二章 回復の兆し

 最初に運び込まれて以来、私はずっと宿屋にお世話になっていた。リューさん一人では手が足りないため、また容態の急変に備えて人目のある場所にということで、二階の客室ではなく、一階の彼ら自身の生活空間に身を置かせてもらっていた。常に誰かが交代で付き添っていて、予断を許さない私の看護で大きな負担をかけていたことが、ひたすらに申し訳なかった。少し回復してきた頃に、私は詫びた。

 まだ声が出ず筆談で伝えると、宿屋の長男である義兄あに、ユウ兄さんは、自力ではその文章を読み取れず首を捻った。教育機関も無い小さな村で、彼は読み書きをあまり身に付けていなかった。隣室の親に見せに行ってから、笑顔で戻ってきた。
「お前こんなこと気にしてたのか? 家族が家にいるのは当たり前だし、家族の具合が悪ければ休ませるのも、当たり前だろ?」
 身寄りの無い状態で村に来た私は、未成年であるため後見人を立てる必要があった。住民登録のときに確かに宿屋一家に引き取られ、義理の家族となっていた。書類上はそうだった。
 出会ったばかりで、紙切れ一枚の関係でしかないはずの私を、彼らは本当に家族として扱い、受け入れてくれていたのだと、そのとき初めて実感した。
 単に病人だから宿屋で休めていただけではなかった。ここにいられるのは、他のどんな理由よりもまず、義家族かぞくだから……。

 過去を失い、具合も悪く、その原因すら思い出せない──その混乱の中で流されるままだった私に、ようやく訪れた安堵感。それを嬉しいとわかるより先に、視界が滲んでいた。
 頬を伝った涙に、ユウ兄さんは驚き戸惑っていたけれど、すぐ隣に腰を下ろして、泣き顔を隠すように優しく頭を抱き寄せてくれた。
 しばらく涙は止まらなかった。

 住民登録を済ませた頃には、痕は残ったものの、傷口はすっかり塞がっていた。さらにひと月ほど経つ頃には、熱や頭痛も少しだけ軽くなっていた。急に動くとふらつくことがあったものの、杖があれば何とか一人で短時間立ち歩けるようになった。
 まだ家の外には出られなかったけれど、少し調子が良ければ寝床を離れて、居間で座って過ごすことも増えた。初冬の冷え込みの中でも元気に走り回る子どもたちや、犬の散歩などを窓越しに眺めるのが、当時のささやかな娯楽だった。
 日によっては吐き気などの症状が強くぶり返すこともあったため、喉や食道の炎症は治りが遅く、声も戻らなかった。ほぼ寝たきりだったので体力や筋力も落ちてしまい、家の中でほんの少し歩くだけでも息が上がるほど、体が重だるかった。
 まだ無理に動かず、休んでいていいと、義家族皆に心配された。けれど、ずっと私を助けてくれていた宿屋と村に、返せるものが何も無いという負い目が、日ごとに重く積もっていった。

 ──何かできることはありませんか?

 あまり文字を読めないはずのユウ兄さんが、それだけは内容を判別できるようになったほど、毎日執拗に記し続けた。
 ある日とうとう義家族は根負けして、何か考えておくからと、困ったような溜息混じりに頭を撫でてくれた。

 家の中での作業は手元を見ることが多く、軽い目眩でもやりづらそうだった。「本来まだ外に出るような体調でもないだろうが、どうしてもと言うなら……」と、最初に許された活動は、釣りだった。この村の西の外れには、一帯の地域の水源となる大きな湖がある。
「一緒に行けば、仕掛けとかの細かい作業は俺にでも任せればいいし、アタリを待ってる間も座ったり横になってていいから」
 そう言って、ユウ兄さんは私を村の漁師さん一家に紹介した。
 小さな村なので、噂の回りが早いのだろう。漁師のおじさんは私の事情をだいたい知っていた。まだ熱と目眩が残る私の具合を、とても優しく気遣ってくれた。ふらついて落ちると危ないからと船には乗せられず、安全な湖岸から釣竿の仕掛けを投げる方法を簡単に教わった。

 その後、船で漁に出た漁師さんに代わり、彼の息子さんが付き添いがてら一緒に釣ってくれた。ユウ兄さんも、まだ万全ではない私を年下一人に預けるわけにもいかないと、帰らずに付いていてくれた。
 釣りといっても、しばらく寝たきりだった私は、すっかり筋力が衰えていたようだった。数回竿を振っただけで腕を痛め、竿を振った後に持ち続けることすら大変だった。まだ早いという義家族の心配は正しかったのだと身に染みて、何とも情けなかった。
 結局、アタリがあればその子や兄さんの肩を軽く叩き伝えるくらいしか、やれることがなくなった。それでも、一人で釣るより寂しくなくて嬉しいと、その子は言ってくれた。
 ユウ兄さんもいるとはいえ、声が出ない私は、話し相手にもなれないのに。ろくにできることも無い私の気持ちを汲んで、少しばかりの役割を与えてくれたユウ兄さんと、漁師親子の優しさが沁みた。

 アタリを待ちながら眺める冬の湖岸の風景は、とても美しかった。薄く雪をかぶった周囲の森林と青空が、鏡のように水面に反射してキラキラと輝く。北側には国境となる山脈が壁のようにそびえ、南側には国内最大の火山が、遠くに薄白く霞む。空からも森からも時々小鳥たちの声が届き、遠くの湖面からは白鳥の合唱も響いていた。寒さの中ぼんやりと待ち続けることも、苦にならなかった。
 漁師の息子さんは一つ年下だったけれど、釣れ始めると、慣れた手つきで、自分と私の釣竿両方の作業を、素早くこなしていた。
「シェリルの分も俺がやろうと思ってたけど、悪いな。やっぱ慣れてると速えな」
 手際を褒めるユウ兄さんの言葉に、その子は得意気に笑った。
 自分とそう変わらない子どもでも、ただ遊び回るだけではなく、自分にできる仕事を覚えて、するべきことをしている。とても尊敬した。私も早く、ただ保護されているだけではない、村を支え合う一員になりたかった。
 そのためにも、まずは体を回復させなければと、薬の飲み忘れに一層気をつけるようになった。 
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