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図書館ではお静かに
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図書館に通い出して半年。
彼女はやはり、探し求めた記憶の扉を開く、唯一の鍵なのかも知れない。
彼女は人の役に立つのが好きだ。
今日も今日とて、本棚にある索引を間違えて入れられたものを正しい順番に並び替え、年配者や子供に目当ての本がどこにあるかを案内したり、借りなかった本をどこに返却するか分からなくなった利用者から預かって代わりに本棚へ戻したりと、職員がやるようなことを肩代わりしている。
どれも館内のコンピューターや手の空いた職員で充分代えは利く作業だろうが、年配者の世代によっては機械に疎かったり、機械自体を嫌っている風潮があったりする。また、小さな子供は細かい索引など見ていないか、見てもすぐ忘れて目のついた空きスペースに手持ちの本を収めてしまうこともままある。そんな者達にとっては、少数で忙しくしている職員代わりに気軽に声をかけられる彼女はちょっとした便利屋のようなもので、案外喜ばれているらしい。
彼女は図書館という場所と、そこにある本を愛している。いつも目の肥やしに蔵書を読ませてもらっているという意識から、わずかながらでも恩返しをする意味もあるのだろう。
そのような便利屋じみた『手伝い』は、生きた索引の如く、この図書館の本の位置や割り振られた番号と記号、タイトルをほぼ完璧に網羅しているらしい彼女の、ささやかな趣味の一環だった。
彼女が職員の負担を期せずして減らすささやかな善意の趣味を行っていなければ、オレも彼女に興味を抱きはしなかっただろう。
索引の数字と文字のよく似たものを間違え本棚に戻そうとしていた所、彼女に声をかけられたのを境に、夕方の交友は始まった。
ただし、今の時間は午後の3時で、日が傾くにはまだかなり間がある。
時間帯が夕方でないのは、高校生の彼女が期末テストを終え、夏休みの1週間前に入る直前の日曜日に、昼時から図書館に来て本を借りている為だ。
オレも勤めている会社の新しいプロジェクトを完成させ、休日の消閑ついでにここに来ている。
休日といっても、妖怪や霊界絡みのいざこざを収めるか、その見回りを手伝うか以外に急ぐ用もない。
ならば自身に与えられた余暇は、家族との旅行や、彼女との勉強会に割くのが有意義だろう。
等間隔に並んだ机。その奥の曲がり角、壁の出隅と本棚に目隠しされるようにぽつりと置かれた4人がけの木製の長机には、どういう訳かあまり人が寄り付かない。
他の机より古いからか、他の席より暗いからか、あるいは、妙な曰くでもあるのか。
いずれにせよ、ずらりとそびえる本棚の横合いで人に埋まる真新しい机の列からはぐれたその席が、オレと彼女の夕方の交友における半ば定位置のようになっていた。
「学力も大分持ち直して来ましたね。公式の応用問題にもつまずかなくなったし、新しい解き方を覚えるのも早くなった」
数枚重なったプリントを検めて、彼女に微笑みかける。
「期末テストの結果も上々。以前の点数からここまで持ち直すなんて、本当に見違えた」
「苦手だった数学も90点台を取るなんて、すごいじゃないか。――よく頑張ったね。」
「これで、夏休み明けからの授業も余裕を持って受けられるでしょうか」
「油断は禁物だよ。二学期から覚えることは山ほどある。図書館での勉強会も、当分は続けないと」
「よかった……もう先輩にお勉強を教わったり、お話したり出来なくなるかと思いました」
少し脅しめいたニュアンスになってしまったが、彼女はたまの勉強会が継続すると知って嬉しそうだ。
「学力が戻ったからって、君と関わりがなくなるなんてことはないよ。オレも、君との時間はいい息抜きになってるんだ」
自分と同様に、彼女もこの時間を快い交友として受け取ってくれているのが伝わり、少し気が楽になったのか、二言目はより率直な心の声がそのまま言葉として出た。
オレのことを先輩と彼女は呼ぶが、実際は母校が同じという理由からそう呼ばれるだけのOBだ。
けれど、親しみを込めてそう呼ばれているのは分かっているし、親愛と尊敬の念が集約された2文字の響きは、そこそこ気に入っている。
「何より、まだ授業中やテスト中にぼんやりする時があるんだよね。記憶力や学力だけじゃなく、君が色々な面で自分を立て直せるようになるまで、まだまだ解放してあげられないな」
自然と口元がまた綻ぶ気配を覚えつつ、彼女を見つめる。
テストの束を彼女に差し向け、小さな両手に受け取られるのを認めた。
鞄から本を取り出し、栞を挟んでいた箇所を開いて、勉強に戻る彼女を時折窺いながら読み進める。
しばし彼女の微かなシャーペンの筆記音と、本のページをめくる音だけが響く。
緩い照明と陽光の明かりが広がる向こうの机の列と違い、奥まった一角のこの席には、屋根裏部屋にでも来た風な浅い陰りが充満している。
窓際のカーテンの隙間から差し込むうっすらとしたレモン色の斜光は、外の天気が初夏に似つかわしい好天であると告げている。
それでも、時間さえ褪せたような影色の空間は、壁の出隅の向こうから届く冷風の恩恵で、一枚ガラスを隔てた先のうだるような暑さなど微塵も感じさせない。
彼女に勧められた『蠅男』の文庫版を読み終え、片手で支えた本を閉じる。
SFミステリーと言うよりは、怪奇小説めいた真相だった。ただ、ラストが意外にも爽やかで、読後感は悪くない。
彼女の勧める本は、いつもストーリーが独特で、ジャンルにこだわりも規則性もないが、それがまた新鮮で面白い。
しかし、今は読み終えたばかりの本の感想を共有するより、するべき話題が他にあった。
「この前のことだけど。またあの場所に行くと話していたね」
「待ち人さんとは会えた?」
彼女の可愛らしい色味のシャーペンの芯が上部を押しながらしまわれ、彼女はシャーペンを机に寝かせ、グリップ部分から指を離す。
「……」
「……いえ……」
「……そうか。嫌なこと聞いちゃったね」
「嫌なんかじゃないです。先輩が心配してくれてるの、知ってますから」
色素の薄い彼女の手が、音もなく静かにノートを閉じる。
そして、開かれていた癖を直すように、ノートの表紙を上からそっと押さえた。
「でも、このくらいが潮時なのかもしれません」
射し入る斜光に、少ないが細かな埃がかすかに見える。
瞼の下の長い睫毛が、目を伏せる彼女の明るい灰色の虹彩を隠す。
屋根裏で埃を被り、誰からも忘れられたアンティークの人形を思わせる容貌の主が、失意と諦観を滲ませながら、言葉を続ける。
「彼は――もう来ないんじゃないかって気がするんです」
「あの場所は、彼といつも通っていて、よく遊んでいた所だけど……あそこを思い出の場所だと思っているのは、私だけなのかも」
年相応に言葉の節々へ纏う悲哀は、彼女の柔らかい丸みを帯びた幼い声音には似合わない。
だが、ここで話を終わらせてはならない。
彼女の求めるものは、気遣い故のやくたいのない会話ではない。
そしてオレも、叶うなら、彼女が求めるものを、彼女自身でたぐり寄せる手助けをしたい。
「思いきって、家に訪ねてみるのはどうでしょうか」
我ながら、やや明るい調子を作った台詞がわざとらしい。
「家……ですか」
「少し考えたことはあります。でも、昔と同じ所に住んでいるかも分かりませんし……直接訪ねるのが怖いんです」
自分を自分で抱き締める風に、彼女の左手が、右腕に添えられる。
「私のことなんて、もうとっくに忘れられているんじゃないかって……仮に、彼がまだ同じ家に住んでいたとして……何もかも忘れて幸せに暮らしているなら、過去の人間が今更押しかけるのは、迷惑でしょうし」
「それに……会いに行ったら、覚えているかどうか、否応なしに分かってしまう」
「だから――……確かめたく、ないんです」
普段の彼女の行いを見ていれば、そのような結果になるはずはない。
その人物とて、彼女の見返りを求めない言動に直に触れ、自分からも関わり合いになったなら、少なくとも、長年会えなかった旧友を拒んだりはしないはずだ。
こんなことを思うのは余計な世話もいい所で、それは重々承知の上だ。
しかし、オレはどうあっても彼女への余計な世話を、やり通さなければならない。
席を立ち、窓際を向き、カーテンを少し開ける。
幾度確かめても、外は晴朗。
こんな日に彼女の想いが報われるなら、今日まで彼女を見守って来た自分にとっても、実に喜ばしいことだ。
ある種の決意を固め、肩越しに彼女を振り返り、こちらを見上げる灰色の瞳へ真っ直ぐに視線を合わせる。
「もし、オレがその人だったら…………君のことを忘れたりしない。」
「昔仲良くしてくれて、悲しい別れ方をしてしまった友達なら尚更、忘れたくても忘れられないはずだ」
「例え、一度は忘れてしまっていたとしても……――その人が君の思っている通りの人なら、君のことを忘れたままで終わらせたりしないんじゃないかな」
「それがいつになるかは分からないけど、人生のどこかで君とのことを思い出して……懐かしく思うと同時に、別れ際に自分が言ってしまったことを責めて、きっとすごく後悔する。――そう思うんだ」
分かっている。これまでの彼女との時間で、彼女がかつての別れを後ろ向きに捉えてしまう理由を、痛いほど知っている。
「でも、君はそれが嫌なんだろ?」
「別れた日のことで、君は彼に迷惑をかけたと思っている。思い出して後悔するくらいなら、私のことなんて忘れていてほしい。だから、いつ来るか分からない彼を待っているだけに留めているんじゃない?」
人の役に立つのが好きというのは、裏を返せば、極力人の迷惑になりたくないということでもある。
彼女が人の役に立ちたいのは、幼い頃旧友に迷惑をかけてしまったという思いから来ている側面も強いのだろう。
それならば尚更、罪悪感からの諦めや迷いは断ち切らなければならない。
「これはオレ個人の意見でしかないけれど。彼は昔のことを後悔したあと、君を探して、会いに行こうとするだろう。後悔するということは、それだけ気持ちがあるということだから」
「昔のことも、君が気にしている通りに、彼が君を煩わしく思っていたなら、そもそも友人になんてならないさ。彼は君を、自分に向けられるような悪意から遠ざけたかった」
「けれど、幼い頃のことで、彼も気が動転していたんだ。上手くその場を離れる選択を取る余裕がなかった」
「そして、君を遠ざける為に、とっさに出た言葉が、そのまま別れの言葉になってしまった。――子供時分の不器用さが起こした、悲しいすれ違いなんだよ」
「と言っても……確かめない内は、何を言ってもただの想像だけどね。」
すれ違いだと思っているのは、彼女に情がある故の個人的なバイアスがかかった主観でしかないのかも知れない。
けれど、もし彼女の認識に齟齬があるのだとしたら、そのまま再会を諦めてしまうのは、余りに寂しい選択だ。
「私も、そうだったらいいなって思ってました」
「やっぱり、先輩はすごいです。私が願っていること、そのまま言ってくれてるみたい」
「そんなことないさ。普通の人と同じように、オレにだって、他者の気持ちなんて分からない。ただ……これが、今の君に必要な言葉だと思ったから」
「先輩は、いつも私の欲しい言葉をくれるんですね」
「私、先輩にお世話になってばかりだけど……先輩に話を聞いてもらえると、不思議と気持ちが落ち着いて、考えがまとまるんです」
彼女は内省も、自分の考えを一度横に置いて、他者の言葉に耳を傾けることも出来る賢い子だ。
「あと、一度……もう一度だけ、あの場所に行ってみようと思います」
「確かめなくちゃ、ただの想像で終わっちゃいますもんね」
人間の意志の力というものは侮れない。
心の力で強くなる、などと言ったものはフィクションにおいても多く用いられる普遍的概念だが、自らの経験則に則って、これは現実においても揺るがない事実だと理解している。
ひとりでも大きな目標を成し得る者がいる。
それはその者の願う意志の強さと、たゆまぬ努力による成就。
叶えたいというひたむきな追求の意志。
積み上げたものを途中で投げ出さないという確固たる意志。
意志の強さで願いが叶うのだとしたら、こうなってほしいと祈る者が多ければ多いほど、誰かの願いは叶いやすくなるのだろうか。
そんな目に見えない不確かな法則で世界が回っているというなら、オレも強く信じよう。
これはきっと、彼女の幸福へ繋がる契機なのだと。
「それがいいよ」
「人生のどんな選択も、最後に選ぶのは自分だから。どうせ結果が分からないのなら、君にとって悔いの残らない道を選ぶほうがずっといい」
「"大丈夫だ"なんて簡単に言ってあげられないけど。君のことを知って、オレも君とその人に会ってほしいと思った。君がその人に会えることを、オレも……祈っているから」
「ありがとう。――蔵馬先輩。」
「私……ちょっとだけ、勇気出してきます。」
「ふふっ。ようやくいつもの調子が戻った。その意気だよ、純与」
白い薔薇の蕾が咲き初めるような、あどけない笑顔。
最後に交わした言葉を聞き、その表情を見て、心から安堵を覚える自分がいた。
筆記用具を鞄にしまい込み、ひとつお辞儀をして立ち去る彼女の華奢な背中を見送る。
少女の姿が図書館の蔵書スペースから伸びる廊下の奥に見えなくなって、幾ばくもしない内に、ぽたぽたと細かな水滴が廊下の窓ガラスを打ち付ける。
館内と違い開けた廊下の窓の向こう、抜けるような青空から、景色も人も、全てを仄白いベールに覆い隠すように、透き通る雫が降り注いでいる。
(狐の嫁入り…か)
「"大丈夫"だよ、純与。旧友との再会は、驚くほど上手く行く。」
簡単には言えないと前置きしたはずの語句を、まじなうように含めて呟く。
「――――……この先も全て、『彼女』の筋書き通りなら。」
予言ではなく、占いでもない。
これは必然に裏打ちされた、恣意的な運命の上をなぞる"筆跡"だ。
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彼女はやはり、探し求めた記憶の扉を開く、唯一の鍵なのかも知れない。
彼女は人の役に立つのが好きだ。
今日も今日とて、本棚にある索引を間違えて入れられたものを正しい順番に並び替え、年配者や子供に目当ての本がどこにあるかを案内したり、借りなかった本をどこに返却するか分からなくなった利用者から預かって代わりに本棚へ戻したりと、職員がやるようなことを肩代わりしている。
どれも館内のコンピューターや手の空いた職員で充分代えは利く作業だろうが、年配者の世代によっては機械に疎かったり、機械自体を嫌っている風潮があったりする。また、小さな子供は細かい索引など見ていないか、見てもすぐ忘れて目のついた空きスペースに手持ちの本を収めてしまうこともままある。そんな者達にとっては、少数で忙しくしている職員代わりに気軽に声をかけられる彼女はちょっとした便利屋のようなもので、案外喜ばれているらしい。
彼女は図書館という場所と、そこにある本を愛している。いつも目の肥やしに蔵書を読ませてもらっているという意識から、わずかながらでも恩返しをする意味もあるのだろう。
そのような便利屋じみた『手伝い』は、生きた索引の如く、この図書館の本の位置や割り振られた番号と記号、タイトルをほぼ完璧に網羅しているらしい彼女の、ささやかな趣味の一環だった。
彼女が職員の負担を期せずして減らすささやかな善意の趣味を行っていなければ、オレも彼女に興味を抱きはしなかっただろう。
索引の数字と文字のよく似たものを間違え本棚に戻そうとしていた所、彼女に声をかけられたのを境に、夕方の交友は始まった。
ただし、今の時間は午後の3時で、日が傾くにはまだかなり間がある。
時間帯が夕方でないのは、高校生の彼女が期末テストを終え、夏休みの1週間前に入る直前の日曜日に、昼時から図書館に来て本を借りている為だ。
オレも勤めている会社の新しいプロジェクトを完成させ、休日の消閑ついでにここに来ている。
休日といっても、妖怪や霊界絡みのいざこざを収めるか、その見回りを手伝うか以外に急ぐ用もない。
ならば自身に与えられた余暇は、家族との旅行や、彼女との勉強会に割くのが有意義だろう。
等間隔に並んだ机。その奥の曲がり角、壁の出隅と本棚に目隠しされるようにぽつりと置かれた4人がけの木製の長机には、どういう訳かあまり人が寄り付かない。
他の机より古いからか、他の席より暗いからか、あるいは、妙な曰くでもあるのか。
いずれにせよ、ずらりとそびえる本棚の横合いで人に埋まる真新しい机の列からはぐれたその席が、オレと彼女の夕方の交友における半ば定位置のようになっていた。
「学力も大分持ち直して来ましたね。公式の応用問題にもつまずかなくなったし、新しい解き方を覚えるのも早くなった」
数枚重なったプリントを検めて、彼女に微笑みかける。
「期末テストの結果も上々。以前の点数からここまで持ち直すなんて、本当に見違えた」
「苦手だった数学も90点台を取るなんて、すごいじゃないか。――よく頑張ったね。」
「これで、夏休み明けからの授業も余裕を持って受けられるでしょうか」
「油断は禁物だよ。二学期から覚えることは山ほどある。図書館での勉強会も、当分は続けないと」
「よかった……もう先輩にお勉強を教わったり、お話したり出来なくなるかと思いました」
少し脅しめいたニュアンスになってしまったが、彼女はたまの勉強会が継続すると知って嬉しそうだ。
「学力が戻ったからって、君と関わりがなくなるなんてことはないよ。オレも、君との時間はいい息抜きになってるんだ」
自分と同様に、彼女もこの時間を快い交友として受け取ってくれているのが伝わり、少し気が楽になったのか、二言目はより率直な心の声がそのまま言葉として出た。
オレのことを先輩と彼女は呼ぶが、実際は母校が同じという理由からそう呼ばれるだけのOBだ。
けれど、親しみを込めてそう呼ばれているのは分かっているし、親愛と尊敬の念が集約された2文字の響きは、そこそこ気に入っている。
「何より、まだ授業中やテスト中にぼんやりする時があるんだよね。記憶力や学力だけじゃなく、君が色々な面で自分を立て直せるようになるまで、まだまだ解放してあげられないな」
自然と口元がまた綻ぶ気配を覚えつつ、彼女を見つめる。
テストの束を彼女に差し向け、小さな両手に受け取られるのを認めた。
鞄から本を取り出し、栞を挟んでいた箇所を開いて、勉強に戻る彼女を時折窺いながら読み進める。
しばし彼女の微かなシャーペンの筆記音と、本のページをめくる音だけが響く。
緩い照明と陽光の明かりが広がる向こうの机の列と違い、奥まった一角のこの席には、屋根裏部屋にでも来た風な浅い陰りが充満している。
窓際のカーテンの隙間から差し込むうっすらとしたレモン色の斜光は、外の天気が初夏に似つかわしい好天であると告げている。
それでも、時間さえ褪せたような影色の空間は、壁の出隅の向こうから届く冷風の恩恵で、一枚ガラスを隔てた先のうだるような暑さなど微塵も感じさせない。
彼女に勧められた『蠅男』の文庫版を読み終え、片手で支えた本を閉じる。
SFミステリーと言うよりは、怪奇小説めいた真相だった。ただ、ラストが意外にも爽やかで、読後感は悪くない。
彼女の勧める本は、いつもストーリーが独特で、ジャンルにこだわりも規則性もないが、それがまた新鮮で面白い。
しかし、今は読み終えたばかりの本の感想を共有するより、するべき話題が他にあった。
「この前のことだけど。またあの場所に行くと話していたね」
「待ち人さんとは会えた?」
彼女の可愛らしい色味のシャーペンの芯が上部を押しながらしまわれ、彼女はシャーペンを机に寝かせ、グリップ部分から指を離す。
「……」
「……いえ……」
「……そうか。嫌なこと聞いちゃったね」
「嫌なんかじゃないです。先輩が心配してくれてるの、知ってますから」
色素の薄い彼女の手が、音もなく静かにノートを閉じる。
そして、開かれていた癖を直すように、ノートの表紙を上からそっと押さえた。
「でも、このくらいが潮時なのかもしれません」
射し入る斜光に、少ないが細かな埃がかすかに見える。
瞼の下の長い睫毛が、目を伏せる彼女の明るい灰色の虹彩を隠す。
屋根裏で埃を被り、誰からも忘れられたアンティークの人形を思わせる容貌の主が、失意と諦観を滲ませながら、言葉を続ける。
「彼は――もう来ないんじゃないかって気がするんです」
「あの場所は、彼といつも通っていて、よく遊んでいた所だけど……あそこを思い出の場所だと思っているのは、私だけなのかも」
年相応に言葉の節々へ纏う悲哀は、彼女の柔らかい丸みを帯びた幼い声音には似合わない。
だが、ここで話を終わらせてはならない。
彼女の求めるものは、気遣い故のやくたいのない会話ではない。
そしてオレも、叶うなら、彼女が求めるものを、彼女自身でたぐり寄せる手助けをしたい。
「思いきって、家に訪ねてみるのはどうでしょうか」
我ながら、やや明るい調子を作った台詞がわざとらしい。
「家……ですか」
「少し考えたことはあります。でも、昔と同じ所に住んでいるかも分かりませんし……直接訪ねるのが怖いんです」
自分を自分で抱き締める風に、彼女の左手が、右腕に添えられる。
「私のことなんて、もうとっくに忘れられているんじゃないかって……仮に、彼がまだ同じ家に住んでいたとして……何もかも忘れて幸せに暮らしているなら、過去の人間が今更押しかけるのは、迷惑でしょうし」
「それに……会いに行ったら、覚えているかどうか、否応なしに分かってしまう」
「だから――……確かめたく、ないんです」
普段の彼女の行いを見ていれば、そのような結果になるはずはない。
その人物とて、彼女の見返りを求めない言動に直に触れ、自分からも関わり合いになったなら、少なくとも、長年会えなかった旧友を拒んだりはしないはずだ。
こんなことを思うのは余計な世話もいい所で、それは重々承知の上だ。
しかし、オレはどうあっても彼女への余計な世話を、やり通さなければならない。
席を立ち、窓際を向き、カーテンを少し開ける。
幾度確かめても、外は晴朗。
こんな日に彼女の想いが報われるなら、今日まで彼女を見守って来た自分にとっても、実に喜ばしいことだ。
ある種の決意を固め、肩越しに彼女を振り返り、こちらを見上げる灰色の瞳へ真っ直ぐに視線を合わせる。
「もし、オレがその人だったら…………君のことを忘れたりしない。」
「昔仲良くしてくれて、悲しい別れ方をしてしまった友達なら尚更、忘れたくても忘れられないはずだ」
「例え、一度は忘れてしまっていたとしても……――その人が君の思っている通りの人なら、君のことを忘れたままで終わらせたりしないんじゃないかな」
「それがいつになるかは分からないけど、人生のどこかで君とのことを思い出して……懐かしく思うと同時に、別れ際に自分が言ってしまったことを責めて、きっとすごく後悔する。――そう思うんだ」
分かっている。これまでの彼女との時間で、彼女がかつての別れを後ろ向きに捉えてしまう理由を、痛いほど知っている。
「でも、君はそれが嫌なんだろ?」
「別れた日のことで、君は彼に迷惑をかけたと思っている。思い出して後悔するくらいなら、私のことなんて忘れていてほしい。だから、いつ来るか分からない彼を待っているだけに留めているんじゃない?」
人の役に立つのが好きというのは、裏を返せば、極力人の迷惑になりたくないということでもある。
彼女が人の役に立ちたいのは、幼い頃旧友に迷惑をかけてしまったという思いから来ている側面も強いのだろう。
それならば尚更、罪悪感からの諦めや迷いは断ち切らなければならない。
「これはオレ個人の意見でしかないけれど。彼は昔のことを後悔したあと、君を探して、会いに行こうとするだろう。後悔するということは、それだけ気持ちがあるということだから」
「昔のことも、君が気にしている通りに、彼が君を煩わしく思っていたなら、そもそも友人になんてならないさ。彼は君を、自分に向けられるような悪意から遠ざけたかった」
「けれど、幼い頃のことで、彼も気が動転していたんだ。上手くその場を離れる選択を取る余裕がなかった」
「そして、君を遠ざける為に、とっさに出た言葉が、そのまま別れの言葉になってしまった。――子供時分の不器用さが起こした、悲しいすれ違いなんだよ」
「と言っても……確かめない内は、何を言ってもただの想像だけどね。」
すれ違いだと思っているのは、彼女に情がある故の個人的なバイアスがかかった主観でしかないのかも知れない。
けれど、もし彼女の認識に齟齬があるのだとしたら、そのまま再会を諦めてしまうのは、余りに寂しい選択だ。
「私も、そうだったらいいなって思ってました」
「やっぱり、先輩はすごいです。私が願っていること、そのまま言ってくれてるみたい」
「そんなことないさ。普通の人と同じように、オレにだって、他者の気持ちなんて分からない。ただ……これが、今の君に必要な言葉だと思ったから」
「先輩は、いつも私の欲しい言葉をくれるんですね」
「私、先輩にお世話になってばかりだけど……先輩に話を聞いてもらえると、不思議と気持ちが落ち着いて、考えがまとまるんです」
彼女は内省も、自分の考えを一度横に置いて、他者の言葉に耳を傾けることも出来る賢い子だ。
「あと、一度……もう一度だけ、あの場所に行ってみようと思います」
「確かめなくちゃ、ただの想像で終わっちゃいますもんね」
人間の意志の力というものは侮れない。
心の力で強くなる、などと言ったものはフィクションにおいても多く用いられる普遍的概念だが、自らの経験則に則って、これは現実においても揺るがない事実だと理解している。
ひとりでも大きな目標を成し得る者がいる。
それはその者の願う意志の強さと、たゆまぬ努力による成就。
叶えたいというひたむきな追求の意志。
積み上げたものを途中で投げ出さないという確固たる意志。
意志の強さで願いが叶うのだとしたら、こうなってほしいと祈る者が多ければ多いほど、誰かの願いは叶いやすくなるのだろうか。
そんな目に見えない不確かな法則で世界が回っているというなら、オレも強く信じよう。
これはきっと、彼女の幸福へ繋がる契機なのだと。
「それがいいよ」
「人生のどんな選択も、最後に選ぶのは自分だから。どうせ結果が分からないのなら、君にとって悔いの残らない道を選ぶほうがずっといい」
「"大丈夫だ"なんて簡単に言ってあげられないけど。君のことを知って、オレも君とその人に会ってほしいと思った。君がその人に会えることを、オレも……祈っているから」
「ありがとう。――蔵馬先輩。」
「私……ちょっとだけ、勇気出してきます。」
「ふふっ。ようやくいつもの調子が戻った。その意気だよ、純与」
白い薔薇の蕾が咲き初めるような、あどけない笑顔。
最後に交わした言葉を聞き、その表情を見て、心から安堵を覚える自分がいた。
筆記用具を鞄にしまい込み、ひとつお辞儀をして立ち去る彼女の華奢な背中を見送る。
少女の姿が図書館の蔵書スペースから伸びる廊下の奥に見えなくなって、幾ばくもしない内に、ぽたぽたと細かな水滴が廊下の窓ガラスを打ち付ける。
館内と違い開けた廊下の窓の向こう、抜けるような青空から、景色も人も、全てを仄白いベールに覆い隠すように、透き通る雫が降り注いでいる。
(狐の嫁入り…か)
「"大丈夫"だよ、純与。旧友との再会は、驚くほど上手く行く。」
簡単には言えないと前置きしたはずの語句を、まじなうように含めて呟く。
「――――……この先も全て、『彼女』の筋書き通りなら。」
予言ではなく、占いでもない。
これは必然に裏打ちされた、恣意的な運命の上をなぞる"筆跡"だ。
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