かれた自販機の近く。
思い出のよすがの漂う懐かしい場所。
そのどれにも、彼女の姿はない。
喉が渇いたので、電車代の残りでレモンスカッシュを買い、御手洗は公園の屋根付きベンチに座る。
この長方形の東屋も、彼女との記憶にしばしば登場する場所だ。
タブを開け、中身を一口飲むと、逸る心が幾らか落ち着くようだった。
そもそも論として、彼女が今になって蟲寄市に戻って来ているという考えに無理があるのは、重々分かってはいる。
彼女の記憶を取り戻した当初からそこは疑問であったし、桑原との話でも市外にいる可能性のほうが高いだろうと踏んでいた。
(彼女の現住所が市外にあるという考えは、引っ越しが市内で済んでいたなら、一度くらい連絡が来てもいいのでは、という私情込みでの推測だったが)
とはいえ、探し始めの内から市外まで捜索の手を広げるのは難しい。
学生の御手洗には免許証も遠出に耐えうる経済力もないのだから、個人で探せる範囲となると、どうしても市内が限界だ。
音信不通も災いし、彼女の情報を得られるめども立たない。
今日の所は潔く諦め、家に帰って家族に金銭面の相談をしてみるべきだろうか。
小遣いの前借りとは行かなくても、事情を明かし真剣に説得すれば、休日に車を出すくらいはしてくれるはずだ。
中学の頃とは違い、独りで抱え込むばかりで終わるつもりもない。
桑原も頼れと言ってくれたし、話せば聞いてくれる家族がいる。
現実的な思考で納得しようとするも、御手洗はベンチから動こうとしない。
穏当な手順で収めようとする流れに、どういう訳か、飲み下せない滞りを感じずにはいられなかった。
缶を傾け、口当たりのいいレモン風味で喉元の違和感を流し込もうとするが、物理的なものと異なるざらつきは、そんなものでは解消しない。
もやがかる現状を変えられないまま、また缶の中身は空になってしまった。
寄る辺ない面持ちで、御手洗は手元を目で追いつつ、缶を傍らに置く。
瞳に映る黒地の水玉模様に、昨日の自分が重なった風な、妙な錯覚に襲われる。
どうしてあんなにも、彼女との記憶を思い出すことを恐れていたのだろう。
未だに胸を締め付ける、子供時分の思い出から生じたにしては、不相応に根深い罪悪感。
彼女に会おうと思うたび、自分自身が後ろ向きな考えで邪魔していたのは、戸惑いや躊躇だけが原因じゃない。
何か他に、理屈では説明し得ない大きな理由があるように思えてならない。
ありふれた別れの物語で修飾し、綺麗に覆い隠しても、まだ目に余るような。
人の常識や、"この世界"の法則では説明がつかない、本当の理由が――
座面に乗せていた右手が、無意識に微動し、缶に当たる。
転がる缶を拾おうとして、御手洗は一瞬呼吸を止めた。
(そうだ。探さないまま帰るとこだった)
きっかけはやはり、レモンスカッシュの缶。
彼女との思い出の場所。どれよりも多く足を運んだ景色を思い出した。
その場所以外を全て探して、今更行かない選択肢はない。
一番深く心に残っていたはずの場所。
せっかく取り戻せたというのに、行かないで後悔するのは馬鹿らしい。
自分一人の思い込み。
ただの勘違い。
後ろ向きな思いはしつこく胸を掠める。
それでももし、自分が手放したがらないのと同じように、彼女があの場所を、わずかでも心に留めていてくれたなら。
根拠などない希望的観測でも、思い込み激しく信じて、今度こそ彼女の元へ辿り着ける気がしていた。
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適当に身繕いを済ませ、朝食を終え食器を下げたのち、遅れて降りて来た姉が母の作った朝食をもそもそ食べ始めるのに背を向ける形で、ダイニングテーブルの椅子の背もたれ上部に片肘を乗せた御手洗は、うっすら残る眠気に抗いつつ、テレビのワイドショーを眺めていた。
32インチのプラズマ画面の中では、売り出し中の自称妖怪アイドルがコメンテーターのフリに無難な返答をしている所だ。気配というのか、実際に見たケースとして妖怪には意外と人間体が多いという経験からか、彼女らはなんとなく本物っぽい気がする。
流れる思考に任せていた御手洗の視界に、太字のテロップが飛び込んで来る。妖怪がテレビに出演しているらしいのもそうだが、取り扱っているニュースの内容が、これまた奇妙だった。
なんでも、皿屋敷市と蟲寄市の住宅街で、送り主不明のラミネート加工されたリボン付きの栞が、知らぬ間に投函されているらしい。
こんなことで騒いでいるなんて世間は今日も平和だと思う反面、直接的な害はなくとも、得体の知れない者から贈られる物品というのは、一般人にしてみれば充分不気味ではある。
流し見している間にも、コメンテーターがふざけて妖怪のせいじゃないのかとアイドルをイジり、違いますよ〜とかなんとか抗議されている。
確かに、その場のノリや台本があるとはいえ、あれもこれもと妖怪のせいにするのはよくない。
ワイドショーに気を取られていると、後ろで冷蔵庫の扉が開く音がして、御手洗は嫌な予感にそちらを振り返る。
見ると、まさに姉がドアポケットから缶ジュースを手に取ろうとしていたので、慌てて缶をひったくり、自分のものだと伝えた。
姉はむくれていたが、母に清志のものなんだから云々とたしなめられ、渋々諦めた様子だ。
ベタな家族あるあるだが、冷蔵庫に飲食物を入れておく時は、名前を書いた紙でも貼っておかないと、こういうことが頻発する。姉の分を勝手に取ると怒るくせに、姉弟間のヒエラルキーとはかくも理不尽なものかと、御手洗は小さく嘆息した。
姉から保護したレモンスカッシュを手に、部屋へ戻ると言い残し、御手洗はリビングを後にする。
日曜日はボランティアがなければ勉強に使っている。今日の予定も学校で出された課題の残りと過去問を読んだり解いたりだ。受験勉強に早いということはないし、大学受験の前準備に限っては石橋は叩き過ぎるくらいが丁度いい。
昨日のこともあり身が入らないかと思ったが、むしろ早く済ませたい心理が働いたのか、課題も過去問のノルマも1時間半程度で片付いた。
筆記用具やノート類をしまい、御手洗は机の縁を押さえ、キャスター付きの椅子を少し動かし、机の左端に目をやる。
黒地に白い水玉の印刷された缶は、ぬるい室内との気温差で汗をかいている。
机に染みないよう底に敷いた4つ折りのハンカチが、缶から滑り落ちる水気を吸って濡れていた。
この缶は、昨日桑原に手渡されたのと同じものだ。持って帰って後で飲もうと思い、長らく冷蔵庫にしまったままだった。
つい先日の桑原とのやり取りを思い返す。
桑原に背中を押され、強くなれという彼の真剣な言葉で、腹をくくったつもりだった。
視野の斜め左に収まる缶に手を伸ばすも、指先が触れる前にその動作は止まる。
なぜかは分からないが、これを開けて飲むだけで、自分では予期しきれない何かの呼び水になるように思えて、どうしても飲む気にならなかったのだ。
忌まわしい過去を払拭するリハビリじみた人生に、突如後ろを省みる余地を与えた、12歳の頃の数ヵ月。
御手洗にとっても辛い別れではあったが、決して彼女に会いたくない訳ではない。
むしろ、今すぐ探しに行きたいとさえ考えている。
手つかずのレモンスカッシュ。
水玉模様の中央に印刷された黄色い背景の青字が、幾つもの結露の粒に溺れている。
未だ尻込みしてしまうのは、彼女が自分との再会を望んでいない可能性が拭えないでいるからだ。
こんな風に思い入れ深く考えているのは、自分一人なのではないか。
彼女はもうとっくに忘れていて、新しい場所で、違う相手を見つけているのかも知れない。
彼女は元々誰にでも思いやりを持って接する子だった。
自分だけが特別だったと考えるのは、思い上がりだ。
あの頃仲が良かったのは単なる偶然の巡り合わせ。
同じスイミングスクールに通っているから、なんとなく一緒にいる相手が自分だっただけで、自分が彼女に向けるほどの感情など、彼女には何もなかったのだとしたら。
もし、同じ集団に属していただけで保たれていた関係なら、こちらが勝手に盛り上がって気持ちを伝えた所で、その時だけの友人で、そんなつもりは全然なかったといわれて終わりなんじゃないだろうか。
彼女との関係は双方の繋がりでなく、過剰に感情移入した自分からのみの一方通行だったのではないかという懸念。
自分が彼女を思うほどには彼女から関心も興味も向けられていない。そんな可能性に怯えている。
つまりこのためらいは……自分が傷付きたくないという保身。
御手洗は腕を組むような形で机に突っ伏し、少し身を起こすと、前髪の垂れた所を巻き込んで、ぞんざいな仕草で額に手を押し当てる。
変わろうとここまで行動して来たはずなのに、未だ胸に居座る性根の甘さに呆れてしまう。
相変わらず椅子が左を向いているので、視線は缶に注がれたままだ。
額から離した手がそちらへ向かい、水滴を走らせる缶の表面にようやく触れる。
ひやりとした水気に生じる不快の念を無視して、手で缶の結露を伸ばすように拭いた。
(ボク……少しずつだけど、ちゃんと変われてると思ってた)
(それって、ボクだけの思い込みだったのかな。せっかく思い出せた大事な人に、会いに行くことすら、臆病になって……)
(これじゃあ、昔よりもひどいじゃないか)
「……純ちゃん……」
親しげな呼び名を呟いて、頭の隅に束ねられた彼女との軌跡を辿る。
学校に行きたくないと口をこぼしたら、学校なんてなくなればいいと、ボクを思って泣いてくれた。
ボクなんて、と弱音を吐いた時も、例えそんな素振りを見せなくても、いつでも『大好き』だと言って抱きしめてくれた。
今にして思えば、親友といい張っていただけで、ほとんど恋人のようなものだったのかも知れない。
あの頃は、親友として過ごす時間が心地よくて、それ以上の関係を想像することもなかった。
「純ちゃんは、いつもボクに優しくしてくれた……ボクのことを思ってくれた」
(ボクのこと、ちゃんと見てくれてた人……助けようとしてくれた人は、すぐ側にいたはずなのに……どうしてそんな大切な人に、あんなこと言っちゃったんだろう……)
いつからここまで臆病で卑怯な人間になってしまったのだろう。
彼女にあんなことを言っておいて、自分がいざ同じことをいわれるんじゃないかと思っただけで、傷つくことを恐れて何もしないでいるなんて。
本当に謝りたいほど申し訳ないなら、あんなことを言ってしまったからこそ、彼女に会って、正直な気持ちを伝えるべきなんじゃないのか。
例え一方的な恥ずかしい思い込みだったとしても、お前なんて覚えていないといわれたとしても。
彼女を傷つけたままで終わるより、新しい道を歩く彼女を見届けられるなら、そのほうがずっといいじゃないか。
彼女の気持ちを確かめもせず、こんな風に卑屈な気持ちで彼女の心を決めつけるのは、自分がこうだと思って安心したいが為に、彼女を貶めているのと変わらない。
自分の過去の過ちと、確かに残る傷から目を逸らそうとすればする程、爪の先を突き立て思い切り引き裂くように、染み入る痛みは大きくなり、無視することも叶わなくなる。
彼女は、本当に優しい子だった。
彼女があの頃のままなら、素直にボクの言葉を受け止めて、自分が何か悪いことをしたとさえ考えて、とても悲しんだのだと思う。
もしかしたら、今も、当時のことを思い出して、心のどこかで引きずっているかも知れない。
かも知れない、なんて、実際の所は嘘くさくて仕方ない。
自分の心は、過去としてあの日を割り切っている彼女と、あの日の別れを消えない傷として心にしまって過ごしている彼女、――そのどちらがより真実に近いかを、"知っている"のに。
知っているから、いつまでもぐだぐだと足踏みをして、自らの認識とかけ離れた温かみのない彼女を想像して、忘れられているほうが気が楽だからと、後ろ向きな期待を押し付けているだけなんだ。
あの日、自分の言葉を聞かされた時の彼女の表情。昨日まで忘れていたのが疑わしいくらいに、はっきりと脳裏に描き出せる。
もういい加減、自分が本当にしたいことがなんなのか、答えを決めるべきだろう。
桑原との話の間も、彼女のことを思い起こすたび、何かに急かされるような気がしていた。
けれど、居ても立ってもいられない気持ちになるそばから、常識的な固定観念や罪悪感が蓋をして、傷つきたくない臆病な心を決断から遠ざけていた。
昨日、ずっと忘れていた大切な記憶を思い出して、一番最初に思ったことがある。
真っ先に思い違いだと否定して、瞬時にかき消した、湧き上がる後悔すら差し置いて心の奥に浮かんだ一節。
彼女は――――きっと、ボクを待っている。
頭の中で文字に起こしてみても、思い込みの激しい勘違い男そのもので、痛々しくて恥ずかしい。
これが本心から出たのなら、笑えるくらいに都合がいい。
なんて身勝手な独りよがりだ。
そう。
だから、これがボクの本心から出た思いの丈だというなら。
先に立たない後悔を見越しても、選びたい道はたった一つだ。
もしも彼女の中に、自分との別れを今も残る傷として刻んでしまった可能性があるなら、――……自分がこの先何十年分傷付いたとしても、もう一度、彼女に会って話したい。
彼女の為に、弱いままの自分ではいられない。
彼女に会う。
もう一度と思ったそれが、最後の別れになってもいい。
最後に、自分の気持ちを全て伝えたい。
彼女の為に…………もう一度、強くなりたい。
缶を掴み、タブを開けてそのまま口に運ぶ。
(ちょっとぬるい)
わずかにほろ苦さを残すレモン風味のサイダーは、思い出の中で親しんだ味より、どこか緩んだ甘さを感じる。
「やっぱり……独りで飲んでも、美味しくないや」
勢いだけで飲み干して、缶をゴミ箱に放る。
気合を入れようと思い、両手で頬を叩く。
ドラマやアニメなんかでよく見た動作だが、自分でやると不格好だ。
しかし、今は自分で自分を後押ししなければ始まらない。
御手洗は雑念を振り切り、自分に言い聞かせるように短い語句を放つ。
「よし!」
この場に鏡があったなら、きっと昔のように陰気な自分が映っていただろう。
けれど、それでも構わない。
大切な人に会いに行くのに、嘘で取り繕った笑顔など、初めから必要ないのだから。
――――
(思い当たる所は全滅か…)
彼女のいそうな場所へ片っ端から出向いて早数時間。
ガラス戸の向こうを振り返ることなく、御手洗は肩を落とす。
駅前の本屋。昔住んでいた住宅地近くの古本屋。
彼女が図書カードを持っていた図書館全部。
蟲寄市の中央図書館、住宅地から車で30分のショッピングモール内の図書館、そして、スイミングスクールのあった市民プールの受付から分岐する、こじんまりした付属図書館。
付属図書館に赴くついでに、昔からいる司書の女性や、スイミングスクールのコーチにもダメ元で彼女のことを訊ねてみたりもしたが、もちろん彼女の10歳以降を知る手がかりは掴めず。
一度探し始めると、家を出る前の躊躇も忘れ、代わりに会いたい気持ちがとめどなく湧いてくる。
そんな前のめりな再会の期待に反して、収穫は皆無と来ている。
午前中から昼過ぎまで電車と足を頼りにあちこち飛び回ったせいか、どっと疲れてしまった。
ガラスの自動ドアを背に市民プールを出た御手洗は、小休止も兼ね、昔住んでいた辺りを歩いてみる。
アイスを買ったコンビニ。お揃いのおまけを貰った駄菓子屋。彼女とよく遊んでいた公園。レモンスカッシュが置かれた自販機の近く。
思い出のよすがの漂う懐かしい場所。
そのどれにも、彼女の姿はない。
喉が渇いたので、電車代の残りでレモンスカッシュを買い、御手洗は公園の屋根付きベンチに座る。
この長方形の東屋も、彼女との記憶にしばしば登場する場所だ。
タブを開け、中身を一口飲むと、逸る心が幾らか落ち着くようだった。
そもそも論として、彼女が今になって蟲寄市に戻って来ているという考えに無理があるのは、重々分かってはいる。
彼女の記憶を取り戻した当初からそこは疑問であったし、桑原との話でも市外にいる可能性のほうが高いだろうと踏んでいた。
(彼女の現住所が市外にあるという考えは、引っ越しが市内で済んでいたなら、一度くらい連絡が来てもいいのでは、という私情込みでの推測だったが)
とはいえ、探し始めの内から市外まで捜索の手を広げるのは難しい。
学生の御手洗には免許証も遠出に耐えうる経済力もないのだから、個人で探せる範囲となると、どうしても市内が限界だ。
音信不通も災いし、彼女の情報を得られるめども立たない。
今日の所は潔く諦め、家に帰って家族に金銭面の相談をしてみるべきだろうか。
小遣いの前借りとは行かなくても、事情を明かし真剣に説得すれば、休日に車を出すくらいはしてくれるはずだ。
中学の頃とは違い、独りで抱え込むばかりで終わるつもりもない。
桑原も頼れと言ってくれたし、話せば聞いてくれる家族がいる。
現実的な思考で納得しようとするも、御手洗はベンチから動こうとしない。
穏当な手順で収めようとする流れに、どういう訳か、飲み下せない滞りを感じずにはいられなかった。
缶を傾け、口当たりのいいレモン風味で喉元の違和感を流し込もうとするが、物理的なものと異なるざらつきは、そんなものでは解消しない。
もやがかる現状を変えられないまま、また缶の中身は空になってしまった。
寄る辺ない面持ちで、御手洗は手元を目で追いつつ、缶を傍らに置く。
瞳に映る黒地の水玉模様に、昨日の自分が重なった風な、妙な錯覚に襲われる。
どうしてあんなにも、彼女との記憶を思い出すことを恐れていたのだろう。
未だに胸を締め付ける、子供時分の思い出から生じたにしては、不相応に根深い罪悪感。
彼女に会おうと思うたび、自分自身が後ろ向きな考えで邪魔していたのは、戸惑いや躊躇だけが原因じゃない。
何か他に、理屈では説明し得ない大きな理由があるように思えてならない。
ありふれた別れの物語で修飾し、綺麗に覆い隠しても、まだ目に余るような。
人の常識や、"この世界"の法則では説明がつかない、本当の理由が――
座面に乗せていた右手が、無意識に微動し、缶に当たる。
転がる缶を拾おうとして、御手洗は一瞬呼吸を止めた。
(そうだ。探さないまま帰るとこだった)
きっかけはやはり、レモンスカッシュの缶。
彼女との思い出の場所。どれよりも多く足を運んだ景色を思い出した。
その場所以外を全て探して、今更行かない選択肢はない。
一番深く心に残っていたはずの場所。
せっかく取り戻せたというのに、行かないで後悔するのは馬鹿らしい。
自分一人の思い込み。
ただの勘違い。
後ろ向きな思いはしつこく胸を掠める。
それでももし、自分が手放したがらないのと同じように、彼女があの場所を、わずかでも心に留めていてくれたなら。
根拠などない希望的観測でも、思い込み激しく信じて、今度こそ彼女の元へ辿り着ける気がしていた。
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