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へし燭の日

「ごめんよ、長谷部くん」
と、燭台切光忠が申し訳なさそうな顔をして部屋を訪ねてきたのは、梅雨の晴れ間が見られた日の夕方のことだった。
「君のシャツのボタンが取れてしまって・・・・・・同じものを探したんだけれど、どうしても見つからなかったんだ」
それで、代わりに僕の手持ちのボタンをつけたのだけれど、とうなだれながら続けた燭台切に、長谷部は
「はあ」
と首をひねるしかない。
「それは・・・・・・手間をかけたな」
「ううん、ごめんね、本当に」
どうにも腑に落ちないまま、長谷部はしょぼくれた犬のように背中を丸めて立ち去る燭台切のことを見送る。
燭台切光忠はこの本丸で山伏国広の次に顕現した古参の太刀だ。顕現に立ち会ったのは長谷部で、そのときから「どうにも馴れ馴れしいが、人好きのする明朗な質の刀だ」と思っていた。つい厳しいことを言ってしまいがちな長谷部と違い、燭台切は褒めたり励ましたりすることばかりを言う。そしてそんな燭台切がたまに諫めると、それは長谷部が怒鳴りつけるよりずっと効果がある。見習うところの多い、頼れる太刀だと思っている。
そんな燭台切が、シャツのボタンひとつであんなにしょぼくれるとは意外だった。手元の当番表で、今日は燭台切と乱藤四郎が洗濯当番だったことを確認する。おそらく、洗濯中にボタンが取れてしまったことを気に病んだのだろう。案外完璧主義なところがあるのかもしれない、そう思うと、なんだかあの朗らかな太刀に親しみを覚えるような気がした。
申し訳なさそうに渡されたシャツを手に取ってみる。普段よりも丹念に糊が効いたシャツは久しぶりの太陽の香りがして、触り心地もなめらかだ。そしてなにより、件のボタンである。正直、長谷部はボタンになど興味がない。興味がないというか、気にかけたことすらなかった。だが、そんな長谷部でもわかるほど上等なボタンがシャツに丁寧に縫い付けられているではないか。爪の先よりも小さなボタンだが、上品な光沢があり、なめらかで、そして縫い付けられている糸も艶やかだ。他のシャツと並べてみると、明らかに先ほど受け取ったシャツだけが輝いて見える。
「・・・・・・逆に申し訳ない気がしてきたな」
と、長谷部は首をひねりながら唸った。
シャツのボタンが取れていたことに気づかなかったのは自分の落ち度だし、それで燭台切を落ち込ませてしまったのもすまなかったし、その上でこんな上等なボタンを、手縫いでつけてもらったとなれば、礼の一つでもしないわけにはいかないだろう。
やはりこういうときには一升瓶だと思ったものの、燭台切光忠の元の主は料理上手とは聞いているが、酒豪であったという話はない。もしかしたら短刀らが好むような甘い菓子の方がいいのだろうか。
こういうときに頼りになるのは、流行り物に聡い元の主を持つ古なじみだ。宗三左文字に相談すべく、食べかけの我せんべいの袋を携えて長谷部は立ち上がったのだった。

「料理上手なんでしょう? ブリの一匹でも贈っておきなさい」
「なるほど」
長谷部から嫁鰤が来たと伊達の部屋が大騒ぎになるのは、この数日後のことであった。



「それでね、朝チュンしたあとに・・・・・・彼ピのシャツを借りるの!」
「か、彼のシャツ!?」
乱藤四郎のうっとりした物言いに、燭台切はびっくりして隻眼をぱちぱちと瞬いた。
「そ。いわゆる彼シャツってやつ?」
「彼シャツ・・・・・・」
「たまんないよね! 彼ピがシャワーから戻ってくるとさあ、ブカブカシャツで萌え袖のカノジョが待ってるの! もうそれが可愛くて可愛くて・・・・・・朝チュンだけじゃすまないよねえ!」
「乱くん、カゲキなマンガを読むんだねえ・・・・・・」
「えへへ、いち兄にはナイショだよ?」
抱きしめていたシャツが兄のものだと気づいたらしい。乱はぺろりと舌を出してそそくさとシャツのしわをのばす。
それからちょっと考えた後、内番着の上から一期のシャツをふわりと羽織ったのである。
「えへへ、彼シャツ! なんちゃって」
「ひええ」
あまりの可愛らしさに燭台切は瞠目した。この際、彼シャツじゃなくて兄シャツじゃん、なんていうのはどうでもいい。彼シャツとはこんなに可愛いものなのか。
「みっちゃんもやってみたら?」
「で、でも」
「いいじゃんいいじゃん! ほら、ちょうどそこにあるじゃん・・・・・・長谷部さんのシャツ!」
乱の言葉に真っ赤になる。
どうして自分が長谷部に懸想していることを知っているのだろうかとか、実は自分が畳みたくてこっそりこちら側に引き寄せていたことがバレていたとか、そもそも付き合っていないどころか親しいかどうかすら怪しいというのに彼シャツだなんて! とか。
「で、でも、ほら、僕なんかが・・・・・・」
「いいからいいから!」
乱に唆され、燭台切は長谷部のシャツに手を伸ばす。みんな同じ洗剤、同じ柔軟剤を使って洗っているというのに、長谷部のシャツからは長谷部の清涼な香りがする。思わず顔を埋めると、ニヤニヤと笑う乱と目が合った。
「かーっわいい!」
「か、勘弁してくれないかな・・・・・・」
だって好きなのだ。大好きなのだ。織田の倉で名もなき一振りだった頃からずっと。
おずおずとジャージを脱ぎ、畳んだばかりのシャツを広げる。ものすごくいけないことをしている気がする。ボタンを外し、そして、大好きな人の香りがするシャツに袖を通し・・・・・・袖を・・・・・・通すというかねじ込み・・・・・・肩もねじ込み・・・・・・胸もねじ込み・・・・・・思いっきり空気を吐き出して・・・・・・
「・・・・・・うん」
「なんか、ごめん」
乱くん、謝らないでくれるかな。
パッツパツでピッチピチのシャツに締め上げられながら、燭台切は気が遠くなるのを感じた。コルセットで締め上げられていたというヨーロッパのご婦人方の苦労を感じる。
そりゃあそうだろう。身長だって大分違う上に、刀種も太刀と打刀だ。それにくわえてこの本丸の燭台切は筋トレが趣味だった。
「えーっと、これも彼シャツの趣の一つ、かもよ?」
「絶対違うよね・・・・・・」
そう言ってため息をついた。そう、ため息をついたのだ。
そしてその途端。
すべてのボタンがはじけ飛んだのである。

それからの顛末はお察しの通りであるが、まさかそのきっかけが彼シャツであったということは燭台切光忠は決して口を割らなかったとのことだ。そのかわり、乱のもとには人気スイーツ店のマカロンが贈られたとのことである。

へし燭、へし燭。
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