ある夫婦の別れ
その夜、ヴィンセントは鼻についた血の匂いに初めて駆けた。普段ならばこれ幸い、運悪く死んでしまったかわいそうな獲物がいたのだとスキップなどしたものだが場所が悪い。友人たちのキャンプ予定にあまりに近すぎるのだ。
走りにくい革靴を脱ぎ捨てて、あえて短く丈を詰めたシャツを脱ぎ捨ててオオカミに変身する。できる限りの最高速で匂いのもとへ行くと、彼にとっての『ごちそう』となった友人たちがいた。
ぎゅるりと渦巻くような音で腹が主張する。むせ返る血の匂いに反応してだらりとマズルをよだれが濡らす。空腹を我慢するように、オオカミ姿のヴィンセント・ヴァレンタインはクゥンと鳴いた。
「食べちゃダメだぞ」
ヴィンセントは自分の涎を呼び水にヴォーンと呼ばれるアンデッドを召喚した。破壊の獣、月に座す狼の涎から生まれた彼らは、月の血を引き狼への変化を得意とするヴィンセントととりわけ相性がいいので従僕として可愛がっている。見た目以上に力持ちで素早く、仕事が自分の手に負えないと思えばすぐに仲間を呼ぶ彼らに死体の回収を頼みヴィンセントは穴を掘る。
掘る。掘る。硬い植物の根を引きちぎって掘る。動物に掘り返されない深さに掘る。蘇ってしまってもなかなか出ては来れない深さに掘る。掘る。泣きながら掘った。思い出を反芻しながら掘る。自分の身長三つ分を掘ってヴィンセントは鼻を鳴らして吠えた。
ヴォーンの声を聴いて、ヴィンセントは墓穴から這い出した。彼らの嗅覚によって選別され、おそらく元は一つであっただろう人体のパーツが選別され並べられている。
「いい子だ。ごめんな報酬は後でってことで、帰ってくれ」
文句ありげに舌を伸ばしてきたヴォーンをむんずとつかんで闇の渦に放りこんで処分し、ヴィンセントは荷物から糸と針を出す。せめて、人の形にして葬ってやろう。そう思い準備をしている途中、ふと視界にヴォーンが朽ちた後の灰を見た。
まさか、なんてかわいそうに。
ヴィンセントはそこにのそのそと歩くと腕や脚なぞ千切れ飛び血をまき散らしながらも残っている指の力だけでじりじりと移動する物体がいた。
「えっとさ、なんて言ったらいいか。あー……僕の血、飲む?」
生き残りたいだろうか。もはや楽になっていいだろうにそうしない弟子に話しかける。
「殺すぞ」
物騒で冷たいいつも通りの声が、掠れ小さく帰ってきたのでヴィンセントは肩をすくめて「あっそ」と返した。
こんな姿で何を目指していたのか。彼女の指が伸びる方向を見ると肋骨のあたりで上半身と下半身が泣き別れした彼女の夫があった。なるほど先ほどの灰は夫を運ぼうとして攻撃されたのか。
ヴィンセントが彼女を担ぎ上げると耳元に暴言が飛んできた。構うものか。そのままスタスタと歩いて、丁寧に彼女を夫の隣に降ろしてやった。
「タペンス」
ヴィンセントの呼びかけは消えた。終わるまで、待ってやらねばならない。彼女が口にしないなら子供たちは生きているのだ。きっと。ならば自分は彼女の後見人として見届けなければいけないと、ヴィンセントは赤い瞳を女と物体に向けた。
「ばか、野郎」
ああいつも通りの彼女だ。
夫の名前などそう易く呼びはしない。馬鹿だの、間抜けだの。彼女の口から出るのはそんな言葉だらけだ。自分は間違ったことをしているのだから近づいてくるなと他者を寄せ付けないように律する彼女の癖だ。
そんな憐れな女だから、自分も、ン・ディも、そして彼女の夫も手を差し伸べたくなったのだろう。罪な女だと、苦笑する。
「ばか、やろう。弱いくせに、前に出てんじゃ、ねえ。おまえ、は。昔から。大馬鹿、だ。」
黒い瞳からそんなものを作る余裕がその体にまだあったのかぼろぼろと涙が零れた。
爪がはがれ、こびりついた血がもはや赤黒く変色した指で夫のモノクルを外し、見開かれた覚悟の目から瞼を下ろして言葉とは裏腹の愛情をにじませた滑らかさでそのまま頬を撫でた。
「あたし、なんか、忘れて。いれば、こんな、ふうに」
家出をした彼女を執念深く追って来たのだっけか。エルキュールが産まれたと便りをもらってすっ飛んできたときに、彼女の夫から聞いた。
なんとも愛は偉大だね、そんな風に茶化してやって、だから聖職者なんてしてるんですよと返ってきたときは笑ったものだ。
嗚咽と共に命も吐き出しているのだろうか。恨み言を吐くたびに彼女の声は小さくなっていく。
口出しすることではないと思っていても、最後の言葉が間に合わないのは忍びない。我慢が利かなくなってヴィンセントは頭をがりがり掻いてタペンスの尻を軽く足で小突いた。
「最後くらい素直になっていいんじゃねえの?」
返事はない。が、忠告は通じたようだ。
タペンスは夫の手に自分の手を重ね、頬を寄せ小さくその名を呼んだ。愛しい名を呼んで、少し戸惑ってからそれを音にして、それ以上は何も言葉を発することもなくなった。
また新しく日が昇る。
時間の経過を感じて、熱くなりだした肌に日焼け止めをめいっぱい擦り込んでからヴィンセントは作業に戻った。23人分の遺骸をきちんと元の姿に直し終わった時には再び彼らの時間が訪れるころ合いになっていた。
「しょうがね、埋めちまうかァ」
独り言ちてため息。18人目を穴に安置して土をかぶせ始めたあたりで背後から人間の気配を感じ、ヴィンセントは振り返った。
(終)
走りにくい革靴を脱ぎ捨てて、あえて短く丈を詰めたシャツを脱ぎ捨ててオオカミに変身する。できる限りの最高速で匂いのもとへ行くと、彼にとっての『ごちそう』となった友人たちがいた。
ぎゅるりと渦巻くような音で腹が主張する。むせ返る血の匂いに反応してだらりとマズルをよだれが濡らす。空腹を我慢するように、オオカミ姿のヴィンセント・ヴァレンタインはクゥンと鳴いた。
「食べちゃダメだぞ」
ヴィンセントは自分の涎を呼び水にヴォーンと呼ばれるアンデッドを召喚した。破壊の獣、月に座す狼の涎から生まれた彼らは、月の血を引き狼への変化を得意とするヴィンセントととりわけ相性がいいので従僕として可愛がっている。見た目以上に力持ちで素早く、仕事が自分の手に負えないと思えばすぐに仲間を呼ぶ彼らに死体の回収を頼みヴィンセントは穴を掘る。
掘る。掘る。硬い植物の根を引きちぎって掘る。動物に掘り返されない深さに掘る。蘇ってしまってもなかなか出ては来れない深さに掘る。掘る。泣きながら掘った。思い出を反芻しながら掘る。自分の身長三つ分を掘ってヴィンセントは鼻を鳴らして吠えた。
ヴォーンの声を聴いて、ヴィンセントは墓穴から這い出した。彼らの嗅覚によって選別され、おそらく元は一つであっただろう人体のパーツが選別され並べられている。
「いい子だ。ごめんな報酬は後でってことで、帰ってくれ」
文句ありげに舌を伸ばしてきたヴォーンをむんずとつかんで闇の渦に放りこんで処分し、ヴィンセントは荷物から糸と針を出す。せめて、人の形にして葬ってやろう。そう思い準備をしている途中、ふと視界にヴォーンが朽ちた後の灰を見た。
まさか、なんてかわいそうに。
ヴィンセントはそこにのそのそと歩くと腕や脚なぞ千切れ飛び血をまき散らしながらも残っている指の力だけでじりじりと移動する物体がいた。
「えっとさ、なんて言ったらいいか。あー……僕の血、飲む?」
生き残りたいだろうか。もはや楽になっていいだろうにそうしない弟子に話しかける。
「殺すぞ」
物騒で冷たいいつも通りの声が、掠れ小さく帰ってきたのでヴィンセントは肩をすくめて「あっそ」と返した。
こんな姿で何を目指していたのか。彼女の指が伸びる方向を見ると肋骨のあたりで上半身と下半身が泣き別れした彼女の夫があった。なるほど先ほどの灰は夫を運ぼうとして攻撃されたのか。
ヴィンセントが彼女を担ぎ上げると耳元に暴言が飛んできた。構うものか。そのままスタスタと歩いて、丁寧に彼女を夫の隣に降ろしてやった。
「タペンス」
ヴィンセントの呼びかけは消えた。終わるまで、待ってやらねばならない。彼女が口にしないなら子供たちは生きているのだ。きっと。ならば自分は彼女の後見人として見届けなければいけないと、ヴィンセントは赤い瞳を女と物体に向けた。
「ばか、野郎」
ああいつも通りの彼女だ。
夫の名前などそう易く呼びはしない。馬鹿だの、間抜けだの。彼女の口から出るのはそんな言葉だらけだ。自分は間違ったことをしているのだから近づいてくるなと他者を寄せ付けないように律する彼女の癖だ。
そんな憐れな女だから、自分も、ン・ディも、そして彼女の夫も手を差し伸べたくなったのだろう。罪な女だと、苦笑する。
「ばか、やろう。弱いくせに、前に出てんじゃ、ねえ。おまえ、は。昔から。大馬鹿、だ。」
黒い瞳からそんなものを作る余裕がその体にまだあったのかぼろぼろと涙が零れた。
爪がはがれ、こびりついた血がもはや赤黒く変色した指で夫のモノクルを外し、見開かれた覚悟の目から瞼を下ろして言葉とは裏腹の愛情をにじませた滑らかさでそのまま頬を撫でた。
「あたし、なんか、忘れて。いれば、こんな、ふうに」
家出をした彼女を執念深く追って来たのだっけか。エルキュールが産まれたと便りをもらってすっ飛んできたときに、彼女の夫から聞いた。
なんとも愛は偉大だね、そんな風に茶化してやって、だから聖職者なんてしてるんですよと返ってきたときは笑ったものだ。
嗚咽と共に命も吐き出しているのだろうか。恨み言を吐くたびに彼女の声は小さくなっていく。
口出しすることではないと思っていても、最後の言葉が間に合わないのは忍びない。我慢が利かなくなってヴィンセントは頭をがりがり掻いてタペンスの尻を軽く足で小突いた。
「最後くらい素直になっていいんじゃねえの?」
返事はない。が、忠告は通じたようだ。
タペンスは夫の手に自分の手を重ね、頬を寄せ小さくその名を呼んだ。愛しい名を呼んで、少し戸惑ってからそれを音にして、それ以上は何も言葉を発することもなくなった。
また新しく日が昇る。
時間の経過を感じて、熱くなりだした肌に日焼け止めをめいっぱい擦り込んでからヴィンセントは作業に戻った。23人分の遺骸をきちんと元の姿に直し終わった時には再び彼らの時間が訪れるころ合いになっていた。
「しょうがね、埋めちまうかァ」
独り言ちてため息。18人目を穴に安置して土をかぶせ始めたあたりで背後から人間の気配を感じ、ヴィンセントは振り返った。
(終)