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彼等と関わり合いになった時期から、何年経っただろう。
ふとそんなことを考え、空を仰ぐ。
空は晴れ。
薄い雲でぼやけていたのが、初夏の鮮やかでくっきりとした濃い水色に変わりつつある。
陽気のいい空模様に目を眇めるのは、後ろへかき上げた風な、明るい栗色の髪の少年。
彼の名は御手洗清志。かつて桑原和真に助けられ、彼の仲間と共に仙水忍の計画を阻止せんと奮起した1人だ。
彼はいじめにより人間不信になりかけていた所に仙水忍から人間の本質が映し出されていると称し、人間の負の部分のみを切り取った『黒の章』なるビデオテープを観せられ、人間は悪だと刷り込まれ、魔界の穴を空け、人類全てを破滅に陥れる計画に協力した。
しかし、桑原和真と戦い、彼の友人を決して見捨てない姿勢と、敵である御手洗のことさえも助けた生直ぐな精神に触れ、彼の仲間である浦飯幽助の協力者となり
――最後には、何もかも見失う人生の行き止まりのような窮境を脱却した。
振り返るたび、あの出来事は自分にとって悪い夢か何かだったようにも思える。
けれど、桑原和真やその仲間達との短い時間も、過去に自分が犯した罪も、戒めとして今も深く心に刻み、この先も決して忘れることはない。
不意に心の片隅を零れた胸懐を閉じ、御手洗は今の自分に立ち返る。
受験に響かない高1の夏に短期留学を済ませ、環境問題や国際的な人道支援について学びを深めた彼は、帰国後は学業の傍ら休日や放課後を利用して学生ボランティアを行っている。
学生ボランティアというのは基本的に学園の仲介を通したり、団体に直接連絡するか、説明会に参加して活動を行うが、今週は珍しく付近での募集が少なく、あってもすでに手が足りていて縁がなかった。
何か他に出来ることはと思っていた折、今週の土曜は自治体主導の町内会の清掃活動があると知り、これ幸いと回覧板の参加者名簿に名前を書き込み現在に至る。
今日は夏休み前の1週間が始まる少し前の土曜日。3年生の御手洗にとっては高校最後の夏だ。
1992年からの文部省の方針により、御手洗の通う海雲学園でも月の内第2土曜日と第4土曜日は休業日となっている。
早朝の冴えた空気が昼間の温い空気に切り替わろうとしているのを肌で感じつつ、道の端から端まで目を凝らす。
清掃活動とはとどのつまりただのゴミ拾いであるが、若者の参加が少なく、中高年者ばかりで人手を賄っていた為、御手洗の参加は歓迎された。
実際にやってみると町内清掃だけでなく地域住民との交流も兼ねたよい活動で、もう少し関心が集まってもいい気もするが、かと言って学生なら休日くらい自由に遊びたいと思うのが人情であるし、近所に住む若者は全員強制参加、などという訳にも行かない。
それに、ボランティア活動を始める以前は、彼自身も町内イベントの類はほぼスルーだった。
この辺りには14歳の頃、転校を機に越して来たのだが、前述のボランティアの延長で近隣住民との交流も増え、御手洗は近所の主婦達や子供とも顔見知りになっている。ことに高齢者達からは『今時珍しい感心な若者』として半ば共同の孫じみた扱いを受けていた。
昔や今までの軌跡に思いを馳せつつ、たまにすれ違う町内の者と挨拶を交わし、細々としたゴミを拾う。
それにしても、この辺りは吸い殻が多い。
「いやァ、っぱあのCDショップセンスいいわー!」
「なーんで皿屋敷市にないんですかね、そこがネックっすよ」
「市内の規模の違いだな。いちおこっちのが面積広いし人口も多いだろ?隠れ家的な名店ってのは、街中で、店の母数が多いとこの路地裏とかにひっそりあるもんなんだよ」
「つっても隠れ家も隠れ家、看板もねーから情報通が知り合いにいなきゃまず辿り着けねーけどな」
聞き覚えのある声。
その正体は、やはり御手洗の予見通りの人物だった。
通りの向かいから歩いて来る4人組。
その内の高身長でオレンジがかった茶髪のリーゼントヘアーの男と目が合い、相手が立ち止まって一拍ののち、御手洗は無言で頭を深く下げる。
「ん。知り合いすか、桑原さん?」
仲間内の一人がリーゼントの男の名を呼び、そう尋ねる。
「ああ。昔のダチだ。ちょっくら話してくから、お前ら先行っといてくれや」
誤魔化し方は他に幾らでもあるはずだが、彼が昔のダチだという表現を選ぶことに、嬉しさと、それ以上の申し訳無さを覚える。
友人3人は頭を下げたままの御手洗を若干怪訝そうにちらと見つつも、桑原に断り駅の方へ向かった。
3人分の足音が遠ざかり、御手洗はゆっくりと頭を上げる。
すると、目の前に来ていた彼に、激励の如く挨拶された。
「久しぶりじゃねーか御手洗!こないだも年賀状サンキューな!」
「桑原くんも、毎年ありがとう」
定期的な手紙のやり取りまでは出来ていないが、桑原とは今でも細く繋がっているような関係だ。
「にしても、デケーゴミ袋だな。ゴミ出し忘れたのか?」
年末の大掃除で使うような大容量のゴミ袋を不思議そうに眺める桑原に、御手洗はもう片方の手にある火ばさみを見せて答える。
「今日は町内会の清掃活動があって」
「おっまえ、健康優良少年が花の休日にゴミ拾いかよ!たまにゃ適度に息抜きして遊んでけよなァ!?」
「身近な所からやるのが大事だからね」
ニコニコ豪快に背中を叩かれ、御手洗も小さく頬を緩めて返した。
「真面目にやってんじゃねーか。安心したぜ」
相変わらず体格といい面相といい迫力満点だが、にっと大きく笑う彼の笑顔は屈託がなく、身長は更に伸びたが生直ぐな中身は昔と何も変わっていないと分かって、つい肩の力が抜けてしまう。
先ほど御手洗を昔の友人と言い切ったことも、他の3人を先に行かせたのも、御手洗に少しでも後ろめたい過去を振り返らせない為の気づかいだと彼自身も理解していた。
道中の空き缶などを拾いながら、御手洗と桑原は入り組んだ小道の奥にある少し開けた場所に着き、休憩も兼ね短い階段に並んで腰を下ろす。
久しぶりの再会で、近況などを教え合い、彼等の話は大いに弾んだ。
「は〜!スゲーなお前、高1で留学ってか」
「家族のおかげで出来たことだよ。勉強の為とはいえ、未だに負担かけっぱなしだし」
「もちろん、環境問題や紛争被害地域への支援について学んだり…得るものも沢山あったけど」
「迎えてくれたホストファミリーの方にもすごく良くしてもらって。たまにエアメール送ってくれるんだ。ボクにとっては、向こうの家族みたいなものかな」
「ホントに立派んなったなァ…オレもうかうかしてらんねーぜ」
「ボクからしたら、桑原くんほど立派な人、そういないと思うけどね」
「なーにナマ言ってんだ。タッパも中身もそんだけ成長すりゃ、オレなんかすぐ追い越しちまうぜ!」
ご機嫌な桑原はいいながら御手洗にヘッドロックをかける真似をする。桑原の筋力と体格もあり、真似でも微妙に痛い。
「わっ、ちょ、桑原くん!ギブギブ!」
中学生男子じみたおふざけもそこそこに、桑原は御手洗の肩をひとつ叩き、近くの自販機の前に立つ。
「うお、懐けー。姉ちゃんがたまに買ってくれたっけか」
「そこの当たり付き自販機、珍しいの結構多いんだよ」
値段が表示された押しボタンスイッチに併せずらりと並ぶ缶やペットボトル飲料のダミーラベルを検め、感心げな桑原に言い添える御手洗。
硬貨を入れボタンを押してすぐ、桑原は何やら面白い体勢で腕や足を曲げ自販機の前でややのけ反る。
「おおっ!?なんだなんだァ!?」
座ったままで遠目から御手洗も覗き込むと、自販機がチカチカと光り、電光掲示部分にクラッカーの絵が表示されていたので、微笑ましく思いながら仕組みを教えた。
「桑原くん運がいいなァ。当たったらそうなるんだ」
御手洗が言い終えるより前に、ガコンという音と共に、自販機の取り出し口へ1つ缶が落ちてくる。
「やる」
幾つか缶を抱えた桑原に振り向きざまにひとつ放られ、御手洗は階段の段差から立ち上がり、熱いものでも拾う格好で2、3ホバリングさせつつすんでの所で缶を受け取る。
「っと、…」
桑原は当たった1本と自分の分を1本持って、御手洗の横にまたどかっと腰を下ろす。
(桑原くん、最初からボクの分も買ってくれてたのか)
「ありがとう」
桑原のこういうちょっとした所も粋というか、中々真似できないと思う御手洗である。
青春の一場面に相応しい平凡なやり取りを終えた彼らだったが、桑原から渡された缶を受け取ってからというもの、御手洗は自身の手元を見下ろす体勢のまま動かなくなる。
桑原が渡したのは、黒地に白い水玉模様がプリントされた、何の変哲もないレモンスカッシュの缶だ。
「……」
御手洗はわずかにまぶたを下ろし、伏目がちになる。憂鬱とも自己嫌悪とも違うある種の内省と、込み上げた寂寥を押さえ付けた所から漏れ出したような、拭っても隠し切れない強い情動の余波が、彼の瞳や口元へと滲んでいた。
寸秒もしない内に、滲む寂寥は、刷毛で薄く塗り重ねたような微笑を含める。
「どした?それ嫌いなら、こっちと交換してやろうか?」
「いや。…むしろ逆っていうか…割と好きだよ」
力なく桑原の横に座り込む御手洗。
缶を受け取ってからの御手洗の様相の変化に、桑原は疑問符を浮かべる。
ただ缶ジュースに向けるものとしては、その表情には余りに不相応な思い入れが窺えた。
「そうか?ならいーけどよ」
さっきの和やかな空気から一転、鳴りを潜めた癖毛の少年に痺れを切らし、桑原が口を開く。
「急に辛気くせェツラしてんなよ御手洗。心配ごとあんならこの際まるっと話してみろ。とことん聞くぜ」
「心配…とは違うんだけど」
「思い出したことがあって」
語り出すのはためらわれた。
口に出してしまったら最後、かつての記憶がリフレインし、鮮やかで痛ましい別れの光景に、後悔と罪の意識で耐えきれなくなるのが想像できるから。
そう思っていたはずだが、心と体の意思が相反し、引き結んだ唇は呼び起こした悔恨と、水浸しでふやけたかさぶたにも等しい古ぼけた思慕の念を台詞に起こして紡いでいく。
まるで、小説のページの上に薄い紙を一枚重ね、印字された羅列を無暗に書き写すように。
「ボク、昔スイミングスクール通ってたんだけど。…12歳の頃、体験入学から入って来た女の子がいて」
「一緒に泳いだり、帰り道で話したりする内に、休みの日も遊ぶようになって」
「遊び疲れた時とか、その子とよく飲んでたなって。これ」
「なんでこんな大事なこと、忘れてたんだろ」
「彼女…今、どうしてるのかな」
「お前、そいつに惚れてたんか?」
「……かも知れない」
「でも、そんないい話じゃないよ。ボクのは」
ここで止めなければ。頭ではそう思った。
視界に流れ込む掠れた記憶。あの頃の自分より背の高い、彼女の小さな口元。その微笑は震えている。
……違う。彼女じゃない。
震えているのは、自分の視界。
まぶたの合間に溜まった涙で、あの頃の彼女と景色の全てが、おぼろげに歪んで、震えていた。
「ある日、いつもみたいに二人で帰ってたら、学校のクラスメイトと鉢合わせちゃったんだ」
「彼女と一緒にいることを囃し立てられて。その頃はまだ苗字からかわれるぐらいだったけど、彼女まで標的になったらと思うと、すごく怖くて」
「けどボク、ケンカ強くないし、あいつらを追い返す上手い言葉も思いつかないし…どうしていいか分からなくなって」
「とっさに、『お前なんか知らない。友達でもなんでもない。あっち行けよ』って…彼女に…」
「……」
ことのあらましを聞き届け、語尾を消す御手洗に、流石の桑原も黙るしかない様子だ。
「その時の彼女の顔を見て、後悔した。ひどいこと言っちゃったから、彼女はもう遊んでくれなくなるんだろうな、とか…嫌な考えばかり頭に巡って」
「次の日、家まで謝りに行ったら、彼女はもういなくて。近所の人に聞いたら、昨日引っ越した、って」
「その後は連絡も取れないし……ずっとそのまま」
「別れた日の彼女、朝から様子がおかしかったんだ。元気がないっていうか…何話してても上の空って感じで。今思えば、彼女も引越しのことを言うタイミングを探してたんだと思う」
足を広げ座り込む桑原は、なにも御手洗の告解や過去話自体を深刻に捉え黙っているのではない。
どちらかといえば、御手洗の打ちひしがれた様子に、かけるべき言葉が見つからないと表現するのが正しいだろう。
自分の分の可愛らしい乳酸菌炭酸飲料の缶を一口あおり、険しい横顔がようやっと連ねる所見は、潰れかけた御手洗の自信と後ろ向きな心根を一時持ち直させてくれた。
「なんつーのかねェ……聞いててもにょもにょするっつーか……甘酸っぺー話だなオイ…」
「かァー!甘酸っぺー!田舎から届いた佐藤錦ばりに甘酸っぺーわ!」
(佐藤錦だったら割と甘めなんじゃないか…?)
冷静に心の中でツッコむ御手洗。
コミカルな雰囲気にわずかに気を逸らしかけるも、呼び起こされた記憶が鮮明になるごとに、こびり付いた未練や、あの時の自分の姿が焼き直されて、段々と胸に迫る胸懐の大きさに、誤魔化せなくなる。
桑原の大げさな反応さえ場の空気を軽くしようとしてくれている風に思えて、感謝と後ろめたさに御手洗は自分が情けなくなり、短く空笑いする。
「はは…ほんとバカだよね。せっかく彼女と二人でいられる最後の日だったのに……ひどいこと言って、お別れも台無しにしちゃって…」
この想起は、誰が聞いてもただの淡い思い出話。桑原の言う通り、幼い頃の甘酸っぱい恋の顛末。
それでも、御手洗にとっては、この想起は犯した罪の懺悔に他ならなかった。
子供時分の浅慮と不器用さが起こした、小さな恋の終わり。
大人が聞けばそれもよい思い出と一笑に付すだろう、児童書か漫画本のようにありふれた、その程度の、悲しい別れ。
それだけのことが、どうしてこんなにも耐え難いのだろう。今すぐにこの場から逃げ出して、自分の何もかもなげうち償いたいと願うほどに。
全て解消し吹っ切ったつもりで、微塵も省みることなく、彼女にまつわる部分だけ、綺麗さっぱり忘れていたことも。後悔と片付けるには余りに重く根深い罪の意識を、こんな単純なきっかけで思い出してしまったことも。
もし今の彼女が知ったなら、どう思うのだろう。
「後悔してんなら、今からでも行動してみるっつーのはどうよ」
ぽん、と置かれた何気ない調子の助言に、覚えず吸気し隣を見やる。
前にも思ったことがあるが、目前のリーゼントの彼は人の心が読めるのだろうか。
まさに、御手洗の内心に綴る独白に地続きで返事をされたような気分だった。
「オレにも雪菜さんと言う心に決めた人がいる!種族は違うし、人間とも色々あった人だが、それでもオレをいい友達だって言ってくれる!オレの気持ちが叶おうが叶うまいが、漢桑原ッ!これからも雪菜さんの近くで、雪菜さんをずっと想い続けて行くつもりだぜ!!」
「今の話だって、ただ思い出してオレにせがまれたからしたってだけじゃねーんだろ!?別れ際にとっさに言っちまったことを後悔してる…要はいっちょ決めるから背中押して欲しいってことだろ!だったらいくらでも押してやんぜ!!」
「そう言う訳じゃ……ただ、思い出したばかりで、ボクも自分の気持ちを持って行く所がなくて」
「その子、昔は蟲寄市にいたんだろ?」
「そうだけど…でも、今はどこにいるかも知らないし…」
「だったら市内中駆け回って探せ」
「ええぇっ!!?」
ガバっと桑原の方に半身を向け片膝を立てたような格好で驚く御手洗。
拍子抜けする暇もなくあっけらかんと口走るので、危うく聞き逃す所だった。
「市内中探していなけりゃ市外に出て探す。県内にいなきゃ県外。日本中探して、それでいなけりゃ海外よ!世界中、どこまででも探して、会いに行ってやれ!!」
「や、だって、今会っても何話したらいいか」
「簡単なこったろォ!会って、別れた日のこと謝ってケジメつけてから、オメーの気持ち全部伝えりゃいいんだ!!」
先程までの重苦しさはさておきとばかりに、べらんめぇ風味な威勢の良さで話が勝手に進んでいる。本当に彼は良くも悪くもノリが強い。
このままではこのタイミングを絶好機として思い出の相手探しに連れ出されそうな勢いだ。
「そんなめちゃくちゃな…」
半端な困り笑顔で頬に一筋汗を浮かべる御手洗。
やんわり苦笑いを湛えていた顔が、次第に目元や口元からその色を消し、視線を横に逸らしたことで、御手洗は幾度も見たレンガブロックの足元とまた目線を交わす。
「ボクが謝って、気持ちを押し付けて、すっきりしたいだけで…その為に会いに行くなんて、そんなの自己満足じゃないか。彼女だって…勝手に謝られた上、今更好きだなんて言われても困るよ、きっと」
きっとは断定に近いニュアンスでも使うが、恐らく、多分と言う意味合いにも取れる。彼女の胸の内として一番現実的だと思える内容を保険のように口にしておいて、最後に添えた短い語句が、自分の言葉であるからこそ、未練がましく聞こえてならない。
「何もしねェ内から自己満足とか決めつけんな!その子がどう受け止めるかだろ!?その子がどう思ってるのか確かめもしねェで、また自分だけで終わらせる気か!?」
「独りで考えて、悪いほうに決めつけて腐るのはオメーの悪い癖だ。オメーは自分のこと弱いとか言ってやがったが、それは違う。」
「腕っぷしだの啖呵切るだの、そんな上辺だけのもんじゃねェ。お前は自分で自分の間違いに気づいて、自分の足で立ったんだ。ほんとに弱ぇヤツは一生気付けねェ、気付こうともしねェ自分の弱さってのを見つめて、それを認められるのがオメーの強さだ!」
「さっきみてーにくよくよ考えるのだって、オメー次第でいくらでも強みに出来るんだぜ!?悪いほうに悩むんじゃなく、大事なこと、オメーがすべきこと、したいことを考えろ!そうやって、オメーがいいほうに信じりゃいいんだ!御手洗!!」
「御手洗、さっきオレのこと立派だっつったろ?――だったら、オレの言葉を信じろ!」
両肩を鷲掴みにされ渡される真っ直ぐな励ましに、温かみを受け取るごとに、背中にのしかかる悔恨と自責が、御手洗の忌まわしい過去を頭に過ぎらせる。
「ボクは……強くなんかない」
「色んな人に迷惑かけて、寄りかかって…やっと前を向けるようになったんだ」
「――"あれ"を観る前から、ボクは――」
「御手洗!」
叫ぶのとも違う真剣な声音で名前を呼ばれ、その先を遮られる。
「いいんだ。余計なこたァ思い出す必要ねェ」
御手洗の過去、特に14歳の頃を知っていれば、止めるのはもっともだ。
しかし、御手洗が本題にしているのは、自身の精神的外傷というべき例の経験ではない。
御手洗はやおら顔を上げ、静かな面持ちで正面の通りを見据えて続ける。
「違うんだ。昔……桑原くんと色々あった後、介抱してくれたぼたんさんに、聞いてもらった覚えがある」
「ボク、ずっと何かが心の中で引っかかって、くすぶってるような気がしてた。違和感はあっても、確かなものが掴めなくて…思い出せないまま、自分の辛さに押し潰されて、頭の隅にそれを追いやってしまっていた」
「色々辛い時期に、あれを観たから…今も自分の中にある焦りや、罪の意識みたいなものは、そのせいだと思ってた」
「今なら分かる。黒の章なんか関係ない。あのビデオを観る前から、ボクは何か"償わなきゃいけないこと"があったような気がしてたんだ。あの頃、ボクが頭の隅に追いやったものを、もっと真剣に考えられていたら……"どうしたらいいか"の答えにたどり着けたはずだったのに」
「誰かに謝りたかった。――ボクは、彼女に……純ちゃんに……謝りたかった。」
下げた眉を寄せ、僅かに御手洗の表情に陰りが帯びる。
ここまで気付いてしまったら、もう逃げられない。
とっくの昔に知っていて、だからこそ、思い出したくなんてなかった。
根深い罪の意識と後悔。ただのありふれた恋の思い出が、心を抉り、胸を苛む理由。
どうして。
そんなこと、改めて問うまでもない。
ボクが彼女を、好きだったから。
自分のこれまでもこれからも、何もかもなげうち、生涯を捧げてでも守りたい大切な人だったからだ。
いや。"だった"からこそ、今でも……――――。
観念した顔で俯く御手洗に、桑原は常人には計り知れない凄まじい経験を関係ないと言い切った彼に、単なる子どもの思い出話に留まらない、悲愴な罪の意識を感じ取っていた。
「お前にとって、その子とのことは、そこまで大事な思い出だったんだな」
「でも…怖いんだ。彼女にとって、ボクとの思い出なんて、思い出すのも嫌なものでしかなくて…ボクのことも、顔も見たくないぐらいに傷付けていたなら…ボクが会ったりなんかしたら、それを掘り返すことにしかならない…」
「彼女にもうあんな顔させたくない…傷付けたくない……彼女に嫌われてるかもって、その思い込みが自分だけのものかどうかを確かめて、知るのが怖い」
「……だったらいっそ、このままボク独りの話で終わらせて、全部しまっておいたほうがいいんだ」
「……」
「お前……結局めちゃくちゃ好きなんじゃねーか。」
こうもはっきりといわれてしまっては、泣く気にもなれない。
「……言ってしまった言葉は、取り消せない」
「どんなに戻りたくても……楽しかったあの頃には戻れない」
これだって、他人が聞けば昔の未練に後ろ髪を引かれているだけの、ただの恋愛相談だ。
桑原も、御手洗の語り始めにはそう思っていたし、昔の恋愛の消化不良を相談しているものと納得しているつもりだった。
されど、桑原の勘はよく当たる。
道端でうずくまる少年が、ひょっとすると、何かを掴みかけているように見えて、どうあっても、余計な世話を焼きたい気持ちにさせられてしまった。
14歳の頃とは状況も違う所で、また道に迷おうとしている彼が、自身の強い決意によって、本当に悔いのない選択を掴み取る。
その手伝いをしたいと思う一心で、つい口を滑らせてしまった。
「確かにお前は、強くなんかねェかもな」
「桑原く…」
「だったらよ。――強くなれ、御手洗。」
被せる形で告げられる言葉で、御手洗はにわかに瞠目し、桑原を見向く。
視線の先には、御手洗と向き合う強面の、頼もしいくらいに頑なな意志を宿した切れ長の目で彼を射る、いつかの恩人の姿があった。
「その子が本気で大事なら、根性見せやがれ!!」
いつも通り熱血に鼓舞する台詞が合図のように、数歩先の木陰から年配の女性に声をかけられ、御手洗と桑原は我に返る。
清掃活動に参加していた近所の顔見知りで、御手洗にみんなで休憩するので輪に加わらないかと伝えに来たらしい。
すぐ行きますという御手洗の返答にこやかに手を振り立ち去る女性が見えなくなると、桑原が頬をかきながら自省と謝意を兼ね御手洗にいう。
「さっきは熱くなりすぎた。けしかけるみてーなこと言って悪かったな」
「いや。ボクも、少し弱気になってた」
中身の詰まったゴミ袋と火ばさみを片手に掴み、空いた手で話の途中で階段の段差に置いていたレモンスカッシュの缶を拾い上げる。
缶を持つ手元をまた一瞥し、桑原を見上げる顔は、淋しげなようでいて、薄める青みがかった瞳から、後ろ暗いわだかまりや曇りは消えていた。
「彼女のこと…探し出せるか分からないけど、やるだけやってみるよ」
どうやら腹が決まった様子の御手洗に、内心安堵し厳しい顔を和らげる桑原。
「行き詰まったらいつでも言え。授業ねー時は手伝ってやっからよ」
連絡先を書いて渡そうとポケットを探るも、休日の桑原に都合よく筆記用具の持ち合わせはない。
結局数分前の女性の所まで出向き、身振り手振りと共に事情を伝え、手帳の切れ端に借り物のボールペンで走り書きした家の電話番号を手渡してくれた。
慌てる心待ちに傾き、恥ずかしいのを誤魔化しにへらとはにかむ桑原。
どうにもしまらないのが、また彼らしくて、御手洗もつられて笑った。
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ふとそんなことを考え、空を仰ぐ。
空は晴れ。
薄い雲でぼやけていたのが、初夏の鮮やかでくっきりとした濃い水色に変わりつつある。
陽気のいい空模様に目を眇めるのは、後ろへかき上げた風な、明るい栗色の髪の少年。
彼の名は御手洗清志。かつて桑原和真に助けられ、彼の仲間と共に仙水忍の計画を阻止せんと奮起した1人だ。
彼はいじめにより人間不信になりかけていた所に仙水忍から人間の本質が映し出されていると称し、人間の負の部分のみを切り取った『黒の章』なるビデオテープを観せられ、人間は悪だと刷り込まれ、魔界の穴を空け、人類全てを破滅に陥れる計画に協力した。
しかし、桑原和真と戦い、彼の友人を決して見捨てない姿勢と、敵である御手洗のことさえも助けた生直ぐな精神に触れ、彼の仲間である浦飯幽助の協力者となり
――最後には、何もかも見失う人生の行き止まりのような窮境を脱却した。
振り返るたび、あの出来事は自分にとって悪い夢か何かだったようにも思える。
けれど、桑原和真やその仲間達との短い時間も、過去に自分が犯した罪も、戒めとして今も深く心に刻み、この先も決して忘れることはない。
不意に心の片隅を零れた胸懐を閉じ、御手洗は今の自分に立ち返る。
受験に響かない高1の夏に短期留学を済ませ、環境問題や国際的な人道支援について学びを深めた彼は、帰国後は学業の傍ら休日や放課後を利用して学生ボランティアを行っている。
学生ボランティアというのは基本的に学園の仲介を通したり、団体に直接連絡するか、説明会に参加して活動を行うが、今週は珍しく付近での募集が少なく、あってもすでに手が足りていて縁がなかった。
何か他に出来ることはと思っていた折、今週の土曜は自治体主導の町内会の清掃活動があると知り、これ幸いと回覧板の参加者名簿に名前を書き込み現在に至る。
今日は夏休み前の1週間が始まる少し前の土曜日。3年生の御手洗にとっては高校最後の夏だ。
1992年からの文部省の方針により、御手洗の通う海雲学園でも月の内第2土曜日と第4土曜日は休業日となっている。
早朝の冴えた空気が昼間の温い空気に切り替わろうとしているのを肌で感じつつ、道の端から端まで目を凝らす。
清掃活動とはとどのつまりただのゴミ拾いであるが、若者の参加が少なく、中高年者ばかりで人手を賄っていた為、御手洗の参加は歓迎された。
実際にやってみると町内清掃だけでなく地域住民との交流も兼ねたよい活動で、もう少し関心が集まってもいい気もするが、かと言って学生なら休日くらい自由に遊びたいと思うのが人情であるし、近所に住む若者は全員強制参加、などという訳にも行かない。
それに、ボランティア活動を始める以前は、彼自身も町内イベントの類はほぼスルーだった。
この辺りには14歳の頃、転校を機に越して来たのだが、前述のボランティアの延長で近隣住民との交流も増え、御手洗は近所の主婦達や子供とも顔見知りになっている。ことに高齢者達からは『今時珍しい感心な若者』として半ば共同の孫じみた扱いを受けていた。
昔や今までの軌跡に思いを馳せつつ、たまにすれ違う町内の者と挨拶を交わし、細々としたゴミを拾う。
それにしても、この辺りは吸い殻が多い。
「いやァ、っぱあのCDショップセンスいいわー!」
「なーんで皿屋敷市にないんですかね、そこがネックっすよ」
「市内の規模の違いだな。いちおこっちのが面積広いし人口も多いだろ?隠れ家的な名店ってのは、街中で、店の母数が多いとこの路地裏とかにひっそりあるもんなんだよ」
「つっても隠れ家も隠れ家、看板もねーから情報通が知り合いにいなきゃまず辿り着けねーけどな」
聞き覚えのある声。
その正体は、やはり御手洗の予見通りの人物だった。
通りの向かいから歩いて来る4人組。
その内の高身長でオレンジがかった茶髪のリーゼントヘアーの男と目が合い、相手が立ち止まって一拍ののち、御手洗は無言で頭を深く下げる。
「ん。知り合いすか、桑原さん?」
仲間内の一人がリーゼントの男の名を呼び、そう尋ねる。
「ああ。昔のダチだ。ちょっくら話してくから、お前ら先行っといてくれや」
誤魔化し方は他に幾らでもあるはずだが、彼が昔のダチだという表現を選ぶことに、嬉しさと、それ以上の申し訳無さを覚える。
友人3人は頭を下げたままの御手洗を若干怪訝そうにちらと見つつも、桑原に断り駅の方へ向かった。
3人分の足音が遠ざかり、御手洗はゆっくりと頭を上げる。
すると、目の前に来ていた彼に、激励の如く挨拶された。
「久しぶりじゃねーか御手洗!こないだも年賀状サンキューな!」
「桑原くんも、毎年ありがとう」
定期的な手紙のやり取りまでは出来ていないが、桑原とは今でも細く繋がっているような関係だ。
「にしても、デケーゴミ袋だな。ゴミ出し忘れたのか?」
年末の大掃除で使うような大容量のゴミ袋を不思議そうに眺める桑原に、御手洗はもう片方の手にある火ばさみを見せて答える。
「今日は町内会の清掃活動があって」
「おっまえ、健康優良少年が花の休日にゴミ拾いかよ!たまにゃ適度に息抜きして遊んでけよなァ!?」
「身近な所からやるのが大事だからね」
ニコニコ豪快に背中を叩かれ、御手洗も小さく頬を緩めて返した。
「真面目にやってんじゃねーか。安心したぜ」
相変わらず体格といい面相といい迫力満点だが、にっと大きく笑う彼の笑顔は屈託がなく、身長は更に伸びたが生直ぐな中身は昔と何も変わっていないと分かって、つい肩の力が抜けてしまう。
先ほど御手洗を昔の友人と言い切ったことも、他の3人を先に行かせたのも、御手洗に少しでも後ろめたい過去を振り返らせない為の気づかいだと彼自身も理解していた。
道中の空き缶などを拾いながら、御手洗と桑原は入り組んだ小道の奥にある少し開けた場所に着き、休憩も兼ね短い階段に並んで腰を下ろす。
久しぶりの再会で、近況などを教え合い、彼等の話は大いに弾んだ。
「は〜!スゲーなお前、高1で留学ってか」
「家族のおかげで出来たことだよ。勉強の為とはいえ、未だに負担かけっぱなしだし」
「もちろん、環境問題や紛争被害地域への支援について学んだり…得るものも沢山あったけど」
「迎えてくれたホストファミリーの方にもすごく良くしてもらって。たまにエアメール送ってくれるんだ。ボクにとっては、向こうの家族みたいなものかな」
「ホントに立派んなったなァ…オレもうかうかしてらんねーぜ」
「ボクからしたら、桑原くんほど立派な人、そういないと思うけどね」
「なーにナマ言ってんだ。タッパも中身もそんだけ成長すりゃ、オレなんかすぐ追い越しちまうぜ!」
ご機嫌な桑原はいいながら御手洗にヘッドロックをかける真似をする。桑原の筋力と体格もあり、真似でも微妙に痛い。
「わっ、ちょ、桑原くん!ギブギブ!」
中学生男子じみたおふざけもそこそこに、桑原は御手洗の肩をひとつ叩き、近くの自販機の前に立つ。
「うお、懐けー。姉ちゃんがたまに買ってくれたっけか」
「そこの当たり付き自販機、珍しいの結構多いんだよ」
値段が表示された押しボタンスイッチに併せずらりと並ぶ缶やペットボトル飲料のダミーラベルを検め、感心げな桑原に言い添える御手洗。
硬貨を入れボタンを押してすぐ、桑原は何やら面白い体勢で腕や足を曲げ自販機の前でややのけ反る。
「おおっ!?なんだなんだァ!?」
座ったままで遠目から御手洗も覗き込むと、自販機がチカチカと光り、電光掲示部分にクラッカーの絵が表示されていたので、微笑ましく思いながら仕組みを教えた。
「桑原くん運がいいなァ。当たったらそうなるんだ」
御手洗が言い終えるより前に、ガコンという音と共に、自販機の取り出し口へ1つ缶が落ちてくる。
「やる」
幾つか缶を抱えた桑原に振り向きざまにひとつ放られ、御手洗は階段の段差から立ち上がり、熱いものでも拾う格好で2、3ホバリングさせつつすんでの所で缶を受け取る。
「っと、…」
桑原は当たった1本と自分の分を1本持って、御手洗の横にまたどかっと腰を下ろす。
(桑原くん、最初からボクの分も買ってくれてたのか)
「ありがとう」
桑原のこういうちょっとした所も粋というか、中々真似できないと思う御手洗である。
青春の一場面に相応しい平凡なやり取りを終えた彼らだったが、桑原から渡された缶を受け取ってからというもの、御手洗は自身の手元を見下ろす体勢のまま動かなくなる。
桑原が渡したのは、黒地に白い水玉模様がプリントされた、何の変哲もないレモンスカッシュの缶だ。
「……」
御手洗はわずかにまぶたを下ろし、伏目がちになる。憂鬱とも自己嫌悪とも違うある種の内省と、込み上げた寂寥を押さえ付けた所から漏れ出したような、拭っても隠し切れない強い情動の余波が、彼の瞳や口元へと滲んでいた。
寸秒もしない内に、滲む寂寥は、刷毛で薄く塗り重ねたような微笑を含める。
「どした?それ嫌いなら、こっちと交換してやろうか?」
「いや。…むしろ逆っていうか…割と好きだよ」
力なく桑原の横に座り込む御手洗。
缶を受け取ってからの御手洗の様相の変化に、桑原は疑問符を浮かべる。
ただ缶ジュースに向けるものとしては、その表情には余りに不相応な思い入れが窺えた。
「そうか?ならいーけどよ」
さっきの和やかな空気から一転、鳴りを潜めた癖毛の少年に痺れを切らし、桑原が口を開く。
「急に辛気くせェツラしてんなよ御手洗。心配ごとあんならこの際まるっと話してみろ。とことん聞くぜ」
「心配…とは違うんだけど」
「思い出したことがあって」
語り出すのはためらわれた。
口に出してしまったら最後、かつての記憶がリフレインし、鮮やかで痛ましい別れの光景に、後悔と罪の意識で耐えきれなくなるのが想像できるから。
そう思っていたはずだが、心と体の意思が相反し、引き結んだ唇は呼び起こした悔恨と、水浸しでふやけたかさぶたにも等しい古ぼけた思慕の念を台詞に起こして紡いでいく。
まるで、小説のページの上に薄い紙を一枚重ね、印字された羅列を無暗に書き写すように。
「ボク、昔スイミングスクール通ってたんだけど。…12歳の頃、体験入学から入って来た女の子がいて」
「一緒に泳いだり、帰り道で話したりする内に、休みの日も遊ぶようになって」
「遊び疲れた時とか、その子とよく飲んでたなって。これ」
「なんでこんな大事なこと、忘れてたんだろ」
「彼女…今、どうしてるのかな」
「お前、そいつに惚れてたんか?」
「……かも知れない」
「でも、そんないい話じゃないよ。ボクのは」
ここで止めなければ。頭ではそう思った。
視界に流れ込む掠れた記憶。あの頃の自分より背の高い、彼女の小さな口元。その微笑は震えている。
……違う。彼女じゃない。
震えているのは、自分の視界。
まぶたの合間に溜まった涙で、あの頃の彼女と景色の全てが、おぼろげに歪んで、震えていた。
「ある日、いつもみたいに二人で帰ってたら、学校のクラスメイトと鉢合わせちゃったんだ」
「彼女と一緒にいることを囃し立てられて。その頃はまだ苗字からかわれるぐらいだったけど、彼女まで標的になったらと思うと、すごく怖くて」
「けどボク、ケンカ強くないし、あいつらを追い返す上手い言葉も思いつかないし…どうしていいか分からなくなって」
「とっさに、『お前なんか知らない。友達でもなんでもない。あっち行けよ』って…彼女に…」
「……」
ことのあらましを聞き届け、語尾を消す御手洗に、流石の桑原も黙るしかない様子だ。
「その時の彼女の顔を見て、後悔した。ひどいこと言っちゃったから、彼女はもう遊んでくれなくなるんだろうな、とか…嫌な考えばかり頭に巡って」
「次の日、家まで謝りに行ったら、彼女はもういなくて。近所の人に聞いたら、昨日引っ越した、って」
「その後は連絡も取れないし……ずっとそのまま」
「別れた日の彼女、朝から様子がおかしかったんだ。元気がないっていうか…何話してても上の空って感じで。今思えば、彼女も引越しのことを言うタイミングを探してたんだと思う」
足を広げ座り込む桑原は、なにも御手洗の告解や過去話自体を深刻に捉え黙っているのではない。
どちらかといえば、御手洗の打ちひしがれた様子に、かけるべき言葉が見つからないと表現するのが正しいだろう。
自分の分の可愛らしい乳酸菌炭酸飲料の缶を一口あおり、険しい横顔がようやっと連ねる所見は、潰れかけた御手洗の自信と後ろ向きな心根を一時持ち直させてくれた。
「なんつーのかねェ……聞いててもにょもにょするっつーか……甘酸っぺー話だなオイ…」
「かァー!甘酸っぺー!田舎から届いた佐藤錦ばりに甘酸っぺーわ!」
(佐藤錦だったら割と甘めなんじゃないか…?)
冷静に心の中でツッコむ御手洗。
コミカルな雰囲気にわずかに気を逸らしかけるも、呼び起こされた記憶が鮮明になるごとに、こびり付いた未練や、あの時の自分の姿が焼き直されて、段々と胸に迫る胸懐の大きさに、誤魔化せなくなる。
桑原の大げさな反応さえ場の空気を軽くしようとしてくれている風に思えて、感謝と後ろめたさに御手洗は自分が情けなくなり、短く空笑いする。
「はは…ほんとバカだよね。せっかく彼女と二人でいられる最後の日だったのに……ひどいこと言って、お別れも台無しにしちゃって…」
この想起は、誰が聞いてもただの淡い思い出話。桑原の言う通り、幼い頃の甘酸っぱい恋の顛末。
それでも、御手洗にとっては、この想起は犯した罪の懺悔に他ならなかった。
子供時分の浅慮と不器用さが起こした、小さな恋の終わり。
大人が聞けばそれもよい思い出と一笑に付すだろう、児童書か漫画本のようにありふれた、その程度の、悲しい別れ。
それだけのことが、どうしてこんなにも耐え難いのだろう。今すぐにこの場から逃げ出して、自分の何もかもなげうち償いたいと願うほどに。
全て解消し吹っ切ったつもりで、微塵も省みることなく、彼女にまつわる部分だけ、綺麗さっぱり忘れていたことも。後悔と片付けるには余りに重く根深い罪の意識を、こんな単純なきっかけで思い出してしまったことも。
もし今の彼女が知ったなら、どう思うのだろう。
「後悔してんなら、今からでも行動してみるっつーのはどうよ」
ぽん、と置かれた何気ない調子の助言に、覚えず吸気し隣を見やる。
前にも思ったことがあるが、目前のリーゼントの彼は人の心が読めるのだろうか。
まさに、御手洗の内心に綴る独白に地続きで返事をされたような気分だった。
「オレにも雪菜さんと言う心に決めた人がいる!種族は違うし、人間とも色々あった人だが、それでもオレをいい友達だって言ってくれる!オレの気持ちが叶おうが叶うまいが、漢桑原ッ!これからも雪菜さんの近くで、雪菜さんをずっと想い続けて行くつもりだぜ!!」
「今の話だって、ただ思い出してオレにせがまれたからしたってだけじゃねーんだろ!?別れ際にとっさに言っちまったことを後悔してる…要はいっちょ決めるから背中押して欲しいってことだろ!だったらいくらでも押してやんぜ!!」
「そう言う訳じゃ……ただ、思い出したばかりで、ボクも自分の気持ちを持って行く所がなくて」
「その子、昔は蟲寄市にいたんだろ?」
「そうだけど…でも、今はどこにいるかも知らないし…」
「だったら市内中駆け回って探せ」
「ええぇっ!!?」
ガバっと桑原の方に半身を向け片膝を立てたような格好で驚く御手洗。
拍子抜けする暇もなくあっけらかんと口走るので、危うく聞き逃す所だった。
「市内中探していなけりゃ市外に出て探す。県内にいなきゃ県外。日本中探して、それでいなけりゃ海外よ!世界中、どこまででも探して、会いに行ってやれ!!」
「や、だって、今会っても何話したらいいか」
「簡単なこったろォ!会って、別れた日のこと謝ってケジメつけてから、オメーの気持ち全部伝えりゃいいんだ!!」
先程までの重苦しさはさておきとばかりに、べらんめぇ風味な威勢の良さで話が勝手に進んでいる。本当に彼は良くも悪くもノリが強い。
このままではこのタイミングを絶好機として思い出の相手探しに連れ出されそうな勢いだ。
「そんなめちゃくちゃな…」
半端な困り笑顔で頬に一筋汗を浮かべる御手洗。
やんわり苦笑いを湛えていた顔が、次第に目元や口元からその色を消し、視線を横に逸らしたことで、御手洗は幾度も見たレンガブロックの足元とまた目線を交わす。
「ボクが謝って、気持ちを押し付けて、すっきりしたいだけで…その為に会いに行くなんて、そんなの自己満足じゃないか。彼女だって…勝手に謝られた上、今更好きだなんて言われても困るよ、きっと」
きっとは断定に近いニュアンスでも使うが、恐らく、多分と言う意味合いにも取れる。彼女の胸の内として一番現実的だと思える内容を保険のように口にしておいて、最後に添えた短い語句が、自分の言葉であるからこそ、未練がましく聞こえてならない。
「何もしねェ内から自己満足とか決めつけんな!その子がどう受け止めるかだろ!?その子がどう思ってるのか確かめもしねェで、また自分だけで終わらせる気か!?」
「独りで考えて、悪いほうに決めつけて腐るのはオメーの悪い癖だ。オメーは自分のこと弱いとか言ってやがったが、それは違う。」
「腕っぷしだの啖呵切るだの、そんな上辺だけのもんじゃねェ。お前は自分で自分の間違いに気づいて、自分の足で立ったんだ。ほんとに弱ぇヤツは一生気付けねェ、気付こうともしねェ自分の弱さってのを見つめて、それを認められるのがオメーの強さだ!」
「さっきみてーにくよくよ考えるのだって、オメー次第でいくらでも強みに出来るんだぜ!?悪いほうに悩むんじゃなく、大事なこと、オメーがすべきこと、したいことを考えろ!そうやって、オメーがいいほうに信じりゃいいんだ!御手洗!!」
「御手洗、さっきオレのこと立派だっつったろ?――だったら、オレの言葉を信じろ!」
両肩を鷲掴みにされ渡される真っ直ぐな励ましに、温かみを受け取るごとに、背中にのしかかる悔恨と自責が、御手洗の忌まわしい過去を頭に過ぎらせる。
「ボクは……強くなんかない」
「色んな人に迷惑かけて、寄りかかって…やっと前を向けるようになったんだ」
「――"あれ"を観る前から、ボクは――」
「御手洗!」
叫ぶのとも違う真剣な声音で名前を呼ばれ、その先を遮られる。
「いいんだ。余計なこたァ思い出す必要ねェ」
御手洗の過去、特に14歳の頃を知っていれば、止めるのはもっともだ。
しかし、御手洗が本題にしているのは、自身の精神的外傷というべき例の経験ではない。
御手洗はやおら顔を上げ、静かな面持ちで正面の通りを見据えて続ける。
「違うんだ。昔……桑原くんと色々あった後、介抱してくれたぼたんさんに、聞いてもらった覚えがある」
「ボク、ずっと何かが心の中で引っかかって、くすぶってるような気がしてた。違和感はあっても、確かなものが掴めなくて…思い出せないまま、自分の辛さに押し潰されて、頭の隅にそれを追いやってしまっていた」
「色々辛い時期に、あれを観たから…今も自分の中にある焦りや、罪の意識みたいなものは、そのせいだと思ってた」
「今なら分かる。黒の章なんか関係ない。あのビデオを観る前から、ボクは何か"償わなきゃいけないこと"があったような気がしてたんだ。あの頃、ボクが頭の隅に追いやったものを、もっと真剣に考えられていたら……"どうしたらいいか"の答えにたどり着けたはずだったのに」
「誰かに謝りたかった。――ボクは、彼女に……純ちゃんに……謝りたかった。」
下げた眉を寄せ、僅かに御手洗の表情に陰りが帯びる。
ここまで気付いてしまったら、もう逃げられない。
とっくの昔に知っていて、だからこそ、思い出したくなんてなかった。
根深い罪の意識と後悔。ただのありふれた恋の思い出が、心を抉り、胸を苛む理由。
どうして。
そんなこと、改めて問うまでもない。
ボクが彼女を、好きだったから。
自分のこれまでもこれからも、何もかもなげうち、生涯を捧げてでも守りたい大切な人だったからだ。
いや。"だった"からこそ、今でも……――――。
観念した顔で俯く御手洗に、桑原は常人には計り知れない凄まじい経験を関係ないと言い切った彼に、単なる子どもの思い出話に留まらない、悲愴な罪の意識を感じ取っていた。
「お前にとって、その子とのことは、そこまで大事な思い出だったんだな」
「でも…怖いんだ。彼女にとって、ボクとの思い出なんて、思い出すのも嫌なものでしかなくて…ボクのことも、顔も見たくないぐらいに傷付けていたなら…ボクが会ったりなんかしたら、それを掘り返すことにしかならない…」
「彼女にもうあんな顔させたくない…傷付けたくない……彼女に嫌われてるかもって、その思い込みが自分だけのものかどうかを確かめて、知るのが怖い」
「……だったらいっそ、このままボク独りの話で終わらせて、全部しまっておいたほうがいいんだ」
「……」
「お前……結局めちゃくちゃ好きなんじゃねーか。」
こうもはっきりといわれてしまっては、泣く気にもなれない。
「……言ってしまった言葉は、取り消せない」
「どんなに戻りたくても……楽しかったあの頃には戻れない」
これだって、他人が聞けば昔の未練に後ろ髪を引かれているだけの、ただの恋愛相談だ。
桑原も、御手洗の語り始めにはそう思っていたし、昔の恋愛の消化不良を相談しているものと納得しているつもりだった。
されど、桑原の勘はよく当たる。
道端でうずくまる少年が、ひょっとすると、何かを掴みかけているように見えて、どうあっても、余計な世話を焼きたい気持ちにさせられてしまった。
14歳の頃とは状況も違う所で、また道に迷おうとしている彼が、自身の強い決意によって、本当に悔いのない選択を掴み取る。
その手伝いをしたいと思う一心で、つい口を滑らせてしまった。
「確かにお前は、強くなんかねェかもな」
「桑原く…」
「だったらよ。――強くなれ、御手洗。」
被せる形で告げられる言葉で、御手洗はにわかに瞠目し、桑原を見向く。
視線の先には、御手洗と向き合う強面の、頼もしいくらいに頑なな意志を宿した切れ長の目で彼を射る、いつかの恩人の姿があった。
「その子が本気で大事なら、根性見せやがれ!!」
いつも通り熱血に鼓舞する台詞が合図のように、数歩先の木陰から年配の女性に声をかけられ、御手洗と桑原は我に返る。
清掃活動に参加していた近所の顔見知りで、御手洗にみんなで休憩するので輪に加わらないかと伝えに来たらしい。
すぐ行きますという御手洗の返答にこやかに手を振り立ち去る女性が見えなくなると、桑原が頬をかきながら自省と謝意を兼ね御手洗にいう。
「さっきは熱くなりすぎた。けしかけるみてーなこと言って悪かったな」
「いや。ボクも、少し弱気になってた」
中身の詰まったゴミ袋と火ばさみを片手に掴み、空いた手で話の途中で階段の段差に置いていたレモンスカッシュの缶を拾い上げる。
缶を持つ手元をまた一瞥し、桑原を見上げる顔は、淋しげなようでいて、薄める青みがかった瞳から、後ろ暗いわだかまりや曇りは消えていた。
「彼女のこと…探し出せるか分からないけど、やるだけやってみるよ」
どうやら腹が決まった様子の御手洗に、内心安堵し厳しい顔を和らげる桑原。
「行き詰まったらいつでも言え。授業ねー時は手伝ってやっからよ」
連絡先を書いて渡そうとポケットを探るも、休日の桑原に都合よく筆記用具の持ち合わせはない。
結局数分前の女性の所まで出向き、身振り手振りと共に事情を伝え、手帳の切れ端に借り物のボールペンで走り書きした家の電話番号を手渡してくれた。
慌てる心待ちに傾き、恥ずかしいのを誤魔化しにへらとはにかむ桑原。
どうにもしまらないのが、また彼らしくて、御手洗もつられて笑った。
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