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透光の貴婦人■

がらりと耳障りな音がした。次いで、重い肉の倒れる音だ。鼓膜を叩いたそれは呆気なく。好敵手と呼んだ男を倒した高揚感よりも、興が殺がれた絶望感を吸血鬼に見せつけた。吸血鬼はこれからの永い退屈は考えないようにして先ほど耳障りな音を出して石畳に転がった男の武器を蹴り飛ばした。がらがらと音を立てたそれが、もはや男の手の届きようのない場所まで転がるとようやっと吸血鬼は一つ息を吐いた。最早すでに肉体の再生は始まってこそいるものの、その体はあまりに多くの傷を負っているのだ。
「哀れなものだ、生命種というのは。時の流れに逆らえず、ひと時私を苦しめた英傑がこの有様などと」
返事はなく、くぐもった唸り声が何か恨み言を言おうとして、言葉にならず溶けていく。つま先で軽く顎を持ち上げてやれば、男の目はもうすでに吸血鬼をとらえようこともできぬほど濁り、しかし死の谷底の淵に手をかけながらも闘志を燃やし、憎悪と悔しさの煙を上げていた。
「月下美人は我々に返してもらうぞ。」小さく吐き捨てる。
男からはくぐもった音が漏れ、同じく夜気に溶けていく。吸血鬼はその場から立ち去ろうとした途端、不穏な気配を感じ取り冷ややかに首を振る。
見られているのだ。
かつて仕えた男に。
 仕方がない。吸血鬼は自らの指の付け根を噛み千切り、好敵手の半開きの口の中にそれを突っ込んだ。
「さぁ飲め。」そしてこちらをじいとみている影に聞こえないように耳元で囁く。
「どうするかは、お前次第だぞ、リンゴよ」
ゆらりとマントの黒を闇に溶かしながら吸血鬼は微笑んだ。これで影がしくじれば、吸血鬼と化したこの男と永劫に競うこともできるのではと。すぐさま自嘲する。
「まるで恋する乙女のようにこの男に焦がれてやまないのだな、私は」

 町の南にある家に入った時に感じたのは心地よい不快感と腸が茹で滾るような希望だった。月下美人の胸に抱かれてカタカタと震えている子供の顔が、今先ほど殺してきた男とよく似た目をしていて、今一番不愉快な小僧と瓜二つの顔立ちをしていたからだ。
「マー二、来てもらおうか?」
「待ってください、あのヒトをどうしたのですか?」
月下美人の瞳が狼狽えたように震えた。吸血鬼はなんてこともないようにすらりと答える。
「私が殺した」
その瞬間に月下美人とその胸の中にいる子供の時間が止まる。吸血鬼は首を横に振りさも残念でならないというポーズをとった。
「仕方がなかろう。奴と私は逢い見えれば殺し合わずにいられないのだ。それに今日の奴はどんな事があろうが勝たねばならなかった。愛する妻を護るためにだ。されど、今こうして私が君の前にいる。奴は負けたのだ。そして死んだ。それ以外に何か、私が今、君の手を取ろうとしているこの状況に。ぴたりと当て嵌まる事実があるというのか?」
抵抗を諦めさせる為に少々くどく説明してやる。夫が死んだという事実にのみ頭を固定させ、その死体が数日のうちに立ち上がるだろうなど一寸も思わせないように。そして、この一言を小さく、されどはっきりと、彼女の耳から脳髄へ強く残してしまうために。
「姉君が、君を求めてやまないのだ」


 館の書斎につき、ようやく自分の椅子に背を預けたときに、やっと月下美人は口を開いた。長い道のりの間に考えていたのであろう言葉は吸血鬼の想像よりも暗く、静かでくだらない言葉だった。
「私だけが、目的だったのでしょう?」
「そうだが?」吸血鬼はふむと付け加えた。
「なら、何故街を蹂躙したのですか!私一人を連れ帰ればよかったのに、街の人は何もしていないのに!なのに、なぜ……」
怒りに震えた瞳は吸血鬼が心酔する女に重なり、そして彼女自身に戻る。吸血鬼は疲れているのだろうと自分のこめかみを二、三指で叩いて不快げに言った。
「いいかね、ご婦人。君は私がサン・ミゲルを意味なく蹂躙した純然たる悪だといいたいのかもしれないが、それは違う。総ては、そう君も、私も。あのリンゴや私の女王さえ、チェスの駒とそう変わらない。銀河意思とあの太陽意思という棋士に扱われているだけだ。そして今回の件だが、君という、そう。王に侍る女王の駒を捕る為にだ。女王の前にただ置いてあっただけの歩兵を摘み取るのはルール違反ではないだろう?そうしなければ、どうして女王の駒を摘めようか。ましてはご婦人。チェスの駒の色のとおりに善悪が決まるわけではない。君はあのリンゴという男が、生者の世界こそ正義だと思ったから我々の元より去ったのであろう?しかしだ。我々の立場にいるときは、我々が正義だと思っていた。違うかね?君にとって、私が悪だというのなら認めよう。世界にとって悪だというのなら見当違いだ」それに、と付け加え、吸血鬼は月下美人の小さな手を取り幼子に聞かせるように言った。
「君は、私が迎えに行ったからといって、君の愛するリンゴがそれを良しとすると思ったのか?」
「それ、は……」
「少なくともだ。君はあの男に命を懸けて護る価値のある女だったと本気で思われていた。その愛情と献身を掻き捨ててでも、私についてこられるほど冷徹になれたかね?」
俯いた月下美人の目から零れた涙が吸血鬼の指に落ちる。じわりと皮膚の焼ける痛みは気にも留めずに吸血鬼は親指の腹で涙を零す目をぬぐってやった。
「できはしないだろう。マー二、君は優しい娘なのだから。君は愛されていたのだから」
「私は、貴方ならほかの死者と違ってわかってくれると思っていたのです。愛するものを傷つけてしまうくらいなら自ら身を差し出すだろうという、私の考えを」
「ああとも。しかしそれを認めない者がいるからこそ。そして認められなかった男こそが君を一番に想っていたからこそこうなったのだ。それはもう諦めるほかあるまい。マー二、失う辛さを耐えられないならやはり君は生者の世界に行くべきではなかった。遅くはない、女王のもとへ帰るのだ。君はあの男にのみ愛されていたのではないだろう?」

まして、君が肉欲を求めた故にあの男のもとへ走るわけもないだろう。

下世話な言を飲み込んで吸血鬼は月下美人の肩にそっと手を置いた。不意に彼女が闇の居城から去った日もこんなことをしていた気がすると頭の端を情景が過ぎっていった。そうだ。あの時も。最愛の妹とおそらくはもう二度と笑いあうことも、わかりあうこともできないのだろうと哀しみにくれた少女の肩を抱いていたのだ。なぜこうも。なぜこうもこの二人は!
涙を流し俯く月下美人の零れた髪の隙間から、まるで闇雲の切れ目から覗いた月のように白い首筋に目を奪われ、その肩につかみかかった時にようやく吸血鬼は正気に戻った。
「マーニ」
「なんですか?」肩を掴まれたまま、月下美人は不安げに、しかし真っ直ぐと吸血鬼を見ていた。
「私は、君に何をしようとした?」
「さぁ?今このまま、貴方は踏みとどまってくれていますから。」
彼女の瞳に穏やかな光が戻り、吸血鬼は首を振って立ち上がった。
「女王に報告し、迎えを寄越させよう。私はどうやら、君に近づいてはいけないようだ。」
「怪我が、痛むのですね?血が欲しくて仕方がない」
それ以外の理由があまりに大きすぎるとは、吸血鬼は口には出さなかった。
(君を、我が女王の代わりに扱おうなどと!)
「……あっては、ならないことだ。」
堪えきれずに漏れ出した言葉をどう解釈したのだろうか。月下美人は吸血鬼に駆け寄り、ドアとの隙間に滑り込んだ。
「伯爵」呼びかけたのは意表を突くためではないのだろうが、よく似た声で音を紡がれ、吸血鬼は一瞬たじろいだ。月下美人は吸血鬼の手を取り、鋭い爪で自分の手のひらを切った。
「ほら、お飲みなさい」
「君は、何を」吸血鬼の動揺に微笑み月下美人は首をかしげた。
「わかりません。私は今、こうしなければと思ったから、そうしただけです。先ほどの貴方とそう変わらないわ」
しかし、と言いかけた吸血鬼の口元に白い人差し指をあてがって、月下美人は笑った。
「人質を貴方が傷つけたのではないでしょう?あくまで私が勝手にしたのだもの。姉さんだって聞かなくたってわかるわ。それに、貴方。そんなふらふらで、まとも働かない頭で姉さんに報告をするつもりなのですか?それを貴方のプライドが許さない。だから、ね?」
咬まないでくれさえすれば。そう付け加えてずいと口元に紅く濡れた手のひらが突き付けられる。これはもう、逆らいようもないだろう。
「マーニ、こういうものは手の甲の方が様になるというものだ!」
悔しまぎれの嫌味を一つ投げてから、吸血鬼はその紅に口づけた。

 めざましい回復だ。吸血鬼は足元で低く鳴きながら跳ねる鳩を靴先で弄びながら頷いた。ひときわ高く跳ねた鳩を捕まえて、脚に筒を括り付ける。暗黒城は未だ空へ飛び立ってはいない。空に向けて鳩を羽ばたかせて一息ついたころにはもう空が白んでいる。夏が近いのだ。
「忌々しい……」そう呟いて粟玉や向日葵の種などを鳩舎に撒いて帰り支度を澄ます。
女王の元へあの鳩が着く前に、リンゴによく似たあの子供は現れるだろうかと思索を巡らせていると、ふと、まともに動いていない心臓の奥がぐっと痛む。なるほどと思い館に戻ると、月下美人は逃げようともせずに与えた部屋でくつろいでいる。
「君の余裕の態度がよくわかった」
「さて、なんのことかしら?」
窓にカーテンをかけながら微笑む彼女に「もっと敵視しろ」というような視線を向けて吸血鬼は溜息交じりに行った。
「紅のリンゴを仕留め、月下美人マーニを手中に収めた。鋼鉄のスミスはもはや戦えるような状態にはなく、ひまわり娘をどうしようか決めあぐねていたが。こんな状態で奴が降りてこないはずがない。君が、呼んだのか」
「さぁ?誰のことかしら」
「とぼけるな。奴が能動的に来るならば、真っ先に自分の戦士の元へ行くだろう?ここに、イストラカンに現れるはずがない。降り立つのはサン・ミゲルだ」
月下美人はころころと笑う。
 ああ、女王もこんな顔で笑うのだろうか。
吸血鬼の眉根の皴は少しばかり緩んだ。
「残念ですけれど、私でも、きっとひまわりでもないわ。あのひとは、自分でここを選んでいると思う。だって、すれ違ってはいけないもの。そうなるくらいなら死の都で待つ。それにね」
月下美人は慈愛に満ちた表情から感情を消した。
「ここまで来られないようでは、いくら私とリンゴの子供でも、役になんて立ちはしないでしょう?」
ぞわりとしたものを纏わせて、それでもすぐに月下美人は慈愛の表情を取り戻す。
「うふふ。姉さんに似ていたかしら?ともかく、役に立たないなんてのは言い過ぎだけれど。私はあの子がここまでちゃんとやってきて、あの人と、おてんこさまと合流すると信じていますよ?だから、ちゃんと覚悟して迎え撃ってくださいね。必ずあの子があなたに勝ちますから」
「ずいぶんな自信だ」
鼻で笑ってやっても月下美人は引きもしない。またぞわりとした殺気のようなものを纏って微笑むのだ。
「信じてはいるけれど、それを私が見ることも、あの子が私を救い出すなんていう結末もきっとありはしないのでしょう」
自分を射抜くような眼は女王と同じだ。冷たく、絶対的に信じていない眼光。この女は自分が生き残るということを絶対的に否定している!
「私は」
吸血鬼の胸元を、白く細い手が掴む。
「私は、私ではなくなるのでしょう」
「さぁ、何のことだ?」
「とぼけるな。この私が誰であるかもわからいでか?」
この殺気は。吸血鬼は咄嗟に跪きそうになった自分を呪った。いや、もうここは死の都の中、女王の力の及ぶ範囲だ。吸血鬼の脳髄が警鐘と嘲笑を織り交ぜ掻き鳴らす。

この女は誰だ!
マーニなのか?
ヘルなのか!

「なぁんて」
「……マーニ私を、からかったのか?」
「でも、姉さんが望んでいることは、こういうことなのでしょう、伯爵。それくらいは教えてくれないかしら?でないとちょくちょくやりますよ?」
くすくすと笑い声をあげてはいるが目が笑っていない。それこそ、女王と同じ目だ。吸血鬼は首を振って降参を告げるほかない。
「そうだ。君はこれから暗黒城へ帰り、女王と一つに……いや、星を統べる者への生贄となる。その力は城とともに月へ昇り、この地上を浄化する」
「それを救いと姉さんは言ったのね?」
「無様な消費を続け星の命を枯らすわけにはいかない」
月下美人は寂しげに笑った。
「そうね。死、それだけはあまりに無情に平等だもの」
「認めるのかね?」
「ええ。それには反論できないのですもの」
胸元に白い手を添えて、月下美人は笑った。
「あのひとは、姉さんはね。とても優しい人なのよ。優しすぎて、想いすぎて、誰も彼もを考えて、もうどうしようもできないから。私たち月の一族は、どこにもいけないのだから、総てを平等に憎み、そして愛することしかできなくなった。たった一つを選べなくなった。だから、何もかもに平等な死を以てそれを示すことしかもうできないのだわ。今の世界は、きっとみんな苦しみながら、傷つきながら、戦いながら生を消費しているだけと、あなた達は思うのでしょうね。だから、救おうとしてくれている。少なくとも姉さんはそう思っているでしょうし、伯爵、あなたも優しい人だもの。そんな姉さんを信じてくれている」
「買いかぶりすぎだ。私は私の枯れた心を潤してくれる戦士がいればそれでいい。だから女王についている」
「では、勝手に買いかぶっておきましょう。ふふふ」
ああ、と月下美人は声をあげ、吸血鬼の顔色を窺った。
「一つを選べないけれど、あなたをどうとも思ってない、なんて。無いとは思うのよ?」
どういう意味で彼女がそんなことを言い出したのか少々の時間をばかリ考えて、吸血鬼は吐き捨てた。
「余計なお世話というものだ!」
「あらそれはごめんなさい。だって、ねえ。貴方もリンゴも大概だもの」
バカにしているわけもなく。本心から妹として姉の性格を推測して、そして好敵手であった夫と吸血鬼を冷静に比較して言っているのだから性質が悪い。
「女王には迎えを寄越すように報告した。せいぜいその時を待つのだな!」
「ええ。そうね。」
穏やかに笑うものだから締まらない。吸血鬼はいっそう明るくなったカーテンの向こう側を目に足早に自室へ引き上げていく。

 嗚呼、揃いも揃ってなんて不愉快な!
この私が、生ある者のような感情を持ち合わせているなどと!
吸血鬼はいつもより長くペンを走らせた。
​fin
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