1章
前略皆々様。
私の名前は坂路蘭 。高校2年生の【サキュバス】です!
放課後のいつもの帰り道。
友達と曲がり角で別れて、猫の溜まり場にでも顔を出そうかと思っていたそんな、蘭のいつもの夕方だった。
「すみまセン。道に迷ってしまったのですが……」
そう言って話しかけてきたのは、浅黒い肌にウェーブの黒髪の背の高い男だった。
「教会を探してます。知りませんか?」
スマホの画面を困った顔で突きつけてきたが、そこには簡易的な地図。この町にある古く小さい教会までの行き方が書いてあった。
「ああー……この教会ならこっちですよ。道入り組んでるんで案内します。ついてきてください」
「ありがとございます!ワタシ、この教会で日曜礼拝のお手伝いします、ピノ・ポルティーリョ、神父です。お嬢さんはここよく行きますか?」
パァッと太陽のように明るく顔を綻ばせ男は後ろをちょこちょこついてきた。足も長くもっと歩けるのだろうが、蘭に合わせているつもりなのだろう。
「いいえ……お兄さん、外人?日本語うまいね」
「ハイ。スパニッシュです。日本語練習たくさんしました。お嬢さんは、神の家には行かないのに場所がわかる。この土地では有名なところなのですか?」
布教か、と一瞬身構え蘭は答えた。
「有名ですよー。猫の溜まり場なんですよ。ねこ、cat.」
「ホー!素敵ですね。ワタシcatスキです。タマリヴァ、集会場ですか?」
「ですです」
大振りに腕を回して喜ぶピノに蘭はクスリと笑みをこぼした。
「ドーしました?」
「あ、いや……お兄さんかわいいなって」
「ホ!kawaii!知ってます!日本の万能語!褒める時、これで解決するすごい言葉ですね。嬉しいです」
またもニカニカ太陽のように笑う。
とりあえず布教されそうなものならすぐ逃げよう、とだけ頭の隅に置いて蘭は男を観察しながら歩く。
身長は180cm代後半くらいか。
大きなスーツケースを持つ手もまたゴツゴツと大きく、
髪は長髪を簡単に纏めている。顔は睫毛が長く甘いマスク。
(ああ……こりゃモテそうだ。高校からも近いし、猫見にきた子達がキャーキャー言いそうだねぇ)
「ドーしました?ワタシ何か気になります?」
「わ」
ぐいと腰を折って目線を合わせてくる。蘭は少しだけ目を逸らした。
するとピノは顎を指で撫で始める。
「もしかして髭ですか?朝剃ったんですが……ノー」
「いや……えっと、ごめんなさい、顔ジロジロ見ちゃって」
「珍しかったですか?じゃあワタシもお返ししましょう」
じっと。青い瞳が蘭の目を覗き込む。
蒼く、澄んだ瞳。浅黒い肌と合わせると、水たまりに映った空のようだ。
不意にピノは目を細め、眉間に皺を寄せた。
「ああ……お嬢さんアナタ、悪魔は信じますか?」
がっしりと、肩を掴まれる。
「宗教勧誘なら間に合ってますけど!」
咄嗟に頭の中で練習を重ねていた言葉を口走る。
「イエ。大丈夫です。ワタシも神様とか信じてないクチです。でも、悪魔はいると思ってますので、お嬢さんの答えが聞きたいです」
振り払おうとするが力が入らない。いや、逆らえないほどの筋力の差があった。
「信じて、ない……けど」
ギッと睨む。
「ホー……ですかー……じゃあ仕方ないですね」
スッと肩に置かれた手が退いて、ピノは蘭の手をそっと自分のそれで包み込んだ。
「ごめんなさい、お嬢さん。怖かったでしょう。でも、お嬢さんに重要なことなので、も一度自己紹介します。」
穏やかに微笑んでいた表情が氷の様に冷たいものへ変わる。
その表情を貼り付けたまま、ピノはスラスラと言った。
「ワタシはピノ・ポルティーリョ。スペインから悪魔祓いの為に派遣されまシタ。お嬢さんに自覚がない様なので言わせてもらうと、お嬢さんアナタ……悪魔のハーフです」
「は?」
「お嬢さんアナタ、お母様もお父様も普通に暮らしているから、気づかないのでしょう。ワタシは悪魔祓いですが、そうやって穏やかに暮らす悪魔はそっとしておきたい主義です。ですが、協会はそれを許してくれまセン。お嬢さん、お母様お父様、自分を守る為、ワタシのファミリアになってくれませんか?」
パチリとピノが指を鳴らす。その瞬間、風もないのにザワザワと木々が騒ぎ、カラスが一斉に羽ばたいた。
「アナタに自覚が無くても、アナタの力に悪いものが寄って来ます。それを利用してワタシの仕事を能率化。素敵ですね。それにいつアナタの両親が打ち明けるかわかりませんが、アナタも放っておけば気が付かないうちに人を殺してしまいますよ」
「ッ……!ふ、不審者!」
包み込まれた手を振り切って、蘭は脱兎のごとく逃げ出した。
鞄からスマホを取り出し、いつでも通報ができる態勢に入る。最短の道で大通りに出て周りをみまわすと、外人は追ってはこなかった。
「なんなのアレ……キモ」
蘭はTwitterを起動して、今あったことを簡潔に呟いた。
狭い路地の隅。取り残された男。
「ハ……困りました」
その場にガクンと蹲る。
「反則ですヨ〜あの子……心配ですね。心配ですが……ワタシ迷子のままなのももっと問題です。早く教会で挨拶してカラ追わないと……殺してしまってからでは、ファミリアにはなれませんから」
苦笑をしながらピノはナビゲートアプリを起動してため息をついた。
「方向音痴の助けのクセに〜ワタシが行きたいところどこにも連れてってくれないんですからこのポンコツは!」
「ママー聞いてよぉ〜」
蘭の家は父の帰りが遅い。父は至極真面目な堅物警察官。
いつも母と二人で暮らしている様な錯覚さえ覚えるほど、父の帰りは遅く、朝は早いのだ。
だから蘭は少々母親にべったりとした子供に育ったと自覚はしている。
蘭の母親はイギリスの出身、赤毛でシミひとつない白い肌。自慢の美人な母親だ。蘭は母から受け継いだ赤毛が誇りだった。
「なぁに?お小遣いなら上げないわよ」
「そんなんじゃないよ〜今日帰り道でさあ、変なガイジンに会って、超キモかったんだけど」
「やだ不審者?おまわりさんには相談したの?パパが帰って来たらお話ししましょうよ」
心配そうにそう言って抱きしめてくれる母親に安心しつつ、蘭は愚痴を言うことにした。
「それがさー、私のこと悪魔のハーフだとか言うんだよ?漫画じゃないんだから……」
「やだ」
母親の声が妙に甘い。
「やだもう、蘭ちゃん」
甘い、甘い匂いが部屋に充満する。なんだこれは、なんだこれは!
蘭は恐る恐る自分を大事そうに抱きかかえていた母親に視線を戻した。
「蘭ちゃんが『そう』なったら話そうって思ってたんだけど、ママ、人間じゃないのよ」
目の前には美しい女。母親と同じ顔。
しかしおかしい。
人間にはヤギの様な角も
蝙蝠の様な羽も
尻尾だって生えている筈がないではないか!
「ママ……?」
「蘭ちゃん、ママはねえ、サキュバスって悪魔なのよ」
「は……?ママ、冗談きついって、そんな、パパは」
「パパは知ってるわよ。というか、ママ、パパの事本気で殺して食べちゃおって思ってるうちにパパにベタ惚れしちゃったから蘭ちゃんがここにいるのよね」
器用に羽ばたいて宙に浮きながら、女はくすくす笑う。
信じられない。蘭はその場にへたり込んだ。
「蘭ちゃんが人間のまんまかママと同じになるかわかんないから、その時が来るまで黙っていようって言ったのはパパなのよ。蘭ちゃんゲームも漫画も好きだから、サキュバスってわかるでしょう?ねえ……」
女は蘭の手を自らの胸に当てる。鼓動が高鳴っているのを蘭はどこか遠くに感じていた。
「男とセックスしないと生きられない悪魔なんて、ママのこと軽蔑する?」
女は……母親は、泣きそうな顔で蘭の事を見つめていた。
「パパが一番じゃないなら……浮気とかしてるなら……軽蔑、する」
ぱあっと母親の顔が明るくなり、角も羽も尻尾も霧の様に消え果てた。
「パパから栄養もらってママは生きてるから全然へーき!っていうか蘭ちゃんやだぁ!ママはパパ以外じゃもう満足できないの!浮気するわけないでしょ!」
バシバシと蘭の背を叩きケラケラいつもの様に笑ってから、もう一度母親は蘭を抱きしめて今度は涙声で言った。
「その男……多分悪魔祓いなのよね。蘭ちゃんはママが守るから、怖がらなくていいの……大丈夫、ママがいるからね」
なんだこの状況は。しかし納得する以外の選択肢はないのだと蘭は自分の頰を抓りながら認識した。
「ママ……あのさ、そいつ『穏やかに暮らしてるなら殺したくない、ファミリアになればキョウカイが見逃してくれる』って言ってたんだけど、どう言う意味なの?」
とにかく今は話を聞こう。
つい逃げ出してしまったが、その前にあの男はそう言っていた筈だ。
坂路家の「人間」は何事もなく穏やかに暮らしている。
殺されていいはずなんかないと。
「ファミリアっていうのはね、蘭ちゃん。使い魔のことよ」
「悪魔祓いがそんなの連れてていいの?」
「その男の所属にもよるんだけど……基本的に悪魔祓いをやる神父って結構汚い奴が多いのよ。清廉潔白な子だと私達にすーぐ騙されて死んじゃうから、ええと……元ヤン?とか、そういうのばっか。だから使い魔連れ回しててもよっぽど物知らずな奴以外スルー。問題ないわ」
「ファミリアって何するの?」
「さぁ?でも、悪魔探知機にはなるんじゃない?蘭ちゃんそんな事できると思わないけど……ねえ?」
「サキュバスって……やっぱ、えっと〜」
「それは蘭ちゃん次第じゃない?ハーフの悪魔って力にバラつきあるんですって。上手くいけば蘭ちゃんは何にも悪魔の力が出てこないかもしれないんだから」
だから、安心して。
そう言って母親は蘭を撫でる。
嗚呼。この人を、父親を、守りたい。
「ねえ……ママ」
「なに?」
「そいつのファミリアになるって言ったら、ママは反対?」
「しないわよ。蘭ちゃんがやる事、ママは止めない。最後の最後にどうしようもならなくなるまでは、ママは蘭ちゃんのする事を信じるって決めてるもん」
「……」
「でも、危ないときは御主人様見捨ててとっとと逃げないとダメだからね?責められても『だって悪魔だもーん』って言えば大抵反論できないんだから!」
明日、猫教会へ行こう。蘭は風呂上がりの髪を雑多に拭きながら階段を上る。
あのピノとかいう神父を探し、ファミリアになり、それで終わり。坂路家の平和が訪れるはず。
ただ、もう今日は眠い。
自室のドアを開けた瞬間だった。
「オーお帰りなさい!」
扉を閉じた。部屋の中、ベッドの上でのんびりとあの男が寛いでいたのだ。
「なんで閉めますかー?家探して待ってたのにー」
ドアを開けて速攻で首にかけていたタオルを相手の首に回す。
最悪死んでも自己防衛だと思い切って首を締めた。
「ノノノ!死んじゃう!やめ、ゲホ…ノー」
「どうやってきたの!?」
「魔力を、辿って、オッ……ウグ」
「ママに何もしてないでしょうね!?」
「まっすぐ、窓から入りましたカラ……!」
タオルを話すとゼエゼエ喘いでピノはくたばった。
「私のベッドから降りてくんない?」
「スミマセン。ファミリアの件考えてくれました?」
そっと、ピノは胸元からナイフを覗かせた。
「……ファミリアになれば、ママに何もしないのね?」
「お母様が悪魔でしたか。まぁそうじゃないかと思ってましたけどね。ええ、ええ。アナタが私のファミリアになれば、手は出しませんし、もし他の悪魔祓いが派遣されてもワタシが全力で阻止します。本当にファミリアになるんですね?」
蒼い目が刺すように蘭を見た。
「なるわよ。私がママとパパを守るの」
「ハイ。かっこいいですねお嬢さん、ステキです」
パッと、また太陽の微笑みがやってくる。
「ワタシ、ここで躊躇ったらドーしようかと怖かったです。やはり家族を思う愛は素晴らしいですね!」
「どうでもいい。早くファミリアにしてよ。口でなるって言ったら終わりなの?」
まだこの男を全面的に信用はできない。
蘭は注意深くピノを観察した。
胸元から取り出されたナイフを鞄に仕舞い、ピノは両手をあげる。
「はい、危ないものなくなりました」
「…………」
「ファミリアの契約方法はまあー色々あります。魔術師錬金術師みーんなオリジナリティ溢れる方法でそれをしてますよ」
「あんたはどうやってるのよ」
「そうですねえ」
ガサガサとピノは自分の鞄を漁り、腕輪を一つ取り出した。
「これとか似合いますかね。ワタシの契約方法は、ワタシの私物を相手にあげる方法ですよ。身に付けるものだとなお良しです。さ、手を出して」
言われるままに右手を差し出した蘭の腕に、銀色の十字架がついたブレスレットが嵌められる。
十字架部分にあしらわれた青い石にピノが口付けると、石は淡く光り、蘭はブレスレット自体が暖かくなったように感じた。
「ハイ終わり。主従契約完了です」
「これだけ?」
「ハイ!アー、でも、ワタシ、アナタの名前知りません」
「蘭。坂路蘭」
「ラン、良いですねーラン!呼びやすいです、素敵!kawaii!」
ニカニカと太陽の笑み。こんな風に笑うから、ブレスレットも暖かくなるのだろうかと蘭は考えた。
「ファミリアって何すれば良いの?」
「ンー、アナタがどれだけ悪魔の力を使えるかによりますケド、しばらくは一緒に歩いてパトロールしたり、アナタがどれだけ悪魔に近いのか観察させてください」
「……毎日うちに忍び込むつもり?」
ギロリと睨むとピノは肩をすくめる。
「まさか!えっと〜」
まごまごスマホを操作し、ピノは地図を出す。
「駅の近くのここ、アパルトメント借りてます。ここ、日本のワタシの家です。ここに学校終わったら来てください」
「教会は?」
「あそこは日曜日だけです。暇があったらいるつもりですけど、ねこ、沢山いて素敵だったので」
ニコリと輝く。
「……私、さ、サキュバス……だけど、いいの?」
「良いですよー知ってます」
「は?」
「目を見てるだけで凄かったですから、アーこれはサキュバスだ、食べられないうちに闘おうかなーでもこの子自分の力に気付いてないなどうしようカナー、と夕方はモンモンさせてもらいました。下半身も一緒に」
えへへと顔を紅くしてだらしがなく笑ったピノから距離を置くと、ピノは窓を開けて腰掛けた。
「このままいるとまたモンモンしちゃいそですから、ワタシ帰りますね。それじゃあまた明日、ワタシのファミリア」
ばちんとウィンクを飛ばして神父が窓の外へ落ちていく。慌てて窓辺に追いかけると、難なく下に着地してまた手を振って別れをつげる。
「……また、あした」
「bye!」
(終)
私の名前は
放課後のいつもの帰り道。
友達と曲がり角で別れて、猫の溜まり場にでも顔を出そうかと思っていたそんな、蘭のいつもの夕方だった。
「すみまセン。道に迷ってしまったのですが……」
そう言って話しかけてきたのは、浅黒い肌にウェーブの黒髪の背の高い男だった。
「教会を探してます。知りませんか?」
スマホの画面を困った顔で突きつけてきたが、そこには簡易的な地図。この町にある古く小さい教会までの行き方が書いてあった。
「ああー……この教会ならこっちですよ。道入り組んでるんで案内します。ついてきてください」
「ありがとございます!ワタシ、この教会で日曜礼拝のお手伝いします、ピノ・ポルティーリョ、神父です。お嬢さんはここよく行きますか?」
パァッと太陽のように明るく顔を綻ばせ男は後ろをちょこちょこついてきた。足も長くもっと歩けるのだろうが、蘭に合わせているつもりなのだろう。
「いいえ……お兄さん、外人?日本語うまいね」
「ハイ。スパニッシュです。日本語練習たくさんしました。お嬢さんは、神の家には行かないのに場所がわかる。この土地では有名なところなのですか?」
布教か、と一瞬身構え蘭は答えた。
「有名ですよー。猫の溜まり場なんですよ。ねこ、cat.」
「ホー!素敵ですね。ワタシcatスキです。タマリヴァ、集会場ですか?」
「ですです」
大振りに腕を回して喜ぶピノに蘭はクスリと笑みをこぼした。
「ドーしました?」
「あ、いや……お兄さんかわいいなって」
「ホ!kawaii!知ってます!日本の万能語!褒める時、これで解決するすごい言葉ですね。嬉しいです」
またもニカニカ太陽のように笑う。
とりあえず布教されそうなものならすぐ逃げよう、とだけ頭の隅に置いて蘭は男を観察しながら歩く。
身長は180cm代後半くらいか。
大きなスーツケースを持つ手もまたゴツゴツと大きく、
髪は長髪を簡単に纏めている。顔は睫毛が長く甘いマスク。
(ああ……こりゃモテそうだ。高校からも近いし、猫見にきた子達がキャーキャー言いそうだねぇ)
「ドーしました?ワタシ何か気になります?」
「わ」
ぐいと腰を折って目線を合わせてくる。蘭は少しだけ目を逸らした。
するとピノは顎を指で撫で始める。
「もしかして髭ですか?朝剃ったんですが……ノー」
「いや……えっと、ごめんなさい、顔ジロジロ見ちゃって」
「珍しかったですか?じゃあワタシもお返ししましょう」
じっと。青い瞳が蘭の目を覗き込む。
蒼く、澄んだ瞳。浅黒い肌と合わせると、水たまりに映った空のようだ。
不意にピノは目を細め、眉間に皺を寄せた。
「ああ……お嬢さんアナタ、悪魔は信じますか?」
がっしりと、肩を掴まれる。
「宗教勧誘なら間に合ってますけど!」
咄嗟に頭の中で練習を重ねていた言葉を口走る。
「イエ。大丈夫です。ワタシも神様とか信じてないクチです。でも、悪魔はいると思ってますので、お嬢さんの答えが聞きたいです」
振り払おうとするが力が入らない。いや、逆らえないほどの筋力の差があった。
「信じて、ない……けど」
ギッと睨む。
「ホー……ですかー……じゃあ仕方ないですね」
スッと肩に置かれた手が退いて、ピノは蘭の手をそっと自分のそれで包み込んだ。
「ごめんなさい、お嬢さん。怖かったでしょう。でも、お嬢さんに重要なことなので、も一度自己紹介します。」
穏やかに微笑んでいた表情が氷の様に冷たいものへ変わる。
その表情を貼り付けたまま、ピノはスラスラと言った。
「ワタシはピノ・ポルティーリョ。スペインから悪魔祓いの為に派遣されまシタ。お嬢さんに自覚がない様なので言わせてもらうと、お嬢さんアナタ……悪魔のハーフです」
「は?」
「お嬢さんアナタ、お母様もお父様も普通に暮らしているから、気づかないのでしょう。ワタシは悪魔祓いですが、そうやって穏やかに暮らす悪魔はそっとしておきたい主義です。ですが、協会はそれを許してくれまセン。お嬢さん、お母様お父様、自分を守る為、ワタシのファミリアになってくれませんか?」
パチリとピノが指を鳴らす。その瞬間、風もないのにザワザワと木々が騒ぎ、カラスが一斉に羽ばたいた。
「アナタに自覚が無くても、アナタの力に悪いものが寄って来ます。それを利用してワタシの仕事を能率化。素敵ですね。それにいつアナタの両親が打ち明けるかわかりませんが、アナタも放っておけば気が付かないうちに人を殺してしまいますよ」
「ッ……!ふ、不審者!」
包み込まれた手を振り切って、蘭は脱兎のごとく逃げ出した。
鞄からスマホを取り出し、いつでも通報ができる態勢に入る。最短の道で大通りに出て周りをみまわすと、外人は追ってはこなかった。
「なんなのアレ……キモ」
蘭はTwitterを起動して、今あったことを簡潔に呟いた。
狭い路地の隅。取り残された男。
「ハ……困りました」
その場にガクンと蹲る。
「反則ですヨ〜あの子……心配ですね。心配ですが……ワタシ迷子のままなのももっと問題です。早く教会で挨拶してカラ追わないと……殺してしまってからでは、ファミリアにはなれませんから」
苦笑をしながらピノはナビゲートアプリを起動してため息をついた。
「方向音痴の助けのクセに〜ワタシが行きたいところどこにも連れてってくれないんですからこのポンコツは!」
「ママー聞いてよぉ〜」
蘭の家は父の帰りが遅い。父は至極真面目な堅物警察官。
いつも母と二人で暮らしている様な錯覚さえ覚えるほど、父の帰りは遅く、朝は早いのだ。
だから蘭は少々母親にべったりとした子供に育ったと自覚はしている。
蘭の母親はイギリスの出身、赤毛でシミひとつない白い肌。自慢の美人な母親だ。蘭は母から受け継いだ赤毛が誇りだった。
「なぁに?お小遣いなら上げないわよ」
「そんなんじゃないよ〜今日帰り道でさあ、変なガイジンに会って、超キモかったんだけど」
「やだ不審者?おまわりさんには相談したの?パパが帰って来たらお話ししましょうよ」
心配そうにそう言って抱きしめてくれる母親に安心しつつ、蘭は愚痴を言うことにした。
「それがさー、私のこと悪魔のハーフだとか言うんだよ?漫画じゃないんだから……」
「やだ」
母親の声が妙に甘い。
「やだもう、蘭ちゃん」
甘い、甘い匂いが部屋に充満する。なんだこれは、なんだこれは!
蘭は恐る恐る自分を大事そうに抱きかかえていた母親に視線を戻した。
「蘭ちゃんが『そう』なったら話そうって思ってたんだけど、ママ、人間じゃないのよ」
目の前には美しい女。母親と同じ顔。
しかしおかしい。
人間にはヤギの様な角も
蝙蝠の様な羽も
尻尾だって生えている筈がないではないか!
「ママ……?」
「蘭ちゃん、ママはねえ、サキュバスって悪魔なのよ」
「は……?ママ、冗談きついって、そんな、パパは」
「パパは知ってるわよ。というか、ママ、パパの事本気で殺して食べちゃおって思ってるうちにパパにベタ惚れしちゃったから蘭ちゃんがここにいるのよね」
器用に羽ばたいて宙に浮きながら、女はくすくす笑う。
信じられない。蘭はその場にへたり込んだ。
「蘭ちゃんが人間のまんまかママと同じになるかわかんないから、その時が来るまで黙っていようって言ったのはパパなのよ。蘭ちゃんゲームも漫画も好きだから、サキュバスってわかるでしょう?ねえ……」
女は蘭の手を自らの胸に当てる。鼓動が高鳴っているのを蘭はどこか遠くに感じていた。
「男とセックスしないと生きられない悪魔なんて、ママのこと軽蔑する?」
女は……母親は、泣きそうな顔で蘭の事を見つめていた。
「パパが一番じゃないなら……浮気とかしてるなら……軽蔑、する」
ぱあっと母親の顔が明るくなり、角も羽も尻尾も霧の様に消え果てた。
「パパから栄養もらってママは生きてるから全然へーき!っていうか蘭ちゃんやだぁ!ママはパパ以外じゃもう満足できないの!浮気するわけないでしょ!」
バシバシと蘭の背を叩きケラケラいつもの様に笑ってから、もう一度母親は蘭を抱きしめて今度は涙声で言った。
「その男……多分悪魔祓いなのよね。蘭ちゃんはママが守るから、怖がらなくていいの……大丈夫、ママがいるからね」
なんだこの状況は。しかし納得する以外の選択肢はないのだと蘭は自分の頰を抓りながら認識した。
「ママ……あのさ、そいつ『穏やかに暮らしてるなら殺したくない、ファミリアになればキョウカイが見逃してくれる』って言ってたんだけど、どう言う意味なの?」
とにかく今は話を聞こう。
つい逃げ出してしまったが、その前にあの男はそう言っていた筈だ。
坂路家の「人間」は何事もなく穏やかに暮らしている。
殺されていいはずなんかないと。
「ファミリアっていうのはね、蘭ちゃん。使い魔のことよ」
「悪魔祓いがそんなの連れてていいの?」
「その男の所属にもよるんだけど……基本的に悪魔祓いをやる神父って結構汚い奴が多いのよ。清廉潔白な子だと私達にすーぐ騙されて死んじゃうから、ええと……元ヤン?とか、そういうのばっか。だから使い魔連れ回しててもよっぽど物知らずな奴以外スルー。問題ないわ」
「ファミリアって何するの?」
「さぁ?でも、悪魔探知機にはなるんじゃない?蘭ちゃんそんな事できると思わないけど……ねえ?」
「サキュバスって……やっぱ、えっと〜」
「それは蘭ちゃん次第じゃない?ハーフの悪魔って力にバラつきあるんですって。上手くいけば蘭ちゃんは何にも悪魔の力が出てこないかもしれないんだから」
だから、安心して。
そう言って母親は蘭を撫でる。
嗚呼。この人を、父親を、守りたい。
「ねえ……ママ」
「なに?」
「そいつのファミリアになるって言ったら、ママは反対?」
「しないわよ。蘭ちゃんがやる事、ママは止めない。最後の最後にどうしようもならなくなるまでは、ママは蘭ちゃんのする事を信じるって決めてるもん」
「……」
「でも、危ないときは御主人様見捨ててとっとと逃げないとダメだからね?責められても『だって悪魔だもーん』って言えば大抵反論できないんだから!」
明日、猫教会へ行こう。蘭は風呂上がりの髪を雑多に拭きながら階段を上る。
あのピノとかいう神父を探し、ファミリアになり、それで終わり。坂路家の平和が訪れるはず。
ただ、もう今日は眠い。
自室のドアを開けた瞬間だった。
「オーお帰りなさい!」
扉を閉じた。部屋の中、ベッドの上でのんびりとあの男が寛いでいたのだ。
「なんで閉めますかー?家探して待ってたのにー」
ドアを開けて速攻で首にかけていたタオルを相手の首に回す。
最悪死んでも自己防衛だと思い切って首を締めた。
「ノノノ!死んじゃう!やめ、ゲホ…ノー」
「どうやってきたの!?」
「魔力を、辿って、オッ……ウグ」
「ママに何もしてないでしょうね!?」
「まっすぐ、窓から入りましたカラ……!」
タオルを話すとゼエゼエ喘いでピノはくたばった。
「私のベッドから降りてくんない?」
「スミマセン。ファミリアの件考えてくれました?」
そっと、ピノは胸元からナイフを覗かせた。
「……ファミリアになれば、ママに何もしないのね?」
「お母様が悪魔でしたか。まぁそうじゃないかと思ってましたけどね。ええ、ええ。アナタが私のファミリアになれば、手は出しませんし、もし他の悪魔祓いが派遣されてもワタシが全力で阻止します。本当にファミリアになるんですね?」
蒼い目が刺すように蘭を見た。
「なるわよ。私がママとパパを守るの」
「ハイ。かっこいいですねお嬢さん、ステキです」
パッと、また太陽の微笑みがやってくる。
「ワタシ、ここで躊躇ったらドーしようかと怖かったです。やはり家族を思う愛は素晴らしいですね!」
「どうでもいい。早くファミリアにしてよ。口でなるって言ったら終わりなの?」
まだこの男を全面的に信用はできない。
蘭は注意深くピノを観察した。
胸元から取り出されたナイフを鞄に仕舞い、ピノは両手をあげる。
「はい、危ないものなくなりました」
「…………」
「ファミリアの契約方法はまあー色々あります。魔術師錬金術師みーんなオリジナリティ溢れる方法でそれをしてますよ」
「あんたはどうやってるのよ」
「そうですねえ」
ガサガサとピノは自分の鞄を漁り、腕輪を一つ取り出した。
「これとか似合いますかね。ワタシの契約方法は、ワタシの私物を相手にあげる方法ですよ。身に付けるものだとなお良しです。さ、手を出して」
言われるままに右手を差し出した蘭の腕に、銀色の十字架がついたブレスレットが嵌められる。
十字架部分にあしらわれた青い石にピノが口付けると、石は淡く光り、蘭はブレスレット自体が暖かくなったように感じた。
「ハイ終わり。主従契約完了です」
「これだけ?」
「ハイ!アー、でも、ワタシ、アナタの名前知りません」
「蘭。坂路蘭」
「ラン、良いですねーラン!呼びやすいです、素敵!kawaii!」
ニカニカと太陽の笑み。こんな風に笑うから、ブレスレットも暖かくなるのだろうかと蘭は考えた。
「ファミリアって何すれば良いの?」
「ンー、アナタがどれだけ悪魔の力を使えるかによりますケド、しばらくは一緒に歩いてパトロールしたり、アナタがどれだけ悪魔に近いのか観察させてください」
「……毎日うちに忍び込むつもり?」
ギロリと睨むとピノは肩をすくめる。
「まさか!えっと〜」
まごまごスマホを操作し、ピノは地図を出す。
「駅の近くのここ、アパルトメント借りてます。ここ、日本のワタシの家です。ここに学校終わったら来てください」
「教会は?」
「あそこは日曜日だけです。暇があったらいるつもりですけど、ねこ、沢山いて素敵だったので」
ニコリと輝く。
「……私、さ、サキュバス……だけど、いいの?」
「良いですよー知ってます」
「は?」
「目を見てるだけで凄かったですから、アーこれはサキュバスだ、食べられないうちに闘おうかなーでもこの子自分の力に気付いてないなどうしようカナー、と夕方はモンモンさせてもらいました。下半身も一緒に」
えへへと顔を紅くしてだらしがなく笑ったピノから距離を置くと、ピノは窓を開けて腰掛けた。
「このままいるとまたモンモンしちゃいそですから、ワタシ帰りますね。それじゃあまた明日、ワタシのファミリア」
ばちんとウィンクを飛ばして神父が窓の外へ落ちていく。慌てて窓辺に追いかけると、難なく下に着地してまた手を振って別れをつげる。
「……また、あした」
「bye!」
(終)
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